第60話 紺碧の瞳

 蜘蛛の糸で拘束されているにも関わらず、采希さいきの中の眷属たちには何も制限は掛けられていなかった。

 もしもあの秘書が絡んでいたなら、この程度では済まなかっただろうと采希は思った。

 燃え盛る炎のような気配を纏った、采希には馴染み深いオーラがすぐそこまで来ていた。


「采希!!」


 叩きつけるように開けた襖から飛び込んできたのは、紅蓮の主。その姿を認めて、元依頼者が息を飲む。


「……琉斗りゅうとさん、どうして、ここに……」

「説明してもらおうか。俺の身内をかどわかしたのはあなたなのか? こんな状態で拘束されているのはどういう訳だ?」


 慌てたように元依頼者が琉斗に駆け寄る。縋るように琉斗の左腕を両手で掴んだ。


「あの、これは……あたしが来たらこうなってて……でも、この人、酷いんです! こんなおかしな鏡みたいのに、姉の顔を映して、これがあたしの顔だって、嘘をついて嫌がらせをするんです!」


 琉斗が元依頼者を冷たく見下ろす。ゆっくりと水鏡と元依頼者を見比べ、吐き捨てる。


「――鏡は真実のみを映す。ならば、これがあなたの本当の顔なんだろう。俺にはどちらも同じに見えるが」

「違う! 朋代、こんな顔じゃない! こんな醜い……」

「……この鏡像は姉の姿だと、そう言わなかったか?」

「そう! この顔は陽那の……」

「だったら、何故、醜いと――そう言うんだ?」

「……だって……」

「あなたは、たった一人の姉をそんな風に蔑むのか?」


 驚愕の表情で固まった女に掴まれた腕を、無造作に振りほどき、琉斗が采希の方に歩み寄る。

 采希の頬を見て眉を顰め、紅蓮を一閃させて采希の腕を蜘蛛の糸から解放した。


「……痛むか?」

「そうでもないな」

「お前はいつも平気な振りをする。無理しなくていい。お前を殴ったのは、誰なんだ? 教えろ、采希」


 琉斗が背を向けているのを確認した元依頼者が、天井に向かって何か呟くのが采希には見えた。


(天井……? ――梁の上に、何か……)


 光の届かない日本家屋の梁の上に視線を彷徨わせると、何かが動いた気配がした。


(何だ? 丸い……細長いあれは……肢? 蜘蛛か?! マズい!!)


 采希は腕を掴んで琉斗の身体を引き寄せ、たいを入れ替える。完全に敵前に晒された采希の背中に衝撃が走り、口の中に鉄の味が拡がった。


「采希!!」


(琉斗、声うるさい。血の味がするってことは内臓、やられたかな。……あ~、また榛冴に怒られるな……ヤバい、意識、飛びそう……)


 自分の身体から力が抜けていくのが分かった。

 琉斗の腕を掴んでいた采希の腕がずるりと滑り落ちる。辛うじて琉斗が支えるが、采希は膝から崩れ落ちる。

 途切れそうな意識を必死に繋ぎ止め、心配させまいと顔を上げた采希は、琉斗の眼を見て息を飲んだ。


 深い青の眼が采希を見据える。


(――これは……誰だ?)


 采希の力を受け取った時の琉斗の眼は、片方だけが紫に変わる。だが今は両眼が濃い青――藍色に変わっていた。

 錯覚ではない、透明なインディゴ。

 驚いたままの采希を労るようにそっと座らせ、琉斗が立ち上がる。

 その瞬間、どんっという和太鼓のような音と共に琉斗の身体から大きな炎が上がった。

 この世のモノではない、青い炎。


「紅蓮!!」


 声に応え、琉斗の右手の木刀が日本刀に変化へんげする。その刀身は、名の通り真紅に輝いていた。

 闘気は渡していないのに、琉斗が自分の意思で紅蓮の姿を変えていた。

 采希は呆然と眼の前の従兄弟を見上げる。


「琉斗、紅蓮……」

《采希さん! すぐに身体の修復を!》

(琥珀……俺の意識、ヤバそうなんだ。集中できな……)

『采希兄さん! もう少し待ってて! 今、凱斗かいと兄さんが結界を破ってるから!』

『兄さん! ヴァイスさんを呼んで!』


 榛冴はるひ那岐なぎの声が聞こえた。


(――ヴァイス、力を貸してくれ)


