第二話 トントンの合図
リーザが泣き止み、レオンに見られないよう背を向けて、フリーデリーケに腫らした目を冷やしてもらっているうちに日が傾いてきた。
フリーデリーケに腫れが引いたか何度も確認し、自身も手鏡で確認してやっと納得できたのか、レオンに顔を向ける。
「レオン、お待たせいたしました」
「うん。大丈夫だよお義姉ちゃん」
リーザはふんわりと微笑むと、フリーデリーケに椅子を引いてもらい着席する。
ちょっとだけ気まずくてすっかり冷めてしまった紅茶を口にしていると、クララがレオンに何かを囁いた。
「お義姉ちゃんの部屋が用意できたみたいだからこれから行ってみない?」
ガタッと淑女らしくない音を立ててリーザは立ち上がる。
「早速行きましょう! すぐ行きましょう!」
「うん」
リーザはレオンの側に駆け寄り、先程よりもやや強くその手を握る。
レオンの手を引きながらずんずんと進み、東塔の最上階に到着すると、後ろを付き従っていたはずのフリーデリーケが、すでにレオンの隣の部屋の前に立っていた。
「隣同士の部屋だよ、お義姉ちゃん」
「ええ! 良かったですわ! でもまずレオンの部屋から見てみたいのですけれど、よろしいでしょうか?」
「構わないけどお義姉ちゃんが見て面白い物なんかあるのかなぁ」
「お義姉ちゃんは義弟の部屋を把握しなければなりませんの。仲の良い姉弟なら当たり前なのですよ」
そういうと、クララが開けたレオンの部屋の扉をくぐる。
「へぇ、これがレオンの部屋ですのね」
「お義姉ちゃんが好きそうなものがあれば良いんだけど」
きょろきょろとレオンと手をつないだまま部屋の中に入るリーザ。
レオンの部屋は、廊下の扉から入るとすぐに六人が座れる応接机と皮張りの椅子が置かれた応接室になっている。
応接室の右手の扉を開けると応接室の半分程の大きさの部屋があり、執務机や書棚が置かれている。
応接室の左手の扉を開けると寝台や衣装棚がある寝室で、執務室と同じ広さになっていて合計で三部屋の間取りとなっていた。
リーザはレオンの部屋を一通り見て気が済んだのか
「うん、確認しましたわ。レオン、次はわたくしの部屋に行きましょう」
今度は自分の部屋に行こうと言い出す。
「ちょっと待ってお義姉ちゃん、女の子の部屋になんて入れないよ」
「義弟はお義姉ちゃんの部屋に自由に出入りして構いませんのよ?」
えっそうなの? と疑問に思い周囲の大人たちを見まわすレオン。
クスクスと笑うだけで誰も答えてくれない。
沈黙を肯定と受け取ったのかリーザはレオンの手を引っ張り、おしとやかに、でも少し大股でずんずんと自分の部屋に向かう。
もう慣れっこになってしまったレオンは大人しく義姉に手を引かれながら歩いていく。
リーザが部屋に入ろうとすると、手をつないだままのレオンが少し躊躇した。
その時にリーザが構わず引っ張ったのでレオンがバランスを崩して倒れそうになる。
リーザはレオンが倒れないように抱きしめて支えると、これ幸いとそのままの体勢で部屋の中を確認する。
「レオンの部屋と全く同じですね」
置かれている調度品や家具、寝台などすべてがレオンと同じものが用意されていた。
養女の自分に王太子である自身の子と変わらぬ待遇をしてくれるランベルトにリーザは心から感謝をする。
机や書棚等収納家具の中身は自分の持ち込んだものが既にフリーデリーケによって入れられているだろう。
産まれた時から側についていてくれるフリーデリーケは姉のような存在だが、尋常じゃない程仕事が早い件に関してはすでにリーザは考えるのを諦めている。
実は三人ぐらい居るんじゃないかと推測しているが、二人以上同時に見たことが無いので確信が持てないだけだ。
「お、お義姉ちゃん......」
レオンが恥ずかしそうにもぞもぞしてるが気に留めることなく部屋の中を見ながら考えこんでいる。
そして何かを思いつくとレオンの手を引っ張って部屋の外に出ようとする。
抱きつかれて戸惑っていたレオンがやっと開放されてほっと溜息をついていると、リーザは部屋の外で待機していたカールに話しかける。
「カール、大変申し訳ないのですけれど、お願いしたいことがございますの」
