第7話 雨宿りなんて、もうしない


 ある夏の夕方。

 ムシムシするなぁと思っていたら、やっぱり来た。

 ポツリ、ポツリ…… 

 雨が降り出す。


──カサ持ってきてない。どうしよう……


 奈緒なおは校舎から突き出た庇の壁にもたれ、ドンヨリした気分で空を見あげていた。


──あれ、あそこにいるの、テツローくん? 体育の先生と…… なんだろう、なんのお話ししているのかな……


 体育館に続く渡り廊下。その見慣れた風景に、あたしの焦点がロックオンする。


──新任の女先生と…… なんか、すごく、楽しそう……


 同じクラスのテツローは、イケてないけどちょっと気になる存在だった。その彼が、新卒で今年赴任してきた女性教師と立ち話をしている。

 妙なザワめきが奈緒の胸の辺りに走った。完全に心を揺さぶられている。


    * * *


 当番の掃除を終え、体育館から出たところで、テツローは体育教師とバッタリ出合った。


「あっ先生。い、いつもお世話になってます……」


「お掃除ご苦労さま」


 イツモ? オセワ?してないケド…… 

 そう言いたげに小首をかしげた先生は、ねぎらいの言葉をかけながら微笑んでいた。

 その笑顔が今日は眩しい。

 以前までのセミロングからショートボブのヘアスタイルに変えたことが、その印象をより強めていたのかもしれない。


 テツローのテンションが半端なく上がっている。


「先生、パ、パーマ屋いかれたんですか」

「?」

 テツローの言葉に、一瞬キョトンとする先生。


「その……頭、いかれてきたんですか。あっ違う……頭、やられたんですか。ぁ ぃゃ……」


 言い回しに迷いながら、テツローは頬を紅潮させている。


「……。カットしたよ、美容室で」

 

 笑いながら、先生はサラリと受け流した。


    * * *


 見てはいけないものを、見てしまった。奈緒は、そう感じていた。


──妙齢の女性教師とオクテな男子生徒が、ただ立ち話しているだけじゃない。そんなの、普通のこと。普通、普通、普通。


 奈緒は懸命に、自分にそう言い聞かせていた。ただその男子が彼じゃなかったら…… そして、あんなに楽しそうにしていなければ……


──別にヤキモチをいている訳じゃないの。あたしも先生のことは好きだから。でも……

 奈緒にとって初めて抱く感情だった。何だろう、この気持ちは。今まで人を好きになったことは、何度もあったはずだ。だけど今回は違っていた。


──あたしの心臓を、あなたはギュッと掴んで行く。こんなふうにされるの、初めてだから…… 

どうしたらいいか、わからない……



 さきほど見た「二人の立ち話」のシーンが、どうしても奈緒の頭からは離れなかった。


──テツローくん、顔を真っ赤にして笑っていたな…… 

あたしがあんなふうに、あなたと楽しくお喋りできたら、どんなに楽しいだろう。

……あそこまであなたの気を引けるほど、あたし可愛いい訳じゃないし。


新しく来た先生。奈緒の目には、一番身近な「素敵な女性」として映っていた。

 背伸びしてもしょうがない。

 そんなことは分かっていた。だがどうしても、自分と先生を比べてしまっていた。


──あたしもあんなふうに、もう少し胸があったらいいのに……


 あんなふうに素敵な髪型が似合ったらいいな、あんなふうにお化粧なんかもしてみたいし……

 先生との違いが次々と出てくる。


 もし、そうであるならば、もっともっと素敵な笑顔をあなたに、贈ることができるのに……

 そう考えたとき、奈緒の胸がキュゥーンっと激しく高鳴った。


──あたしは性格的にも、心配性の気にしぃだし。おまけに引っ込み思案で、そんなに明るい訳じゃないし……



 考えれば考えるほど、どんどん落ち込むあたしの心。小さな胸のその内側。心の底を見つめていた。哀しみの感情が満ちてくる。

 理性という名の見えないせき。それが音をたてて崩れて行く。


 心の奥の深い闇。そこに一人の少女がいた。グショグショの顔でシャクリあげ、体育座りで泣いている。土砂降りの雨に叩かれて、じっと誰かを待っていた。

 やまない雨に心を沈ませ、奈緒は天を仰ぐ。いったいこの雨は、いつまで続くのだろう……


──だからって、ずっとここに居る訳にもいかないし。どうしよう……


 こんなとき、白馬に乗った王子様がお迎えに来てくれたらいいのにな……小学生だった頃、そんなことばかり考えていたことを、奈緒は思い出した。

 成長した今は、白馬の王子様なんて信じていなかったが。


 ただ、そうは思いながらも、心のどこかでは王子様の登場を心待ちにしている。そんな自分を、奈緒は分かっていた。

 子供から脱皮中のあたし。今は、そういう年頃。やがて美しい蝶々になれるのであろうか。


──そういえば、蝶がサナギから脱皮することを「変態」っていうって、理科で習ったな。こんなことばかり考えてるあたしって、変態なのかな……

 

