二十三日 『現世の国の話』

 成り行きで、手を繋いだまま神社近くの川辺まで来てしまった。さっきは勢いのままに臭い台詞を吐いて連れ出したからよかったものの、時間がたった今ではじわじわと恥ずかしさが込み上げてきている。

 そもそも自分のことを好いてくれている美少女と手を繋いでいるとかいう状況に、彼女がいたことのない俺が耐えられるわけがない。「僕」もまた暮定であると自覚しつつある今、一層羞恥心は膨らんでいくばかりだ。

 

 で、そんなうつつはというと、さっきから一言も言葉を発することなく、たまにちらちらと俺の方を見てはすぐに顔を背け、その度に俺の手を握る力を微かに強めていった。

 

 話し出すタイミングを見計らいつつ、境内から聞こえてくる雅楽の曲目に耳を傾けていると……


「……?」


 何か黒い塊が一つ、夜の空を翔けていた。目を凝らしてみると、その塊は幽かに青く輝いた小鳥であることが分かった。

 あれは……


「なんでしょう、暮定くん」


 鳥のはばたきに意識が向き、適度に緊張の解けてきたらしい現が、鳥を指してそう訊ねる。


翡翠かわせみだって言ってたよ。翡翠ひすい村の固有種で、『渡翠鳥ワタリソニドリ』っていうらしい。夏の間だけ、この村に訪れる渡り鳥だよ」


 翡翠は二、三度その場で旋回したかと思うと……緩慢な動きで高度を落とし、最後には俺の肩にとまった。くちばしで服をつんとつついた。


 するとまた、例の力が湧いてきた。舞姫に中史としての在り方を問うた時に、俺の背中を押した感情。自己の存在を見失い苦悩していたささめを諭した時に、俺を支えた緩やかな激情。あの時俺が、勇気と名付けた一歩を踏み出すための心。

 小鳥の煌めく青は、俺と現の間にあってその橋渡しとしての役割を担っていた。互いが互いに向けていた異なる感情がちぐはぐに交錯していたのがさっきまでなのだとしたら、今はそんな激しい野性は翡翠かわせみの羽が吸いきっていて、残った沈着な理性と悟性とのみが現の手から伝わる血潮には通っていた。

 そんな湯上り後のような心地いい倦怠と清涼の感情につつまれるのを自覚すると、俺の口は開いた。


「僕は、君とは付き合えない」


 はっきりと、現の目を見て告げた。現の手を離して、正面から向き合った。

 その現は、もう先程のように一縷の希望すら雲散させてしまう悪魔のようには映らない。雲母坂現は、愛嬌に溢れた優しい女の子。それ以上でも、それ以下でもない。俺が勝手に恐れて、穿った目で見ていただけ。ちゃんと落ち着いた心で見れば、それはやはりどこまでも恋する乙女でしかなかった。まあ、少し愛が重い気がするが。

 だから俺がきっぱりと断るだけの勇気を持って接していればよかったんだ。もっとはやくから。


「それは……どうして、って聞いても、いいですか」


 そのために来たと、彼女は言っていた。フラれた理由を聞きに、遥々この翡翠村まで俺を追ってやってきたんだと。それに答えるのは、俺のせめてもの義務だ。


「ほかに……好きな人がいるんですか?」


「いないよ」


 常世の前で、晴人の前で、紅葉さんの、竜禅寺さんの、ささめの――翡翠村の前で、俺は、「俺」でいられた。一番長い時間一緒にいた芦花の前で仮面を外せなかったのは、心残りだが。

 それでも俺は、この村で、自分を見つけられた。少なくとも、あのまま地元にいたら絶対に叶わなかっただろう成長を、俺にもたらしてくれた。

 ――そのことを、奇跡から当然にするために。

 この村を出ても、俺が俺として生き続けるために。

 

 ――『もう逃げない。自分を偽るのはやめて、しっかりと目を見て話したい』

 玉響神社で、そう誓った。半日以上も、その誓いから目を背け続けていたけれど。それももう終わりだ。

 現の前で、俺は、「俺」でいたい。


「……は、ずっと現を騙し続けてたから」


「……暮定、君?」


 俺の雰囲気、口調、振舞いの変化に気づいて、一瞬、現が困惑の色をみせる。だが、彼女はすぐに柔らかく微笑んで、話の続きを促した。……現?


