十八日 『いつも一匹もとれないで終わるんだよね、ボク……』

 キャーギャーと、黄色い声やら叫び声やらを耳にしながら、手ごろな大きさの岩の上にどっかりと腰をおろして、夢中になって山女か鮎かを追う子供たち、その光景を頬杖ついて見守っていた。


「あークソ! 止まれ!」


「――えいっ……っひゃ、滑って逃げちゃった……」


「追い込み漁だー!」


「囲め囲めー」


「岩影に追い込めー!」


「ゆく河の流れは絶えずして、と記したのは鴨長明か……万物流転、一年ひととせが瞬きの中に過ぎゆくものならば、わらべの花の咲くように笑うもまた、螺旋の末には蒼古たる記憶の残滓といえよう……」


「やった、獲れた!」


「あー! それ、おれが追ってたやつだぞー」


「見ろよくれさだー! 獲れたぞー」


「都会モンのお前には無理だろくれさだー」


「くれさだー」


 こういうことをいうと、自分が年をとったように思えて嫌だが…… 

 平和でいいな。子供がはしゃいでるだけの世界ってのは。一人、やっぱり変なのもいたけど。

 俺は兄弟もいないし、親戚もなんか、同世代ばっかだし。こうして間近で年下の子供が戯れているのを見るのは、初めてのことだ。だからか余計に、


「和んでしまう光景、じゃな」


 だしぬけに後ろから声がしたので、何かと振り返ってみる。

 するとそこには、最低でも還暦は迎えているであろう白髪の老人が、俺と同じように子供たちの水遊びをあたたかい目で見ていた。

 誰だろうか。


「君が暮定君か」


「え?」


 俺を知っている、この村のじいさん……


「健蔵から聞いておるよ。筧のとこの倅の朋友だとな」


 健蔵……健蔵……と一瞬ピンとこなかったが、確か竜禅寺さんの下の名前がそんなだった気がする。


「えっと……村長、ですか?」


 どこかそんな風格が感じられる人だった。


「昔、短い間そう呼ばれていたこともあったがの。今は若いのに席を譲っておるよ。ただの、旧家のおいぼれじゃな」


 口ぶり的に……立場上は偉くはないが、家の旧さから村では重んじられているじいさん、ってとこか? 村という小さなコミュニティにおいて、旧家というのは地元の名士として尊敬されるものだからな。これはうちの家もそうで、本家の嫡子なんかは俺と同い年の癖して分家筋の女を二人も侍らせてるのを中史の会合でよく見かける。羨ましい。しかも一人は同じ久慈家の人間だし。なんで?


 ……で、なにしにここにきたんだろう。


「……幼女に手を出したよそ者に鉄拳制裁を食らわせにきたとか?」


 もちろんそんなようではないことは承知で、短い会話から、この人は冗談を織り交ぜながら話した方が円滑に話を進ませられるだろうことが分かったので、言ってみる。


「っほ。それもいいかの」


 ヤバい殴られる。


「……冗談のつもりでした」


「本気だと思ったかの?」


 と、強かな笑みで返される。クソ……このじいさんの方が一枚上手だ。


「それで……本当に何か用があってここにきたんじゃないですか?」


 普通に考えればただの散歩なのだろうが、俺を知っている事実を鑑みると、何か俺に用があってきたのかもしれない。


「そうことを急くでない。今は目の前に向き合うものがあるのではないかの?」


 じいさんの視線の先には、水を浴びて大騒ぎの子供たち。


「いや、良い事言ってるっぽくても、僕はここに座ってるだけですよ」


「っほっほ」


 眉を八の字にして当惑している風に抗議するが、じいさんは穏やかな笑みを浮かべて木陰に座り込んでしまう。どうやら今度は本気だったらしい。


「って言ってもな……」


 別にやることなんて……と再び川の方へ眼を向けると、


「暮定ー!」


 俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。芦花が、しゃがんで水の中に手をうずめたまま、普段のどこか落ち着いていて大人びた雰囲気はどこに忘れてきたのか、子供らしい満面の笑みを浮かべて、俺を呼んでいた。


「魚! ヤマメ、捕まえたよ!」


「すごいじゃないか」


 それはいつものつまらないおべっかの暮定には違いなかったが、同時に、俺としての本心でもあった。


「見て!」


 と、魚を掴んでいた両手を、見せびらかすように天に掲げようと……して、


「――あっ、待って!」


 さっきの女の子よろしく、手から滑り抜けて、逃げ出してしまう。

 逃げ出した魚を、芦花は無我夢中で追いかけて……


「……だめ!」


 叫びながら、素早く両手を水の中に沈めた。


「…………やった!」


 どうやら、捕まえられたようだ。

 芦花は再度、俺にその輝く眼差しを向けて、


「獲ったよ! 暮定! さか――」

 

