二十七日 『ボク、知ってるよ。テコ入れ回ってやつだね』



   ☽


 

 ざぶん、と大きな音がした。

 空に舞うしぶきが、月光を受けて夜を照らす。雨はやみ、火は絶えて、晴れ澄んだ夜空には星が浮かんでいた。


「……ここは」


 口を開く。口をひらけるということは、俺は生きているということだ。旋風に飛ばされて自由落下し、そのままかたい地面に頭から着地して人生の終着点に到達する最悪の結末だけは回避できたらしい。

 事実、俺の腕の中で未だ目を瞑っているキレイな巫女さんを見れば、落下の衝撃ではだけたのか、巫女服の下に隠れていた豊かな双丘が露わになっていて、それが一定間隔で上下しているのが、襦袢の上から伺える。

 そういえば常世は、そこそこ魅力的なものを持っていた。午後に会ってからこっち、いろいろそれどころじゃなかったから忘れていたけど。

 ひとまず二人とも、五体満足で鬼神との戦場から生還したらしかった。

 

 空から落ちてきた俺は、深い海に落ちた、と言った。当然、深い海というのは比喩表現だ。

 ここは戸隠巫女と龍神の住む、緑豊かな山村に違いない。

 海の底とは対に位置する山の奥にあって、天際より落ちた俺と常世が傷一つ負わないような神性を持ってかつ、深い海と例えられるような場所など俺には一か所しか思い浮かばない。

 

 ――俺たちが沈んだのは、玉響神社の近くに位置する、小さな禊の湖だった。


 頭を下げれば、前髪から零れた雫はちょうど俺の腰の高さのところで波紋をつくり、広がっていく。

 辺りを見渡せば、湖の終わりを示す数メートルほどの崖の上に、また更に道が続いているのが分かる。……というか、昼に一度見た神社へ繋がる道だ。方向音痴はこと地理に関しては記憶力も低下させてしまう。鬼神すら裸足で逃げ出す恐ろしい呪いである。


「……ぁ」


 腕の中で眠っていた舞姫が、目覚めたようだ。か細い声を上げて、それから上目遣いで俺をみる。なにを思ったのか慌てて顔を背けてから、その場の状況把握に努めるように周囲に目を向けた。


「立てるか?」


「……うん」


 いつまでもお姫様だっこをしているわけにもいかないので、そう言って常世の身体を解放する。一人で湖の中に立った常世は、空気を孕んで水上に浮かぶ袴を煩わしく思ったのか、腰の結びを解いて、緋の袴と千早を脱いだ。その二つを綺麗に畳んでわざわざ岸に置いた常世が、またこちらまで戻ってくる。

 

 白衣を着た常世が、何から話せばいいのか困ったふうにちらちらと俺を見てくるので……俺の方から声をかけようとして――


「――っ!」


 胸に激痛が走った。戦闘やらなんやらで興奮状態にあった先程までは、脳内麻薬で誤魔化せていたんだが……鬼神に受けた傷が、今になって疼きだした。見れば胸には鈴鉾が刺さったまま。……なかなかシュールな光景だが、笑いごとではない。このままだと命の危険……というと中史にとっては大げさだが、痛みが続くのはイヤだ。


「ボクが直してみるよ。やったことないけど……治癒魔法は、戸隠が得意とする法術だって、お母さんが言ってた」


 キュッと気を引き締めた常世が、片手を俺の胸にかざして、神経を集中させた。


 その矢先――


(……?)


 ――どこからか、小鳥が飛んできた。それは太陽の落ち、色の視認が難しい夜の世界でも煌めく青の鳥。この村の渡り鳥、渡翠鳥だ。――それも、一羽ではない。二羽、三羽……と数えて、途中でそれを放棄した。


 空を見上げれば、夜の黒を覆う、無数の青が飛んでいる。そのすべてはこの湖に向かって翼を広げ、次々ここに降り立ってきている。その光景を黙ってみていると、禊の場は瞬く間に翡翠に埋め尽くされてしまった。


「なんだ……?」


「一度にこんな数のワタリソニドリ、見たことないよ……」


 俺と常世は、そろって首を傾げる。すると……


 その内の一羽、俺の肩にとまった一羽の……その青の輝きが、強く、強く増していく――!


