第2話
「良かったです。今になってあんなに美しい桜を見ることが出来るなんて・・・思いもしませんでした。ここには毎日来ているのに全然気が付かなかった。教えてくださってありがとうございます」
ベンチに戻って、さっきと同じ席に二人で腰掛けると、私は女にそう告げました。
「花も・・・きっと見てくれる人ができて、嬉しかったでしょう」
女はきまじめな顔をしてそう言いましたが、ふと小首をかしげると女ものの古い腕時計をちらりと見ました。アンティークぽい時計の、艶めいた緑色の革の留め具が良く似合う白く細い美しい腕でした。
「大学の授業は宜しいの?」
午後からは教授との時間を取っているので、大学に戻らないといけません。腕時計を見ると時間はあと15分ほどしかありませんでした。
「もう帰らなければなりません。残念ですが」
残念、に力を入れてそう言ったのを女は気づいたのでしょうか。ふふ、と小さな声を上げました。
「僕は、橘といいます。橘真人」
あらという風に女は、微笑みましたが、でも、と呟き
「もう、お行きなさいな。明日もきっとお会いできるでしょう。私はハルコというの。季節の春に子供の子」
春子は小さく右手を胸の上に翳すと春という漢字を書く真似をしました。その舞うような姿に、私はどんなに嬉しそうな表情を見せていたのでしょう。名残惜しげに神社の石段を降りながら、春子を振り向くと、
「危ないわ。前を見ておりなさいな」
にっこりと笑い、春子は小さく手を振りました。私は金属製の手すりを掴んで春子に手を上げるとそのまま振り返らずに石段を下りました。
その日の教授との打ち合わせは私の論文に関してのものでしたが、私のいう事は全くとんちんかんなもので、教授もさすがに不審を感じたらしく、こつこつと細く骨ばった人差し指で机を叩きながら
「君は良く眠れていないのか?」
と私に尋ねました。それは察しの悪い人間と話をする時の教授の口癖でした。頭が悪いと言えば本人を否定することになる。だから察しの悪い人間にはそう言って突き放すというのが教授の優しさであるということは承知していました。ですがそれを知ったうえでも要領よく答えることができない私に、
「とにかく今日は帰ってきちんと寝たまえ」
厳かにそう宣言すると、教授はくるりと振り返りまるで私が居ないかのように書籍を読み始めました。そんなぞんざいな扱いを受けても私はまるで気にならず、春子との明日の出会いにうきうきとした気分で教授室を後にしました。
教授室へ向かう廊下で同じ教授に師事している女性の院生に会いました。松尾麗子と言う名のその学生は、私をまじまじと見ると、目を細め
「何か、良いことがあったのね」
と、冷たい声で言いました。よほどにやにやしていたのでしょう、私は慌てて表情を消しました。
「いいことがあったのでしょう?女?」
麗子はそう繰り返すと、眼を逸らし教授室の扉を開けるとするりと部屋の中に入っていきました。その素っ気ない態度に呆れましたが、彼女に限ってはよくあることでしたのであまり気にも留めませんでした。
あくる日は本当なら休む曜日でしたが、私はいつもと同じ時間に昨日春子と出逢った神社に行きました。普段は願掛けなどしない私でしたが、その日に限っては百円玉を賽銭箱に放り入れ、きちんと柏手を打ちました。暫く頭を下げてからふと振り向くと、春子が私を見つめていました。
「何をお祈りしていらしたの」
にっこりと笑って、春子は尋ねてきました。
「今、来たのですか?」
まるで年寄りのように、真剣に神社にお祈りをしているところを見られた恥ずかしさに頬が火照るのを感じながら、私は彼女の質問をはぐらかしました。
「ええ。今、着いたところです」
そう言うと春子は、嬉しそうに
「お会い出来てよかったわ」
弾むように付け加えました。私も同じ気持ちでした。どうして春子と同じように率直に自分の気持ちを私は言えないのでしょう。春子の美しさと、優美な仕草に私は強く惹かれていました。そして衒いのない彼女の物言いは、私の周りにいる誰にもない魅力でした。
「お祈りしていたのではなく、感謝をしていたのです」
春子は、問うように私を見つめ、私は、できるだけまじめに聞こえるような口調を心がけて、言いました。
「あなたに会うことが出来たことを」
春子は、あら、と呟いて、それからその頬がほんのりと桃色に染まっていきました。
「だって、お会いしたばかりなのに」
