二十六日 『戸隠常世として』

   ☽



 ――水面が、静かに揺れた。人々の影は波紋をつくって、底に揺曳するわたしに手を伸ばす。

 

 ――その時の彼らの意識が、水へ向くことはない。それが外界と内面とを隔てる水の鏡であることに、誰もが目を瞑る。


 ――しかして、わたしに魅入られた船人は、自らが水面の上を泳いでいるのを忘れて、その下を漂うわたしをサルベージしていく。



 ――斯くて「わたし」は顕現する。



   ☽


「すみませーーん!」


 気がついたら、叫んでいた。


 ……一人の、男の子が立っていた。年齢は多分、ボクと同じくらい。空を見上げて、何か思案に耽っている様子。ボクが走り、近づくにつれてその男の子の影は大きくなり、丁度彼と入れ違いになる瞬間に、目があった。


「走って!」


 気がついたら、叫んでいた。

 ボクは今、警官に追われている。浅慮な行動から、取り返しのつかないことになっていて……それが、ボクの中の密かな自尊心にひびを入れた。その裂け目からは、ボクも知らない「戸隠常世」の卑しい臭気と爛れた汚泥が覗いていて、ボクの孤独感をたまらなくあおっていた。そうして無意識に、誰かを求めていた。そんなボクの頼りない口が、彼に一蓮托生を促した。


 だから――彼がついてきてくれたとき、彼が警官に背を向けて、ボクと一緒に逃避を決意してくれたときは、本当に救われたような気がして、身体が羽のように軽くなるのを感じた。つまり何も知らずに警官から逃げている彼に、身勝手にも、ボクの背負っていた罪の半分を背負わせて、一人で刑の執行を終えて釈放された気分になっていたということだ。

 

 そんな後ろめたさから、しばらくは彼の顔を見ることができずに、逃亡の成功は明らかなのにも関わらず、矢鱈に走り続けた。ボクが足を緩めたのは、戸隠の陋習がのこる翡翠村を抜けた後のことだった。



   ☽



 彼はこの村に来た観光客だった。どうやらこの村のことも、舞姫の因習についても、何も知らない様子で、ボクをからかった。……そんな、本当に、ほんとうに久々の感覚に、思わず涙を流しそうになった。


 翡翠の村で、みんながボクを「舞姫」と呼ぶようになってからというもの、「ボク」へ向けられた言葉、というものがそもそも皆無で、「わたし」へ届く言葉はすべて、舞姫への畏怖と敬意で塗り固められた虚ろな神への祈りでしかなかったから。


 だからボクは、彼の本音に触れられたことが、嬉しかった。


 舞姫となって以降、本音というものを渇望してやまなかったボクにとって、明白な本音を憚らずに吐露してくれる彼を……どうしても、放したくなかった。


「……それじゃあ、俺はこっちだから」


 満足に話もしていないのに、翻って帰路へと向かう彼を、ボクは泣きとめた。

 「戸隠常世」を見て、その向うから「舞姫」を掬い上げない謙虚な船人に縋りついて、


「今の話の流れでどうして別れるっていう選択肢が浮かぶの! 仮にも半刻近く歩みを共にした爾汝の仲だよね!」


 こんなことを言ってしまった。これは、大胆が過ぎたかもしれない、と思った。こんな言動をとるボクを、誰が生娘と信じよう。舞姫として日常の所作を慎んできた反動が、ボクを色慾にまみれた女へと変えた。


 とかく彼のボクに対する態度は、戸隠常世の犯罪を知った後でも、鳥肌の立つような薄気味悪い気遣いなどする様子もなく、相応の接し方でボクをあしらう姿勢を変えないでくれた。

 村の住人のように、どこからか持ってきたそれらしい理由をつけて舞姫を擁護するようなことは、しなかった。


 そんなボクが最も恐れることは、当然、「ボク」が「わたし」であると彼に知られることだった。すなわち、この村の戸隠家の巫女、舞姫がボクであるということを、彼に勘づかれてはならなかった。