「……魔力、か?」


 その光は、魔力の可視化されたものだった。小さく羽ばたいて、体から魔力を溢れさせるカワセミ。それに呼応するように、湖の鳥たちも一斉に魔力を放出し始める。


 強く、強く膨れ上がるその光は……そのうちに、一つに集まっていく。俺の肩にとまる一羽に向けて、たった今まで鳥だった魔力の粒子が集う。

 魔力を蓄え、大きな光となったカワセミは――


『……わたしが、代わりましょう』


 鈴を転がしたような透き通った声が、湖に響く。


 一人の半透明な女性の裸体が象られて、俺の背後に降りたった。その表情は、どこか常世を彷彿とさせる。


『……よく、がんばりましたね』


 俺に向かってにこやかにほほ笑む、この人は……


「水神、様……?」


 呟く常世に、水神はおもむろに頷いた。

 そこで俺は、いろいろと合点がいった。

 この村を飛ぶ数多の小鳥――渡翠鳥は、水神の神使……使い魔のようなものだったのだ。自身の御魂は鬼神を封じるために岩となってあの場所から動けなかったため、微量の魔力の小鳥という形で翡翠の森に住まわせ、この地を見守っていた。現の前で、俺が本音を告げられたのは……水神が、密かに手助けしてくれてたからだったんだ。

 

『……』


 淡い青の光で象られた水神が俺の胸へ手をかざすと……鬼神の魔力の宿っていた鈴鉾が、黄緑の光に包まれて消えた。


『次に、傷口を癒します。……どうか、楽にしてください』


 と言って……


「……あっ、暮定……」


 俺を背後から抱きしめて、治癒魔法を開始する水神。


 ……と、いうか……


「あ、あの……」


『……なんですか?』


 上半身をうしろに倒された俺の頭が……丁度、水神の――これも常世に負けないくらい大きな、両胸の間に、押し付けられてっ。

 慌ててそこから脱出しようともがくが――

 ……身体を抱きしめられているので、動こうにも動けず……

 

(……っ、……なんて贅沢な枕だ……)


 結果、無駄な抵抗は諦めて全身の力を抜くことにした。体を水神の半透明な裸体に委ねて、目を瞑る。

 ……神の完璧な治癒魔法により、傷口が治っていくだけでなく、冷えていた体まで温められて……心地良い。下半身が水の浮力で浮き、上半身は水神の柔らかな肌に抱き留められて……極楽浄土というのは、こういう場所のことをいうのだろう。夢心地だ。


(一生こうしていたい……)


 俺はまさに、天国にいたんだが……


『……ふふ、そんな顔しなくても、あなたからこの人を奪ったりはしませんよ?』


 いきなり水神が、なにやらよく分からないことをいう。……そんな顔、ってどんな顔? と気になって、俺は閉じていた目を開ける…………


「と、常世……?」


「……」


 ……しとどに濡れた長い髪が俺の視界内の霽月の光をすべて遮るくらいには目の前まで、常世が寄ってきていた。

 その表情は、頬をひかえめに膨らませて、俺を睨んでいて……どこか怒っているようにみえる。といっても俺だけへ向けられた怒り、でもないようで……なんだ? 悲しみと苛立ちと焦りとが混ざった……よく分からない怒り方をしてる。変な奴だな。

 それより……お前、そんなに近づくから……水で濡れた白衣や襦袢程度じゃ隠せない常世の大きな胸が、俺の頭上ではっきりと主張していて……今さらに一歩近づかれたせいで、角度的に、胸で……常世の顔が、見えなくなった。それどころか、あと少し常世が姿勢を崩せばその豊胸は俺の顔に乗っかってしまう。

 左右を水神の胸に挟まれ……頭上は常世の胸に阻まれ……頭が、おかしくなりそうだ。

 常世お前は、もっと自分のおっぱいの大きさを自覚しろ! 一見柔らかく張りのあるように思えるそれは、男を殺す凶器に成り得るんだよ!


