二十日 『戸隠の巫女』
正直、ここまでの経緯、つまり柴田のじいさんが俺と舞姫様を会わせようとしたり、それを舞姫様が承諾してここで待ってた理由とか、もろもろよく分かってないんだが……
とりあえず、今気にするべきは、舞姫様。
舞姫様は、俺の出方を伺うように、ジッと能面の向こう側から、黒の双眸を向けていた。
今のところ、戸隠常世というらしい舞姫様の正体が、今朝会った彼女である可能性は低い。なぜなら、晴人曰く、舞姫様は聡明。その特徴は彼女にあまりにも当てはまらない。それに対して、彼女が舞姫様であるという証拠は、豊州の食堂で聞いたあやふやな常世(さん、と付けた方がいいな)の人物像だけだ。
これだけで彼女が舞姫様と決めつけるのは、推理の他に願望が混じっていることを認めることに他ならない。
それにもし彼女が舞姫様だったとしたら、俺はこの村で崇拝されている神的存在の舞姫様に向かってとんだ無礼を働いていたことになる。だから俺としても、今朝の彼女が全くの別人、ただの村民である方が都合がいい。
……それでも、俺は目の前に立つ舞姫様が、警官から逃げながら無邪気な笑顔を見せていた彼女であると、確信していた。
根拠はない。ただ何か得体のしれない大きな力が俺の背中を押していた。俺はまたそれが、すぐに渇いてなくなってしまう一時的な活力であることも知っていた。
――だから、
「警官からは逃げ切れたのか?」
また、この確信が事実だとして、俺は舞姫様に対して敬語で接した方がいいか、考えた。が、やっぱり今朝のフランクな態度は変えないで、そう声をかける。
「……な、なんのことですか。知りません。ありもしないことをいうのはやめてください、不浄なる
めちゃくちゃ動揺して、首を横に振りながら否定してくる。誰が不浄だ。
……客人って、確か死者の国から来た霊魂、御霊だよな。常世の国から……ああ、なるほど。
「常世だけに客人ってことか。はは、舞姫様はギャグのセンスも高くていらっしゃる」
軽くジャブを打ってみる、が……すぐには反応してこない。
「……っ」
常世は(もう確定だろう)少し迷うように、手を動かしたり背伸びしたりして、感情を押し殺していた。恐らく、舞姫としての常世が自制心を働かせたのだろう。だが、それも一瞬のことだ。
「ボクが舞姫だって分かってるなら、もう少し遠慮した態度でもいいと思う!」
と、能面も外して素顔を、今朝見たのと変わりない整った顔立ちを露わにし、激昂して掴みかかってくる。
「被疑者が何をいう」
今朝と同じく、にべもなくあしらう。
「君はボクをどうしたいのかな」
「謝ってくれれば許すぞ」
「少なくとも君に対しては謝らなきゃいけないようなことは何もしてないよ!」
あー……そうだな……
「あ、俺、お前のこと心の中でさん付けで呼んだんだよ。名誉を傷つけられた、謝れ」
「理不尽!」
と、大幣をぶんぶん振り回して猛抗議する常世。……ああ、
「俺、気づいたよ」
「……? ボクのかわいさに、やっと気づいてくれた?」
「俺、常世がそうやって涙目で喚いてるのを見るために生まれてきたんだ」
「やっぱりぞんざいだよ! ボクは舞姫だよ⁉ 舞姫敬ってよ! 疑わしきは被告人の利益に!」
などと宣う、自分で自分のことを姫とかいっちゃう
「あれ。柴田のじいさん、いなくなってるんだが」
こんなややこしい状況をつくっておいて、とんずらこいたな。さっきから祭りの準備で境内を出入りしている町内会の人たちからの視線が痛いから、柴田のじいさんに直々に説明してもらいたかったんだが……
「無視しないでよ! ……うぅ、ボクが戸隠の人間だって事も隠して、神社に来ないように舞姫の悪い噂まで教えたのに、結局御霊祭の時間までいるみたいだし、名前まで知られるし……君、一体何の用があってこんな辺境の地にきたの? 今のところ、ボクをいじめに来たようにしか思えないよ」
「それもいいな」
「よくないよ!」
常世もこんな調子で、何も事情は知らなそうだし。もう用を済ませるか?