 采希の中で急激に何かが膨れ上がる感覚があった。身体の中が熱い。

 琉斗は、梁の上を睨みつけていたかと思うと、下段に構えた紅蓮を斜め上に振り切った。

 紅い半円の軌跡が梁の上にいた大きな影に襲い掛かる。奇妙な声を上げながら蜘蛛が琉斗の前に着地した。


「行くぞ、紅蓮。遠慮はいらん、斬り刻んでやる」



『采希兄さん、咄嗟の時に自分を護ってくれる存在を忘れちゃうの、どうにかした方がいいよ。もうすぐ、みんな行くから』

(榛冴、みんな来てるのか?)

『そう。だからもう少しだけ、頑張って』

(……どうして琉斗だけが先に?)

『兄さん、琉斗兄さんは、んだよ』

(…………は?)

『ぅおっっっしゃああああ! 結界消失だ、突っ込め!!』


 凱斗の声が聞こえると同時に、室内の空気が一変した。粘りつくような空気が清浄に変わる。


 目の前では大きな蜘蛛が文字通り八つ裂きにされていた。

 返り血ならぬ、体液を浴びたと思われる琉斗の背中が采希の前に立ち尽くしていた。

 ゆっくりと、その頭部が元依頼者である女の方を向く。

 座り込んでいたその女は、声にならない叫び声を上げて後退った。

 黙って女を見つめたまま、琉斗が近付く。


 その横顔に、その瞳に宿った意思に、采希は不穏な色を見て息を飲んだ。


「やめろ琉斗! 殺しちゃダメだ!!」

「貴様――采希を殺そうとしたのか?」


 低い低い、琉斗の声。采希がこれまで聞いた事もないような怒りに満ちたその声色に、思わず身震いしそうになる。


「……違う! 朋代、あいつを黙らせて、喋らせないでって言っただけなのに……」

「どう指示したかは問題ではない。貴様の指示で采希は怪我を負った。その事実で充分だ。――償え」


 止めなければ――そう思うのに、初めて見る琉斗の様子に采希の身体は強張ったように動かない。

 じりじりと女を壁際に追い詰め、琉斗はゆっくりと紅蓮を上段に構える。采希は気力を振り絞った。


 畳を蹴るようにして立ち上がり、琉斗の背中に飛び付こうと手を伸ばす。

 紅蓮の刀身が一層明るく輝き、元依頼者に向かって振り下ろされた。


「琉斗ぉ!!!」



 勢いそのままに、采希は琉斗の背中に体当たりした。

 琉斗が人を殺めてしまった。

 これは自分のせいだ。

 自分がきちんと力を使いこなせていたらこんな事にはならなかった。


 血の気が引いて行くのを感じていた采希の耳が、ぐふっと言う何かが潰れたような音を拾った。

 思わずそちらに眼を向けると、倒れていた元依頼者が身じろぎするのが見えた。その身体のどこにも、傷は見当たらない。


「――琉斗……斬って、いなかったのか……」


 一気に全身から力が抜け、采希はへたり込んでしまった。

 さっきまでとは打って変わった優しい笑顔で、琉斗が采希を振り返る。采希の腕を掴んで、慎重に立ち上がらせた。


「采希、お前が忘れたらダメだろう? 紅蓮が持つのは琥珀と同様、だ。――それでも、心配させたことはすまなかったな」


 では紅蓮が斬ったのは元依頼者の中の邪気なのか、と采希はうまく働かない頭で考えた。

 見た目は日本刀なのに、女の身体を傷付けずに邪気だけを斬る。以前はそんな事は出来なかったはずだった。

 だからこそ、人間が相手の時は木刀の姿をしていた。


 口を半開きにしたまま光のない眼で琉斗を見上げる元依頼者は、なんの意思も持っていないかのようにゆらゆらと身体を揺すっている。


「采希の前だからお前は殺さない。だが再び手を出すなら、その時は覚悟を決めてもらおう」


 再び琉斗の低い声が元依頼者に向けられ、見た事もないような冷たい眼が見下ろす。


「……もう、聞こえていないだろ」

「そうだな。だが、この女の後ろにいるヤツには届いたと思うぞ。こちらを探っている気配を感じたからな」

「…………」


 何故その気配が琉斗に分かったのか、采希は再び驚きの表情で琉斗を見つめた。



「あれ? こっちはもう終わってんの?」

「凱斗兄さんが調子に乗って雑魚を一掃しようとしたりするから遅くなったんでしょ! 炎駒は麒麟なんだからさ、麒麟が扇動したら霊獣たちは炎駒に従うに決まってるよね? ちょっとは考えてよ」

