二十八日 『今再びの剣戟を』

 湖の畔に立って、これからについて考える。


「ボクは一度、家に戻るよ」


 水浸しになった服を絞って、常世はそういった。



   ☽



 街灯一つない山道でも迷わないのは、満天の星空のおかげだろう。俺は常世と別れて、どこへともなく足を動かしている。


 ここへきて、水でぐしょぐしょに濡れた服が煩わしい。……脱いで、しまおうか。


 上だけだ。問題ないだろう。朝は警官に止められたが、この道にそのような人影は見当たらない。灌木から飛び出してくるとしたら、それは獣か幽霊か、どちらにせよ俺の露出を咎めるような存在ではないはずだ。


 ……いい、よな? 誰も止めないなら、本当に脱ぐぞ?


「……」


 逡巡を挟んだのち。


 バサっ――と勢いよく、服を捲って地肌を晒す。


 ――半日以上の時を経て、俺はついに、脱衣に成功したのだ。和服だから、脱ぎやすかった。


「はあ……俺は解放された……!」


 文明社会から隔絶された森の中。生まれたままの姿に戻った暮定は、その肉体美を星々にひけらかすように、両手を広げて天を仰いだ。


「……ごほん」


 ……咳払い一つ、濡れた服を手に気を取り直し、しばらく黙って歩いていく。


「ここは――」


 たどり着いたのは、平野。森の中腹辺りに位置する開けた場所で、昼間、俺が芦花に連れてこられたあの草原だ。紅葉さんの屋台ももう撤退した後で、そこにはなにもない。

 俺の視界に映るのは、無数の星と、微妙に欠けた月影だけ。天然のプラネタリウム……というと、そもそも天然の星々を模してつくられたのがプラネタリウムだから矛盾するような気がするが、とにかく、そんな景色だ。 

 おかしな話といったら……月も、そうだな。

 俺は無意識に、月とそのほかの星を別のものと考えてしまっている。星々にだってそれぞれ名前がついているはずなのに、俺の中で、月だけが特別扱いを受けているのは……俺が、月と密接に関係する中史の生まれだからなのだろうか。もし中史に生まれてこなかったら、俺の目の中の玲瓏な月は、まったく別物として存在していたんだろうか。


 そんな詮無いことを考えながら、服を木の枝にかけて干し、その濡れを月の光が乾かしてくれるのを、静かに待っていた。



   ☽



 ……あれ。


 確かに、あの木にかけて置いたはずなんだけどな。


「……盗まれた?」


 それとも、風に吹かれて飛んでいったか。


 しばらく夜空に目を奪われていた隙に、俺の服が消えてなくなってしまった。


 このままでは、東京(実家は岩手だが、俺たち一家は東京暮らしだ)まで上裸で帰らなくてはならなくなる。他に替えはないんだ。


 なんとしても、見つけ出さなくては。……と、切り株に降ろしていた腰を上げ、歩き出そうとした、その時――


「いけないんだ、暮定」


 灌木の中から、声がした。まさか幽霊か、とビビったのは一瞬、それが一度聞いたことのある声であることに気づくと、急激に上昇していた心拍数は徐々に下がり始め、代わりに穏やかな、安堵に近い感情が込み上げてきた。


「悲鳴上げないと、つまらないよ?」


 ちぇー、と口をとがらして茂みから姿を現したのは……この村の子供たちの中で、一番大人びて見える少女、榊原さかきばら沙織さおりだった。

 いや……確かに夕方、大人びて、見えていたんだが……

 

 星空の下、俺の前に立つ沙織からはそんな雰囲気は感じられない。後ろ手に手を組み、いたずらに失敗した子供みたいに不満そうな顔をして長髪を翻す彼女は、年相応の女の子のように感じられた。