 それで、玉響神社ボクの家を目指す彼には出鱈目な噂を吹き込んだ。

 彼の中に居座る、高尚で気高い偶像の舞姫を殺した。

 そうすることで、彼を「舞姫」から遠ざけようとした。


 ……と、言うのに。


「いや、それでも行ってみるよ」


 底なしに明るく、前向きな笑顔がボクを射抜いた。

 彼の笑って曰く、舞姫を語るボクから、舞姫への悪印象が見受けられなかった。


 ……バカみたいだ。だってそれは、なにか、おおきな矛盾を抱えている。

 舞姫とは、ボクで、舞姫が厭なボクの、舞姫を語る顔が、厭そうには見えなかった。だから、玉響神社へ向う。おかしい。

 

 それなのに、その矛盾を前に、ボクの心はただ彼一点に向けられていた。


 彼はつまり、又聞きした村の噂話よりも、ボクの本心を信頼してくれたということになる。


 この時から、ボクの中に、彼に舞姫を知ってもらいたい、その上でボクを求めてほしいと希う傲慢な常世と、このまま何も知らない綺麗な一人の観光客でいてほしいという臆病な常世の、二人が居着くようになった。

 


   ☽



 彼と別れた後。その姿が見えなくなったのを確認してから、ボクは立ち上がり、彼の後を追うように村へ戻った。向かう先は……長い時間走って汗をかいていたということもあり、紅葉さんの営む食堂。


「はぁー……納涼納涼、だね」


 檜の戸を引いて、冷房の効いた店内へと足を踏み入れる。手を内輪のようにしてパタパタと扇いで、冷風を送る。……あまり効果はない。

 

「あらあら、常世ちゃん。……斎戒さいかいはいいの?」


 すぐに厨房から顔を出した紅葉さんの言葉には逡巡があった。こちらの様子を伺うようにボクを見つめる一瞬の間が、その逡巡を生んだんだ。


 ……ここは、ボクにとっては家の次に馴染みのある場所だった。

 舞姫としての日々を送る中で、その責務に耐えられなくなったり、泣きたくなったりしたときの避難場所。だから紅葉さんは、ボクがここに来た時、まずボクの体調を確認する。


「うん。「ボク」は、舞姫じゃないからね」


 と、軽い冗談交じりにそう伝えるが、紅葉さんの反応は芳しくなかった。


「……ほんとうに、大丈夫なのね?」


「……、今日は、違うよ。……むしろ今朝は、いい事があったんだ。一人の観光客と会って……」


 しばらく、彼についての話をした。記憶にある鮮明な感情を、しっかりと言葉にして伝えた。紅葉さんには、そうしている。……


「……ふーん」


 ボクの話を聞き終えた紅葉さんは、どこか嫣然とした微笑を浮かべてこちらを見た。


「というわけで、久しぶりに確乎たるボクとしての意思を見せてきたつもりだよ」

 

 語り終えると、それだけでなにかを成し遂げた後のように誇らしくなって、胸を張った。


「……一目惚れ、かしら?」


「はぇ? ……なんて?」


 なにか、的外れなことを紅葉さんが言い出した。話の流れにそぐわない単語が飛び出てきて……


「あれ、違うの? だってそういうことでしょ、今の恋バナ」


「恋バナじゃないよ⁉ 話聞いてたよね⁉」


 思わず叫ぶボクをよそに、紅葉さんは飄々として微笑むばかり。……紅葉さんはこういう、悪戯好きというか、なんというか、あまり真剣な相談の相手には向かない素晴らしい性格の持ち主だ。……勿論、ボクが本当につらい時は、察して相応の対応をしてくれるけど。今日は真面目に対応するほどボクの精神が参ってはいないと分かった途端、これだ。


「顔、赤いわよ?」


「ウソ⁉」


 両手で、自分の顔をぺたぺたと触る。……別段熱さも感じない。


「ウソ」


 満面の笑みで告げられる。


「……うぅ」


 ボクは若干目に涙を浮かべて、机上にべたぁと上半身を倒す。


「常世ちゃん、そこそこ泣き虫よね。……まあ、そこがかわいいんだけど。その彼も、常世ちゃんのそういうオーバーなリアクションがいじらしくて、ついついからかっちゃったんじゃないかしら」

 