「あれ? 琉斗兄さん、いつもと気配が違う」


 いつものように騒ぎながら、凱斗たちが到着した。その喧騒に、采希はなぜかほっとした。


「那岐、何が違うって?」


 凱斗が琉斗を見ながら那岐に尋ねる。


「琉斗兄さん、もしかして何かの力が発動した? 僕も見たかったのに、遅かった……」


 本気で落ち込んでいる那岐を見ながら、采希はちょっと引き攣った笑顔になってしまった。


「…………お勧めはしないぞ」


 采希の呟きに、那岐と榛冴が『なんで?』というように揃って首を傾げた。


「そんな事より、解決したんならもう帰ろうぜ。……なんだかこの家、血の臭いがして気持ち悪い」


 凱斗が、屋敷の玄関に戻ろうと踵を返す。


「琉斗兄さん、土足だね」

「……緊急事態だったからな」

「でも敵の屋敷に乗り込むのに、律儀に玄関で靴を脱いでいる僕らも大概だよね~」


 那岐や榛冴と笑い合う琉斗は、もういつもの琉斗のように見えた。


 琉斗の身体から噴き出した青い炎と、虹彩の色が変化した琉斗の眼。

 采希の闘気を渡した時よりも力を発揮した紅蓮。

 琉斗に何が起こったのか、采希は額に手を当てて歩きながら考えていた。


 玄関に着いた采希は、予想通りの展開に小さく溜息をつく。

 気付いた琉斗が采希に声を掛けた。


「采希、履物は……」

「飛ばされて運ばれる最中に落としたらしいな。豆腐、せっかく買ったのに。ま、仕方ない」


 そのまま裸足で土間に降りようとすると、琉斗が采希の前に立ち塞がる。


「――采希」


 目の前の琉斗の背を見て背負ってくれるという意志表示だと気付いた采希は、先程の豹変した姿を思いだして一瞬躊躇する。


「兄さん、裸足じゃ危ないよ。ここは琉斗兄さんにお任せしよう」


 那岐の言葉で、采希はのろのろと琉斗の肩に腕を乗せる。少し身体を沈みこませていた琉斗が、立ち上がって采希を一気に背負いあげた。




 屋敷の外に出ると、そこには一面の森が拡がっていた。


「……どこなんだ、ここは?」


 采希の呟きに琉斗が答える。


「山の頂上近くだな。途中までは車で来ているからそんなには歩かないぞ。ここは元はどこかの宗派の禅寺、とか聞いた。揺れるから、落ちないようにしてくれ」

「ちょっと待て、聞いたって、誰に?」

陽那ひなさんだ。車で待っている」


(――何で? 陽那さんって、彼女がどうして?)


 黙り込んだ采希の気配を察し、琉斗が前を見据えたまま続ける。


「お前、陽那さんに瀧夜叉姫を送り込んでいただろう? お前が琥珀と話していたのを聞いていたんだ。だからお前が消えた時、ロキに頼んで瀧夜叉姫に繋いでもらった。お前を捜してくれるように頼もうと思ったんだ。そしたら何故か陽那さんと繋がってしまってな。彼女も自分の中の守護に気付いたところで、情報を欲しがっていたからお互いの情報を交換したんだ。そんな訳で、ここまで連れてきてもらった」


 それでは、この速さで駆けつけたのは琉斗の機転のおかげか、と采希は驚く。


「――悪かったな、采希」


 囁くように琉斗が呟く。


(……?)