何故わざわざ部屋の外で控えていた自分なのだろうと思いつつもカールは答える。
「姫殿下、いえリーザ様、なんでしょうか?」
「寝室と執務室の家具を入れ替えていただきたいのです」
カールは亡き父の爵位を継ぎ、伯爵位を叙爵されている高位貴族である。
だが流石に独身女性の、それも元公爵令嬢で、今は王の養女の寝台や寝具に触れるどころか部屋に入る事すら恐れ多い。
本来ならばまず女官が寝台の上に乗った寝具やその他家具に収納された衣装や私物など全て運び出した後でないと許されないのだ。
カールがいくら伯爵という高位貴族であっても親族でもない限りありえない話なのである。
でも行動力旺盛で微笑ましいほど頑張り屋なこの小さな淑女は、そんなことはお構いなしにカールにお願いしてくるのだ。
たしかに側近の女性に大型家具の移設を頼むのは酷と言うものだろう。
正式に手続きをすれば明日中には模様替えは終わる。
だがこの小さな淑女は今すぐになんとかしたいのだ。
カールは懇願するこの小さな淑女の願いを強く叶えたいと思った。
カールは少し困った顔をしながらレオンとリーザの側近を見ると二人は小さく頷いている。
「絨毯に少し跡が残るかもしれません」
「問題ありませんわ! カール! 是非お願いします!」
キラキラと輝くサファイアのような目を大きくしてリーザは答える。
親衛隊より選抜されたレオンとリーザの護衛隊士にはカールの他にも数人控えている。
特に東塔は王の執務室があり、王族の生活区域となっているので、至る所に護衛隊士がいるし、一階には親衛隊の詰め所がある。
しかし、もし何かあった時に責任を取るのは自分だけで良いとカール一人で作業をすることにした。
カールは家具を傷つけない為に鎧を脱ぐと、一礼してリーザの部屋に入る。
多少引きずる事にはなるだろうが動かせない事はない。
書棚に収められた本、執務机の中に入れられたもの、寝台の上に乗った寝具、衣装棚の中のものなどを取り出す事と家具を引きずった時に残るであろう絨毯の後処理を女官たちにお願いする。
「カール、わたくしも手伝います」
「リーザ様、私一人で大丈夫ですので」
「わたくしこうみえても力持ちなんですのよ」
「いえ、私にお任せください」
カールが困ったようにフリーデリーケを見る。
王族に手伝いをさせるなどとんでもない事なのだ。
その助けを求める目を見てフリーデリーケがリーザをたしなめる。
「姫様」
「わかりました。ではカール、申し訳ありませんが寝台はこちらの壁に寄せてくださいませ」
「かしこまりました」
「机はこちらにお願いします」
「お任せください」
カールが四半刻もかからずリーザの希望通り家具を配置できたのは、流石レオンの剣術指南役に選ばれる膂力の持ち主といったところか。
「カール! ありがとう存じます!」
そういうとリーザはレオンから手を離し両手が自由になるとポシェットから箱を取り出す。
その箱の蓋を開け中身全てを取り出すと、侍女を介さずそれをそのまま全てカールに手渡そうとする。
カールは慌てて跪くと、その中身を受け取る。
「お礼のアプフェルボンボンです。フリーデリーケに作って頂いたわたくしのとっておきなのです」
一つ一つ丁寧に紙に包まれたそれはリーザの為に作られたとても大事なものだとわかる。
箱の大さから出てきた量を比較すると、既に半分以上は無くなっているようだ。
故郷を思い出して少しずつ大事に食べていたのかもしれない。
先程のレオンとのやり取りを見ていれば、リーザがどれだけ林檎を大切に思っているか知っている。
それにカールは先の大戦の際、幕舎でランベルトとオットマールの会話を聞いて、檸檬と林檎の持つ意味を誰よりも理解している。
――大事なものだからお礼になる。
きっとリーザはそう考えて今自分の手元にある大事なものをカールに渡して感謝の気持ちを示そうとしているのだ。
しかも侍女を通さずに王族手ずからの褒美だ。
高位の爵位の叙爵式典のような場合でも無い限り、王族から直接褒美を手渡しされる機会など無いのだ。
「いいえ、リーザ様。私はリーザ様に喜んで頂けただけで嬉しいのです。褒美など必要ありません」
「ですが......」
にっこりと、本当にうれしそうに微笑むカールを見てリーザは戸惑う。
