二十九日 『久慈暮定として』
男は闇に消えた。少女はただ消えた。世界には、久慈暮定一人が残った。
夜風が運んでくる昼の草いきれの香りが鼻をつついて、俺を草原に大の字に寝転がせた。雨上がりで湿った地面が、上裸の今はひんやりとして気持ちがいい。
……ん? 上裸…………?
「……」
…………。
……そういえば、沙織から服、返してもらってなかったな。気づくの遅すぎだろ、俺。
「まあ、いいか」
翡翠の夏の夜は……とても、過ごしやすい。日本の夏特有の多湿が星の瞬きと標高で緩和され、爽やかな暑さになっている。
そんな翡翠の草原に仰臥する。視界には天蓋に浮かぶ月がたゆたっている。
色々なことがあった、一日だった。色々なことがあって、色々な人に会った、一日だった。
俺は……今日を回顧しようと、瞼を閉じる。
――ようやく、肩の力を抜いて深呼吸をする。
――「ボク」と「俺」との決別を済ました。
――常世に手を差し伸べてやることができた。
――葉月と協力して、鬼神を鎮めることに成功した。
中史としてすべきことは、すべて終えたつもりだ。水神の過去を知った時の悲しさは、拭えないままだけど。それもまた、これから向き合っていけばいい夏の一日なのだろう。
なんて考えているうちに……俺は、微睡み始める。今日は四六時中気を張っていたから……自分で思っている以上に、疲労が蓄積していたのだろうか。驚くほどすんなりと、睡魔は俺の意識を支配した。
――この地に来て初めての夏の一日目が、終わろうとしていた。
☽
「ねえ、暮定。こうやって喋ってても、私は、私にみえる?」
小さな勇気が、俺に訊ねていた。難解な言葉でなんとか本音を告げようと奮闘していた少女、
ささめがあの話をしてくれたおかげで、俺は
ささめへの言葉が、そのまま俺に跳ね返ってきた。
それが、立ち止まり、項垂れていた俺に、前を向く力をくれたんだ。
ありふれた言葉でも、それが真実だよ。
明日、直に礼を言いに行くよ。
つらい過去だったかもしれない。
悲しい思い出だったかもしれない。
それでも、勇気を振り絞って俺に話してくれたささめの本心は、しっかりと伝わったよ。
☽
「だーめ。私は、女子中学生に自分の裸体を見せつけて興奮しちゃってるえっちな暮定に聞いてほしい話があって、ここに来たんだもん」
中史を識り、法術を識る、この村の名士の娘、
沙織とは……もっと、仲良くなりたい。彼女のことを語るのに、今日という日は短すぎる。
もっと、いいところも、悪いところも。
沙織のいろんな顔を知っていて、最後には。
魔法関係の話題がなくとも笑い合える、そんな友達になりたい。
だから、最後。
沙織が子供っぽいところを俺に見せてくれたのは、嬉しかったよ。
本人としては、恥ずかしいだけだったのかもしれないけど。
☽
「暮定、お前もこい。何か悩みがあるとき、何かに躓いたとき、そういう時は、剣を持て。その手に力の象徴をおさめ、存分に揮え」
当初、俺と悪い法術使いと勘違いして襲い掛かってきたこの村の剣豪、
晴人は、この村でできた唯一の男友達だ。
そういう意味では、真に気を許せる存在と言えるかもしれない。
俺と晴人は、常に剣で以て会話していたな。
「ボク」も「俺」も、今の俺ですら、到底、志ではお前に叶うような立派な人間ではないけれど。
それでも、刀を交えている間だけは、対等なんだ。
いつか決着をつけよう、晴人。
☽
「やっと見つけました、暮定君」
眦に涙を浮かべた彼女――
現。白状するよ。すべて終えて整理された心が示す、確かな気持ちを。
……俺は、現が好きだ。友達としてではない、一人の異性として、現に、惚れてしまっている。
この気持ちに気づいた今、本当なら、すぐにでも東京に帰って、今までのこと、全部謝って……改めて、俺から告白させてほしいところだけど。
今はまだ、ダメだ。
この村にやり残していることが、たくさんあるから。
やり残していることがあることを、俺が望んでいるから。
だから……待っていてほしい。随分身勝手な願いであることは承知だけれど。
この夏の熱が冷めてしまわぬうちに、必ず現の元に向かうと約束しよう。
俺は今度こそ、現に正面から向き合いたいんだ。
☽
「――今の暮定、すごく、暮定らしい」
感謝しても、感謝しきれない。
感謝しても、感謝しきれない。だから今はただ、芦花へ向けて、笑いかけておこう。
この気持ちは、どんなに長い年月をかけてでも、返していきたいものだ。
こんなことをいうと、芦花はいつもの無表情で、そんなのいいのに、と恥じらうのだろうが。
……いや。無表情……というのは、芦花とは違うか。
芦花は、いつも俺の横で花笑んでくれていた。
俺が芦花の笑顔にどれだけ救われてきたか、彼女自身は、自覚はないのだろうけど。
芦花は、情けなくて頼りない俺の、一縷の希望だったんだ。
本当に、助けになったんだよ。
だから明日からは、俺が、芦花の光となろう。
いつか芦花が、闇にのみ込まれそうになった時は、今度は俺が、芦花の横で笑っていてやろう。
まあつまり。
――これからもよろしく、芦花。
☽
紅葉さん、柴田のじいさん、竜禅寺さん、葉月と……後、父さんも。
俺たち子供を見守っていてくれて、ありがとう。
尤も、この夏はまだまだ厄介をかけることになりそうだが。
でも、どうか、その時は。
いきすぎたら、叱ってくれ。
よくできたら、芦花や沙織やささめを、褒めてやってくれ。
そうして俺たちは、みんなに恩を返せるような大人になっていくから。
☽
「すみませーーん!」
……それは俺にとっての今日の始まりを告げる、呱々の声。生涯忘れることのないだろう、玉のような声色で……常世はあの時、俺を呼んだ。
お前とは、未来を見ていたい。過去を肯定することができるようになった今、現在に生きる俺は、お前と直接話すことで、分かり合っていきたい。だから、ここで思い出すようなことは、あまりないな。
でも、ただ一言。
これだけは言わせてくれ。
――俺に声をかけてくれて、ありがとう、常世。
そのおかげで、俺はたくさんの大切な人たちと出会えたよ。
芦花に晴人、竜禅寺さんに、紅葉さん。柴田のじいさん、ささめに、葉月に、沙織。現とも、再会することができた。
それと……
別にこの中で、優劣をつけるわけじゃないけれど。
……その中でも、常世。
キミは、俺にとって……大切な――――
☽
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