「そんな好きな子に意地悪するような小学生みたいな……」


 いじらしい……かわいいって、思ってた? ボクのこと。

 でも彼、多分、ボクのことをそういう目でみてくれてなかったと思うよ。


「話を聞く限りだと、そういう風に聞こえるんだけどなぁ」

 

 自分が恋しているかのようなどこか浮ついた雰囲気で、紅葉さんは厨房へと戻っていった。

 それで、彼についての話は終わりだった。紅葉さんが厨房に戻るのは、そういう合図。


「あ、ボクも手伝うよ」


 ――それから数時間、ボクは食堂で紅葉さんの手伝いをしつつ、遊びから帰ってきた芦花も加わり、昼時を迎えた。といっても、小さな村の、小さな食堂だから、ピークでも、満席になるようなことはない。ただバイトがいないので人手が少し足りず、ボクと芦花が手伝っているだけだった。


 店の繁盛する昼時を乗り越え、再び店内に静寂が取り戻された頃、芦花から話を聞いた。

 一人の青年と出会って、晴人くんと一緒に参拝してきたと言った。その人も観光客らしく、一日に二人も観光客が来るような場所でもないこの村にあって、もしかしたらと紅葉さんと密かに顔を合わしたりしたんだけど……芦花がその人――暮定くん、のことを「かっこいいお兄ちゃん」と評したことで、少なくともボクの中からはその可能性――ボクと芦花の会った人物が同一人物だという可能性――は雲散。きれいさっぱり霧消した。彼はたしかに……顔は、かっこいいかもしれないけど。性格が問題だよ、人となり! 仮にも女の子に対してあんなおざなりな態度を取るような人を、かっこいいとは言えないよ。……まあ、そんなぞんざいな扱いを、ボクは嬉しがっていたんだけど……うん……なんかボク、マゾヒストみたいだな。やっぱり撤回するよ、今の。嬉しがってたっていうのなし。


「芦花、外に置いてある水バケツ、とってきてくれるかしら」


「……分かった」


 ……と、とにかく! 心優しい芦花なら、あんな横暴な態度をとる相手に対して「かっこいい」なんて言葉は使わないはずだから、彼と暮定くんは別の人だってこと。それが言いたかっただけ。

 一体暮定くんは、自分のことを「僕」と呼んでたらしいし。それは彼の一人称とは違っていた。だから、別人だ。

 まさかボクみたいに「ボク」と「わたし」の二つの一人称を使い分けてるような変人ということはないだろうし。


「……どうしたの、常世ちゃん?」


「な、なんでもないよ!」


 煩悶とする心が表情に出ていたらしく、紅葉さんに不思議がられる。普段から舞姫やってるから、ポーカーフェイスは慣れてるはずなのに……ヘンだ……


 ……と、理由の分からない靄を睨みつけていると、芦花が両手に水バケツを持って店内に戻ってきた(ドアは紅葉さんが開けてあげていた)。そして少し迷った後……ボクを見て、


「暮定来てる」


「……ふうん」


 気にしていない風を装って、わざとらしく椅子にもたれかかって余裕を見せる。

 紅葉さんはそのまま芦花からバケツを受け取り、厨房のさらに奥の方へと入っていった。


「……そのままでいいの? 常世、暮定と会うことになる」


「……」


「……私、多分。常世が朝に会ったその人、暮定だと思う」


「……そうかな」


 訥々と、芦花はボクの目を見て言った。その言葉に根拠はなかった。あるのはただ、少女の澄んだ心だけだった。だけど同時に、その言葉はどんな論理的な推理よりも説得力があった。


「そう。……暮定は、「舞姫様」を探してた」


 ボクを指して、


「常世が会ったら、どうなる?」


 ……もし本当に暮定という人物と彼が同一人物なら、ボクが舞姫だと、彼にバレることになる。それはボクの心の臆病な常世が、最も忌避するところだった。後ろ髪を引っ張るのは、傲慢な常世。ここで自ら彼の前に出てボクが舞姫だと告げれば……その時、彼はどうするだろう? 