自分のわがままで重労働をさせてしまったのだ。
この場にいる護衛隊士全員とリーザ自身が手伝えばすぐに終わると安易に考えてしまっていた。
大事に少しずつ食べていたアプフェルボンボンも護衛隊士全員分位はまだ残っている。
でも実際はカール一人だけに大変な思いをさせてしまったのだ。
「どうしても受け取っては頂けないのですか? 本当に美味しいのです」
今にも泣き出しそうなリーザを見てカールは折れる。
「では、ひとつだけ頂きます。リーザ様、ありがとうございます」
残りのアプフェルボンボンをリーザの箱に戻してあげると、リーザは大事そうにその箱をポシェットに仕舞う。
「是非召し上がってみてくださいませ。本当に美味しいのですから!」
カールに受け取って貰えてよほど嬉しかったのか、リーザはまた先程のキラキラした目でカールを見つめる。
カールは包み紙を開くと、まるで琥珀のような、とても丁寧に作られたボンボンが現れた。
それを見た瞬間、カールはこのボンボンがどんなものなのかを理解できた。
――ああ、この小さな淑女にとって、これは本当に大事なものだ。
カールはそのボンボンを一瞬躊躇しながらも口に入れ、リーザに言う。
「リーザ様、大変美味しゅうございます」
その言葉を聞いたリーザはぱっと花が咲いたような笑顔を見せる。
「そうでしょう! フリーデリーケの作るお菓子は大陸一ですのよ!」
カールは領地を失ったとは言え伯爵位の高位貴族だ。
王都にある家屋敷には、既に売り払ってしまったが宝石の類などはいくらでもあったし社交の場などで目にした機会も多い。
でも先ほど見たサファイアと琥珀より美しい宝石は未だ見たことが無い。
なるほど、これが人を惹き付ける魅力というものなのであろうと一人納得するのだった。
菓子を誉められて上機嫌なフリーデリーケが一度出した荷物を家具に戻し、少し残ってしまった絨毯の跡をクララがブラシで丁寧に直す。
「申し訳ありませんが後をよろしくお願いいたしますね」
リーザは部屋に残る二人にそう言ってレオンの部屋に戻ると、レオンと一緒に寝台に乗ってはちきれんばかりの笑顔で言う。
「ねぇレオン、もし夜にレオンが寂しくなったら、ここの壁をこうやってトントンって叩くのですよ。そうしたらお義姉ちゃんがすぐにトントンってお返事をしてさしあげますからね!」
レオンが少しでも寂しくないように。
寂しい事は辛い事だとわかっているから。
そんな思いをレオンにはさせたくないから。
我儘だとわかっていても。
大事なとっておきを全て使ってでも。
リーザはレオンの寝台と壁一枚挟んだ場所に自分の寝台を移動して貰いたかったのだ。
レオンが辛い時にはすぐに慰めてあげられるように。
「カール、ごめん。こちらの寝台も壁に寄せてもらっていいかな」
「お任せください」
広い寝室に不自然に壁に寄せられた寝台。
それは今日一日で縮まった二人の距離。
いつか壁も無くなるだろう。
壁があっても二人の心が通じる方法があるのだから。
二人が寝台の上で話をしていると絨毯を直し終わったのかクララが部屋に入ってくる。
「レオン様、リーザ様、お風呂の準備が出来ましたのでご入浴ください。身を清めた後は夕食でございます。もちろん浴場は男女別れておりますので一緒に入らぬよう気を付けてくださいませ」
リーザはぶーと不満顔だが、レオンは流石に一緒に入浴するのは考えられなかったのでほっとため息をついた。
◇
「食事の支度が整いましたので食堂の方へお越しください」
身を清めた後に新しい服に着替えさせてもらった二人は、自然に同時に手を出して握り合い、食堂へと向かう。
「レオン、行きましょう」
「うん、お義姉ちゃん」
ランベルトは既に上座に座っていて、手をつないで入ってくる二人を見て頬を緩めた。
「お義父様、素敵なお部屋を頂きありがとう存じます!」
元気いっぱいにお礼をするリーザに応える。
「何か他に必要なものがあれば何でも言いなさい」
「はい!」
王族の食堂には同時に十人ほどが使える大きな長方形の食卓が置いてあり、上座には王であるランベルトの席、ランベルトから見て既にクララが控えている左側が、レオンの席、フリーデリーケが控える右側がリーザの席となっていた。
