第6話 思春期、夏

 すでに霧は晴れ上がっていた。夏草がしっとり露に濡れている。そこを吹き抜ける風は妙に生温かった。

 今日も蒸暑い一日になりそうだ。


 緩くカーブした坂道を、オレは自転車で登る。ハンドルを左右に振り、全力の立ちこぎで登って行く。

 登りきった道の向こう側、丘の稜線にはムクムクと白い雲が湧き始めていた。


「このモヤっとした思いは…… 部活にブツけて頑張るしかないか」

 踏み込むペダルに力を込める。一瞬たりとも立ち止まることなど出来なかった。


 解消出来ない精力が溜まっている。異性に対するムラムラした気持ち。

奈緒なおちゃん……」

 またつぶやいてしまった。一日に何度名前を呼んだら気が済むのだろう。

 目をつぶれば浮かんでくる、奈緒ちゃんの後ろ姿。好きで好きでたまらないクラスメイト。その制服のブラウスは、夏空に湧き立つ入道雲よりも白かった。

 わずかに透けて見える、下着の肩紐。それがツイン・テールの髪に見え隠れしていた。


 袖から伸びる両腕が、いつの間にか健康的に日焼けしている。その色合いが、なぜか梨を連想させた。豊潤な甘い香りを放つ禁断の果実。それはブラウスの白さより、オレの目には眩しかった。


 オレの目蓋まぶたの内側、その妄想スクリーンにいつも登場する異性。実はもう一人いた。

 七歳ほど、年上のひとだった。

 スケベなヤツだ…… とか思わないで欲しい。オレは真剣だ。

 その人は「パピコ先生」と呼ばれていた。今年、新卒で赴任してきた体育担当の女性教師。

「パピコ先生」とは勿論もちろんアダ名である。本名は江崎先生。生徒からは、当初、グリコ先生と呼ばれていた。

 ほら、みんな知ってるお菓子のアレ。それがいつしかアイスの商品名に変わっちゃったってワケ。



 奈緒ちゃんとパピコ先生。二人はオレの妄想スクリーンの主役の座を、いつも取り合っていた。

 まるでアイドル・グループの、熾烈なセンター争いのようだ。まったく違うタイプの二人は、それぞれが魅力的だった。だからオレは、二人を交互に登場させていた。それがオレの、優しさだ。ただ、あの出来事が起きるまでは……


 あのプールでの出来事から、オレの頭の中は、パピコ先生一色となってしまった。


 ある日の体育の時間だった。

 夏の期間、体育はプールでの水泳授業となる。基本的に運動神経の悪いオレは、泳ぎもあまり得意ではなかった。

 あの塩素消毒の匂い。それを思い起こすだけで、なにか全身に緊張感が走るのだ……


 憂鬱と緊張が入り交じる、重苦しい面持ちで授業に臨むオレ。

 泳ぎながらの息継ぎが、まだ上手く出来なかったのだ。意味もなく必死に、それこそ死ぬ思いで、ただただ水中に漂う……

 

 もしオレが普通に泳げていたのなら、クラスの女子の水着姿などを横目で盗み見ていたに違いない。だが正直、そんな余裕など全く無かった。



 そんなプールの授業も無事に終わり、さあ着替えようという時の出来事である。

「海パンのひもが、ほどけない……」

 不器用にしばられた木綿の紐。その結び目は、濡れてしまったがために更に固くなり、ほどけなくなっていた。

 爪先は水にフヤけてしまい、まったく歯が立たない。この役立たずめ。時間だけが経過して行った。もはや何ともしがたい。


 ふと先生の顔が浮かんだ。

「助けて、パピコ先生……」

 追い詰められたオレの目は、必死に先生を探しだしていた。


 幸いパピコ先生は、まだプールにいた。

「しょうがない子ね」という表情を見せながらも、水着姿のままだった先生は、オレの求めに応じてくれた。

 ジャージの上着だけを羽織り、先生はオレの前に膝まづく。そして、濡れた紐の解きほぐしに取りかかってくれた。


 紐と格闘する先生の指。それをじっと見つめていた。結び目は、一向に緩む気配がない。

 すると先生は、おもむろに水泳キャップを脱ぎ捨てた。そして束ねていた髪から、一本のヘアピンを抜く。

 紐の結び目にピンが突き刺された。先端が器用に動いている。懸命な取り組みが続けられていた。


 ヘアピンを抜かれた先生の髪が、ハラリと顔に垂れ下がる。髪が視界を遮った。

 邪魔だと言わんばかりに、先生は顔を振り上げる。両手が塞がっていたため、器用に髪だけを左右に振り、顔に掛かり落ちたものを払いのけていた。


 依然として紐は緩まなかった。先生の表情が徐々に険しくなる。

 眉間みけんに寄った縦皺たてじわが、苦悶の表情を作っていた。

 一連の先生の仕草。それは否が応でも、オレ自身の何かを刺激していた。


 この状況でこんなこと、本当に考えていてはいけないのであるが……

(先生…… エロいっす……)

心の声がそう言った。


 完全受け身、なすがままのオレ。ナスがママ? じゃぁ、キュウリがパパか。そんなくだらないダジャレで、エロに傾く気持ちを払いのけていた。

 先生の胸元そして太腿…… 白くて、ふっくら柔らかなそれらを、オレはチラ見していた。海パンに隠されたオレの縮こまったモノ。それが次第に目を覚まして行く……


 申し訳ない気持ちで一杯になった。

「先生、オレ…… もう…… 」

 そう、口に出そうとした時である。結び目が、僅かに緩んだ。

 先生の厳しかった表情も、それに合わせるように穏やかに緩み、結び目が解けた。

「さあ、これで大丈夫。早く着替えていらっしゃい」

 先生へのお礼もそこそこに、オレは更衣室へと駆け出していった。



 その日は、家に帰りついてからも、パピコ先生のことが頭から離れることはなかった。

 この感覚は何なのだろう。映画を見終わったときのような、ふわふわした感じ……

 微熱にでも浮かされているのか。その日は、早めに床に就いた。

 目を閉じる。目蓋まぶたよみがえる眩しい光景。


 水着姿のパピコ先生がいた。ひざまずき、オレのパンツの紐を解いてくれている。先生の顔の位置が近い。近すぎる…… きっと匂われている。

 先生の首すじからは、花のような香りが漂ってきた。


「オレ、恥ずかしいです……」

 クリンとした上目遣うわめづかいでオレを見る先生。口元が微笑んでいた。聞こえてくる息づかい……


 この情景、なんか見たことあるぞ…… 思い出した。クラスの男子で回し読みしたエロ本。そこで見た光景だった。

「先生、好きです。付き合ってください」

 そんな告白をしても、中坊のオレなんかに取り合ってはくれないだろう。そんなこと、百も承知だ。

 今はこの妄想劇場だけで十分だった。

 まとめた髪からヘアピンを抜く先生。天を仰ぎながら頭を振り、髪を解く。ふわりとした毛先が、オレの腹部をくすぐった。

 ビクン。オレの躰の一部が熱く、そして固くなってゆく。

 先生のピンを抜く仕草しぐさ。それがフラッシュバックする。

 オレもピンピンになったオレ自身を…… 抜いた。


 思春期だから。夏だから……

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