 良い未来は、見えなかった。ここで彼がすべてを許容して笑う想像ができるような都合のいい頭をしていたら、ボクはとうに舞姫であることを受け入れられているだろう。ボクの臆病な頭に、心に、なにか身の毛のよだつ想像がよぎった。それが、ボクの身体を突き動かす。何かに操られるように厨房に駆け込み、客席からは見えない場所にしゃがみこんだ。それを芦花が確認して、サムズアップする。

 ……間一髪、暮定くんにボクがいることはバレなかったようだ。


「あのー」


 ……驚くことに、その声は今朝会った彼のもので間違いなかった。


「……どう」


 芦花が訊く。


「うん……同じだよ」


 ボクがそれを認めると、芦花は目を細めて頷いて、それから急いで客席へと向かった。

 それと入れ違いになるように、


「――きゃっ」


 奥のドアから出てきた紅葉さんが、その場にしゃがみ込んでいるボクを見て驚いた。小さな悲鳴を上げて一歩後ずさり……その拍子に、調理器具の一つが音を立てて落ちてしまった。


「ボクが拾っておくから、紅葉さんは暮定の接客をするといいよ」


 そういいつつ、調理具を拾って……ちらと、客席の方をのぞき込む。見れば暮定が、芦花となにやら話している。


 暮定はしばらく店内を見回した後……奥から二つ目の席についた。


(あっ……)


 そこは、丁度ボクの隠れている厨房の奥まで見える席だった。

 慌てて顔を引っ込める。


「あっ。……暮定。そこはあんまりおすすめしない、かも……?」


 ……なんとか、見つからずに済んだみたい。

 


   ☽



 紅葉さんがまたいつもの……茶目っ気といえば聞こえはいいけど、その実態はそんな甘い言葉で言い表すには生ぬるい、ひどい悪戯心を働かせて、ボクを主題に恋愛話を展開した。


「あの子、かわいいでしょ」


(はぁ⁉ 紅葉さん⁉)


 思わず声を上げそうになった! 何聞いてるの! やめてよ!

 ……暮定は、またなにか悪口雑言でボクをあしらうだけだ。それくらいの予想はつく。それはよかった。別に平気だ。でも……予想がつくのと、本当に言葉にされるのとは全く違う。……後者はちょっと、冗談ではなく傷つく。

 だからあまり、そう言うことを訊いてほしくは…… 


「はい。思わず慳貪な態度をとるくらいには、絶世の美少女でしたね」


 ――トクン、と胸が高鳴るのを感じた。

 今度は、紅葉さんに言われてではない。自ら、そっと、自分の耳に触れる。

 ……熱い。灼けるような熱を帯びていた。耳も、顔も、きっと今、赤くなっている。

 暮定……ボクのこと、かわいいって思って、くれてたんだ……



   ☽



 とはいえ、ボクは舞姫。それを素直に喜んでいる余裕はない。……い、いや、嬉しくないよ? ボクは容姿には結構自信あるから、今更ちょっと褒めそやしたくらいで絆されると思ったら大間違いだよ、暮定! 

 ……。


「……はぁ……何を一人で……」


 改めて気を引き締めて、巫女装束を整える。午後からは神社で祭りの準備があった。

 長襦袢の上から白衣はくえを羽織り、緋色の袴をリボンの形に結ぶ。小鳥の模様が施された真白の千早に袖を通して、最後に飾り紐が緩んでいないのを確認して終わり。


 「わたし」が目を開けて、家から社務所、そして戸外へと出ると、境内の端で祭りの準備に精を出していた協議会のおじいちゃん達が一斉にこちらを向いた。何かを言われる前に、舞姫の方から、祭りに関する一言を告げた。


「今日は、よろしくお願いします」


 ……得恋の喜びを噛みしめる暇も、失恋の悲しみを癒す時間も、舞姫にはない。

 「わたし」は普段通り、ただ境内を歩いた。

 皆もいつものように、「わたし」にお辞儀をした。



   ☽


 一度巫女服姿のまま、食堂に戻った。

 店内にいたのは紅葉さんと……あと、一人の老人が座っていた。その人は来年には古希を迎えるこの村の元村長だ。

 柴田、という姓の旧家があった。そこのおじいちゃんが、この人。柴田さん。柴田さんも紅葉さん同様、ボクが「ボク」であることを知る人間の一人だった。たまに話を聞いてもらったりするけど……村長の任を降りてからは、普段は何をしているのか誰も知らない神出鬼没な人だったりもする。