リーザは手をつないだままレオンの席まで行き、レオンを座らせると、名残惜しそうにその手を放し、下座を回って自分の席に向かう。
先程まで東塔内を自由闊達に歩いていたリーザがまるで別の人間の様に気落ちしてとぼとぼ歩いている。
レオンもそんなリーザを心配そうに見ているのを見てランベルトはもう笑いが堪えられなくなった。
今日のアプフェルシュトゥルーデルとツィトローネンゾルベのいきさつも既に報告を受けている。
昨年の冬は暖冬で雪や氷が少なく、ツィトローネンゾルベに関しては亡き妻に捧げる分とレオンの分しか作れなかった。
レオンは自分の分だけを氷室から取り出しリーザに与えたのだろう。
ならば今年の夏は、量は少ないけれど妻に捧げる分をレオンとリーザ二人で分けて食べれば良い。
きっとシャルロッテもそう願うはずだ。
「リーザ、レオンの横に座りなさい。レオンもよいか?」
「はい父上」
「お義父様、よろしいのですか?」
「ここは家族だけの食事の場だ、好きなように座ればよい。ただし食事中に手を握るのは禁止するからな」
「ありがとう存じます! お義父様!」
普段政務で忙殺されているランベルトだが、夕食だけは可能な限り家族そろって食事をすることを心掛けている。
書類を持ち込んだり、複数の側近と打ち合わせしながら夕食を摂ったりして
フリーデリーケがリーザの食器をレオンの隣の席に移動させる。
それをにこにこしながら、ナプキンを膝の上に置き、ご機嫌良く待つリーザ。
各自に飲み物が注がれると、ランベルトの「今日も家族の健康と平和に感謝」と声を出し、食事が始まる。
ライフアイゼン王国は多神教だ、各部族の信仰の対象を寛容に受け入れて拡大してきた。
祈りをささげる施設の礼拝所があるが、そこには様々な神の像や絵画、お札などが置かれ、それぞれの信仰に合わせて自由に祈ってよい事になっている。
ただし、礼拝堂での説法は禁じられ、宗教の勧誘はこの国の至る所で禁止されている。
信仰の対象は様々で、太陽神や軍神、商売の神や豊穣の神などの有名どころを始め、庶民の下着の神様や調味料の神様などランベルトですら把握出来てない神がいる程、多種多様なのだ。
そんな緩い宗教観であり、食事の時はこの神、戦争の時はこの神、商売を始める時はこの神に祈る、とまぁ都合の良い存在として扱われている。
犯罪的、倫理的な問題さえなければ禁忌とする行為や食物もほとんどなく、大陸で最も治安の良いライフアイゼン王国は、理想の国家と呼ばれている。
食事の挨拶について聞いてきたリーザに、話しかけられてご機嫌なランベルトが長々と説明していると、ランベルトの話よりレオンが気になってしょうがないのか、同じように父親の話をうんざりした表情で聞いているレオンの世話をしだした。
「まぁレオン、口元にソースがついてますよ。お義姉ちゃんが拭いて差し上げますね」
「レオンは人参が嫌いなのですか? 好き嫌いは駄目ですよ。でも今日だけはお義姉ちゃんが食べて差し上げますね」
「レオンは鶏肉が好きなのですね。お義姉ちゃんの分を少し分けて差し上げますね。いっぱい食べて大きくならないといけませんよ」
「レオン、その果実はまず皮をむくのです。お義姉ちゃんが代わりにお手本を見せますのでちゃんと見ていてくださいませ」
甲斐甲斐しく世話をするリーザに、レオンは少し照れ臭そうに、でもまんざらでもない様子で礼を言う
「そう言えば、先程のトントンの合図を色々決めるのを忘れていました」
「トントンの合図?」
「そうです、例えばトントンと二回叩いた場合は<おやすみなさい>、三回叩いた場合は<起きてますか>みたいな感じですね」
いつの間にか無視されていることにやっと気づいたランベルトは
「じゃあ六回トントンしたら<お義父様おやすみなさい>と言うのはどうだ」
「お義父様のお部屋はわたくしたちの部屋から離れていますから聞こえないと思いますわ。一応トントンしてみますけれど」
と軽くあしらわれて撃沈した。
フリーデリーケはリーザとランベルトのやり取りを見てつい頬が緩んでしまった。
リーザはもうランベルトを実父であるローゼ公と同じように接している。
自分以外にはわからないだろうがちょっと照れ臭そうにしてるのが何よりの証拠だ。
