八月

一日 『VSポリス、run away!』

 もうずっと蝉時雨が降り続けている。転んで膝を擦りむいた近所の子供が、それでも顔色一つ変えることなく自らの陽炎かげろうを走らせていく。

 ……というと失われてしまった夏の原風景的な感傷を覚えそうなものだが、ただただ暑いだけで風流もなにもあったものじゃない。

 なんてったって、痛みにも負けないしたたかな子供とは裏腹に、俺は棒アイスが溶けて溢れるのも気にせず、夢遊病患者みたいな足取りでのろのろ歩いているんだ。早く秋来ないかな。


「暑い……」


 じりじりと頭頂部を焦がす灼熱に参って、ぽつりと溢す。

 ……そうだ。


 上裸になれば、すこしはこの暑さを軽減できるかもしれない。


 思い立ったが吉日。視界はボヤけるし、フラつくし、もう我慢の限界だ。

 俺は汗で体に張り付いたシャツに手をかけ……


 ――思いっきりたくし上げる寸前で、青い服に身を包み帽子を目深にかぶった強面の男が、自転車から降りて、こちらを睨んでいるのに気付いた。

 その帽子に刺繍されたるは金のまたた秋霜しゆうそう烈日れつじつ。国家の番犬である。

 

 おそらくは、この暑さで気をたがえた犯罪者予備軍から村民を守るべく、巡回中なのだろう。大変立派だ。立派だが、そんな人間はここにはいないので早くそのペダルを漕いでどこかへ去っていってほしい。


「……」


 俺が一歩後ずさる。


「……」


 男が一歩前に出る。


 ……あれ? 


 これは、もしかして……


 俺がもう一度、今度は通常のペースで歩き出すと――


「いやー、今日は猛暑日ですねぇ」


 男が、一歩一歩が力強い音を立てる競歩で、過剰な抑揚の乗った声で、こちらににじり寄ってくる。


「署の中はクーラーが効いていますから、少しお話ししましょう。いえ、すぐに済みますから」


 ダメだ! 完全に社会の害と見做みなされている!


「クソッ……」


 俺はもう脇目もふらず、炎天下を駆けていく。


 少年よ。大人の力を見せる時が来たようだな。この警察官を振り切って、国家権力にも負けない強靭な心でお前の前に立つのだ!



   ☽



「暑いのは分かりますが、村民の迷惑になりますので……」


「はい、はい、すいません……」


 三秒後。

 巡回用の自転車に乗った警官にあっけなく捕まった俺は、数分間の説教を受けた後に解放された。

 警官は、ペダルを漕いで走り去る。その場に残ったのは、アイスも溶けきって棒をゴミ箱に捨ててしまった手ぶらの俺一人。


「……暑い」


 もう一度、同じことを独りごちる。

 なんというか、今ので俺の心に僅かに残っていた、この暑い夏を存分に堪能してやろうという気が完全に失せてしまった。


 ふと空を見上げれば、真白の入道雲。

 天へと続く雲の道を辿れば、その先には今にも落ちてきそうな巨きな太陽。それが灼熱の光を大地に降り注いでいる。とても今のこの暗澹あんたんたる心で太刀打ちできるものではない。


「……帰るか」


 もしかしたら、と。


 この場所なら、と。


 そう思って、この旧い日本家屋と水田の多く残る山村にやってきたけれど。


 場所じゃない。


 俺が変わらない限り、この場所は顔を見せてくれない。


 そして、俺は変われない。


 いくら人に変わることができても。

 

 いくら人を変えることができても。


 俺は変わらない。


 だからもう帰ろう。……そう思った時、俺の中で今日は終わって。


 もうなにも悔いのない俺は、きびすを返して、元の場所へ――



「すみませーーん!」



 背後から声がした。


 何か強い、抗えない力で、ぐいと現実に引き戻される。


 振り返ると、見知らぬ人がこちらに向かって猛スピードで走ってきているのが確認できた。


 その人……その女性はストレートロングの黒髪をはためかせ、俺と丁度交差するところまできて――


「走って!」


 叫んだかと思うと、また韋駄天いだてん走りで通り過ぎていく。


「……え?」


 突然のことで理解が追いつかず、呆けた声を上げてしまう。

 

「君だよ! 追いつかれる、急いで!」


 といって彼女は、足踏みしながら、自分の走ってきた方向を指差す。


 そこには――


「っな!?」


 涼しい顔で自転車を漕いでいる、先程まで俺を追っていたポリス。


「……っ」


 それを確認した俺は、一度追いかけられた恐怖から脊髄反射で走り出してしまう。そのせいで、


「君はさっきの。彼女のお知り合いかな?」


 共犯疑惑を向けられてしまった!