 常世は、そんな俺の心からの叫びなどつゆ知らず、回復魔法をかけ続ける水神を一瞥すると……自らも俺の胸に手を当てて、治癒魔法をかけ始める。


「……いや、常世。その気持ちはすごくありがたいんだが……ただでさえ鬼神に憑りつかれた後で、魔力も少なくなってるんだ。治癒は水神様にまかせて、なるべく魔法は使わずに回復を待った方が……」


「いいから」


 強情に突っぱねる、そんな常世を見て……


『ふふふ……』


 水神は、幸せそうに目を細めていた。

 その様子は……やはり、どこか子を愛おしく思う母のように見えて……

 俺は、常世に聞こえないよう、中史の法術『渡月わたりつき』……テレパシーで、水神に訊ねる。


『あの……一つ、訊きたいことがあるんですけど』


『なんでしょう? あなたになら、なんでも答えますよ』


『ありがとうございます。……この村に伝わる伝承――鬼神から翡翠の地を守るために、早乙女が雨乞いをして水神様を降ろした、という伝承は、どこまで正しく、どこまで虚構なのか、教えてくれませんか』


『……どうして、そんなことが気になりましたか?』


『……なんというか、水神様の常世を見る目が、とても他人に向けられたもののようには思えなくて。だから、もしかしたら……』


『……わたしの子孫が、戸隠、だと考えましたか』


『はい。……違いますか』


『……そう、ですね。その通りです。――今の伝承は、半分正しく、半分間違いです。――わたしは……元は、あなたと同じ、一人の人間でしたから』


『……それは、伝承の早乙女が、水神様だった、ってことですか?』


『そういうことですね。大昔、この村に鬼神が厄災をもたらしたのは事実です、あなたも見た通り。そして、早乙女……わたしが、雨乞いをしたのも、本当です。神を降ろそうと、この玉響神社を建てて、舞を奉納したことは、たしかに覚えています』


 そこまで言われてたどり着いた一つの真実を、口にする。それは水神の口から告げるには、あまりに酷な真実だったから。


『…………でも、神は降りなかった』


『……はい。人であった頃のわたしは、神楽で神を降ろせるほどの魔力を持っていませんでした。雨乞いは失敗し、村民はいよいよ飢えていきました』


『……だから、あなたが身代わりになったんですか』


『…………』


 俺の問いに、水神は苦笑いを浮かべて肯定する。

 

 ――人柱。龍神信仰の中には、そういう風習も存在した。若い娘を生贄に捧げることにより、その地の神の機嫌をとり、恵みを受けようとする、そんな風習。中には生贄となったその御魂が、直接その土地の地主神となって豊穣などをもたらす場合もあるという。おそらくはこの水神も、大昔、翡翠村のために犠牲になった女の子の一人で――


『そんな、悲しい顔をしないでください。……わたしは、自ら望んで神となった身です。誰かに強要されて、というような悲劇ではなかったんですから』


『でも……』


 ……これは、俺が中史だから、なのだろうか。太古から、大抵の不可能を成し得てきた中史だから、こんなどうしようもない後悔を覚えるのだろうか。

 

 ――俺が、水神と同じ時代に生まれていれば、生贄になんかさせなかったのに、と。


 考えても詮無いことだ。すべては過ぎ去った話で、俺は今に生きている。それでも中史の強欲が、悲劇を前に哀しんでいた。どうしても、その手から零れ落ちるものまですべて、救おうと考えてしまう。


