二十四日 『常世の話』

 ……ああ、そうだ。俺は、こんなヤツだ。

 ずっと「僕」の仮面を被っていたから、忘れていた。

 何もできない。何もなしえない。

 今正に俺を焼き殺さんと迫りくる業火を前にしてさえ、俺の身体はつゆほども動こうとはしない。

 俺はあまりに長い時間、仮面を被りすぎていたんだ。肌と一体化していたそれが急に外れたところで、直に大気に晒された皮膚は敏感に痛みを覚えて、ただれていく。

 「僕」ならばこうはならなかった。この程度の法術使い、真正面から魔力で押し切れるだけの頑強な心を備えていたはずだ。

 だが今、俺は「俺」として素顔を晒してここに立っている。剣豪は死んだ。水泳部エースは殺された。

 ただの久慈暮定は、こうして、この日、獄炎につつまれて――



「――暮定ァッ!」



 ――体に、強い衝撃が走った。敵前にして構えすらまともに取れていなかった俺の身体は衝撃に負けて転がり、道端のフェンスに大きく打ち付けて止まった。少し痛みは走るがそれより……


「――っ」


 たった今俺が立っていた場所には、全身を炎に焼かれて負傷した……晴人の姿、がある。……晴人は、棒立ちだった俺を庇いその身で魔術師の攻撃を受け止めたんだ。


「ほう、我が身もかえりみず友を守るか。その姿は賞賛に値する」


 二ヤリ、と下卑げびた笑みを浮かべて晴人を睥睨へいげいした。


「だが、友情だけでは力の差は埋められぬのが現実。そこの間抜け共々焼き死ぬがいい!」


 そう言って、金剛杖を俺と晴人の方へ向け、二度目の攻撃を仕掛けようとする、魔術師の――


「……ほう」


 その手が、止まる。

 無言で立ち上がった俺が、その身に微かに魔力を溜めつつあることを察知したためだ。


「何もできず仲間に助けられていた若造に、まだ我に刃向かう気が残っていようとは」


 などとのたまう魔術師の言葉をよそに……

 ――思い出す。過去の中史の軌跡きせきを。中史の力を。その血に流れる、獰猛なの怒りを――


 体の中心に流れる熱くほとばしる魔力は、次第に上へ、上へと向かい――

 俺の左眼へと、集められていく。そして、膨大な魔力を秘めた左眼は、徐々に色を変えていく。

 黒のまなこから……夜の闇を照らす光、月の光を宿した黄色へと――


「『綿津見眼わだつみのまなこ』」


 一時的に神の力をその眼に宿す、中史の――久慈の秘術の一つだ。


「急激な魔力の上昇……なるほど、自棄やけというわけではないか。しかし、無駄なことよ――!」


 今度こそ、こちらへ向けた杖から放たれた炎が、俺と晴人を襲う。


「暮定、逃げろ!」


 先程の攻撃で負傷し、俺の魔力の変化に目を向ける余裕のないだろう晴人が、そういうが――


「安心しろ」


 俺が左眼で虚空を見つめると、その場には月光でかたどられた利剣りけん顕現けんげんする。


終わらせてやるから、安心しろ」


 その柄を握り。


「死ねぃ! 巫女の侍衛じえい共よ!」


 空を焦がす煉獄の炎に向かって――刀を一振り。


「フハハ、馬鹿なことを! 火炎に向けて剣を振るったところで意味が――――なっ⁉」


 ――魔術師をあざわらうように勢いをつけた光の剣撃は、大気を割り、炎をかき消し、凄まじい勢いで相手まで猛進し――


「――グハァアアッッッ――――‼‼」


 直接魂のみを狙う事で、外傷を負わせることなく魔術師を気絶させた。


「これでも中史氏全体で見たら、久慈家は魔術的に劣ってる方なんだぞ。牙を剥いた相手が本家の人間じゃなくて、命拾いしたな」


 剣を月光の中に収め、魔術師を晴人の元までずりずりとひきづっていく。


「いつもはこれ、どうしてるんだ?」


 完全にのびた魔術師を指して、普段からこの手の後処理をしているだろう晴人にそう訊ねる。


「はは……今、何が起こりやがった……暮定お前、そんな力を隠してやがったのか……」


 目の前で起こった出来事に、感嘆の声を漏らす。そうしてゆっくりと立ち上がり……がくりと、膝から崩れ落ちた。


「晴人!」


 急いで支えてやるが、肩で息をする晴人は弱弱し気に眉を下げる。


「すまねぇな……こいつの魔法を、モロに受けすぎたみてぇだ……身体のあちこちが、ぶっ壊れてやがる」


 魔法により生み出される炎や水というのは、通常のそれとは内に秘める魔力の密度が段違いだ。晴人の傷は、見かけよりもよっぽど深いことだろう。


「すまない。俺がもっと早く、力を使っていれば……」


 まだ少し、俺が「俺」でいることへの不安というものが残っていた。それが邪魔をして、「力を思い出す」決心を揺るがせていた。晴人が負傷したことにより、そんなことを気にしている暇がないことに、やっと気づかされたんだ。