いや、察しの良いレオンはもう既に気づいてるかもしれない。
リーザにとってレオンとランベルトは本当の家族になったのだ。
ただランベルトはリーザの気持ちに気づいていないかもしれない。
娘と男親の関係というのはそういうものだ。
意気消沈しているランベルトを見て次の報告時にはそれとなく伝えておこうと思った。
フリーデリーケはランベルトから「俺の可愛い愛娘について一日三回以上の報告をしてくれ」と直々に密命を受けているのだ。
――次に実家に戻った時は父様にお菓子でも作って差し上げようかしら
食事が終わったランベルトがしょげ返って執務室に戻る。
残された二人は食後のお茶を飲みながらトントン合図の話をしていたが、いつのまにか単語や文節の意味を持った、もはや会話というべきトントン会話法についての会議に発展していた。
新しい言語を開発する位なら、もう一緒の寝台で寝て話した方が早いのではないかと疑問に思ったクララが、その会議を中断させる。
「レオン様、そろそろ講義の時刻です。リーザ様もご一緒なされますか?」
「クララ、わたくしもご一緒してよろしいのですか?」
「はい、陛下より既に許可を頂いております」
今夜は講義のお礼も兼ねてランベルトの部屋に近い方の壁を六回叩いてあげようと考えたが、先程レオンと会議で決めた内容では六回叩くと<トイレ>の意味になってしまうので壁を叩くのをあきらめた。
もしレオンに聞かれ、夜急にトイレと言い出す義姉だと思われるのは絶対に嫌だ。
ならばせめてお義父様おやすみなさいと扉の前まで行って挨拶した上で六回ノックするべきか。
もしくはトイレの意味からお義父様おやすみなさいに変更するか、でも六回をトイレと決めたのはレオンだ。
お義父様も優して下さるし大事な人だけど、お義姉ちゃんにとって義弟を最優先に扱うのは当たり前なのだ。
「お義姉ちゃん、変な事考えてるでしょ」
むにゃむにゃと難しい顔で考えていたリーザは、何故この義弟はわたくしの心が読めるんだろうと不思議に思いながらも
「そんなことはありませんわよ」
と否定しておいた。
嘘だけど、多分これもレオンにはわかるんだろうなと思うとリーザはつい頬が緩んでしまう。
どうでも良い事はさておいて勉強の件だ。とリーザは切り替える。
「どちらで勉強するのですか?」
「いつも通りですとレオン様のお部屋です。資料が大きかったり大量だったり、講師の方が複数の場合だったりすると、二階の談話室や会議室で講義を行ったりします」
「どんな内容なのですか?」
「本日は財政と現在行っている開拓事業の講義との事です」
「わかりました、それならばわたくしがご一緒してもお邪魔にならないとおもいますわ」
「じゃあお義姉ちゃん一緒に行こう!」
今日初めてレオンがリーザの手を引く。
一人で受ける講義は、大切な事だけど退屈でもあったのだ。
この素敵なお義姉ちゃんと一緒に勉強できるのなら勉強の時間も楽しいものになるかもしれない。
そんな希望でレオンの足取りも軽くなる。
嬉しそうにリーザの手を引くレオンを見て、リーザは思わず笑顔になってしまう。
レオンの自室の前には、既に講師として呼ばれた文官が跪いていた。
「殿下、姫殿下、お初にお目にかかります。
「レオンです。これからよろしくお願いします、先生」
「リーザ・ローゼ・ライフアイゼンです、こちらこそよろしくお願いいたしますね。マイアー先生」
「先生などと恐れ多い、是非ハンスとだけお呼びください」
「でも先生、侍郎という事は正四品上で高級官僚なのですからそれほど畏まらなくても、ねぇリーザお義姉様」
<お義姉ちゃん>じゃなくなってる事に少し残念に思いながらも、これはこれで新鮮だなと思ったリーザはふと気になった。
「レオン様は今まで、講師の方をどうお呼びになっておられたのですか?」
リーザに様付けで呼ばれたのは出逢った一瞬だけだったなと振り返りながらレオンは答えた。
「先生とお呼びしてました」
「なんと! 今までは昇殿が許される最低限の五品相当官を充てておりましたが、まさかそんな不遜な事を」
「いえ、こちらは教わる立場なのだからとわたしからもお願いしましたし、最終的には父上の御裁可で決まった事です」
