枝垂桜奇譚(しだれざくらきたん)
西尾 諒
第1話
読みさしのページに何かが音を立てて跳ねると、脇に置いてあった鞄を超えてどこかへとんでいきました。驚いて私は空を見上げました。見上げた先には桜の枝越しに空に掛かった薄雲が漂っているばかりで、視線を戻せば、枝のそこここに、まだ緑の薄い、
だが、それだけです。
「何だろう?」
見回すと、神社の庭の隅に吹き溜まった褪せた桜の花びらの上に、可憐な少女の死骸のような
その一つが、私の本の上で跳ねたのに違いありません。
私は自分の臆病さに苦笑いをして本に目を戻しましたが、その時、ついでだとでもいうように気まぐれな風が本の栞を、ふっと攫って行きました。
あっと思う間もなく、 敷き詰められた白い小石の上にひらりと舞って行った栞を、いつからそこにいたのか若い女が腰を屈めて拾って私の方に差し出しました。黒く長い髪と卵のようなするりと形のいい貌、大きな瞳の下の透き通るような頬に少し桜色が指していて、鼻筋のとても美しい女でした。
「どうぞ」
差し出した手の白い指がすらりと細長く整っているのを見て、なぜか私は狼狽えて
「どうも」
と小声で両手で栞を支えるように受け取りました。女はくすりと口許に笑みを浮かべて、
「いつもここで御本を読んでいらっしゃるのね。この間、お花が満開のときも見かけました」
確かに私はほとんど毎日、昼時にはこの神社に来て本を読んでいますが、目の前に立っている女に見覚えがありませんでした。見かければ覚えていないことはないほど美しい女ですから、私は読書に気を取られて見損なっていたのでしょう。
「 すみません。気が付きませんでした」
そう私が答えると、ふっと柔らかな笑みを浮かべながら、女は尋ねてきました。
「いつも、熱心に本を読んでいらっしゃるのね。学生さんですか? 」
近くの大学院に通っている私は頷きました。
「何の御本?」
古代のギリシャの詩と寓話の研究資料を図書館から借り出して読んでいた私は、本の背表紙を立て、女に見せました。女は本の背を覗き込むようにしました。
「あら、外国の御本?難しそう」
「難しくはないけれど・・・あんまり普通の人には興味のないものです」
「お隣にかけても良いかしら」
私の無愛想な答えをさらりと受け流して、女は私の目を真っ直ぐに見つめてきました。
「ええ、どうぞ」
私は更に狼狽えてそう答えました。
「ありがとうございます」
女は私の横に座り、空を仰ぎ見て、
「もう葉桜ね、さみしくなりましたね」
そう言いました。つられて、私も桜の枝を見あげました。まだ枝の先のほうに心細げについている花は風に揺られて今にも散り果ててしまいそうです。
「ほんとうに」
女のすっきりとした横顔は涼しげで、細身の体を包む白い薄手のブラウスの胸の辺りが形良くふくらんでいるのを見て、私は落ち着かない心持になりました。美しい頤と頬の上にくっきりとしたアーモンドの形をした目の深く黒い色の眸が、春の日差しと葉桜の陰で揺れているのをそっと盗み見ていると、不意に女は私の方を振り向きました。
「ここの桜はソメイヨシノじゃないのですよ」
「そうなのですか?」
桜といえば、ソメイヨシノだと思っていた私は桜の樹を見上げました。
「これはエドヒガンという花です」
そう言って、女はもう一度桜の幹に視線を遣りました。
「そういえば、確かに他の樹よりひとまわり大きいような気がします」
答えながら、私は女の美しい横顔から目を離せずにいました。
「ソメイヨシノは長生きが出来ないの。随分と弱い木なのです」
女は、病気がちの妹を悲しむように呟きました。
「桜に・・・詳しいのですね」
「そうでもありませんけど」
女は私を振り向いて微笑みました。長い髪からふっと良い香りが匂い立ちました。
「御本はいいんですの?」
「ええ、そんなに急ぎでもないですし。本はいつでも読むことが出来ます」
「お邪魔をしたのでなければよいですけれど」
「いえ。」
そう短く答えると、女が髪を掻き揚げるような仕草をして立ち上がりました。そしてどきりとするほどまっすぐに再び私を見つめると
「まだ、咲いている桜もありますよ。時間があるならご覧になります?」
「そうなのですか。ぜひ見たいです」
答えると、女は少し首をかしげ、では見に行きましょう、と言いました。
堂の裏が小さな丘になっていて、小径を少し行くと麓にしだれざくらが濃い色の花をつけてまだ咲き誇っていました。
「ああ、きれいですねえ。」
女は、感嘆している私を振り向いて嬉しそうに笑いました。私はうっとりと花を眺めました。花の色は濃く艶かしく、いつも見ている薄いピンクの桜とは別の種類のように見えます。
「これはずいぶんと古い木で、紅枝垂という桜です」
いとおしそうに木の幹を触った女はちょうど私の肩くらいの背でした。濃く黒い長髪は艶々と流れるように白いブラウスにかかっています。
「そんなに古い木なのに、こんな美しい花をつけている。素晴らしいですね」
私がそういうと女は右手を木の幹に添えたまま紺色の裾の長いスカートを抑えるように風を避け、
「本当に」
そう言いました。それは、肯定のようにも疑問のようにも聞こえるアクセントで、私はそれがどちらなのか解けぬまま、小さく頷きました。女は嬉しそうに、
「裏手にある木ですから、あまり人が気づかないのです」
「それは残念ですね」」
「それに皆さん、ソメイヨシノの花のときしか、桜をめでることをなさらないから」
「そうですね」
そう答えた私には、女の少し悔しそうな表情がほほえましく思えました。
「こちらの方がずっと美しい姿と、美しい色をしているように思えませんこと?」
そう言った後、女ははっとしたように私を見て
「嫌だわ。わたし・・・むきになってしまって」
言いながら顔を赤らめ木の幹から手を離しました。
「そんな事はないです。本当に奇麗な花です」
風がごぅと鳴りました。桜が揺れ、枝同士の触れ合うかすかな音がしたような気がしました。平成になって最初の年の春でした。
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