「騙していたって、どういうことですか?」


 それは、問い詰めるというよりは、純粋な疑問のように聞こえた。もう少し戸惑うかと思っていたが……


「俺は、学校の皆が思っているような人間じゃないんだよ。ただみんなの顔色を伺って、みんなの求める久慈くじ暮定くれさだであり続けた。……現の恋した暮定は、俺じゃない」


 優等生の久慈暮定は、もういない。そんな――


「そんな暮定君もまた、暮定君じゃないですか」


 誰よりも賢い彼女は、その慧眼を再び開いた。それは先程、俺がささめに投げかけた言葉。俺やささめや……今は舞の奉納の準備をしているだろう彼女が希求してやまなかった、救いの言葉。俺たちが求めていた言葉をいともたやすく選び取り、俺へと紡いだ彼女は……

 間違いようもなく、小学生の俺が憧れた女の子だった。


「ああ、それも今は、自覚してる」


 この村のおかげで。

 「僕」のしてきたことは、それが嘘や偽りであったとしても、久慈暮定のしたことであるのに変わりはない。そう、ささめに気づかされた。


「それでも、やっぱり俺にとって「僕」っていうのは、本当の自分じゃないというか……「僕」を好きになってくれる女の子を嘘をついて騙してるみたいで、罪悪感を覚える……なんていうか………………。まあ、こんな感じに、素の俺は自分の言いたいことも満足に言葉にできないダメなやつなんだよ」


 呆れて言葉もでない。こんな俺が嫌で「僕」になった部分も、少しはあったのかもしれない。

 でも、これが俺だ。


「偽りの「僕」が俺であったとしても、俺は現の期待には応えられない」


 現は前髪でその表情を隠すように俯いた。そうして俺の次の言葉を待っていた。


「現のどこがダメとか、そういうんじゃない。俺が「俺」でいるための道なんだ」


 ずっと言えずにいたことを告白する。それは自己中心の極致みたいな断り方だった。そして、「僕」であった頃では決して口に出すことの叶わなかった断り方だった。


「だから、ごめん」


 これから俺は、「俺」として生きる。その上で「僕」を好きになってくれた現と付き合ったとしても、俺は現の求める暮定ではいられないだろう。


「……分かりました」


 俺の肩にとまっていた翡翠が、にわかに首を傾けた。


「いきなり押しかけて、ごめんなさい」


 そうして翼を大きく広げて、飛翔した。


「でも」


 俺と現の間に、一陣の風が通っていった。


「最後に一つだけ、聞いてもいいですか」


 灯の一つない暗闇の中でも、現の頬に流れる一粒の涙だけは見逃さなかった。

 本当に、現には悪いことをした。現だけじゃない。これまで「僕」を……暮定を好きになってくれた女の子全員に、謝りたい気分だ。


「なんだ」


 その償いとして、この問いには、それがどんな内容であったとしても正直に応えようと思った。


「そもそもどうして、暮定君は優等生になろうと思い立ったんですか?」 


「……それは」


 彼女に伝えることとしては酷に過ぎた。自分がその原因だと知った時、現の心が自己嫌悪の感情で満たされることは火をみるより明らかだった。だが今の俺は、現が強い少女であることもよく知っていた。だから俺は、彼女の強さを信じてみることにした。


「小学生の時に、俺のクラスにいた雲母坂きららざかうつつっていう女の子が、俺にとても眩しく映ったからだよ」


「……!」


 彼女は大きく目を見開いた。一瞬、あまりにあけっぴろげに告げたことを後悔しかけたが……どうやらその驚きは、自己否定からくるものではなかったらしかった。

 彼女はただ、古い記憶に思いをはせるように自分の胸を抑えた。


「……そう、だったんですか」


「まあ、現は俺のことなんか、覚えてないだろうけどな」


 あの時の俺……というか「僕」でない俺なんて、本来は現みたいな美少女と釣り合うわけがない凡人だ。当時から高嶺の花的な扱いを密かに受けていた現にとり、俺など眼中になかっただろう。


「……ないです」


「……?」


「そんなこと、ないです」


 芯の通った言葉に、思わず顔をあげる。

 透き通るような現の瞳が、俺を強く捉えていた。


「あれは、昔――私がまだ小学生だった頃の話です」


 ――かと思うと、夜空を向いて、目を瞑り、両手を後ろ手に組んで、話し出した。


「同じ学校の、同じクラスに、一人の男の子がいたんです。彼は宿題はやってこないし、授業中も友達と話ばかりしていてうるさい……そんな、問題児みたいな子でした。

 でも、その子は毎日が楽しそうで……自分がやりたいこと、自分がやると決めたことに、ひたすら向き合い、それを貫き通す、そんな姿が……当時、臆病で、何の目的もなく学校に通って、先生に言われたことをそのままするだけだった私の目には、とても大きく見えました。とても、かっこよくみえました。何度か話しかけようとしましたが、その度に友達に止められたり、私の臆病な心が足踏みしたりで、それは叶いませんでした。

 それでも、どうにかして彼とお近づきになりたかった私がとった手段が、優等生になることでした。そうすることで、クラスのまとめ役のような役割を持つことで、彼とも自然に話せると思ったんです。

 たくさん勉強して、大人から立派な立ち振る舞いというものを盗んで……それで、優等生になる、というところまではうまくいきました。……うまくいったんですけど……その後クラスを見回してみても、私が憧れていた彼は、どこにもいなくなっていました」