「随分、祭りの前に会った時と態度が違うけど……あの時のは、演技だったのか?」


「そ。みんなのまとめ役、だから。仕方なくね。素の私は見ての通り、不真面目な女の子。失望した?」


 沙織は手に持った男性用の和服……俺が木の枝にかけて置いた服を胸の前で広げて、困り眉で訊ねる。


「いいや。むしろ今のほうが、俺としては話しやすくて好印象だよ」


「そっか。ありがと。暮定も、今の感じが一番暮定っぽいよ」


 そっけないように聞こえる返事の沙織だが、その表情は若干の喜色を示している。素の自分を認めて貰えて、安堵しているといったところか。

 ……「俺」と「僕」、「ボク」と「わたし」。それはなにも、俺たちだけに限った話じゃない。誰もが少なからず抱いている、人付き合いの中で形成される本音と建て前、裏と表の差異への戸惑いだ。ただ俺たちは、この沙織のように器用ではなかったから、それをうまく使い分けることができなかっただけ。


 ……それはそうと。


「……服、返してくれないか」


 沙織は胸の前にぶら下げたそれを、一向に返そうとする気配を見せない。それどころか無性に男心をくすぐる艶笑えんしょうで、気を逸らそうとしてくる。

 落ち着けよ。年下の中学生に惑わされたら終わりだぞ暮定。


「だーめ。私は、女子中学生に自分の裸体を見せつけて興奮しちゃってるえっちな暮定に聞いてほしい話があって、ここに来たんだもん」


「「暮定」までの長い形容の言葉、丸々いらなかっただろ。それに、別に服を返してもらったところで、すぐに逃げ出すわけでもない。服を返すことと、俺が沙織の話を聞くかどうかについて、因果関係はないように思えるが?」


「本当にそう思う? ――話って、翡翠ひすい村と中史氏なかしうじの関係について、なんだけどなー」


 沙織は不敵に笑って、見え見えの釣り針をぶら下げた。


 その笑みの意味するところは、一つ。

 沙織も、の人間、だったのだ。


 ……確かに、その手の話は、今の鬼神との戦いに疲れた俺にとっては、あまり耳にしたくない。


「……どこまで、知ってるんだ」


 しかし残念ながら、俺はそれに釣られるよりほかに道がない。


「気になる?」


 歩みより、からかうような上目遣いで俺の顔を覗き込む。


「質問を変えよう。……誰が、知ってるんだ。これぐらい答えてくれても、いいだろ」


 晴人は昼間、言っていたはずだ。この村で法術の存在について知っているのは、晴人と戸隠家くらいだ、と。

 しかしその情報とは裏腹に、晴人でも戸隠の人間でもない沙織は中史について知っている。この分じゃ、晴人の言はどこまで信用できるか分かったものじゃない。を考えても、魔法に通じている人間は把握しておきたいところだ。


「そっか。暮定は久慈家でも、傍流だったね。なら、知らなくても無理ないか。……榊原さかきばら家って、それなりに古い家なんだよ? この村の祭事を司るのが戸隠家だとしたら、榊原はまつりごと……政治で翡翠を治めてきた一族。今はそんな風習も風化して、ただちょっと日本について詳しい一族、だけどね。だから今の戸隠家は私の家のことも知らない。この村で魔術について知ってるのは、戸隠家と、晴人くんと、榊原家。それと……あと、柴田さんくらいかな。……ね?」


 確認を取るように。まるで後ろに誰かいるかのように……俺の背後に、声を掛ける。


 沙織の視線を追うように、振り返ると……


「ほっほっ」


 そこにいるのは、腰の曲がり、白髭を生やした老人で……夕方、俺と常世を引き合わせた、柴田のじいさん。

 このタイミングで出てくるということは……


「……なるほど。、か」


 あんな言い方で煙に巻いていたが、そうだ。旧家……古く権力のある家ということは、それだけ土地の伝承や説話には詳しいはずだ。柴田家もまた、法術について知っていてもおかしなことはない。


「中史には縁故がおっての。お主のことも、久慈の人間から事前に聞いておったよ」


 最初から……すべて、知られていたというわけか。


「俺と常世を会わせたのは?」


「似た境遇のお主なら、あの娘に希望を与えてやることができるのでは、と踏んでな。ちと、豊州とよくにや健蔵に協力してもらったわい」


 似た境遇……俺のこと事前に聞いていた、ということは、その相手は当然父さんだろう。母は顔は広い方じゃないからな。父さんからすれば、息子が「俺」と「僕」で悩んでいたことなど、お見通しだったわけだ。それで、柴田のじいさんに多少の根回しをした、ってところか?