「違います!」


 走りながら、大声で答える。


「じゃあどうして逃げるのかな」


「どうしてでしょうね! 自分でも分かりません!」


 俺はこれほどバカだったか?


「早く!」


 彼女が叫ぶ。これもまた反射的に、


「ああ!」


 返事してしまう。なんでだよ。


 それで警官の中での俺の共犯疑惑は更に深まったらしく、もう二人まとめて捕まえる気でいるようだ。


 いいや。ここまで来たら、逃げ切ってやろう。

 逃走する覚悟を決める。体勢を整えて、走りに意識を集中させる。


 本日二度目、生死をかけた超長距離走、そのスタート合図のピストル音が聞こえた気がした。



   ☽

  


 十分後――


「もう追ってきてないぞ!」


「まだまだ!」


 彼女は止まらない。俺も必死でその後をひた走る。



   ☽



 さらに二十分、三十分――


 もうずっと走り続けている。


 永遠のように思える山道を、全速力で。


 ただ彼女の背中を追いかけて。


 当然、警官はとっくに追うことを諦め、引き返している。


 それでも俺たちは走り続けている。


 一度目はあんなにもあっけなく捕まったというのに。彼女と走っていると、体力の底がつきそうにない。体が軽い。俺は、こんなに早く走れたのか。


 そうしてトレイルランナ―もかくやという速度と距離を走った頃……急に視界が開けた。


 山を抜けたらしい。


 国道沿いに出たところで、ようやく俺と彼女は立ち止まった。するとそれまでの疲れが一気に押し寄せ、下が地面であるのも構わずに座り込んでしまう。それは彼女も同じことらしく、