春子は、そう言いましたが、けして嫌そうな響きではないと思えたのは、私の思い上がりでしょうか。
「でも、本当にそう思っているのです」
「そんな事はおっしゃらないでくださいな」
春子は頬を染めたまま、私を軽く睨むようにして、
「恥ずかしくて、二度とお会いできなくなるわ」
私がじっと見つめると彼女はすっと目を逸らしました。その姿はいじらしく、愛らしく思えました。
「ねえ、勉強なさっていることを私にも少し教えてくださる?」
春子が話題を変えてくれたことに感謝しつつ、私は彼女にアリストクラスやイソップのことなどを話し始めました。大抵の人が興味を示すとも思えないその話題に意外に春子が熱心に興味を示すことに私は少し驚きを感じていました。
「いいのですか、こんな話で」
途中で、私は話を止めると春子の目を見ました。春子は、髪を少し掻き揚げて
「私は大学に行けなかったから、そういうお話にとても興味があるのです」
聡明そうな漆黒の目に、輝きを添えて春子は私を見ました。ですが、寂しそうに目を伏せると
「残念ですね。聞くのが私みたいな人で。甲斐がないわ」
と呟きました。
「そんな事はありません。とても興味を持って聞いてくれているので、話すのが楽しいです。大抵の人は僕が話すと暫くして目が泳ぎ始めてしまいます」
私が熱心にそう言うと。
「そうですの?それは残念ね」
春子は自分のことのようにがっかりした表情で私を見ました。
「気にしていませんよ」
私は快活に言って、
「あなたのように真剣に聞いてくれる人ばかりだと良いのですけれど。あなたは特別です」
そう付け加えると、横に座った春子のうなじが、先ほどの頬のように薄く血を上らせました。
その日から、私は毎日春子と昼間の一時間ほど話をするようになりました。薄曇の少し寒い日には、春子はギリシャ数字をあしらったカドゥを寒さ凌ぎに首に巻き、その縁の殊更に深い青みが色白の彼女を美しく飾っていました。
それから半月ほど過ぎた頃でしょうか、ある夜、私は事前のアポイントもなしに大学の教授の部屋に向いました。教授がその時間に在籍しているかは疑問でしたが春子との逢引に時間を割かれ、論文の完成が遅れていて、私は内心焦っていました。私と麗子以外がほとんど訪れることのない三階の一番奥の部屋のはまだ灯りが付いていたのでドアをノックしようとしたとき、その部屋から微かにくぐもるような声が聞こえてきました。
先着の人間が居たのか、とがっかりしましたが、その声が会話とも思えない声で、私は思わず扉にある覗き穴から部屋を覗き込んでしまいました。覗き穴が壊れていて外からも中が見えるというのは松尾さんが見つけて私に教えてくれたことです。もちろん普段ならけしてそんな事はしないのですが、それほどに気になる声だったのです。
奥まったところにある教授の椅子の上で、麗子が白い素足を椅子の横から突き出すようにして体を上下に揺すりながら、その穴の奥からあたかも探るように私を見つめていました。首から肩の白いシルエットと腿まで露わな足が、麗子が裸でいる事を示しています。私はたじろぎ、危うく声を上げるところでした。麗子は穴の向こう側から私を挑むように見つめると、一層深く体を沈め、首を反らせました。麗子の髪が揺れ、驚いたような男の声が聞こえました。その声が教授のものであることは明らかでした。麗子の白い胸が埃っぽい灯りの中で躍るように揺れ、そして男を強く抱きしめるようにして再び挑むようにハシバミ色の薄い色素の目で私を見ました。そのとき麗子は確かに私に向かって微笑みかけたのです。私は後ずさり、部屋から逃げるように離れました。
教授が担当している院生は、その年は麗子と私だけでした。麗子は優秀な上ラテン語にも堪能な学生で、教授のお気に入りでした。その麗子が教授と教授室で性交をするような関係になっているとは私には想像もつかないことでした。教授の精液を体に受けて嫣然と微笑んでいる麗子の姿は男女関係に疎い私にとって余りに生々しく、これからその二人を見て動揺せずに居られるか全く自信のないことでした。
覗き穴から覗いた私を麗子は明らかに気づいていたように思えました。あんな場所で担当教授とそんな淫らな行為をしていながら、気づかれても全く動じない麗子に、私は怯んでいました。
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