『……それに、龍となってからの幾代、悪いことばかりでもなかったんですよ? 同じ龍神のキュウちゃん……九頭龍大神くずりゅうのおおかみとは、親友になれました』


 ――九頭龍大神とは……俺の中史としての知識が間違っていなければ、その神は日本全国に痕跡を残す古い龍神だ。いくつもの神社に祀られており、そのうちの一つは確か……


『「戸隠とがくし」の姓は、戸隠山を神体とするキュウちゃんから貰った名前です。彼女の後裔も、雨乞いの法術に長けた氏家だそうですから』


 なるほど。龍神で「戸隠」って名前だから、何かしら由緒があるんじゃないかとは思ってたが、まさか祭神同士が親友だったとは。


『でも……そうですね。あなたみたいな人に悲しんでもらえただけでも、この百代も無意味ではなかったのかもしれませんね』


『……水神様』


『そんな堅苦しい名ではなく、どうか、人だった頃のように「葉月はづき」と呼んでください』


 葉月が微笑んだのと同時、治療が終わった。体を解放されたので、湖の中をふらつきつつも一人で立つ。


 そうして空に浮かんだ葉月は、俺と常世を見て微笑み、


『では……わたしはあるべき姿に戻ります。鬼神は一月で善神となるでしょう』


 鬼神に関することを葉月が口にしたところで、常世が「……?」と頭に疑問符を浮かべるが、俺には伝わっているので頷く。


「それまではここにいます」


『そうしてくれると、ありがたいです。……暮定。常世を、頼みますね』


「え、え……水神様?」


 常世が狼狽えて間抜けな声を上げる中、葉月は青の光につつまれて……

 

 翡翠の村の空に、静かな守護の神として、昇っていった。

 

「……」


 呆然と空を見上げる常世に、俺は葉月の言葉を補足する。


「水神はああ言っていたけど、あんまり気にしなくてい…………常世? なにしてんの?」


 常世に目をやると……彼女は、先程脱いだ袴と千早に続いて、白衣と長襦袢にも手をかけて……これもまた綺麗に折りたたみ、岸辺に重ねて置いた。


 こちらに戻ってきた今の常世は……肌襦袢姿。ひざまである長いタイプの白装束を着て……俺の前に立っている。ところどころ水に透け、肌に張り付いた襦袢から見える肌色は……気のせいだろうか。その下には何もつけてないようにみえる。


「み、禊……! 禊のためだよ、そのために脱いだの」


 どうも言い訳がましく、慌てて自分の身体を自分の両腕で抱きしめるが……


「なあ、肌襦袢って……俺の乏しい知識が間違っていなければ、下着的な役割を持ってたような……」


「うん……そうだよ」


 やっぱり! ……いやいや落ち着け、暮定。アレだ。常世の反応的に、下着として使われてたのは昔の話で、今は普通の下着の上から形式的に着てるだけという話も聞く。じゃなかったらとんだ痴女だ。


「……最近の巫女は、流石に下にもう一枚西洋の下着をつけてるよな。そうだよな、勝手に変な妄想し……」


「……つけてない、よ」


「……は?」


 思わず頓狂な声で訊き返す。気づけば常世は……これまでにないくらい顔を赤く染めて……俺の背に真玉手を伸ばし、その体を密着させてくる。


「……この下、なにもつけてないから……見られないように、こうしてるだけだから……」


 俺の胸に顔を埋めた常世のくぐもった声が、聞こえてくる。俺は常世の身体に……恐る恐る、腕を回す。そうして、優しく抱きしめた。


「……ぁ」


 俺の腕の中で声を漏らす常世の、心臓の鼓動が伝わってくる。襦袢一枚を介しただけの常世の白い肌のぬくもりが、ほぼ直に感じられて……それを放したがらない男の支配欲と独占欲が、腕の力を少し強めた。


「……」


 俺の服をギュッと掴んだ常世の肩が小さく震えたのがわかる。


 しかしその震えは、互いの呼気を感じている間に消えた。


「……」


「……」


 そうしてしばらくの間、俺と常世は湖の端で抱き合っていた。ただ互いの存在を確かめるように、ひしと抱き合っていた。

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