第2話

お稲荷さん


「ウォゥ」と声を上げてガバリと夜具を跳ね除けて、心太が起き上がると同部屋の手代松吉さんが「うるせぇいぞ」と寝言の様な声を出して窘めたので、心太は夜具を被り直して目を閉じて丸まった。


今のは何だ。

ゆるゆると夢の中で見た光景をどうにか思い出して辿っていく。

夢はいつだって茫洋として掴み所が無く、急に場面が変わって早く忘れてしまえと言わんばかりに記憶の狭間に落ちていってしまう。

それでも心太は、一番記憶に残った場面をぎゅっと目をつぶって思い出そうとすると、突然小さな祠と朽ちかけた鳥居にぎらりと光った目をこちらに向けたお狐様が脳裏に浮かぶ。

アレは何処だ。

「知っているのか」と記憶の底を流れる様に辿っていくが、とんと思い出すことが出来ない。ううむと考えに浸っているといつのまにかまた夢の淵に佇んでいた。


これはご隠居様の記憶かと瞬く様に理解する。では、あそこで熱心に祠を掃除しているのは先代の五郎平様か。

四角いアバタ顔をほころばせて振り返ると、何か一生懸命に話しかけている。

ご隠居様が温かい心持ちで頷くのが分かる。


「起きやがれ」ぱしっと頭を叩かれて、心太は飛び上がる。

「明け方に変な声出して人の眠りを邪魔しておいて、人より余計に寝ようとは図々し野郎だなぁ。」と松吉さんがニヤニヤして心太を起こした。

「朝ですか。」と間抜けな声を出して心太は、ボンヤリした頭で夢の中光景を忘れぬ様になぞりながら、体はキビキビと朝支度を始めた。


墓参りに向かう途中で、こんな夢を見たんですと、ご隠居様に話し出すと、おとめは口の中でで「クワバラクワバラ」と唱えながら、声が届かないくらいの距離を取って前を歩き出す。

ご隠居様と心太は、そんなおとめの姿を見てふっと目顔で笑い合ってから、夢の話の続きを語っていくと

「あっ、あぁ」口の中で呟き

「そう言えば、」「あそこかね」

とご隠居様は一人で相槌を打っている。

心太は、その呟きに気づかぬふりをしてぼんやりとした夢の道筋を少しでも分かるようにと言葉を選んで話していく。


「ちょっと寄っていこうかね」

とそう言って、ご隠居様が徳寿院へ向かう道をひょいと左に逸れてたものだから、おとめは慌てて「あら嫌だ」と小走りに追いかけて来た。



着いたのは火除け地で、昔は武家屋敷と長屋が在ったらしいが、大火事の後、お上から「空き地にするべし」とお達しが来てから久しい。

そんな空き地の片隅にこんもりと草葉が生い茂っているところを目指してご隠居様の足取りが早くなる。

その草叢をちょっとよけて中に入ってみておくれと心太に注文を出して、ご隠居様は中を覗き込んでみる。

やっぱりここだったねと小さな祠と鳥居を目に入れると、しゃがみこんで熱心に祈りはじめた。

おとめも心太も理由も聞かずにご隠居様に倣って横にしゃがんでこうべを垂れた。



奉行所で下された結果を染井村まで届けるのに、雨の中を心太は蓑笠を揺らしてひた走る。

本降りの雨は、他の音を一切遮断して自分の息遣いと蓑笠が擦れるかしゃかしゃという音だけになり、心太は一昨日の話を繰り返し思い出していた。


五朗平が心の拠り所にしていた今は打ち捨てられたお稲荷さん。

その話を思い出したとご隠居様が語ると、和尚様は「お稲荷様が誰か一人に加担する事は無いだろうが、昨日お前に着いていたのは、確かに狐だな。」と言い、今は昨日からぼんやりと重かった肩が軽いはずだと言われて、確かにそうだと心太は、右手を肩に乗せて揉む様にした。

「多少なりとも寺には結界が張ってあるのでな。入ってはこれなんだのさ。なっ知念。」とニヤリと笑った。

茶を運んで来た小坊主さんは、引きつった笑いをして「白い狐が、しんた様の肩に確かに乗っておいででした。」と小さな声で言ったのだ。

「この知念はお前と一緒でな、見えてしまうのさ。だからここへやってきた。」すると知念さんがはっと目をあげて心太を見る。

「こ、怖くは無いのですか。」思わず口をついた言葉に「すみません」と頭を下げる。

心太は、「怖い時も勿論ありますけど、割とそうだったのかなと後から気付くという感じです。それに案外人のお役に立てることが多いので、それを心の支えにさせてもらっています。」とにこやかに答えた。

「白狐は、見えないんですか。」そう問われて、確かに自分についたものは見えないのだろうかと疑問に思いながらも、

「流石に全部は見られない様で、助かってます。」と笑うと、小坊主さんの張り詰めた気がふっと緩んだようだった。


「さてとな」とご隠居様に向き直り和尚様が真面目な顔をして

「つまりだな、」と言葉を切ってからニヤリと笑いを含んだ声で「どうやらそのお稲荷様に住み着いた化け狐が、惚れやすいたちだった。そう言う事じゃろうと儂は思うが、いかがかな。ワッハッハ」と面白がっていた。

すると釣られた様にご隠居様もアッハッハと朗らかに笑った。

心太は、にわかには自分がからかわれたとは気付かずに、ポカンとしたがハッと理解すると憮然とした顔を小坊主さんに向けた。


帰る前に和尚様はスッと心太の横に立って、さっきの朗らかさとは打って変わって念仏を唱えて守り札を心太に与えてから、「深入りするで無いぞ」と小声で伝えてきた。


そう言われたものの、やはり気になる心太は、番屋で聞いた男の在所にご隠居様を家まで送り届けた後に行って来たのだ。


男の名は留吉。豆腐屋を営んでいる。

店の前で声を掛けて、その後困ったことは無かったか尋ねると、

「どうもご迷惑をお掛け致しやした。こちらからお礼に伺わなけりゃいけないところを申し訳ございやせん。」と深々と頭を下げる。



湯気がもうもうと上がる店内は、留吉と女房が慌ただしく立ち働いていた。だが、豆腐屋の店の様子は、煤けてとても繁盛してい風には見えなかった。

心太は、気になる事があるので少しだけ聞いて良いかと断りを入れると、留吉が女房に声を掛けて店の奥の内所に招き入れた。

髪のほつれた、疲れた様子の女房が、

「うちのひとが大変お世話になりました。ありがとうございます。」と若い心太に深々と頭を下げて、白湯を置いた。

留吉は、明日の豆を水に浸けておいてくれと女房に頼む。

女房がまた、頭を下げて出て店に行ったのを目で追ってから、

「なんでしょう」と心太に問いかけた。

心太は、ちょっと言いにくそうに

実は留吉に遭ったのは倒れた朝ではなくて、橋のたもとで女に泣き付いていた時だったと説明してから

「あの橋をさっさと渡っていった女の人は誰なんですかぃ。」と聞いてみた。

すると留吉は、それがぁと言葉を濁しながら頭に手をやり、お恥ずかしい話なのだがと断ってから、

頼りにして入れ込んでいたのは間違いないが、どこの誰かは知らないと言う。

そして、話は長くなりますがと重い口を開いて話し始めたのだ。

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