第3章 Pure Natural
1
その店に立ち寄ったのは、偶然だった。
スーツに身を包み、電車に揺られ、高層ビルに囲まれた会社に行く…
そんな代わり映えのない生活に疲れていたのかもしれない。
外壁と同じ、白いペンキで塗られた木のドアを開けると、チリンと耳障りの良い鈴の音と、
「いらっしゃい」
癖のある、だけどどこか温もりを感じさせるような声が俺を出迎えてくれた。
早朝だからか、俺以外の客の姿はない。
「どうぞ」
言われて、俺は裏庭の見渡せる窓際の席に腰を下ろした。
すると店の奥から、白いダンガリーシャツを着て、丸眼鏡をかけた青年が出てきて、俺の座るテーブルの上に、おしぼりと薄いグリーンのガラス製のグラスを置いた。
見たところ、この青年以外に店員は見当たらないから、多分この人がこの店のマスターなんだろう。
歳は俺と大して変わらないように見えるけど…
「何にします?」
マスターらしき青年は、目を細めて、満面の笑みで俺を見下ろすと、トレーを脇に挟んで紙とペンを握った。
「あ、じゃあコーヒーを…」
紙にペンを走らせると、マスターらしき青年は頭を小さく下げて、また店の奥へと消えて行った。
店の雰囲気も、それにマスターも感じも良さそうだ。
俺はそんなことを考えながら、コーヒーが運ばれてくるまでの間、窓から見える庭を眺めていた。
すると、店の奥からマスターらしき青年が出てきて、
「あの、すいません。ホットとアイス、どちらにします?」
目尻を下げた。
その顔が何ともおかしくて…
「アイスで…」
今にも吹き出しそうになるのを堪えてそう告げた。
程なくして運ばれてきたアイスコーヒーは、味音痴な俺でも違いが分かる程の美味さで…
加えて、コーヒーと一緒に出された手作りのパンが、これまた絶品で…
「うまっ…」
頬張った瞬間、バターの香りが口一杯に広がって、俺は思わず声を上げた。
「気に入って頂けました?」
「はい、とても。あの、ここはいつから…?」
「半年くらいかな…」
そうなんだ…
毎朝通ってる道なのに、全然気づかなかった。
そんなに俺、疲れてたんだろうか…
「ごちそうさまでした。また来てもいいですか?」
「勿論。お待ちしてます」
マスターはそう言って、爽やかな笑顔を浮かべた。
何だろう…、コーヒーもそうだけど、すごい癒される…
俺はその次の日から、家を早く出ることにした。
理由は簡単だ、あの店に寄っていくため。
不思議なことに、マスターの淹れたコーヒーと、毎日違う焼き立てパンを食べると、あんなに億劫だった通勤時間が、少しだけ快適なものに感じられるようになっていた。
真っ黒の日常が、徐々に色付いて行くような…そんな感じだった。
「おはようございます、今朝も早いですね」
白いドアを開くと、まるで俺が来るのを待っていたかのように、マスターの相原さんの声が俺を出迎えてくれる。
相変わらず俺以外の客はいない。
コーヒーもパンも、こんなに美味しいのに…
「今日はどうします? 因みに今日のパンは、クロワッサンですけど」
「クロワッサンかぁ…、じゃあホットにしようかな。今日冷えるし」
いつの間にか指定席みたくなった窓際の席に座り、手袋とマフラーを外す。
窓の外には、昨夜から降り始めた雪が、すっかり葉を落とした木の枝を白く染めている。
「まだ降るのかなぁ…」
「夜まで降るみたいですよ?」
マジかぁ…
「せっかく有休取ったのに、これじゃどこも行けないや…」
ここ数日残業続きだったのと、仕事が一段落したこともあって、漸く捥ぎ取った有休だったのに、こんな雪の日では遠出なんて出来ないし…
第一、ここまで来るのだって、凍えそうだったのに…
「だったら、ゆっくりしてけばいいよ。この雪では、お客さんも来ないだろうし。なんなら店閉めてもいいし…」
テーブルに、ホットコーヒーと、温めたクロワッサン、それからいつもより多めのミルクを乗せたプレートを置いて、相葉さんが窓の外に視線を向けた。
「よし、今日はもう終わり。片付けだけしちゃうね」
普段おっとりしてるように見えるけど、決断だけは早いことを、俺は最近になって知った。
「ちょっとだけ待ってて?」
ねぇ、それって俺のため…じゃないよね?
だったら嬉しいんだけど…
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