「俺は常世に会いにきたんだよ」
「え? ボクに?」
マズい。今の言い方は語弊がありすぎるな。
「あー……正確には舞姫様に、な。それがたまたまお前だったんだが」
「なるほど」
常世は、手に持っていた能面をはめて、姿勢を直した。
「こういうことですね」
うーん……
「丁寧語似合わないなぁ」
「紅葉さん……ボク、今無性に食堂に駆け込みたい気分だよ……」
能面を外し、項垂れて、苦しそうに胸を抑え出した。ちなみに紅葉さんというのは、昼頃、俺に唐突に恋バナをふっかけてきた芦花母のことだ。柴田のじいさんが神社に来るまでの道中、おしえてくれた。常世はあの店の常連らしいし、二人は仲いいのかな。
「似合う似合わないは置いといて、そういうことで合ってるぞ。舞姫様って、お悩み相談室やってるんだろ? 宗教でいう懺悔みたいな」
「……確かに村民の悩みを聞いて、それにアドバイスをするようなことはしてるけど……君、悩みなんてないよね?」
常世には本気で俺が能天気に見えているらしく、心底驚いた様子で見開いた目を向けている。
こいつ……
「今朝のやりとりへの意趣返しか? そもそも俺は、この村に逃げてきたんだぞ」
「……逃げてきた?」
――しまった。
常世の前で、久々に虚心のままに長時間話せていたから油断してたな。つまらないことを口走ってしまった。あんな恥ずかしいこと、人に話すようなものでもない。今回常世に話すのはもっと別の事柄だ。
……第一、俺が普段「僕」とかいって振舞っていることを常世に知られたら十中八九バカにされるだろうし、その瞬間俺と常世の力関係が望まぬ形で確定してしまうことだろう。その状態はもっとも忌避するところだ。
「なんでもない、忘れろ。……それより、時間は大丈夫なのか?」
「うん、それは平気だよ。まだ舞の奉納が始まるまで二時間近くあるし、禊も……そういえば、今年の御霊祭は剣舞もするんだよ。……あれ、晴人くんと会ってるってことは、聞いてるのかな」
「そうだな。剣舞も体験したぞ。散々だったけど」
なぜかこいつの前では八方美人は隠しておきたいという自分にもよく分からないプライドが俺の中にあった。それが俺にこの無意味な嘘をつかせた。
……と、自分の心を分析してみる。実際、素の俺は剣の持ち方すらわからない素人だからな。演技してるときの
「……そうなの? 晴人くんと君が佐々木小次郎と宮本武蔵みたいだって、健蔵さんから聞いた紅葉さんが言ってるのを聞いたけど」
無駄にややこしい言い方をするな。竜禅寺さんの情報、絶対いらなかっただろ。
……にしても、巌流島の戦いか。
「引き分けだったんだが。どっちが武蔵だって言ってた?」
ここは重要だ。男とはいくつになっても勝ち負けにこだわるものだからな。それだから剣戟後、あれほど晴人と言い争いになったんだし。
「別にどっちがどっちとかいう意味合いで言ったんじゃないと思うけど……付き合いの長さ的に、晴人くん?」
「――ぐうっ……かはァッッ」
「えぇっ、ちょっと、急に吐血⁉」
これが俗にいう、精神的な寝取りとかいうやつか……いうほど俗にいうかは知らないが。聞くところによると、別にそいつらが恋仲にあるわけでもなんでもないのが重要らしいから合ってるだろう。
「……って、よくみたら、それ……血液じゃない……?」
……どうやら常世、気づいたみたいだな。
今、俺が寝取られギャグのために口から吐き出した血は、体内の魔力を可視化・液体化したものだ。人目がありデカい声で魔術云々の話を口に出せないため、言葉ではなく、魔力を口から出すことで、常世に俺が
そして、舞姫にしたい相談というのが、魔術関連であるということも、これで察してくれれば万々歳だ。
