十九日 『戸隠巫女として』
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母はこの翡翠の村民から全幅の信頼をよせられている、立派な巫女をしていました。神楽、楚々として、わたしの憧れでございました。
幼いながらに母の跡を継ぐのが自分であることを理解していたわたしは、その姿を無意識に目で追って、巫女としての在り方を学び、時には母の真似をして、本人は巫女舞のつもりで、両手に持った神楽鈴を振り回していました。
母はそんなわたしを見て、優しく微笑んでいました。将来は綺麗な巫女になるよ、と言って抱きしめてくれました。そんな、物静かで穏やかな人がつまり、わたしの母なのでした。
小学一年の時分に、その母が急死しました。この死は、わたしに相応の悲しみを与えましたが、逆を言えば、親との死別、という出来事の範疇を超える悲劇ではなかったわけですから、ただ悲しみ、ただ泣き、ただ時間が解決してくれました。とかく母の死後、わたし一人で戸隠の巫女をしなければならなくなってからは、より一層懸命に神楽鈴を振るうようになりました。
村の大人たち、学校の同級生、観光客、みんなわたしに優しくしてくれました。
小学校でも高学年ぐらいになるころには、一応の巫女らしい挙措というか、所作というか、そういう振舞いも一通り覚え、戸隠の家に生まれた巫女として、神楽殿に立ち、舞を奉納するようにまでなりました。この頃から、村民のわたしへの認識も、「戸隠家の愛娘」から「戸隠の巫女」へと変化していき、わたしのことを、戸隠巫女を指す「舞姫」という呼称で呼ぶ者もだいぶ増えたように記憶しています。
わたしはこのこと、大変うれしく思っていました。一所懸命、努力しましたから。一所懸命、舞いましたから。その努力が報われたような気がして、日々の自分を褒められたような気がして、意味もなく、草原を走ってしまいました。
でも、そうではないことに気づきました。
ある日のことです。公民館で、巫女舞の練習をしていたとき、わたしは足を絡ませて、たたらを踏んで、いかにも値打ちのありそうな壺の置いてある棚に手をついて、揺らして、壺を落として、二つに割ってしまいました。あわあわ青ざめて、どうしようかと沈思して、隠し通す無駄を悟り、修復の不可能も一目瞭然でしたので、その公民館の職員に、正直に打ち明けました。
その職員は、小耳に挟んだところによると、非常勤で隣町から
それを受けた男は、役者のように、パッと表情を明るくして、「ああ、ああ、そうですか。どこかお怪我はありませんでしたか、舞姫様」と薄気味悪い笑顔で、今更になって、わたしの指先やら、なにやらを、心配しだして、歩み寄ってきたのです。
全部、わかりました。
誰もわたしを、見ていませんでした。村を歩いているだけで、なにか御利益があるだとか、なんだといって、感謝されています。どんな善行を働いても、どんな悪事を企てようと、村民は、舞姫様、舞姫様、とわたしを指して、手を合わせるのです。
それに気づいてから……いえ、この村で生まれ育って、わたしの特別扱いを理解するのに10年もいらないはずですから、本当は、もっと小さい頃、村民が母を褒めていた頃から、それが全然上辺だけだったこと、知っていました。知っていて、気づかぬふりをしていたのでしょう。自分を褒められている気になりたかっただけです。わたしはそういう、あさましい女です。
そんな情緒ですから、わたしは夕飯も満足に食べることができませんでした。一口大の白飯を、口に放り込んで、咀嚼して、呑み込む寸前で、急に昼の職員の態度の変容が思い出されたのです。口の中のもの、全部吐き出して、箸も落として、顔を覆って、泣いてしまいました。何も知らぬ父には、いらぬ心配をかけました。ごめんなさい。
唯一の救いは、
親類である父を除いて、彼女だけが、この村の中でわたしのことを「常世ちゃん」と、名前で呼んでくれました。彼女がわたしを「舞姫様」と呼んだ記憶は、ただの一つもございません。
舞姫としての務めを果たす中で、つらい事、悲しいことなどあったときは、彼女の営む食堂に顔をだして、話を聞いてもらっています。これは今も変わりません。
彼女は、村のみんながわたしのことを清楚だ、聡明だ、と話しているのを聞くたび、噴き出してしまう、と大変失礼なことをいうのです。実はわたしが、そんな深窓のお嬢様のような舞姫のイメージとはかけ離れた、中性的な一人称の、ただの女であることを、折に触れてからかうのです。そうしてその度に、言ってやれ、とシャドーボクシングして、勧めてきます。つまり、みんなの前でただ一言、ボクは、とこぼしてしまえば、大和撫子を体現したような舞姫はいなくなるということです。その時はわたしも、舞い上がって、調子づいて、言ってやるよ、と威勢のいいことを宣言するのですが、家に帰って、布団に入り、起き上がって、洗面台の前に立つころには、そんな気はほとほとなくなっているのです。
言ってやろうと思うと次にはもう気がそがれていて……そんな体たらくで、いつまで経ってもわたしはわたしのままです。
それで、ただ巫女服で箒を掃いてると善行を働いていると褒められる、サボっていても、なにかと理由をつけられて舞姫様舞姫様と敬われる、そんなみんなの態度に、ついに嫌気が差しました。なにか、大きな、取り返しのつかないことでもやらかしてやろう、と一大決心、思案しました。
そこで、この戸隠の血筋には、特別な力が宿っていることを、思い出しました。たしか、戸隠の始祖が古い水神、龍の神なんだとかで、俗な言い方をすれば、魔法が使えました。その魔法を使って、人でも殺めようか、考えました。
そんな勇気、ありません。無理でございます。
わたしは、人前で本性を晒すことすらを恐れる戸隠の巫女、舞姫です。
だからせいぜいが、公務執行妨害。フィクションで、よく聞く罪です。実際のところ、どれほど重い罪なのか、知りません。ただなんとなく、ぼんやりと、村民から敬われ続けた空疎な舞姫が、わたしの倫理感を歪ませて、これぐらいなら、と囁いたのです。
警察に、嘘の通報をして、それを目の前で、暴露する。そうすれば、警官はわたしのことを、性根の腐った淫売婦のように思うことでしょう。問題は、恐らく、この村の警官では、無意味なことでした。翡翠村で生まれ育った警官にとって、「舞姫様」とは、日本国憲法にも勝る金科玉条だったのです。
ですから、隣町……といっても、翡翠は山奥の閑散とした集落にすぎませんから、隣の町、という字面から感じるほどそう手軽にアクセスできる場所ではありません、そんな遠方の警官を、この村に呼び出す次第に決めました。
はたして、この妙案は、わたしに久しく忘れていた叱られる喜びというものを思い出させてくれたのです。警官に、犯罪はいけないことだ、と、呆れてしまうくらい当然のこと、当たり前のルールを教えられるたびに、わたしの心は満たされていきました。舞姫ではなく、戸隠常世を裁いてくれる警官に、
やめて、やめて。そんな、汚れのない清澄な湖みたいな瞳でわたしを捉えないでください。
……警官説教を受けて喜んでいた自分が、卑しい自分が、情けなくなって、泣き出しそうなのを耐えて、脱兎のごとく、まさに穢れた兎のごとく、逃げ出してしまいました。
そうして逃げ出した先に立っていた少年を、彼を、そのとき、初めて目にしたんだ、ボクは。
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