 紅葉さんが執拗に俺と常世の関係について訊いてきたのも、竜禅寺さんが俺に剣舞をさせようとしたのも、すべては柴田のじいさんと父さんの指示だったか。


(……いや)


 ……あの二人なら、じいさんの指示がなくても同じようにしていただろう。そう思えるのが、唯一の救いだな。紅葉さんに関しては、アレで素だろうし。あの人はああいう人だ。


「……結局俺たちは、あんたら大人にここまでお膳立てされないと変われない、とんだ劣等生だったわけだ」


 つい、そんな弱音を吐いてしまう。もうこれで終わりにしようと思っていたが、なかなかどうして、性根が暗いやつだな、俺は。この癖を直すまで、かなり苦労しそうだよ。


「そう悲観的になるでない。お主たちは一歩を踏み出しだだけでなく、この地に根付く鬼神の呪縛すら祓い去ったのじゃぞ。十分すぎる働きをしてくれた。ご苦労じゃったな」


 柴田のじいさんは呑気に笑って背を向け、ゆっくりとした歩みで遠ざかっていく。

 ――役目を終えた老兵が、ただ消え去ったのだった。


「そーいうこと。……後は、この村の「神の降りる地」としての役目も終わったからね」


「神の降りる地?」


「水神がいつまでもいてくれるようにって、とある魔術師にお願いして、結界をちょっとね。おかしいと思わなかった? 今時、いくらドのつく田舎とはいえネットが通じないなんて」


「それは……そうだな」


 結界と電波は相性が悪いと聞く。なんでも魔力の性質が似ているせいで、魔力同士をつなぐ線が絡み合って思うように操れなくなるんだとか。

 それでこの村には、電波が通ってなかったのか。


「ま、榊原と柴田だけで村の開発事業を止めておくのもそろそろ限界だったし。ほっといても、私が高校生になる頃には開発に乗り気な今の村長に押し切られて、ネットぐらいは通ってたと思うけど。それでも鬼神のもたらした被害は、暮定と水神様のおかげで最小限に止まったから、感謝するよ」


 などと、礼を言ってくる。


「……それを言うために、態々ここまで来てくれたのか?」


「……勘違いしないでよ? 暮定には鬼神を正しく鎮めてもらわなきゃいけないんだから。あくまでこの村のため、だからね」


 定型句でツンとそっぽを向く沙織をみてると、つい反撃してやりたくなった。

 この癖はもとより、治す気はない。


「元々そのつもりで言ったんだが?」


「……そう」


 沙織はまた、そっけないふりをして……しかし、その赤くなった耳を、隠せないでいる。


 ……それを見て、俺は。

 皆の前では清楚で、ホントは悪戯好きな、少しだけ背伸びをして頑張っている少女。時折疲れて、踵を地につける瞬間がかわいらしい少女。……それが、榊原沙織という子なんだろうと、思った。