 つい、「僕」なら……と思ってしまう。

 そんな自分がいることを、誤魔化せないでいた。


「というか晴人、剣舞までもう時間がないだろ。急いで向かわないと……」


 と、少しでも傷を癒すために治癒の魔法をかけるが……


「くそ……っ」


 だめだ。俺の魔法が上手くないのもあるが……思ったより、御魂への傷が深い。中史は基本的に、戦う事しか能のない戦闘民族だからな……そういうのは中史の中でも、長柄ながら家の担当だ。

 この場合、放っておけば魂自体の強い自然治癒能力により数時間で完治はするんだが……


「もういい、暮定」


 今の満身創痍の自分では、剣舞を舞うことはできない。それを晴人自身、悟ったのか……苦い顔で治癒魔法をかける俺の手を払いのけた。


「もう、どうあがいても、間に合わない」


「な……なに言ってるんだよ……晴人」


 ――『だから今この一瞬、一瞬、この村のためにできることが俺にあるなら、先延ばしにしたりせず、精一杯それに向き合おうって決めてんだ』


 昼間、境内で交わした会話がフラッシュバックする。俺は、晴人がこの剣舞にかける想いの強さを、知っている。

 自分の過去すら肯定できずに足踏みしていた俺にとって、未来を見据えた晴人の覚悟は、とても眩しく映った。一種、尊敬の念すら抱いていた。

 だからこそ、晴人にはそんなことを言わないでほしかった。


「今日のために稽古つけてたんだろ? この村のために、大事な役目を自ら請け負って……」


「ああ、俺だって悔しい」


「じゃあ、なんで――」


 と、身勝手にも、晴人に対して静かないきどおを覚えつつあった俺に向かって……晴人は、


「……お前が舞え、暮定」


 腰に携えていた真剣を、鞘ごと俺に渡してくる。

 俺はそれを受け取れずに、地面にゴトン、と落としてしまう。


「……は?」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 俺が、剣舞を? 晴人の代わりに?


「見ての通り、俺はとても満足な剣舞を舞えるような状態じゃねえ。だからといって、誰も剣舞役をやらねえってのは舞姫様も、みんなも困るだろうが。幸い、暮定と俺は体格も似てるし能面を被ってれば周りにバレやしねえよ……だから、暮定」


「……だめだ」


「俺はここに置いて、神社に向かえ。お前が剣舞を、俺の代わりに……」


 といって、地面に落ちた真剣をもう一度拾って、俺へと差し出してくる。


 あの程度の魔術師に後れを取るような、俺が? 未だに「俺」として生きることの決心がついていないような、未熟な俺が? 


 「僕」として舞うという選択肢は、無いに等しかった。

 昼間舞ったとき、竜禅寺さんに叱咤されたんだ。「僕」として、俺の意思の一分も入らない魂の抜けたようなふざけた、完璧な舞を舞ってしまったから。だから、今からまた「僕」として舞うようなことは、許されない。

 残った俺が、出来損ないの久慈暮定が、剣舞を……


「……頼んだぞ」


 晴人は、俺の手に剣の鞘を強引に押し付けて、静かにその瞼を閉じた。



   ☽



 焼け焦げた衣服をそのままに、能面を被り、腰には真剣を携えた……周囲は完全にかけい晴人と思い込むだろう風体で、神社までたどり着いた。

  

 もう、祭りは始まっていた。老人たちの長話が聞こえてくるが、その内容は微塵も頭に入ってこない。

 全部、どうでもよかった。


 俺のことを認めた協議会の老人の一人が、声を掛けた。筧、と俺を呼ぶ。

 俺は努めて小さな声で返事をして、案内されるままに本殿の横に位置する広い社務所の中に案内される。

 誰も俺のことを怪しむようなそぶりはない。世界は俺のことを筧晴人だと認識したまま、廻っている。


 ……違う。

 俺は、あいつのような立派な人間じゃない。村の未来のために動けるような、人のできた男じゃないんだ。

 久慈暮定は、一人じゃなにもできないような木偶坊。もう、周囲の期待に応えることのできる英雄、久慈暮定は死んだんだ。どうすることもできない。

 そんな俺に、剣舞なんていう重役は……重役という文字通り、荷が重すぎる。


 能面を通して見える世界は、ひどく小さく、狭いものだ。

 ちらちらと映る老人が、こちらを見るたびに向けてくる期待の眼差しが俺の身体を蝕んでいく。

 あの顔が失望の色に染まることを、俺は何よりも恐れていたんじゃないか? 仮面を外したことによる一時の高揚感に溺れて、なにか当初の目的を見失ってはいやしないか、暮定。


