飛脚屋心太二の巻 狐目の女

小花 鹿Q 4

第1話


橋のたもとで


たったった、軽い足音が木戸の開いたばかりの朝靄の街を駆け抜けて行く。まだ幼さの残る細いが引き締まった足、尻端折りに店半纏、いなせに結った髪に手拭いを結ぶのは、筋の通った鼻にきりっとした眉、切れ長の真の強そうな眼差しの心太だ。

心太は走りながら思い出していた。


昨日の夕暮れ時、人の賑わう広小路で

「ひつっこいねぇ、いい加減にしておくれ。」

「おねげぇだ、そこをなんとかかんげぇなおしてくれねぇか」

男の哀願を断ち切る様に、狐目の女はかつかつと下駄を鳴らして橋を渡ってしまった。

そこに結界があるかの様に、男は橋の前で呆然と立ち尽くし女を見送りっている。

口さがない江戸っ子達は、そんな姿の男に

「男のくせにみっともねぇな。あんな女の一人や二人こっちの方から捨ててやれ。」と幾方向からも声が掛かる。

その度にその声の主をギヌロと睨んで目を合わせる。

声を掛けた者たちは常軌を失ったその目に背筋を凍ら、足早に立ち去っていった。

関わらぬが勝ちだと、男を取り巻く空気がそう言っている。


心太は、あの光景がいつまでも心に引っかかっているのだ。

何故だろう。特に不思議は無かったように思うのに。

ついて行こうかと一瞬思ったが、仕事の途中で道草を喰っている場合じゃなかった。

いつもより早いねと言われたくて余計に足を速めて、気持ちの引っ掛かりを振り払らう。

それでも、昨日の晩から何度もその光景が浮かんで来るのだ。

よくある光景じゃないか、何が気になる。と自分に問いかけてみるが、分からないので帰ったらご隠居様に話してみるかと算段する。


「へぇそれで。あちっちっ」

おとめに足や手にお灸を据えてもらいながら、ご隠居様は先を促す。

「いやぁ、それだけなんで」

「なんだい、ただの痴話喧嘩かい。」とつまらなそうに鼻を鳴らす。


「ただ、あのなんとも言えねぇ男の目付きが気になって仕方ねぇんです」

「ふぅん、縁が有れば又会うことになるだろうよ。熱いよあとめ。艾を乗せすぎだよ。あちっち」


そうかぁ縁か。

確かにそうだと気持ちが決まって心太は、普段の生活に戻っていった。



季節が移り霜月の朔日に、律義に霜が降りた寒い朝、股引を履いてくりゃ良かったなぁと思いながら、引き締まった足を赤くしながらいつものようにたったったと街を走り抜けていると、辻の向こうから、靄っと黒いものに包まれるようにしてふらふらと男が歩いて来る。


賭場の帰りのすってんてんが悪い気を背負って歩いているだろうと、道の端に寄りながら心太は「クワバラクワバラ」と口の中で唱えながら脇を走り抜けようとしたところへドサリと男が心太の方へ倒れこんできた。

「うわぁっ」と身軽に飛んで振り返ると、男は青い顔で虫の息だ。

関わるのは面倒な事だと思いつつ、木戸か番屋が無いかと首を回すが生憎近くに番屋も木戸も無かった。

今しがたまで、店前で箒を使っていた小僧たちも暖簾の奥に引っ込んで、目だけを覗かせてこちらを伺っている。


「参ったなぁ」と呟いて逃げちまうかと思うと耳元で、

「薄情だねぇ」と声が聞こえた気がする。

振り返ったって人なんか居やしねぇだろうとあたりをつけて振り返ると、せんに見かけた狐目の女が目の前に居た。吃驚した拍子に後退った勢いで男に蹴つまずいて道に手を付く。

間近に男の顔が見えた、やはりこの間橋の所で痴話喧嘩をしていた男だと分かり、がくりと肩の力が抜ける。

見上げて女を探すともう消えて無くなったように姿はない。

「縁が有ったって言うことだわな」

腹を括って、暖簾越しに覗いている小僧に大きな声で、「番屋に行って戸板を持って来るように言ってくれ」と怒鳴ると、小僧は「主人に聞いて参ります」と奥にすっ込んだ。その声でわらわらと人が通りに出て来て、おっつけ戸板も届き番屋まで男を運んで行くことが出来た。