 

 その柴田さんが、ボクに言った。……暮定と、一度顔を合わせて話をしてみないか、と。



   ☽



 ある日の暮れ方のことである。……とか、言ってみる。事実翡翠村の陽は落ちかけて、境内に二つの影を長く伸ばしている。いっそボクが、あの老婆のような醜い風体をしていたら、そうしたらきっぱりといろいろの諦めもつくのに。小さい頃のボクの自慢だったお母さんはとても美人で、ボクはよく在りし日の母をよく知る大人から母親似だといわれるから、そういうことだろう。みんなが舞姫と褒めそやすこの顔が、母親の面影を残すこの顔が、憎くもあり、嬉しくもある。

 そんな「ボク」の容姿を褒めてくれた暮定を前にして、ボクの気持ちはひどく落ち込んでいた。

 ――怖い。怖かった。ボクを舞姫だと知ったら、暮定は、今まで通りに接してくれるだろうか。そも、バレているだろうか。知られているとして、暮定が急に改まって、敬語でも使いだした日には、泣いてやる。目の前でわんわん喚いて、そして、狂人のふりでもして抱き着いてやる。きっと、ボクの苦しみが分かるぞ。


 ……なんて、臆病で、傲慢な常世が考えていると、目の前の男の子は口を開いた。

 暮定は、はたして、


「警官からは逃げ切れたのか?」



   ☽



 それで安堵したボクの心は、まるで寄せては返す波の如き荒れ様を見せていた。


 ……暮定がこの村に来たのも、畢竟舞姫に会うため。


 少し、期待していた。……暮定なら、ボクを求めてくれるかもしれない、と。

 今朝、ボクが舞姫であると知らないにも関わらずボクを信じてくれた暮定なら、舞姫より、ボクを選んでくれるかもしれない、と。

 

 でもやっぱり、舞姫。

 誰かの助けになるのは、舞姫の言葉。

 現前の暮定の目に映るのは、能面を被った戸隠巫女。ボクじゃない。暮定も、舞姫を選んだ。

 ……そうと分かった時、


(……っ)


 ……胸が、キュッと締め付けられた。

 普段感じる「ボク」の情けなさや頼りなさとは違う、突然降って沸いた苦しみに困惑して、世界が歪んだ。ひどい耳鳴りがした。


 イヤだ。厭だ。嫌だ。

 

 暮定。

 

 ボクを、ボクを選んで。


 ボクを頼って、ボクを願って、ボクを心の在りどころにしてよ!

 

 ちゃんとボクを見て! 目の前の舞姫なんて、嘘っぱちだ。それに気づいて! 


 舞姫よりも、ボクの方が頼りになる。舞姫よりも、ボクの方がみんなを幸せにできる。笑顔にできる。それは絶対だ。今はそうでなくても、いつか必ずそうなる日がやってくる。いつか必ずそうなるはずだ。約束だよ! 嘘じゃない。 


 だから暮定、話して!  


 舞姫には話せなかった暮定の本当の悩み、ボクに話してよ!


 そうしてボクを、必要だって言ってよ、暮定!


「……そんなこと、常世に話すことでもないだろ」


「……っ」


 ――――、 

 ――、

 

 ……。

 

   ☽



 それから、舞の奉納が始まるまでのことを、ボクはよく覚えていない。いや、覚えていないんじゃない。何もしていなかったから、何も記憶にないんだ。ただそれだけのこと。


 もう暮定とは話せない。もう暮定は話してくれない。

 あんなひどい別れ方をして、二度と顔を合わせられない。

 祭りが終わったら、暮定は故郷へ帰るから、暮定はボクを必要としない。

 もしかしたら、ボクのせいで、祭りを見るのもやめてもう帰ってるかもしれない。

 謝れない。

 笑い合えない。

 ぞんざいな扱いを受けることもない。

 舞姫は一生翡翠に生き続ける。

 それはボクが死んだ後も、連綿と、延々と、久遠に、永久に受け継がれる呪縛。

 ……不幸だ。

 ボクじゃない。戸隠が、不幸だ。

 どうして、お母さんはボクを見て、笑っていられたんだろう。

 どうして、お母さんはボクを見て、泣かずにいられたんだろう。

 教えてほしい。

 ねえ。


 ……ママ。


(……? 晴人くんじゃ、ない)