 ああ、息苦しい。


 とても直視できない現実から目を背けるように、社務所の向かい、祓殿はらえどのの方を見やる。

 祓殿では、神聖、潔白の証明である白と赤の衣に身を包んだ舞姫……常世が、舞を目前に控え、能面を被り待機している姿が映る。


 あの常世が剣舞の相手として待っているのも、晴人だ。俺じゃない。暮定じゃない。

 それどころか暮定は、常世を非道い言葉で突き放した。俺に何かを求めて、救いを求めて縋るように俺を見ていた常世に対して、大変な態度を取ってしまった。

 

 ……考えれば考えるほど、俺という人間は、とても神前で剣舞など舞えるような聖人ではない。自己満足のために笑顔を振り撒き、勝手に自分を見失ってはそこから抜け出せなくなった間抜け。すこし村の皆に「俺」を認められると、その喜びから身の丈に合わないような剣舞の役目などを晴人から受け継いでしまう愚か者。


 そんな自分が。


 醜い暮定が。


 ここにいる資格、あるはずが――


 ――「暮定」



 この場で耳にするはずのない名前が、俺の鼓膜を震わせた。妙に耳馴染みのある、声色だった。

 ……暮定? ここにいる人間は、筧晴人のはずだ。そうでないとしたら、晴人、と呼ばないのだとしたら。……バレてしまったのか? 俺と晴人が入れ替わっていることが。やはり、あんな勇ましい益荒男ますらおに成り変わろうとすること自体が、愚鈍な行為だったか?


 ……と、にぶい動作で首を正面に向け、声の主を確認する。


 俺を暮定と呼んだ、そいつは……


「……芦花」


 白いワンピースを着た、長髪の女の子。豊州とよくに芦花ろか

 なぜ、芦花がここにいるのだろう。……いや、この小さな村の神社で、社務所に立ち入り禁止という事もないか……などと考えを巡らすことも、今は億劫だ。


「……芦花……」


 俺は、と言おうとした。そして、芦花の前ではついに「僕」のままであったことを、思い出した。現との再会により山野で別れた時の俺は、まだ「僕」だった。


 どうすればいい? ここで、俺は、と言ってしまえば、二度と完璧な「僕」は戻っては来ないだろう。反対に、「僕」は、と言えば、その時は、またあの周囲を喜ばせることに長けた暮定に戻れるのではないか? その方が、芦花の望むところではないか?

 「俺」を求める人間など、この世にはいない。

 ならば、やはりみんなの求める「僕」であるべきなんじゃないか?


「芦花、今は……」


「暮定」


 僕は、と言おうとした。そして、芦花はあの時「俺」を見ていたことを思い出した。とても強い瞳で、「俺」を見ていたんだ。

 

 つまり、芦花は現と同様に、「俺」も「僕」も知っている、数少ない存在の一人という事になる。

 ――なら、俺は、僕は。


「……暮定、そろそろ時間」


 外に目を向ければ、観客は剣舞役の男と常世の登場を今か今かと待ち望んでいた。そうして、闃然げきぜんとして沈黙による舞の時間までのカウントダウンを行っている。


 芦花は日中そうしていたように、おれの服の裾を引っ張って、社務所の出口を指で示した。

 それでもなお、俺は動けないでいた。

 なら――どっちだ? 芦花の前で、俺はどっちでいるべきだ? 誰を、芦花は求めている?

 ここにきて、芦花の望む暮定が、分からない。 

 俺は。

 僕は。

 どうすれば……

 

「暮定っ」


 ――どうしようもない、ダメ人間の名前を呼んだ。何度も、何度も呼んだ。

 芦花が、俺の能面を外した。

 そうして、直に俺の顔を直視した。

 それは紛れもない、暮定の顔だった。

 鼻と鼻がくっつきそうなくらい間近まで近づいて、芦花が、小さく微笑んだ。


「ん」


 頷いて、何かを確かめたように頷いて。

 

「今の暮定、すごく、暮定らしい」


 ――小さな女の子は、その矮躯わいくで高校生の身体を起こした。

 能面を直したあと、俺の手を引っ張って、その場に立たせる。


 ……は、はは。

 ……俺、らしい。

 聞いたか、暮定。

 今の俺は、芦花からみて、俺らしいらしいぞ。


「行ってきて、暮定」


 もう迷わない。

 迷うこと自体が、馬鹿らしい。

 期待とか、失望とか、考えても無駄な事だ。

 だってそうだろ? 他人の気持ちを察する程の力、俺にはないんだから。

 ただ、横に立ち、俺と話す少女は、笑っている。

 その事実さえあれば、暮定は前を向ける。


 「俺」であり、「僕」であり、「俺」でなく、「僕」でない暮定は。


「ああ、行ってくるよ」


 なんでもない久慈暮定は、たった今、剣舞を舞う決心がついたよ。

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