「……分かったよ。……君も、そうだよね」
どうやらすべて、うまく伝わったようだ。最後の一言、なにか期待を裏切られたような沈んだ声音だったのは、気になるところだが……
「――――だから、わたしだったんですね。聞きましょう。あなたの悩みを、あなたの過去を」
その理由を考える隙を、常世、否――舞姫は、与えてくれない。
大嘗祭の時などに舞を奉納する巫女を指す「舞姫」の名を冠す天つ少女、その象徴である増女の能面をつけて――演技に入った俺みたいに、その身に纏う雰囲気、口調、挙止進退を変えた。その変化に、目を奪われる。夕日に照らされできた舞姫の影が、玉砂利で敷きつめられた地面を、大きく、大きく覆っていた。俺と舞姫を囲む喧噪の中で、この場所だけが、何人たりとも脅かす事のできない静謐さを保っている。
とてもこの
「……俺は、陰陽師の家系に生まれたんだ」
罪の告白のようだった。その言葉は俺の口ではなく、俺の意思の外から、舞姫が紡いでいるようにすら錯覚した。それほど自然に事実を零した。
「陰陽師……というと、中史、ですか?」
陰陽師と聞いて、舞姫は真っ先に本家の名前を挙げた。中史家は、それほど魔術師にとって影響力のある、大きな一族だ。それは戸隠の家を継いでいる舞姫もよく知るところだろう。
「その分家……
「久慈家……岩手は遠野の地に古くから根付く家系ですね。……あなたの悩みとは、妖にまつわる事柄でしょうか」
「いや、もっと単純に、魔力についてだよ」
このままだと、お悩み相談というより俺の実家についての説明会になりかねなかったので、単刀直入に告げた。
「舞姫様は、戸隠の血筋の人間として、自分の持つ魔術の力を、どう思ってるんだ?」
「……どう、とは、悪い印象を持っていないのか、という風に受け取ってよいのでしょうか」
「それで構わない」
父さんは、俺に中史の力を悪用しないように、と言った。これは分かる。魔術は、その気になれば人一人くらい簡単に殺める事のできる強力なものだから、釘を刺すのも頷ける。勿論、そんなことする気はない。
「……私は、物心の着くころにはすでに、巫女としての道を邁進しておりました。当然、自分の持つ水神の魔力にも気づいておりました」
だが父さんは、もう一つ、よく分からないことも言った。中史としての役目を果たせ、と。
「……ですが、わたしには魔力を用いた経験がございません。幼少の
たしかに魔力を積極的に扱っていこう、という方針の魔術的な関わりのある氏家というのは、実はそんなに多くない。その少数派の中で中史は、久慈家は、特に法術に関する教育を熱心に施す陰陽師の家として知られている。それでも魔術師の間で内の家が恐れられていないのは、これまでのほとんどの中史が、正しく義のために魔術を扱ってきたことの何よりの証左だ。
父さんは恐らく、このことを言っている。義のため、力を使えと。
だが俺に、ただ人に追従するようにして生きてきた僕には、そんなものは見えない。
「……ですから、わたしから言えることは、ただ一つです」
舞姫は、一分の曇りもない澄んだ目で俺を見た。
「聞くところによると、中史の強さ、中史の不撓不屈は、
「……ああ、なんとなく、聞いたことあるな」
「あなたは……少なくとも、わたしの知るあなたは、それをとうに思い出していたとしても、不思議には思いません」
「……?」
「つまり、何か小さな心残りが、あなたの記憶に、あなたの
……それは俺以外には、ひどく曖昧で、抽象的な、助言とも呼べないものに聞こえたかもしれない。
だが同時に、それは俺がずっと気づくことのなかった、とある共通点だ。
演劇部、演劇を演じるとき、僕はいつもなんといっていた? そんな僕を、俺は一体どう思っていた?
