十二日 『うしろすがたのしぐれてゆくか

 俺が周囲に馴染めなくなった時期というのは、これは存外早く、小学5年の頃だった。


 当時の俺は至って普遍的な小学生然とした子供で、朝、母にたたき起こされては朝食を急かされながらも胃にねじ込み、平服に着替え、ランドセルを背負って、徒歩で小学校まで通い、自分のクラスにつき、自分の席に座り、仲のいい友達と喋り、授業を受け、休み時間は校庭で遊び、給食を食べ、また授業を受け、教室の掃除をして、放課後は近所の公園に集まって、日が暮れるまで狂ったように鬼ごっこをして、時にはドロケー(俺の地域ではそう呼んでいた)もして、それでも全然疲れ知らずな身体は走って、家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、家族とリビングでテレビを見て、そして布団に入る、そんな生活を送っていた。


 それが母よりも早く起床して、完璧に覚醒した頭で朝餉を食し、学校では、これまで友達と雑談に使っていた時間の半分、自分の机に向き合い勉強に勤しみ、放課後は図書室に籠って本の虫になり、家では父親と法術関係で揉めるようになるまで、一週間とかからなかった。


 発端は小学校によくある道徳の授業だった。

 具体的にその時間、どんな内容の授業が行われたのかはよく覚えていないが――覚えていない、というのはつまり、その授業自体は俺にとり別段どこにでもあるつまらない道徳の授業でしかなかったということで、真に重要なのは次の出来事だ――とにかくクラスはとあるテーマについて賛成と反対の二つに分かれて言い争いになった。

 言い争い、という言葉を選んだのはそれがとても討論だとか議論だとかそういう理性的に行われたものではなく、ただお互いの感情をぶつけ合うだけのものだったからだ。

 クラスの男子は「宿題を減らせ」と文句を垂れるときと同じような抑揚で反対していた気がするし、女子は女子特有の、どこで覚えてきたのか分からない巧みな弁論術で以て単純な男子陣からイニシアチブを席捲していたように記憶している。

 ……その、の中で。

 一人の女子は、立ち上がり、言い争いを続ける俺たちなど眼中にないといった風におとなしい微笑をたたえて、をその瞳に映し、話しだしたのだった。

 その女子の言い分は、これまでの侃侃諤諤かんかんがくがく喧喧囂囂けんけんごうごうの八文字で表せていた言い争いを、180度豹変させた。

 教師の顔を窺い、このテーマがどういう意図で出されたものなのかを計算した回答。

 熱のこもった自分の儘の意見ではなく、求められた回答をそのまま読み上げるかのような底冷えする応答。

 それは、この頃まだ純粋な子供であった俺たちには、およそ導き出しえないものだった。

 「言い争い」から「議論」へと変化したそれに参加する生徒は、みな彼女の意見に、今度は付和雷同、唯々諾々の八文字を掲げて、賛成でも反対でもない回答を推し始めた。それも全て、彼女の思惑通りだ。

 こう書くとその女子の性悪なのがいけなかったとかそういう風に受け取られるかもしれないが、そういうことではない。

 彼女のしたことは至って常道。高校生にもなれば全員が面接練習などで身に着ける、を、周りより少し大人びていたその少女が持っていたというだけの話。むしろ、偉い賢いと賞賛されるべき話ですらあったかもしれない。

 それでも彼女のその姿勢は、当時のただ欲望に従い生きるだけだった俺に多大な影響と衝撃を与えた。

 まず最初、俺は堂々とした様子で模範解答を読み上げる彼女が教師に褒められる姿を、純粋に羨望した。「俺も先生に褒められたい」と、その頃から既に一人称が「俺」であった暮定は思うようになった。


 ――だから、俺もそうしてみようと思った。


 彼女の真似をするように、勉強も、立ち振る舞いも、周囲を気遣い、慮ることを第一に考えるものに変えた。それは俺にとってなにも難しいことではなかった。

 例えば、青い猫型のロボットの漫画に出てくる、すべてがのようになろうと努めた。

 すると、周囲は彼女と同じように俺を褒めちぎるようになった。暮定くんは偉いな、お利口だな、という言葉を聞くたびに随喜の心に満たされて、諸手をあげて破顔した。 

 俺は幸せの最中にあった。

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