「はぁ……はぁ…………はあー、疲れたー」


 地べたに座り、両手をついて肩で息をしている。


「……はぁ……なんか、すごい意味のない、運動を、した気が、するんだが?」


 息継ぎで忙しく、まともにしゃべれない。運動部でもない俺がこんなに疲れるまで走ったのは、いつ振りだろうか。


「……、ふぅ。――そんなことないよ。あのままあそこから動かないでいたら、君は今頃断頭台の上で自らの矮小わいしようさを悔いていたとこだよ」


 まともにしゃべりだしたと思ったら、その容姿からはとても想像できないような言葉が発される。


「日本は絞首刑だ」


「……ツッコむところ、そこじゃないと思う……」


 なんだか不満そうだった。今のはボケだったらしい。


 考える。今の微妙なボケに対する、最適解……


「……それじゃあ、俺はこっちだから」


「あれ!? ま、待って!」


 無視して解散、のち速やかに帰宅。これだろう。


 出会って間もない相手に対して断頭台がどうのとかのたまう変人と、これ以上一緒にはいられない。


「今の話の流れでどうして別れるっていう選択肢が浮かぶの! 仮にも半刻いちじかん近く歩みを共にした爾汝じじよの仲だよね!」


「聞こえのいい表現で誤魔化すな。警官から逃げてたんだろ」


 シャツの裾を掴んで泣きつく彼女を引きはがして、距離をとる。


「うぅ……なんだか扱いがぞんざいな気がするよ……」


 そうか? むしろ犯罪者予備軍への態度としては優しすぎるぐらいだろう。


「――まあ、それは冗談として」


 一通り遊んでから、居住まいを正して、彼女に向き合う。名もなき彼女は「えぇ……」とドン引きした目でこちらを見ていた。


「君、相手に高レベルな笑いを求めすぎるあまり、理解されずに微妙な雰囲気になることあるでしょ」


「俺の周囲からの評価は『空気が読めて気配りができる委員長』で安定してるな」


「この態度、ボクに対してだけなの!? ……つまり、特別扱い?」


 腰に手をあてて、ふふんと誇らしげに笑った。


 ……なんて積極ポジテイブ思考シンキングだ。


「あんた、人生楽しんでそうだな」


 俺の言葉に反応して、彼女の顔に、フッとかげりがさす。表情のコロコロ変わる奴だ。


「そうでもないよ。こう見えてもボクだって、人並みには悩みの一つや二つ抱えて、今ここに立ってるよ」


 座ってるだろ。


「『こう見えても』……なるほど。自分が能天気そうな見た目をしてる自覚はあるんだな、よかった」


「……やっぱり君、ぞんざい……」


 呟いて、不貞腐れたように顔を背けた。


 ……いや、本当に自分でも驚いている。こんなにも自然と罵倒の言葉が口から出てくるのは、どうしてだろう。

 彼女の纏う、雰囲気がそうさせるのだろうか。彼女からは何か、すべてを受け止めてくれそうな安らぎに近い懐の広さを感じる。


「……」


「……?」


 ……一瞬、母性とかそういうものを想像しかけたが、そういうのでは全くない。こいつからそんなものは微塵も感じないし感じたくもない。

 ので、


「なんで警官に追われてたんだ」


 強引に本題に入ることで邪念を払う。そう、邪念。こいつ+母性=よこしま。証明終了。


「んー……公務執行妨害罪、かな。隣町の警官を、ウソの通報で村まで呼び出したんだよ」


「なんでそんなことした。愉快犯のようには……見えるけど、多分違うだろ。……違うよな?」


 目の前のこいつが、面白そうだから、楽しそうだからという小学生が読書感想文に書きそうな動機から犯罪に走る様子。ありありと想像できてしまう。


「そこは自信持って否定してほしいな。違うよ。……そうだな、例えば君はどんな罪を犯しても赦される立場にあったら、最初は何をする?」


 罪を犯すことは前提なのか。


「言ってる意味がよく分からないけど」


「そのままの意味だよ」


「あんたがその立場にあるってことか?」


「例えば、っていったじゃん。どうする? いきなり刺す?」


「刺さない。……まあ、最初は小さな犯罪で本当に赦されることを確認して、罪を犯すことへの、文字通りの罪悪感を和らげていくな」


 言っていて、一体この問答にどんな意味があるのか、どんな意味を含蓄しているのか気になったが、考えないようにした。どうやら俺は、眼前に座るこいつが綺麗な身であることを望んでるらしい。


「でしょ? つまりそういうことだよ」


「最終的には俺を刺すわけだ」


「刺さないよ! 本当に罪がゆるされるのか試したってこと!」


 彼女は色をなして反抗しているが、女の子座りで怒られたところでなんにも怖くない。


「試した結果、あんたは警官に追われた。つまり実際にはそんな特権なかったんだろ」


「推定無罪というやつだね」


 なぜか誇らしげに胸を張っている。調子に乗っているのがかんに障るし被疑者である身を誇る意味が不明だが、そのに免じて何も言わないでいてやろう。あんだけ全力疾走しておいてよくそんな綺麗な形をキープできるな。


「……まあ、あんたの容疑についてはよく分かった」


「分かってくれた!? ボクはジャック・ザ・リッパーのような大罪人なんかじゃなく、それどころか蟻をつぶすのも躊躇するような良心の持ち主だってこと!」


「俺には無関係だってこと」


 そうだ。成り行きで一緒に警官から逃げて、たまたま今こうして話しているだけ。

 大前提として、俺とこいつは互いの名前も知らないような仲。だから、


「じゃあな。今度は本当に、こっちだから」


 これ以上一緒にいる理由はない。俺は走ってきた道を指さして告げた。


「ああ、うん。……翡翠ひすい村に戻るの?」


 それは彼女も承知の上だったようで、特に顔色を変えることもなく立ち上がっては会話を続ける。

 