「お前を、怖がらせてしまった」


 琉斗が豹変した様子の事を言っているのだと気付いた采希は、思わず苦笑する。


「そんなに怖がったつもりはないけどな。……一体、何が起こったんだ? 紅蓮もいつもと違ってたぞ」

「俺にも良く分からない。――ただ、お前が危険な目にあったと思った瞬間、俺の中で何かが噴き出したような感覚があった。……絶対に、許せないと思った。俺が護ろうとしていた家族を傷つけた。自分がどうなろうと絶対に許せないと、そう思ったんだ。……あれが、怒りというものなんだろうな」


 これまで見たこともない、琉斗自身の【力】。

 さっき顕現したあの姿が、滅多に怒らない琉斗の力が溢れた姿だったのかと采希は理解した。

 その力の正体は全く分からなかったが、後でれいに確認してみようと思っていた。


「あれが、お前の力か」

「え?」

「どんな力なのかは見極められなかったけどな、俺の力じゃない、お前だけの力が現れたんだ。――多分」

「……そうなのか?」


 本人はどうやって発動したのかも分かっていなかった。

 怒りのあまり、そんな事にすら気付かなかったのだろうと采希は思った。

 しかもいつの間にか青い炎は消えていて、紅蓮も琉斗の手から消えていた。


「――よかった」


 琉斗がごく小さく呟いて、鼻を啜り上げる。


「…………何が?」

「俺にも本当に力があったんだな。俺には黎さんの言葉が信じられなかったんだ。そんな力の気配すらなかったからな。……今回は間に合わずに、すまなかった」


 ぽそりと話す琉斗に、采希は呆れたような声を上げる。


「間に合ったじゃねぇか。あの時お前の気配が視えて、本気で助かったと思ったぞ」


 いざとなったら守護たちを一斉に開放しようと考えていたことは黙っておく。

 琉斗が驚いたように背中の采希を振り返る。嬉しそうにふっと笑い、再び鼻を啜った。


「そんな事より、お前、跳んだってマジか? ――いや、なんで跳べたんだ?」

「知らん。気付いたらあの屋敷の前にいた」


 あっさりと断言され、采希は絶句しそうになった。

 自分でも初めて跳んだ時は驚いたが、黎の指導で何とか思い通りに出来るようになったばかりだった。その訓練に琉斗は参加していない。


「……那岐でもやっと出来るかどうかなのに、何でお前が出来たんだ?」

「うん、俺には全く分からないぞ」


 あまりに予想通りの答えに、采希は大仰に息を吐いた。



「あ、陽那ちゃんだ、お~~~い!」


 前を歩いていた凱斗が大きく手を振って急ぎ足になる。

 顔を上げた采希の眼に映ったのは、手を振る陽那の後ろに急激に拡がる、薄暗い靄。


「陽那さんっっ!!」


 那岐の姿が采希の前から消え、一瞬で陽那との間を詰める。

 だが、もうそこには彼女の姿はなかった。


「――何、これ? どうなったの?」


 榛冴の声が震えている。


「……陽那ちゃん?」


 凱斗の腕が中途半端に持ち上げられたまま、止まっている。


「さっきの、何? 突然大きな何かが陽那さんを飲み込んで……どこに消えたの?」


 榛冴が凱斗の腕にしがみ付く。

 呆然と立ち尽くす那岐の背中が、怒りに震えているように見えた。その先の景色が揺らいで見えるほど、那岐の気が乱れる。


「琉斗、降ろしてくれ」


 采希の声に我に返った琉斗が、反射的に采希を背中から降ろした。

 采希は片膝を付いて、地面に両手を付ける。


「捜せ、琥珀。まだ、瀧夜叉が一緒だ、呼びかけろ。ヴァイス、俺の回復はもういい。気脈を辿って瀧夜叉の気配を追え。それと……」


 ゆっくりと立ち上がる。少し眩暈がするが、大丈夫なはずだと思った。


「ナーガ、俺に、お前の眼を貸してくれ!」


 返事はなかったが、采希の視界が唐突に切り替わった。

 遥か上空から見渡す限りの範囲の風が、采希の意思に従う。


(気配を捜すんだ。――違う、陽那さんじゃない。検索対象は、土蜘蛛だ)



 * * * * * *



「こんなに早く見つかってしまうとは、予想外でした。あなたの力を見誤っていたようですね。――それにしても、普段のあなたからは除霊ができる程度の能力にしか見えなかったのですけどね。例の組織の新参者と伺っておりましたし。大体、これほどの力があって、何故組織に組しておられたのですか? 組織に使われるより、あなたならご自身でいくらでも稼げるのでは?」