「陛下が......では誠に恐れ多い事でございますが、そのようにお呼びください、ですがマイアーでなくハンスとお呼びください」
「「わかりました」」
ハンスは立ち上がると二人に入室を促した。
レオンやリーザの部屋に備え付けられた机はランベルトも使用する大きいサイズのものだ。
複数の講師が張り付いても大丈夫なようにと置かれた机を見て、レオンとリーザはこれを一人で動かしたカールの凄さを実感する。
その机にはレオンの椅子と、急遽用意されたリーザの椅子が並んで置かれていた。
「では始めましょうか、殿下、姫殿下」
「先生、わたしたちの事はどうぞレオン、リーザとお呼びください」
「まさか先任の講師もそのように......」
「いえ、流石にそれは固辞されました」
「そうでしょうとも、不遜が過ぎます。そもそも公卿ですらない私たちにとって、本来は陛下や殿下とは御下問が無ければ発言すら許されない立場なのです」
「残念ですわ」
講義中にレオンにお義姉ちゃんと呼んで貰うのはまだ先だなと思いながらハンスの講義を受けるリーザだった。
◇
「大変申し訳ありません。そろそろ定刻ですので、講義は終了させていただきたく存じます」
結局自己紹介と、お互いにどう呼び合うのかやら社稷の臣として超えてはならぬ一線だやら等の問答で時間の大半を使い、次回以降の講義内容の概要と現在の国の状況の説明だけで終わった。
「どうもありがとうございました」
「次回もまたよろしくお願いいたします、ハンス先生」
恐縮しっぱなしのハンスは深く頭を下げて「失礼いたします」と言って退出する。
ハンスが退出した瞬間からお義姉ちゃん発動である。
即座にレオンの手をぎゅっと握る。
「レオン、就寝の時間までわたくしの部屋でお茶を飲みながらお話しませんか」
カールも即陥落したサファイアの目でおねだりされたレオンは、笑みを浮かべながらトントンと机を六回叩く。
それを聞いたリーザは
「わたくしはもう子供ではありません!」
ぷりぷり怒りながらも手は離さないリーザ。
「お義姉ちゃんごめんね」
「お義姉ちゃんをからかう義弟なんて知りません。ぷいっ」
結局二人は夢中になって話をしてる途中でそのまま寝てしまい、それぞれの専属の侍女に寝台まで連れて行って貰うのだった。
だが、フリーデリーケに寝台に乗せられた時に、不意に目が覚めたリーザが何かを思い出したように言う。
「フリーデリーケ、申し訳ありませんがひとつお願いがあります」
「なんなりと」
「もしお義父様が早めに自室に戻られたら、わたくしがもし寝てしまっていたとしても教えて欲しいのです」
「就寝前のご挨拶ですね」
「はい。といってもあまり深夜にご挨拶してしまうとお気を遣わせてしまうかもしれませんし、フリーデリーケの負担もありますので」
「わたくしの事はお気になさらずともよろしいのですが、たしかに深夜にご挨拶されても逆に姫様の睡眠時間の事を気にされるかもしれません」
「ですので、そうですね......就寝の為にレオンと別れてから半刻ほどの間に、お義父様が自室に戻られた場合には教えて頂きたいのです」
「かしこまりました」
「今日は優しく接してくださるお義父様につい甘えてしまいました。お詫びにならないかもしれませんがせめて就寝前のご挨拶だけはしたいのです」
「ふふっ姫様、それほど気になさらなくて大丈夫のようですよ。クララ様もそのように申されておりましたし」
「今日はお義父様は自室に戻られていらっしゃるのでしょうか?」
「はい、先程戻られたようです」
「ではご挨拶に伺いましょうか」
「かしこまりました」
そういうとリーザは自室を出て、ランベルトの部屋の前まで行き、扉を六回トントンする。
「お義父様、お仕事お疲れ様でした。お休みなさいませ」
と中にいるランベルトにも届くように声もかけると自室に戻る。
「これでいつもお忙しいお義父様が少しでもご自愛くださるとよろしいのですけれど」
フリーデリーケは、かえって仕事に手がつかなくなるのではと思ったが敢えて言わずに
「姫様、大丈夫ですよ」
と返事をするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます