第57話 蜘蛛の術師

 タイミングが悪くれいに相談をすることが出来ないままだった采希さいきは、黎の八咫烏やたがらすの訪問を受けた。

 八咫烏を通して散々に怒られ警告されたのだが、その直後だというのに眼の前には依頼者とその秘書が並んでいた。


 采希が初めて見る、依頼者の顔。


 那岐なぎが興味津々で采希の横顔を見つめているのが分かった。

 今日は榛冴はるひが不在だったが、那岐には今日も依頼者の女の顔が二つに視えているようだった。

 采希の眼に映っていたのは、那岐と榛冴が視ていた表面じゃない方の顔だった。


 もしかしたら、今日は本当の姿のままでやって来たのだろうかと思い那岐を見ると、那岐はそっと首を横に振る。

 采希には依頼者の顔を覆っているという【気】が視えなかった。

 おそらくは、身の内に抱えた守護たちの力のおかげなんだろうと采希は納得する。


 顔の造作よりも、采希はこれまで拝見した事のないような肌の荒れ具合の方が気になった。

 那岐が言っていたように女の【気】も歪んでいて、何かヒトではない気配が紛れている気がした。


 卓を挟んだ采希の正面で、秘書の男がずっと頭を下げている。

 依頼者の女は静かに涙を流しながら、昨日の電話とは打って変わった口調でなにやら訴えていた。

 電話での態度とのあまりの齟齬に采希は不信感を抱く。これが演技だとすれば大したものだと思った。


 ぼんやりと考えていたので依頼者の言葉は采希の耳に全く入ってこなかった。ずっと采希の中にいる守護たちが落ち着かない気配を放っている。


「でさ、采希……聞いてる?」


 凱斗かいとに肩を揺すられ、我に返る。


「……あ、いや、何?」

「聞いてなかったのか? 昨日は朋代ちゃんの姉が朋代ちゃんになりすましてお前に電話したんだってさ。そのお姉ちゃんに朋代ちゃんは妬まれているらしいんだ。周りでおかしな事ばかり起こるんで、何かの呪いみたいな気がするから調べて欲しいって」


 昨日の電話の相手が依頼者とは別人と聞いて、采希はなるほど、と思った。

 秘書の男が顔を上げて采希を真っすぐに見据えた。

 その眼が何故か巨大化して采希の方へと寄って来た気がして、采希は眼を閉じてぶるんと頭を振った。


「本当に申し訳ございませんでした。朋代さまとお姉さまは全く似ておられないのですが、お姉さまには不思議な力がございまして……朋代さまに化けられては私にも見分けがつきません。お二人は現在、御父上の会社をどちらが後継するかで争っておられます。なのでお姉さまは朋代さまを陥れようとなさっているものと考えられます」

「おかしな事って、具体的には?」

「それは実際に確認して頂く方がよろしいですね」

「そっか、だったらまずは朋代ちゃんの護衛かな。相手が何をしようとしているのか見極めないと」


(……あれ?)


 采希はふと凱斗の様子に違和感を感じた。

 昨日榛冴に散々怒られ、依頼は受けない方向で決定したはずだった。それなのに凱斗はじっくりと依頼者の話を聞こうとしている。


「――……」


 凱斗に声を掛けようとした采希は、その時になってようやく気が付いた。

 采希の身体は動かない。発したつもりの声も、凱斗には届かなかった。


(何だこれ? 金縛り? どうなってんだ?)


 指先も動かせない身体から、変に粘り気のある汗が噴き出す。

 采希は凱斗の眼の焦点が合っていない事に気付いた。



「もしも向こうが何らかの呪いを掛けているとしたら、朋代ちゃんにずっと張り付いていれば分かると思います。可能な限りそうしたいですが、こちらも忙しいので。まずは相手のお姉さんにも直接会ってみた方がいいですね。なので、お姉さんに気付かれずに様子を窺えそうな場所を教えてください」


 凱斗が感情のこもらない声で告げると、依頼者の女は嬉しそうに笑い、琉斗りゅうとの方を見て頬を赤らめる。


「……ずっと傍に居て下さっても構いませんけれど」


 琉斗は女の言葉を全く聞いていないように凱斗の方を見ている。

 女に無視された形になった凱斗は、それでもはっきりと言った。


「いや、まずはお姉さんに会う方がいいでしょう。依頼は引き受けますので、そのお姉さんの予定を調べてください」

「承知いたしました。お調べいたしまして、改めてご連格いたします」


 秘書が丁寧に頭を下げる。

 一瞬、その視線が采希を捕え、ゆっくりと微笑んだ。




 依頼者が家から退去しても、采希の身体は動かない。

 やっと異変に気付いた琉斗が采希の肩に手を乗せて、顔を覗き込む。


「采希? おい、どうしたんだ? 采希!」

「何、どうしたの? あれ、那岐?」


 凱斗の声に、采希は辛うじて動く眼を那岐に向ける。

 自分と同じように固まったまま、那岐にもおかしな汗が流れていた。


(那岐まで金縛りに? これは……瀧夜叉たきやしゃ姫、頼む!)


 采希の意思に応え、采希の中から瀧夜叉姫が飛び出した。

 驚く琉斗の視線を受けながら、采希と那岐を見比べて着物の帯に挟んでいた扇を取り出した。ぱらりと開いてゆっくりと扇を左右に振る。


「――ぷはっ……あ~……」

「……っく……はぁぁ」


 采希と那岐が同時に金縛りから解放される。


「一体どうしたんだ?」


 呆れたような声を上げる凱斗を、采希は思わず睨みつける。


「どうって、お前こそどうしたんだよ。依頼は断るって、決めただろう? なんで勝手に引き受けてるんだよ」

「……あれ? そう言えば……」


 凱斗が首を傾げた。


「――凱斗兄さん、催眠術だよ」


 那岐が息を整えながら呟いた。


「「はあ?」」


 双子たちの声が揃う。


「那岐、催眠術って誰が?」

「多分、あのイクルミさんって秘書の人。もしかして、って気付いて采希兄さんに伝えようとしたら、金縛りになった」


 采希も違和感を感じて凱斗に声を掛けようとしたら動けなくなった。

 那岐にそう告げると、那岐は静かに頷いた。


「気付かれそうになったから金縛りを掛けたんだね。……人に、こんな術を掛けるなんて……」


 俯き加減の那岐の顔に、怒りの色が見える。

 静かに怒る那岐の怖さをよく知っている采希は、そっと那岐の顔を覗き込んだ。


「那岐……」

「痛い! 痛いって、紅蓮! さっきからどうしたと言うんだ?」


 那岐に向かって伸ばしかけた腕を中空で止めたまま、采希は琉斗を振り返った。

 紅蓮が琉斗の指に噛みついている。


「……紅蓮、どうした? ……おいで」


 琉斗をきっと睨みつけた紅蓮が、采希の方へと飛んで来た。紅蓮も怒っているようだった。


「紅蓮?」

《あの人、嫌なのに! 琉斗、気付かない!》


 何に気付かなかったのかと琉斗を見るが、琉斗は見当も付かないと言うように首を振る。


《ずっとあの人、琉斗の事ばっかり見てた! 嫌! あの人の粘着質な視線が気持ち悪い! 琉斗、それ外して采希に渡して!》


 紅蓮が琉斗の金のバングルを指差す。


「紅蓮、それってあの人が紅蓮に気付いて見てたってこと? それとも……」


 那岐が紅蓮の頭を指先で撫でながら聞いた。


《秋波を送っていたのは琉斗にだよ。紅蓮の事は気付いていない》

「秋波……」


 采希と那岐が思わず顔を見合わせる。そんな古風な言い方をどこで覚えてきたんだろう、と苦笑した。


「采希、秋波とは何だ? それにさっきから催眠術とか言っているが、誰が誰に催眠術を掛けたんだ?」


 琉斗の問いに反射的に答えようとして、采希は動きを止めて琉斗を見つめた。


「――お前、まさか……催眠に掛かってないのか?」

「だから、何の事だ?」

「…………さっき、依頼者とその秘書が凱斗と話しているのを聞いて、お前、どう思った?」

「――どうって……なぜ凱斗は勝手に引き受けているんだろう、とか」

「なんで黙っていたんだ?」

「采希と那岐が何も言わないから、俺の知らない所でそういう話になったのかと」


 再び采希と那岐は顔を見合わせる。


「那岐、あの秘書はどうやって催眠術を掛けようとしたんだ? 特に動きもせずに座ってたと思うけど」


 人前での演説の際、身振りや声の強弱、間の取り方等で聴衆を酔わせる方法があると聞いた事があった。

 だが、イクルミは正座のまま両手を膝の上に置き、話し方も平坦な調子だった。


「普通の催眠術じゃないみたい。秘書の人と眼が合った時、何かのしゅの波動を感じたんだ。だからすぐに黎さんの結界で吸収しようとしたんだけど、気付かれて金縛りにされた」