 翡翠村。俺が先程までいた村の名前だ。


「着いて10分も経たないうちに、どこかの不調法者に強制的に下山させられたからな。また登り直すんだ」


 それを聞いた彼女は、顔をパッと輝かせて笑った。


翡翠ひすい村はいいところだよ。……って村民のボクがいうのはあまりに主観的に過ぎるけど、楽しんでね」


 ……こいつ、村民だったのか。そりゃそうか。村で警官に追われてたんだ。

 

 そうか。村民か。……なら聞いてみるか。


「なあ、あんた――」


 そこで俺は初めて、この村に来た目的を彼女に明かした。


「――玉響たまゆら神社、って知ってるよな。巫女の神楽が有名な、翡翠の神社」


 当然馴染みのある名前のようで、首を縦に振って首肯する。


「知ってるけど、何もないよ。行っても君は、無為な時間を過ごしたと後悔するよ」


 ……違和感を覚えた。

 こいつにしては、トゲのある言い方だと思った――思っただけで、努めて先程までのやり取りの中での彼女を振り返ってみると、さっきからこんな感じだったかもしれない。どうだっけ?


「なんかいわくでもあるのか、村民の間に」


 少なくとも、市町村の出しているパンフレットやネットの口コミには、マイナスイメージにつながるような情報はなかったはずだ。荘厳な緑の中に静かに鎮座する村の守り神、とかなんとか。

 となれば、翡翠村にのみ広まっているなにか伝承や風習が、彼女の浮かない表情を引き出している原因かもしれない。


 彼女は少し沈思するように視線を宙に彷徨わせたあと、口を開いた……かと思うと、今度はせきを切ったように滔々とうとうとしゃべりだした。


「うん、噂だけどね。……「玉響神社の巫女が舞うと嵐になり、地震が起こり、作物は凶作年を迎える」「当代の巫女は先代巫女が姦通して生まれた忌み子だ」「村の有力者の誰それが突然死したのは玉響神社へ参拝しなかったから」なんていうのはよく聞く村の常識だよ。だからみんな口をそろえて言うんだ」


 そこで一呼吸おいてから、


「――翡翠の巫女は、呪われている」


「……」


「だから、あの神社には近づかない方がいいよ。村民にも、あんまりいい顔されないと思うし……他にもいい場所、たくさんある」


 彼女の、玉響神社には行くなという忠告。

 それを聞いてなお。

 俺は特に迷うことはなかった。


「いや、それでも行ってみるよ」


「……なんで?」


 口をへの字に曲げて、露骨に嫌そうな顔をする。この表情はレアかもしれない。


「あんたがその巫女の話をしてた時、すごく悲しそうだったから」


 目を見開いて、まさか、と驚きの表情。……あ、そうそう。こういう顔をよくするんだ、こいつ。 

 まだ会って5分程度だが。


「悲しそうだったかな?」


「だったよ、無意識かもしれないけど。……悲しそうにするってことは、少なくともあんたはその巫女に対して悪い印象を持ってないってことだろ」


「それは、そうなる……かな?」


「なら、あんたが忌み嫌ってるわけでないなら、その巫女はそんなに悪い人じゃないと思う」


「それって……」


 その意味を理解した彼女が、ふたたび目を見開いて、俺を見つめる。

 ……まあ、そもそも俺の知っている村民がこいつ一人だけだから、自然と彼女が基準になるというのもあるが。


「だから、噂はあくまで噂に過ぎないってことで、俺は今からお参りに行きます。じゃあな。四度目はないぞ」


 俺は早急に会話を打ち切って、歩き出す。なんかこれ以上話すと不器用な少年少女たちが初めて打ち解ける感動シーンのようになりそうだったので。万年ネタキャラであるこいつとそんな雰囲気御免なので。


「……道は」


 背中から声がかかるが、俺は振り返らずに歩き続ける。


「道は二つ目の田んぼを右に曲がって。そうすれば、鳥居が見えるから」


 片手をあげて、感謝を告げる。


 ……こんな返事の仕方をしたのはそんな雰囲気だったからで、普段こんなことはしないし、そんな粋なのは俺には似合わなかった。

 ちょっとカッコつけすぎたかもしれない。反省。

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