 ――突如として、芦花が視界から消えた。声が途切れた。


「……え?」


 最初、何が起きたのか分からなかった。芦花の悪戯。それはない。そんなことを芦花はしない。だから……

 芦花の近くにいた子供たちの喧噪が、しんと静まりかえる。

 ――それで初めて、芦花がんだと理解できた。

 俺に獲った魚を見せるために、底の深い場所にまで走っていってしまって……足を滑らせた。

 考えてる暇はない。助けなければ。俺が……俺じゃない、僕が……


「暮定。行ってきなさい」


 木陰に座っている爺さんが、切羽詰まった、だけども強い声で促した。


 その叱咤を受けて、もう何も考える必要はなくなった。

 氷のように固まっていた体が、自然に前へと進む。


 ――またいつもの、みんなのヒーローとしての僕が、演劇部部長の僕が、芦花を救うんだ。


 激しい焦燥に駆られて、一直線に走り出す。


 川岸を越えて、子供たちのいる浅瀬を通り過ぎる。


 ――思い出せ。俺は水泳部だった。中学の時、俺は将来はオリンピックを狙えるといわれる程の水泳の天才だった。しかし大事な大会の前に腕を折り、それに絶望ししばらく水泳から離れていた俺が、紆余曲折あり復帰し、たくさんの想いと願いと希望とをその胸に、初めて決勝のレーンに立つ。


 波に流される芦花を見つけて、一も二もなく深間に飛び込む。


 ――俺はスタートダッシュを決めると、ぐんぐんと勢いをつけ、他の選手を引き離し、やがて……


 ザブン、としぶきがあがり、体中を冷水がつつむ。

 水を吸った服は重く、うまく泳ぐことができない。急いで服を脱いで、上裸になる。


「芦花!」


 叫び、とにかく腕を動かし、前へと進む。


「芦花!」


 ――違う。これは俺の声だ。水泳部の俺ではない。これじゃだめだ。しっかり、演じろ、水泳部、決勝戦、俺は――


 苦し気に目を瞑り、とにかく四肢をばたつかせている芦花が、視界に入る。


「芦花、しっかりしろ!」


 ――これも違う。また俺の声だ。思い出せ。もっと鮮明に、思い出せ。多くの人に助けられた、その恩を、高校の水泳部の仲間を、幼馴染のマネージャーの告白を、それらを力に一位をとったろう?


 小さな白い手が、俺に助けを求めるように伸ばされる。俺は一心不乱に芦花の、その伸ばされた手を目指して川を泳いでいく。


「……っく……」


 ――それもまた、暮定の意思だ。ダメだろ、そんなんじゃ。

 これまで、あなたは命の恩人だと感謝されようが、あなたが好きですと女子から告白されようが、俺はただなんの感情も抱くことなくいびつな笑顔の仮面をかぶり続けていただろ? 


 その小さな手に、一瞬、微かに触れた。


「……っ」


 ――なら芦花の前でもそうあるべきだ。今更になって、俺が本気で人を心配できると思ってるのか? 無理だ。諦めろ。俺は一生、いつか見た彼女のように、笑って、笑って、嗤っ――


「芦花!」


 俺は、その手を掴む。


 確かに掴んだ。


 そうして、速い流れの中、芦花の身体を抱き寄せた。



   ☽



 芦花を岸辺に上げて、体のどこにも異常がないことの確認が済んでから、ようやく体から緊張感が抜けた。


「心配したぞ、芦花」


 十人近い子供たちと、じいさんとに囲まれて、芦花は、ごめんなさい、と謝った。それでみんなも、謝る必要はない、と胸をなでおろして、芦花の無事を安堵する。「もうあんな危ないことしないでね」といったのは、先程まで難解な言語感覚の中に生きていた女の子だ。……女の子だったのか。発言だけ聞いて発言者に目を向けてなかったから、てっきり中二病の発現が少し早い男の子かと思っていた。

 俺に上体を支えられている芦花が、じいさんに目を向ける。


「……柴田のおじいちゃん」


 どうやらこの人は柴田さんというらしい。どこかで聞いた名前の気もするけど、どこだっけ?


「うむ。本当に、どこも痛くはないんじゃな?」


「……うん。大丈夫。暮定と舞姫様を会わせにきたんだね」


「そうじゃが、それどころではなくなったな」


 眼を凝らしてみても、魂の方にも、異常はない。なにか見えない部分が悪くなっているという事もないだろう。


 ……というか、今芦花はなんて言った? このじいさん……柴田さんが俺と舞姫を、なんだって?


「豊州の娘も無事だったことじゃ。そろそろお前さんの言う通り、ここに来た役目を果たそうかの」

 


   ☽



 そんな、RPGのお使いクエストを終えた後のようなことを言う柴田のじいさんに連れられて、俺と芦花は再びこの地へと戻ってきた。翡翠村唯一の神社にして、戸隠巫女の住むところ。

 すなわち、玉響神社に。


 気が付けば、空はすっかり暗くなっていた。西の夕焼けが翡翠の大地を覆って、セピア色の風景写真を撮っているようだ。


「ほれ、彼女が舞姫じゃよ」


 ……で、このじいさん、道中で話を聞いたところ。


 俺が舞姫様に会いたがってるのが、芦花から芦花母、芦花母からこのじいさんへと伝わったらしい。それで村の代表的な立場にあるこの爺さんが、なぜか一観光客でしかない俺と舞姫様が話すための時間を作ってくれたと、そう言っている。

 俺は軽い考えで、祭りの時に舞姫様に話しかければいいと思っていたのだが、どうやらそうもいかないらしい。祭りの間は舞姫様は忙しく、直接会って話をするような機会はないとのことだ。


 だから、今、目の前でこちらの様子をチラチラと伺っている、舞姫様が立っているわけだが……

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