 早口でまくし立てる男を、采希はじっと見つめる。

 かなりの発汗と慌てたような口調、明らかに追い詰められているのが分かった。


「御託はいい。陽那さんから手を離せ」


 元依頼者の秘書だった男は、あろうことか元依頼者の姉である陽那の首に後ろから腕を回し、彼女の身体を盾にしている。


「……陽那さまは私の切り札だ。離すわけにはいかない」

「切り札? ……何のためだ?」

「そんな事、簡単に教えるはずがないでしょう」


 それはそうだろうと采希も思った。イクルミが嘲るように笑う。


「聞かれて正直に言うバカはいないだろうな。でも、お前の名前、本当の名前じゃないだろ?」


 ぴくりと眉が動き、訝しそうに采希を上目遣いで睨む。


王生イクルミ、か。お前が王を作り出そうってのか? でもお前には無理だ。勝手に名乗っても、名のは発動しない。本名、当ててみせようか?」

「うるさい!! 私の家系ははるか昔から続く、王たる者を支えてきた由緒ある血筋だ! お前のような突然変異とは格が違う!」


 だけど、采希には分かっていた。

 いつかの、陰陽師の子孫だと名乗った男も、そしてこの男も、自分たちが考えているような先祖はいない。それを伝えたところで全力で否定されるのが分かっているので、采希は敢えて口にはださなかった。



(さて、どうしようか……)


 陽那が人質に取られているとはいえ、この状況はさして問題ではないと思われた。彼女を奪い返す事も采希には可能だった。


(問題は……俺の体力だな)


 彼女を攫って逃げ出した秘書・イクルミを見つけ、采希はよく考えもせずに跳んでしまった。

 その結果、那岐たちを置き去りにしてしまい、那岐たちは地龍の姫の背に乗って全力でここ――陽那の屋敷に向かっていた。

 先刻の傷が完全に癒える前に無茶を重ねたため、采希の身体はいつ倒れても不思議ではないような状態だった。


《采希さん、白虎さまに回復をお願いされた方が……》

(分かってるけどダメだ、琥珀。お前にも視えているんだろう?)


 采希たちの周りには、無数の気配が犇めいていた。それがイクルミの操る複数の巨大な蜘蛛なのも采希には分かっていた。

 采希は自分の背後に立つ白虎に、それらを抑えることに集中させていた。


(もう少しで着くはずだ)


 少しでも時間を稼いだ方が自分にとっては有利になる。


「……随分と、余裕がおありのようですね」

「そう言うあんたは、余裕なさそうだな。自分が人質にしたのが『誰』なのか、分かってないんじゃないか?」

「…………は? 何を言って……」


 イクルミが自分の腕の中の女性を見下ろす。そのタイミングに合わせ、陽那がイクルミを見上げ、にっこりと微笑む。

 だがその顔は、陽那のものではなかった。


「!!! 誰だ?!」


 艶然と微笑んだのは、陽那の中に潜んでいた瀧夜叉姫だった。

 同時に瀧夜叉姫は、采希に呪の発動の許可を求める。


「いいぞ、瀧夜叉。存分に」


 ひぃっと声を上げて陽那から飛び退いたイクルミに、陽那の中から抜け出した瀧夜叉姫が立ち塞がる。



 瀧夜叉姫の言霊ことだまが発動した。その呪は真っ直ぐに眼を覗き込まれたイクルミだけに効果を発揮する。

 采希が初めて聞く瀧夜叉姫の声は、巫女よりも少し高い不思議と通る声だった。


 息をするのも忘れたように怯えた表情を張り付けたまま、イクルミが固まった。

 その瞬間、イクルミの支配から免れた蜘蛛たちが一斉に姿を現わし、動き出す。あの屋敷で琉斗が倒した蜘蛛よりさらに一回り大きい個体ばかりだった。

 ざわざわと蠢いていたかと思うと、部屋の中心にいた采希たちに飛び掛かってくる。白虎が一瞬迷うようにたじろいだ。

 采希の視線が忙しなく動く。


(マズい、陽那さんを……!)