「あの眼が、そうだったのか」


 采希は金縛りの直前に秘書の男の眼が迫って来たように感じた事を思い出して身震いした。


「僕と采希兄さんには催眠が効かなかったから、黙らせようとしたのかもね。凱斗兄さんの声は録音されてたし」


 那岐と采希の会話に、凱斗が驚いたような表情で琉斗を見た。


「一番単純思考のこいつが催眠にかからないって……嘘だろ?! もしかして単細胞すぎて高度な催眠には掛からない、とか?」

「それを言ったら僕と采希兄さんも単細胞って事になるのかな? ……凱斗兄さんもあっさり催眠に掛かったのに、どうして琉斗兄さんには効かなかったんだろう?」

「……こいつ、どんな仕組みになってんだ? あんなに霊には憑かれるくせに……」

「…………どうして俺は責められてるんだ?」


 状況を把握できないままの琉斗が、むっとした表情で凱斗を睨みつける。そこに玄関から軽やかな声が聞こえた。



「うわ、何この粘着質な空気! 綱丸、可視化して!」


 居間に入るなり榛冴が叫んだ。榛冴の背中辺りでふわりと白い狐の尾が揺れる。

 ひゅうん、と風が舞う音がして、全員の視界が切り替わった。



「おわっ! ……なんだぁ、これ?」

「こんなにびっしりと、これは蜘蛛の糸に見えるが……」

「采希兄さん、僕らの身体……」

「……ああ。こんなに巻き付かれて、俺たちよく平気だったな。――いや、これが金縛りの正体か?」

「一体何があってこんな事になってるのか、誰か説明してくれるかなあ?!」


 榛冴が腰に手を当てて、采希たちを見渡した。

 居間の中は、細い細い蜘蛛の糸がびっしりと張り巡らせられていた。采希たちの身体にもその糸は絡まっていて、特に采希と那岐は大量の糸に絡めとられていたようだった。身体の周囲には瀧夜叉姫よって解かれた糸が大量に落ちていた。


(こんな事になってるのに榛冴以外、誰も気付かなかったって……何か、おかしいんじゃないか?)


