そんなある日、自転車に跨った俺を、婆ちゃんが呼び止めた。


「また学校に行くんかい?」


「そう…だけど?」


「そうかいそうかい。行ってらっしゃいな。気ぃ付けていって来るんじゃよ」


「うん、行って来る」


俺は見送ってくれる婆ちゃんに手を振り、ペダルを漕ぎ始めた。


いつものように農道を走り、学校へ向かう途中、山の方から黒い雲が広がっていくのが見えた。


一雨来るかもしれない


俺は雨が降って来る前に、学校への道を急いだ。




幸いにも雨に降られることもなく学校に着いた俺は、自転車が濡れないようにと、渡り廊下の軒下に停めた。


空を見上げると、黒い雲はすぐ真上にまで迫ってきていて…


手をかざすと、ポツンと俺の掌を濡らした滴は、ポツリポツリと地面を濡らして行き、やがて大粒の雨粒となって地面に叩き付け始めた。


これじゃ、桜の木まで行けそうもないな…


俺は諦めにも似た気持ちでため息を一つ落とすと、錆びついた校舎の扉を押した。


意外にも鍵は掛かっていない。


「お邪魔しまーす…って、誰もいないか…」


いや、寧ろ”いたら”怖いけどね?


「寒っ…」


校舎の中へ足を一歩踏み入れると、ヒンヤリとした空気に、一つ身震いをした。

差し込む日差しも無いのだから、それも当然のことなのかもしれない。


長い間締め切られていたせいか、校舎の中は酷く埃っぽくて、あちらこちらに散乱した机やら椅子やらが、足元を悪くした。

廊下と教室とを隔てる窓ガラスは割れ、ところどころに蜘蛛の巣まで張っている。


まさに廃墟と言う表現がしっくりくる光景。


…にも関わらず、俺の胸には懐かしさが込み上げていた。


それは、至る所に“彼”との思い出が残されているから…なのかもしれない。


俺は埃の積もった階段を上へ上へと上り、最上階に着くと、廊下の突き当たりのを目指した。

最上階には、所謂”特別教室”の類が並んでいて、俺が目指す教室は、その最も奥に位置していた。


根拠なんてない。


何故かそこで彼が待っているような…


そんな気がしていた。


「ここだ…」


その教室の扉の前に立つと、他とは違う、独特な匂いが鼻を突いた。

無口な彼が、いつも身に纏っていた香りだ。


もっとも、俺はその香りが好きではなかったが…


俺はスッと息を吸いこむと、扉の取っ手に手をかけた。

ゆっくり扉を開き、薄暗い室内を覗き込む。



いた…。



彼は背中を丸めて、窓辺に立っていた。

そして俺に気付くと、ゆっくり首だけで俺を振り返ると、昔と全く変わらない笑みを、その顔に浮かべた。


「やっと会いに来てくれたね?」


彼は俺を見るなり、まるで子猫のような声でそう言った。

俺は思わず駆け寄り、彼の華奢な身体を両手で抱き締めた。


「会いたかった…。ずっと…、こうしたかった」


躊躇うことなく俺の胸に頬を埋める彼の背中を掻き抱き、思いの丈をぶつけるようにその耳元に囁いた。


「うん…。僕もずっとこうして欲しかった…」


そう言った彼の髪からは、アクリル絵の具の、独特な匂いがした。


「ごめん、随分長いこと待たせた…、よな?」


背中に回した腕を解き、少しだけ上向いた彼の頬を撫でてみる。

すると白い肌が、仄かに赤く染まった。


「ふふ、擽ったいよ…」


「相変わらずだな、その反応?」


昔と変わらない彼の仕草に、思わず笑ってしまう。


でもそれはほんの一瞬のことで…


長い睫毛に縁どられた瞼がそっと伏せられると、俺は引き寄せられるように彼の唇に、自分のそれを重ねた。


軽く触れるだけのキスをすると、彼の瞼がゆっくりと開き、拗ねたように頬を膨らませた。


その顔は、もっとして…、そう言っているような気がして…

俺は再び彼の唇に吸い付くと、今度は舌先で閉じたままの唇を突っついてやる。


そうすると、彼は少しだけ照れたように、その固く閉じた扉を開いて、俺を招き入れてくれるんだ。


歯列をなぞり、上顎を舐めてやると、彼の身体は脱力して…


俺は腕を腰に回して、今にも崩れそうな彼の身体を支え、深く口付けたまま彼の背中を壁に押し付けてから、緩く結んだだけのネクタイを解いた。


シャツのボタンを上から順に外し、外気に晒した肌に手のひらを滑らせてやると、重ねた唇の隙間から、堪え切れない吐息が漏れ始め…


相変わらず敏感な身体は、軽く触れただけで紅潮し始める。


もう、自分を抑えることなんて出来なかった。

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