番屋では心太が何かしたのではないかと散々絞られて、やっと関わりのない行き倒れだと分かってもらってから店に帰ると、こちらでも遅いとこってりと叱れて泣きっ面に蜂だ。

路で犬がのたれ死ねば、その前の店や家が処分しなければならぬと言って、人の見ていぬうちに箒で隣に押し込むご時世だ。

増してや行き倒れで死人が出たなら町で葬いまで出してやらねばならぬ。病人とて受け手が居なけりゃ町での預かりだ。

町役人は、掛が増えると苦がり切って、なんとか心太に追っ付けようとしたが、それをどうにか免れて来たんだ、ちったぁ帰るのが遅くなったくらい多めに見て欲しいってもんだと、腹のなかで心太は番頭さんにボヤいた。


行き倒れ男の気を払うように井戸端で顔を洗っていると、縁側をご隠居様が歩いてきて、

「どうした心太」

と声を掛けたので、

「ご縁がありやしたよ、ご隠居様」

と心太は、眉を矢の字にして情けのない声を出した。

「んっ、何のこったい。」


それからご隠居様の離れに腰を据えて、白湯を頂きながら、今日あった事を愚痴るように先日痴話喧嘩をしていた二人に再度出会った顛末を話し始めた。


かつんと煙草盆ににキセルの雁首を打ち据えて、心太の話を書き終えた御隠居様は、

「で、心太はどっちが妖物だと思うのかぇ」と、間延びをした声を出して問うてきた。


心太には、さっぱり訳が分からないのである。

何故自分に助けを求めるように、わざわざ倒れこんできたのか。

冷たいねと言われるほどの関わりが本当にあるのか。

それにあの二人は一体何者なのか、全く訳が分からない。

そう心太が言うと、御隠居様は、

「気になって仕方ないんだろ、仕事が一区切りしたら、私の用で出掛けると言って番屋に話を聞きに行っといで。」と自分もその先が気になって仕方ないと言うことをおくびにも出さずに告げた。


番屋からの帰り、頭をひねりながら心太は、とぼとぼと歩いていると、向こうから徳寿院の和尚様が小坊主さんを連れて、にやにやしながら近づいて来た。

「ようようそなたは、好かれる質をしておるとみえるのぉ。」と声を掛けられて心太は、初めて和尚様の存在に気づいた。

「何か見えますか。」ため息混じりに問うと、

「うむ、獣の臭いがするな。質はそう悪くはなさそうだか、深入りはいかんな。」と腕を組んで渋い顔をする。

「儂はこれから法要だから今は立ち話をしている暇は無いので、明日の朝にでも墓参りを兼ねてご隠居様と来る事にしなさい。五郎平さんの月命日は明後日だが、雨になりそうだからな。ちょうど良いじゃろう。ではまたな。」

此方の都合も聞かずにぽいぽいと言ってよこして、さっさと立ち去ってしまった。

小坊主さんが、何度も恐々と振り返り心太を見ていた。

心太がなんだろうと小坊主さんを見ると目が合い「きゃっ」と慌てて小走りに行ってしまった。


心太は、「きゃっ」ってなんだぁと、自分の周りの気を払うようにパッパッパと手を振ってから、帰路に着く。

再びご隠居様の部屋を訪れ番屋で聞いた話をした後、徳寿院の和尚様に明日の朝墓参りに来る様にうに言われたと告げると、「そうかぇ」と嬉しそうにおとめに明日着る着物を出させて始めたので、心太は退散した。


番屋では、小半刻もすると苦しそうにしていた男がケロリとと起き上がり、「とんだ世話になりやした。」と言って帰って行ったという。

人別だけは書き留めてあるので、気になるなら行ってみるといいと町役人に言われたので、とりあえず在所を写させてもらい帰って来たのだ。


考えても始まらねえなと、ぱしっと頬を叩いて、心太は午後の仕事に戻った。

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