「……あ」
……と、何かが分かりかけて、すんでのところで思考に霧がかかった。靄が決心を邪魔して、その代わりに心に浮かび上がったのは、ある一人の女の子だった。苦い、苦い思い出の女子生徒だ。
「……えっと、わたしから言えることは以上ですが……」
何かにはじかれたように前を向くと、舞姫が、どうやら思案する俺を見て自分の答えに満足していないのだと受け取ったのか、不安そうな様子でこちらを伺っていた。
「――ありがとう。十分、助けになった。もういいぞ、常世」
俺が舞姫の名前を呼ぶと、舞姫は能面を外し、その神聖な雰囲気を崩して、元の常世へと戻った。
……その顔が、どこか赤みがかっている。
「君の前で舞姫としてふるまうの、違和感があって、なんだか恥ずかしいな」
「お前がそれを言ったらおしまいだろ。俺も思ったけど」
全く別人のような気がしても、声は常世のものだし、どうしても表情の変化の激しいいつもの常世がちらついて、妙にこっ恥ずかしかった。
「はぁ……やらなければ良かったよ……ねえ、本当に舞の奉納も見ていくの? その前に帰らない?」
どうやら舞姫としての巫女舞を見られるのも恥ずかしいのか、積極的に帰宅を促してくる。
「帰らないし、助けになったっていうのは本当だぞ。胸のつまりがなくなった気分だ」
最後邪魔をした記憶にも、大方の検討はついている。それは家のこととは関係ない、僕のことだ。舞姫の立場からできる最良の助言を、舞姫はしてくれた。
そう、俺は満足したんだが……
「……ね、ねえ」
どうやら、常世の方は違ったらしい。
「何かほかに、言いたいこととか、ないかな。舞姫じゃなくて……ボクに」
舞姫としての俺への答えに納得いってないのかと、思ったが……
……なにか様子がおかしいな。常世に対して、相談事?
「い、いや……別にないが」
「どんな些細なことでもいいんだよ……本当に、ないの? 日頃の愚痴でもいい、ボクでも答えられることがあると思うんだ!」
黒曜石のような瞳を胡乱気に揺らして、俺を肩をつかみ、必死な形相で訴える。
その動揺の理由が、わからない。突然取り乱したその胸中を推し量るだけの常世への理解を、俺は持っていない。
「……そ、そうだよ。さっき君が言ってた、「この村に逃げてきた」って。あれは、なにかあったんじゃない? 聞かせてよ、君のこと!」
……こんな状態な人間に対して、おざなりな態度をとってはいけないことを、俺は知っていた。それは僕とか演劇とか以前の、人とのコミュニケーションの話だ。平常心でいられていない相手に、強く当たる事の愚かさを、分かっている。
……分かっているのだが、どうしても僕については常世に知られたくないという例のつまらないプライドが、判断力を鈍らせた。
「……そんなこと、常世に話すことでもないだろ」
「……っ」
もっと言い方があった。なぜ常世に言えないのか、言いたくないのか、一つ一つ説明していけばよかった。でも、遅かった。
「……そう、だよね。ごめん、変なこと言った」
元より泣き出すのを寸前で堪えていたような常世は――俺の言葉を聞いて、素早く能面を被り直した。
そうして……俺に一粒の涙も見せることなく、戸隠の巫女・舞姫は。
祭りの時間が迫り、村民のほとんどが集まる境内の中。
俺から離れるように、おぼろげな足取りでその雑踏の中へと消えていった。
後には、俺と暮定の影だけが、西日に支えられるようにその場に残った。
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