十四日 『陰陽師として』
人を笑わせるたび、俺の心は悲しみに染まっていく。
人を喜ばせるたび、俺の目は黒く淀んでいく。
騙して、騙って、偽って、欺いて、人を、たくさんの人間を、幸せにしていく。
戻りたいと、何度も思った。素の自分でいたいと、何度も願った。
それでも、周囲からの期待をすべて裏切るほどの勇気を、俺は、持たなかった。
なんて……なんて独りよがりな、悪逆な人間だ。久慈暮定。
例えば、
――『あなたのことが好きです。付き合ってください』
それは幾度も聞いた言葉で、俺にとり、なんの優越感も得る事のできない、悪魔の言葉。
それは俺に向けらた感情ではないから。それは、すべてが欺瞞により象られた、人工物である優等生に向けられた感情だから。
存在しない存在に、好意を向けさせてのうのうと生きているこの身が、恥ずかしくてたまらない。申し訳ない。申し訳が立たない。
本来ならば、とっくに大罪の業火の中で、もんどりかえって、のたうち回って、もだえ苦しんで死んでいるべきはずだ。どうして生きていられる?
――『あなたのことが好きです、付き合ってください』
また同じように。夏休みが始まる、その前日。終業式が終わった、俺たち以外に誰もいない、茜色に染まった教室の隅で、その言葉を聞いた。
――『ごめん。僕は――』
また同じように。顔に張り付いた仮面が、いかにも申し訳なさそうに眉を吊り下げて、嘘に塗り固められた言葉を紡いでいく。
最後に彼女を見据えて……俺は思わず、息をのんだ。
俺が、僕として生きようと決めた、そのきっかけ。すべての始まり。
小学校という幼い人間の集まりであるクラスの中で、唯一聡明であったはずの彼女。
そのまま成長すれば、俺と同じように、人を欺いて生きるはずだった彼女。
その彼女が、俺の前に立って、俺の目を、偽の目を見て、勇気振り絞って、羞恥に頬を赤らめて、スカートの裾の折れているのも気にせず、あろうことか、本気で
まさか同じ高校だった、なんて驚きは微塵も湧かない。
ゾッとした。
あれほど賢かったはずの彼女を、自分の立ち振る舞いがここまで堕落させたという事実。
言い知れない負の感情が、俺の虚構の身体を襲って――
ついに、俺は耐えきれなくなった。
もうこんなことはこりごりだ。逃げ出そう。すべてから逃げ出そう。
過去の清算すらしたくない。
地球の裏側にすら飛んで、這ってでも飛んで、すべてなかったこととして、すべて起き得なかったこととして、忘れて、俺として、生きよう。
そう思った。
場所は、どこでもよかった。ただ俺を知る人間が一人としていない地ならば、どこでもよかった。
翡翠村に逃亡することを決めたのは、父と少しばかりのいざこざがあったからだ。
これまでの俺の苦悩にくらべれば、取るに足らない話だが。
それは、陰陽道を歩む家系に生まれたものとしての、宿命のようなもの。
強大な力をもつ久慈の家、分家、またその本家筋――
それは何だと聞くと、父は分からないと首を振った。ただその力を、間違った使い方をしないように歩めと言ってきた。なにがなんだか、よく分からなかった。
そこで、どうせなら、その疑問を解決できそうな場所に逃亡しようと決めた。
中史の会合の場で、しばしば耳にする、古い巫女の住む村。戸隠という巫女の住む、翡翠村。
彼女は、曰く、形だけの巫女ではない、実際に魔法を扱う龍神の子孫。
彼女ならば、日頃からその力で村を統治しているのであろう巫女ならば、俺の氷解できないでいるこの疑問を、溶かしてくれるだろう。
だから、翡翠村に決めた。だいたいそんな感じだ。
☽
晴人が、俺の顔を覗く。
「おい……大丈夫か? さっきから、ぼーっとしてるがよ」
「ああ……平気だ。問題ない」
なんか、馬鹿みたいだ。バロメーターとして今朝の彼女を引き合いに出すと、今の俺は、正に彼女のようだ。それほど頭をやってしまっている。
俺が、隠して、悩んで、頭抱えて、八つ当たりに壁を殴って、ついぞ外す事の叶わなかった、重たい仮面が。
この村に来て、彼女と走っているうちに。晴人と剣を交えているうちに。竜禅寺さんに諭されるうちに。
ぽろぽろと、風化して脆くなった岩石のように、それが当然であるかの如く、崩れ落ち、瓦解して、なんの抵抗もなく、なんの後ろめたさもないままに、素の自分で、俺として、久慈暮定として、顔を晒している。
なんて滑稽な話だ。なんてふざけた話だ。なんて……嬉しい話だ。
「……いや、まだだ」
晴人から少し離れた場所で、一人ごちる。
俺はまだ、逃げている。逃げ続けている。これで喜ぶのは、卑怯以外のなんでもない。
それに、これは、俺が変わったんじゃない。彼女が特別なんだ。晴人が特殊なんだ。
その証左に、芦花がいる。俺は芦花の前ではまだ、仮面を外せないでいる。怖がっている自分がいる。
……それでも、なにかが変わって来てはいるのだろう。家族の前ですら、満足に自分を見せられないでいた俺が、彼女と、晴人と、当たり前のように話しているんだ。
この感覚、この微かな一縷の、蜘蛛の糸を、どうか切らないままに、登りきりたいものだ。
☽
長い自分語りをして、少し暗い雰囲気になってしまった。俺は文豪でもなければ、エッセイストでもない。記憶の回廊に魂を飛ばすのは、少なくとも、今ではない。
今はただ、
「……腹へった」
腕時計を見ると、すでに正午をまわっている。腹の虫が泣くのも致し方ないことだろう。
「道、分かるか。俺はまだこの神社に残るが」
行先は決まっている。芦花の家族が営んでいるという、定食屋・豊州。
二時間ほど前に、芦花に絶対に行くと約束したからな。
「地図に印付けてもらえば、夜までかかってもいくつもりだ。一人で、行ってみるよ」
役場で貰った地図を晴人に見せて、そう宣言する。
なんとなく、一人で村を歩きたい気分だった。
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