 初めて、どこかつかみどころのないような性格に見える彼女に一歩近づけた気がして、嬉しかった。


「……ぁ、あと、これもどうでもいいんだけど!」


 どうでもいいなら訊くなよ、と言ったら、彼女は泣いてしまうだろうから、その言葉は呑み込む。


「――」


 俺はその問いに、何秒か考えるフリをした後、


「そうだな。俺は……」


 俺の返答を聞いた沙織は、最後にはまた、村の子供たちのまとめ役として、恭しくお辞儀をして、夜の闇に溶けていった。



   ☽



 さて。そんな沙織と入れ違いになって現れたのはこれまた男女だ。この一日、大分世話になった男と、女の子。


「次から次へと、忙しないな」


「……なんのこと」


「偶然だ、偶然」


 芦花と晴人。


「……もう、傷は大丈夫なのか」


 まず先に、晴人に容体を訊ねる。


「ああ。あれから大分時間も経ったし、快復したぜ」


「よかった」


 と、安堵しそうになった心を……きつく、引き締める。


「じゃあ……何しに来たんだ、っていうのは」


「聞くだけ野暮じゃねぇか?」

 

 晴人は片手に握っていた木刀を振りかぶって、悪い笑みを浮かべる。


 俺はそれに、さして驚くわけでもなく……むしろ、深く納得し、心を落ち着かせる。


 祭りは終わった。この地に厄災をもたらす御霊は、力を失った。


 そんな一日の締めに相応しいのは……やはり、剣戟しかなかった。俺と晴人にとってそれは、友好の証のようなものでもあったから。


「……二人とも疲れてるだろうし、私は止めたんだけど。約束した、っていうから」


 横を向くと、芦花が両手に抱えた木刀を、俺に差し出してくる。それを確かに受け取って、


「ああ、約束だよ。祭りの後、今度こそ雌雄を決するんだって約束した」


 まだ触れるのは二度目だというのに、長年使ってきた愛刀のように、手に……いや、体に馴染む。もっともあの時の俺は、どこかの見知らぬ剣豪でしかなかったから、それを加味すれば実質、木刀を手にするのは、初めてのハズなのに。


「じゃあ、二人とも頑張って」


 相も変わらず抑揚のない、しかし妙に耳に残る愛らしい声援を受けて、俺と晴人は星の下に姿を曝す。


 二人とも、か。下着姿で抱き着いてくるようなどっかの淫乱巫女とは違って、芦花はちゃんと二人とも応援してくれる優しい子だ。そんな芦花だから俺は、平常心を保ったまま仮面を外せたのだろう。

 ……と、思っていたら。

 芦花は、なにか決心がつかないといった風にその場で足踏みをした後……とことこと、俺に近寄ってきて。つま先立ちで、声を潜め、俺だけに聞こえる声でこう耳打ちしてきた。


「――勝って、暮定」


 少し驚いて、そして心の中で小さく笑みをこぼした。少女は俺のために、その醇乎たる心に一滴の墨を垂らしてくれたのだ。その墨は決して悪いようには作用せず、少女の白い頬に微かな含羞の色を浮かばせた。

 ……思えば今日という日は、芦花に励まされてばかりだった。俺が何かにとりかかるときは、芦花に背中を押されてようやくだ。

 男として、年上としては情けないことこの上ないが……これが今日一日かけて形成された、俺と芦花の偽らざる関係なんだろう。少なくとも、今は。これから、もっと年上らしくしっかりしたところも見せていきたいところだが。


「ああ」


 あの時のように、俺は一歩を踏み出して晴人と対峙する。


「さっきは晴人に助けてもらったから……手加減した方が、いいか?」


「ふざけろ」


 吐き捨てるように言って、


「いっただろ。全力でこい、暮定」


「それじゃあ……恩を仇で返す形になるが、今回は勝たせてもらうぞ。晴人」


 俺の手の中にあるのは、木刀。


 その刀は、もう前のように、思うように動いてはくれないだろう。


 それは、どうしようもない現実から目を逸らす、逃避のための刀ではないから。


 「ボク」が演じる剣豪ではない、俺が俺として振るう、初めての刀だから。

 

 だから、それでも。しかし、だとしても。


 この一太刀は、俺にとり、最高の一振りになるだろう。

 そんな確信めいた予感に、突き動かされて。



 ――俺と晴人が、刀を振り上げた――


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