 川のせせらぎすら聞こえなくなるほど、熱を持った言葉だった。


 現が目を開いた。こちらを向いて、さらに言葉を続けた。


「その男の子は――私の、初恋の相手です」


 まなじりに涙を溜めた……けれども明るい笑顔で、「俺」を見て、彼女……雲母坂現は。


「やっと見つけました、暮定君」


 雅楽の曲目が、終わりを迎えた。



   ☽



 時刻、17:45。御霊祭みたままつりが始まるまで、あと15分。すごく長いように思われた現と過ごした時間は、たったの15分だったわけだ。

 その現は、俺に最高の笑顔をみせてから、「帰ります」といってこの場を去っていった。

 それにしても……


「危なかったな……」


 最後の笑顔、あれの破壊力は底知れなかった。あまりこういう曖昧な物言いは避けたい俺でも、「ヤバい」と言ってしまいたくなるかわいさと美しさを兼ね備えた笑みだったな。昨日までの俺だったら絶対惚れてあの場で逆に告白してた。……なんで今はギリギリのところでこらえられたのかということについてはあまり考えたくないので、触れないでおく。過去には目を向けても女からは目を背け続ける俺である。


 とにかく、現のおかげで覚悟は決まった。今度は俺の番だ。現から俺、俺から彼女。流石に御霊祭の開始時刻と舞の奉納の開始時刻とにはラグがあるだろうから、今から走っていけば間に合うだろう。常世に、謝らなければ。


 ……と、踵を返して先程は現と一緒に来た山道を戻ろうとすると……

 俺と進行方向を同じくする、能面を被った和装の男が視界の端に映った。その男は腰に剣を帯刀している。といっても、今は木刀ではなく、おそらく真剣――儀式用の、本物だ。


「おう、暮定」


 先に声を掛けたのはあちら側。

 昼に分かれて以来の、晴人だった。


「神社に向かう途中か?」


「ああ。さっきまで舞の手順の最終確認をしててな。これから向かうところだ」


「その舞について聞きたいことがある……何時から始まる?」


「あーっと、そうだな……だいたい祭りが始まってから30後くらいか? 村の協議会……まあ老人会みたいなもんだな、それの挨拶があってその後だから、そんぐらいだろ」


「……そうか。分かった、ありがとう」


 ならまだそこそこ余裕はあるな。いくら舞姫が多忙とはいえ、五分ちょっと話すくらいの時間はあるだろう。


「それにしても……」


 晴人が俺の身体をまじまじと見て呟いた。


「暮定お前、なにか心境に変化でもあったか?」


「は? ……ああ、確かに」


 なぜ気づかれたのか、と思ったが……

 自分の魂をよく集中してみてみると、昼頃と比べてその魔力が格段に増加していることが分かった。

 これは恐らく、舞姫の言っていた『中史の力は思い出すもの』というのと関係があるのだろう。今までの俺にとり、思い出――つまり過去というのは、後悔と憎悪の対象でしかなかった。それがささめや現と接するうちに、変化していった。俺や常世に足りていなかった、『過去の肯定』というものをすることができるようになった。

 だから、中史の血がそれに反応し、魔力量が増加したのだろう。まあ俺は分家(久慈)の分家(傍流)で、本家やそれに次ぐ家の人間ほど法術に関して詳しいわけじゃないから、詳細はよく分からないが。


「祭りが終わったら、また一戦頼めるか? ……今度こそ暮定の全力が見られそうだ」


 半日で魔術的に目覚ましい成長を遂げた俺に対して……晴人は、臆することなくそう嗤った。


「もちろん。全部終わった後で、相手してやるさ」


 そう言う俺を認めて、獰猛な目を見せた、かと思うと……急に焦った表情で、真剣を抜いた。


 なんだなんだ? と当惑したが……俺もすぐに理解した。背後に何か、強い、魔力の流動が感じられるぞ――!


「ほう」


 バッと後ろを振り向くと、そこに立っていたのは山伏やまぶしにも似た、天狗のような恰好をした男だった。つばの長い帽子を目深にかぶり、全身に魔力を纏わせこちらを威嚇している。


「我の力に勘づくとは。ただの者ではないな」


 クソッ――こんな時に、こいつは昼頃晴人の言っていた、舞姫の力を狙う魔術師だ。


 男の持つ長い杖――金剛杖、その先端に、徐々に魔力が集まっていく――

 そして、


「邪魔者はただ死するのみ」


「おい暮定! ボーっとするな!」


 躊躇なく魔力の奔流を、こちらに放ってきた!


「――――ッ!」


 突然のことで体が反応しない、ただの俺に向かって――青く燃える巨大な火炎が、蛇のように形を変えながら襲い掛かってきた――

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