 采希は後頭部の辺りにちりちりとした感覚を感じながら、口を引き結んで居間を見渡した。



 * * * * * *



「琉斗兄さんに催眠が効かないなら、好都合じゃん。凱斗兄さんは留守番だね。采希兄さんと那岐兄さん、琉斗兄さんを連れてお姉さんとやらの偵察、お願いね」


 状況を確認した榛冴が采配しようとすると、凱斗が難色を示した。


「――なんで俺が留守番なんだよ。朋代ちゃんのお姉さんの予定は俺宛に送られるんだぞ!」

「あのね、凱斗兄さん。あっさり催眠に掛かって相手の口車に乗っかっちゃうような人じゃ危ないでしょ。それに勝手に依頼を受けちゃったのは誰の責任?」


 淡々と冷たい眼で話す榛冴に凱斗は、ぐうの音も出ない。采希は最初から凱斗を連れて行くつもりはなかった。

 凱斗がいれば大概の邪気は近寄れない。だが偵察として行くのであれば、凱斗の力はかえって邪魔になる。邪気が相手ならば、気付かれてしまう可能性があった。


「僕もこれでいいと思う。どういう訳か、琉斗兄さんには催眠も金縛りも効かないみたいだし、もしまた金縛りにあっても、采希兄さんなら解けるよね?」

「そうだな、瀧夜叉には最大限の警戒をしてもらう。二度とあんな手は喰わないようにな」


 那岐と同様に、采希も静かに怒っていた。

 金縛りなどヒトに対して使っていい術じゃないと思っていたし、あの勝ち誇ったような秘書の笑みが癪に触っていた。



 催眠の効果が続いているように振る舞った凱斗の元に、依頼者の姉の行動予定が送られて来た。

 出没予想地点は水族館。データ添付されてきた画像を見て、那岐が首を傾げる。


「これ……僕らが視てもこの顔、なのかなぁ?」

「これは僕と那岐兄さんが視ていた表面じゃない方の顔だよね? 写真に写るってことは、これが本物の顔なんじゃない?」


 榛冴も自信なさそうに答えた。


「まさか采希兄さんにはが視えないとは思わなかったけど……」

「それな。采希は常に本質を視てるってことか?」

「……兄貴、それだと俺やお前は常に物事の表面しか視えていない、と言う事に……」


 琉斗の低い声に、凱斗がひゅっと息を飲み、二人そろって項垂れる。

 その様子に笑いを堪えながら、采希は画像を見つめた。


「俺が本質を見極められるかどうかは別として、この画像は気で覆われた顔だけを捉えていると思う。那岐や榛冴が実際に視たら、奥の方に別の顔が視えると思うぞ」


 采希の言葉に一瞬全員が采希を見た。

 では、姉妹揃って二つの顔を持っていると言う事になる。

 本来の顔が表面に出ていない方だとすれば、美しい顔を気で覆われて違う顔にされている姉の方が被害者なのでは、という空気が漂った。


「――采希、画像からでも本当の顔が視えるのか?」

「いや、それは無理みたいだな。所詮は虚像だ」

「でも実際に会ったら、二つの顔を持ってるならすぐに分かるね」


 采希は黙って那岐に力強く頷いてみせた。



 * * * * * *



 水族館のエントランス付近でベンチに腰掛け、三人はターゲットを待っていた。

 なるべく人目を惹かないようにと采希はキャップを目深に被って入り口を窺う。琉斗も目立たないようにとサングラスをしていたが、室内でそれは逆に目立ってしまう気がした。


「……お前、それ、外せよ。よく見えてないだろ」

「そんな事はないぞ。逆光で少し見えにくいが、問題ない」

「……見えてないんだな。俺はできるだけ目立たないようにしたいんだ」

「だけど、目立たない恰好とはどうすればいいんだ?」

「――自分で考えろ」


 ぼそぼそと会話をしていると、那岐がぴくりと反応した。


「兄さん、あの人……写真よりさらに前髪が長いけど、似てる。ついでに、やっぱり気で覆われて本当の顔が隠されてるよ」


 那岐の見ている先に視線をやるが、采希にはよく見えなかった。


「那岐、どこだ?」

「入り口の、ずっと先。SPみたいな黒服の人と口論しているのかも。あの口の動きは、一人で行かせろ、かな?」


 采希がよくよく眼を凝らすと、入り口の遥か先に人影が見えた。


(――この距離で、見えるのか? しかも、読唇術?)


 采希は隣に座った弟をまじまじと見つめてしまう。


「ここで待ってて後を付けるとバレちゃうかもしれないし、一足先に進んで、展示を見ているフリをしようか」


 驚異の視力を持つ那岐は、あどけない顔で采希に向かってにっこりと笑った。



 尾行しながら様子を窺うのは思いの外、簡単だった。

 ターゲットは水槽の中を見つめて微動だにしない。そしてなぜか、光に溢れた水槽だけを選んで見ていた。


「――どうしてだろうな。まあ、水槽の方が明るいと、俺たちの姿がガラスに映り込んだりしないから、隠れずにすんで楽か」

「その事なんだけど、兄さん。彼女、自分の顔に怯えているみたいだよ」

「怯えてる? 自分の顔にか?」

「さっき、暗い水槽の脇を通り過ぎる時、ちらっと自分の顔が映ったみたいなんだ。そしたら、びくって反応して、顔を反らしたから」

「那岐、それはどうしてだ? 彼女は結構な美女だと思うんだが」


 少し考え込みながら、采希は琉斗の言葉に賛同するように答える。


「人が感じる美醜は万人に共通ではないからな。本人はあまり自分の顔が好きじゃないとかなのかも。それにしても、あの様子は――え? 琉斗、お前には彼女の顔がどんな風に視えてるんだ?」

「どんなって……昨日来ていた依頼者と、同じ顔だな」


 琉斗の返事に采希は少し驚いて振り返る。


「……昨日はお前、本当の顔じゃなくて表面の顔しか見えていなかったんだよな? あ、ロキのおかげか」


 采希は得心がいったように声を上げた。

 気を分け与えられない琉斗では白狼ロキが消耗する一方なので、時々采希の中で白狼を充電させている。今回は何が起こるか分からないため、白狼には琉斗の守護に戻ってもらっていた。

 琉斗の背後に、一瞬ふさふさの尾が視えた。白狼が肯定しているのだと気付き、采希はちょっと笑ってみせた。


 話に夢中になっていたせいで、気付くとターゲットの姿がどこにもない。

 慌てて辺りを見渡すが、周囲は家族連れとカップルばかりだった。


「――油断した。バレてはいないと思うけど……手分けして捜そう」


 三人は、それぞれ別のルートへと向かって走り出した。

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