 ボクの脳が記憶を再開したのは、剣舞役の男の子の異変に気付いたときだ。


 ……暮定だ。


 どうしてか暮定が、剣舞の役を引き受けて、ボクの前に立っている。

 戸隠の血が、それを教えてくれた。ボクにも分からない超常現象。あるいは、それは魔法ですらない、奇跡、とか。そういうもの。この世にボクを憐れんだ神がいたら、その神が教えたのかもしれない。



   ☽



 ボクは今、暮定と、舞っている。

 舞いながら、考えているのはずっと暮定のことだ。

 日々の練習のおかげで、体は勝手に動いてくれる。

 ……大丈夫、大丈夫。


 ……「わたし」は舞姫。平気です。

 

   ☽



 ダメだ。ダメだ。無視できない。暮定を無視できない。

 

 どうして、どうしてあんなことがあった後で、平然と舞なんて舞っていられるんだ? 

 

 そんな無神経な、あるいは無神経なフリをするボクに、腹が立つ。


 それは――


 ――ボクに向けられた、憤怒。

 すべての罪悪から目を瞑って、善人としてみんなの、暮定の前に立つボクへの憤懣。


 ――ボクに向けられた、憎悪。

 「ボク」からすべてを奪っていく舞姫を、「ボク」からボクを攫っていく舞姫を憎んだ。



 そのうちに――体に、魔力がまとわり始めた。



   ☽



 ――深い、深い海の中。

 

 ――あるいは、なにもない無機質な部屋の中。


 ボクの前の鬼が、ボクを見て、ボクを嗤った。


 目を閉じると、闇。あるいは、光。


 「ボク」は、「わたし」は、一人、世界に取り残された。



   ☽


 

 不意に、どこからか声がした。どこからか――ボクの名前を呼ぶ声が、部屋に響いた。


 手を伸ばす。

 

 目を開けても何も見えない中、闇雲に、とにかく、だれかがそれを掴んでくれると信じて、手を伸ばす。

 その手を掴かむのが、誰だったらいいとか、思うのは、傲慢かな?

 考えてしまったから、もう遅いけれど。



   ☽



 そこは現実だった。夜の空を、落ちていた。手をとってくれた? ……誰が?


「……、……」


 まず最初に、髪が降りしきる雨に濡れて、頬に張り付いてるのが気になった。気持ち悪い。

 

 その後に、背にぬくもりを感じた。目を開けると、凍える夜の空を、自由落下していくボクの身体を抱いているのが……暮定。


(暮定!)


 と叫びたくなる心は、一瞬にして暗い記憶にかき消された。

 舞姫としての日々。舞姫として暮らした記憶。そのすべて。


 ボクの口は、ボクを抱きしめる暮定に、真実を紡いでいく。


 ――そうしてこぼした本音に、暮定は応えてくれた。


「……く、れ、さだ…………」 


 朦朧とする意識の中、微かに動く唇が、暮定を呼ぶ。


 ……どこまでも、どこまでも、際限なく、終わりなく、ボクは落ちていった。



   ☽



 ……だから。


「――俺は、今朝の常世も、神楽を舞う舞姫も、どっちも好きだから」


 紅葉さんは昼間、ボクが暮定に一目惚れしたと言っていたけど。流石にボクも、そこまでチョロくはない。

 それまでは恋という言葉に浮かれていて、なんとなくそんな気になっていただけ。


「……どちらかを否定しようとする常世に、どちらの常世も常世なんだって、知ってほしかったんだよ……」


 だから、この時、本当の意味ではじめて、ボクは暮定を……


「…………うん」


 暮定の言葉は、ボクの傲慢な慾望など遥か超えて、ボクを射止めた。無駄なあがきなどさせないとばかりに、執拗に何度も、頭の中に響いた。


「……ありがとう。暮定」


 ボクと暮定は二人、固く手を繋いで、深い海の底に落ちた。

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