「スルト、焼き尽くせ!」

「朱雀さん、蜘蛛を焼き払って!」


 凱斗と那岐が同時に叫ぶ。

 真っ白な炎の大量放射に、蜘蛛たちが慌てて後退した。


「采希兄さん! 大丈夫?」


 榛冴が采希の隣にふわりと降り立った。屋敷の中なのに、どこから湧いて来たんだろう、という疑問を采希は一旦頭から追いやった。


「采希兄さん、怪我してるって何で言わないの? ったくもう! 心配させないでよね!」


 ぷりぷりしながらも、榛冴が采希の腹部に手を当て癒しの力を注ぎこんでくれる。周囲には地龍の姫と綱丸による小さな結界が張られる。

 榛冴に怒られ、采希は何となく笑ってしまった。


「……なんで笑ってんの?」

「なんだか、ほっとしたら笑いたくなった」

「…………とりあえず琉斗兄さん、陽那さんを」

「采希兄さん! こいつらどんどん湧いて出て来る!」


 那岐の悲鳴のような声に、榛冴が辺りをぐるりと見渡した。


「采希兄さん、こいつらどこから湧いて来るんだと思う?」

「普通に考えたら、巣があるんじゃないか?」

《采希さん、地中です。この屋敷の地中奥深くに》


 琥珀の声に、采希は榛冴と顔を見合わせた。


「だったらその地中から出て来る穴かなんかを塞げば……」

「榛冴、それだとこの屋敷の人は今後ずっと、巨大蜘蛛の巣の上で生活することになるぞ」

「――それはマズいね」

「全て倒してしまえばいいだろう」


 陽那の肩を抱えて采希たちの方に避難しながら、琉斗が口を開いた。


「却下。全部倒すのにどの位の時間が掛かるのか分からないのに、そんな無駄な体力は使えない。琉斗兄さんじゃないんだから」


 榛冴によって自分の提案をあっさりと却下された琉斗が腕組みをして考え込む。

 その隣で采希は、腕を回し、身体を捻ってみていた。


「…………何してんの?」

「ん……身体、動くかなって思ってな。どうやら大丈夫そうだ。榛冴、ありがとな」

「どういたしまして。あんまり無茶しないでよね」

「ああ、気を付ける。じゃ、榛冴、俺ちょっと行ってくる」

「「は? どこに?!」」


 榛冴と琉斗の声が綺麗に揃った。


「どこって、地中のこいつらの巣まで」

「ダメだ! だったら俺が行く!」

「お前はここで、陽那さんを護ってろ。こんだけの数、凱斗と那岐だけじゃ無理だ。出来ればお前も紅蓮で加勢してくれ」


 采希の視線を琉斗が追う。

 炎駒の姿は視えないが、凱斗の腕の動きに合わせて白い炎が次々に蜘蛛を消し去っていく。

 朱雀は那岐の頭上に留まったまま、その口から炎を吐き出していた。那岐は朱雀と反対側の蜘蛛を三節棍で叩き潰していく。


「だが……」


 琉斗が尚も食い下がろうとするのを采希は、にっと笑って制する。


「俺の鍵を――開けてくれ」

「采希……」


 采希を心配そうに見る琉斗の眼を見返す。


「大丈夫だ。今ならガイアの加護がある」

「――ああ、お詫びとやらのこと?」


 榛冴が心得たように頷いた。

 誤解から巫女に呪を掛けた代償に、意思ガイアは采希への助力を約束した。それは、采希の身体が自身の力に耐えられるように、というモノだったが、この際なのでとことん協力してもらおうと思っていた。


「そういう訳だから、琉斗――」

「いや、采希、俺も行くぞ」

「……相手はお前の嫌いな虫だぞ?」

「ここまで大きければ平気だ。これは虫ではなく、すでに生物だ」


 采希は眼を閉じ眉間に皺を思いっきり寄せて、琉斗の言葉を理解しようと努めてみる。だが、すぐに諦めた。


「…………意味わからん。お前の基準、俺には理解できない。とにかく、俺は一人で行く。何が起こるかわからないしな」

「だからこそ、俺も行くと――」

「だから、俺に何かあったら助けに来い」

「しかしだな……」

「たまには俺の事、信用してみないか?」


 一瞬、呆けたように琉斗が固まった。ここで食い下がったら琉斗は采希を信用していない事になってしまう。

 それに気付いた琉斗はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。


「――了解だ、采希。その代わり、紅蓮と琥珀は繋がせてもらうぞ」

「ああ。じゃ、鍵を……」

「待て、その前に紅蓮を使用可能にしないと」

「……さっきの技、早く覚えてくれ」


 小さく呟いて、采希は右手に闘気を集め凝縮させる。琉斗の左腕のバングルに力を移した。

 紅蓮が喜んでいるかのように、バングルが震える。


「采希、気をつけてな」

「分かってる。じゃ、行ってきます」

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