 そんなことをゴチャゴチャ考えていた時、ふと気づくことがあった。

 

──そう、あたし今、成長の真っ最中だよね……

だったらさぁ、背伸びしちゃってもいいよね。うん、背伸び、しよう。

そのうち、それが、あたしになる!


──可愛くならなきゃって思うのだってさ、好きな人がいるからなんだし。

そう、あたしは、ひとりぼっちじゃないんだから……


遠くから喚声かんせいが聞こえる。この雨のなか、校庭で走り回る人影があった。

 男子が二人、水溜りの間をふざけて走りまわっている。


 ワー バシャッ パシャン……



──あんなふうに、無邪気に動き回れるっていいな。……あたしも、やっちゃおうかな。


 奈緒の中で、それまでのシコリが吹っ切れた。


──いつまでも、立ち止まってるなんて、もう、イヤ。

やめた。雨宿りなんて……


 なにかが奈緒の背中を押した。


──よし、いくぞ。えぃっ!


 奈緒が雨の中に飛び込んで行く。





「おーい、奈緒ちゃーん」

 え? 聞き覚えある声だった。


「奈緒ちゃん、こっち、こっち」

 

 呼び止める声に振り返る。

 テツローだった。ヤギのような優しい目をして、あたしを見つめている。


「ほら早く。おいで」

 右手でさした白いビニール傘が、あたしの目に飛び込んだ。


──あたし、何やってんだろ。こんなに濡れちゃって。あたし、飛び込むべきところ、間違えてる。

あたしが飛び込むところって、それは。

それは……


 傘に合わせた焦点を徐々に下げる。彼の眼差しはまだ、あたしをじっと見つめていた。

 白いワイシャツが眩しかった。


──あそこだ、あたしが飛び込むべきところは。そう、あそこ……



 突然、熱い涙が湧き上がる。

 感情が溢れた。


 わーーーー


 白い胸に向かって走る。

 そして

 飛び込んだ。


──テツローくん


 奈緒の耳が、温かいものに触れている。

 ドクン。ドクン。

 顔をうずめた胸から、びっくりするほどの鼓動が聴こえていた。


 髪の雫が拭われる。

 あたしのものよりずっと大きな手のひらで、撫でられていた。


 ポン、ポン…… 


 掌が大きく温かく、包んでくれている。


「風邪ひくぞ、もぅ」

 そう囁かれた。


──あなたの胸に、あたしチャッカリ雨宿りしてる……




 校門から続く桜並木。

 白い傘がひとつ、こずえの下で揺れていた。


 思えば桜の花びらが散りだした頃、あたしの「好き」が、ここから始まった。


「ありがとう、テツローくん……」


 色々な意味を込めて、奈緒はつぶやいた。雨の日は、なぜか心が素直になる。


「奈緒ちゃん……」

 テツローが口を開く。


「オレさぁ、いままでのオレってさぁ……つまんない人生だなって思ってた。でも」

 

──でも……何? 


 奈緒は、次の言葉を待った。


「学校でね、いつも……気がつくとさ、奈緒の姿、探してるんだ。でもさぁ……それバレるとヤバいからさぁ、いつも後ろ姿だけ追いかけて……」


──あ、今、奈緒って呼ばれた。

じゃぁ……あたしもマネっこ。


「あたし、そばにいるよ、ずっと…… テツローの」


 呼び捨てるだけで変わる、心の距離感。胸が小さく鳴った。

 あたしたち、同じ場所で同じ雨に降られながら、いま、同じ時を生きている。


──あなたにまだ、言葉にして伝えていないことがあるの。


 あの日、言えなかった言葉が口をついて出そうになった。

 でも、まだ、言わない。っていうか、言えない……


──出逢ったあの日から、あなたが好きです……




『雨の日に現れる人は、

 きっと、あなたの大切な人』


 どこかの街角のポスターに書かれていたそんな言葉を思い出し、奈緒は妙に納得していた。


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