第5話 喪失した時間

 夢の中なのは、分かる。

 辺りは真っ白で、何の色も形もない。


(悪夢じゃなさそうだけど……)


 周囲の様子で悪夢か否かを判別できるのかは不明だが、何となく采希にはここが清涼な空間ではないかと認識できていた。


 ――しゃん、しゃらん……


(あの鈴だ)


 いつかの夢と同じ、神楽鈴の音を耳が拾う。

 鈴の音を合図にしたように、ふわりと目の前にロシアンブルーが降り立つ。思わず采希の口元がほころんだ。


「また会ったね」

「そうですね、もうこれで最後だと思いますが」


(……喋るのか? まぁ、夢だけど。でも……)


「最後って、どういうことだ? 俺のパワーアニマルとかじゃなかったのか?」

「今回のような厄災が無ければ、もうお会いする事はない、と言う意味です。あなたの守護霊獣は後ろにいます」

「守護霊獣?」


 振り返ってみるが、采希の後ろには誰もいない。

 ふと足元に視線をやると、いた。白い子虎だ。思わずしゃがみ込んでその背を撫でた。


「お前だったのか。守護霊獣って、何だ?」

「あなたを護っている存在です。この子は白虎、四神の霊獣――西方白虎です」


 四神と言う言葉は采希にも覚えがあった。残る青龍・朱雀・玄武と並んで、天の方位を司る霊獣だったと記憶している。

 何故ここに白虎がいるんだろう、と不思議に思った。


「えーと……じゃ、あの狼たちはあの神社の?」

「いえ、大きな白狼は私の主人の霊獣です」

「主人?」

「今の私の主人です。私の身体はもう此岸しがんでは存在していませんので」


(死んでるってことか……)


 そうそう見ることの出来ないような猫だったので、采希はちょっとがっかりする。実際のロシアンブルーに触ってみたかった。


「主人って誰? なんで俺を助けてくれたんだ?」

「あなたの身に危険が及んだためです」

「それ、え? 俺の身に危険がって、何でそれを知ってるんだ? 俺たちの近くにいる人なのか?」


 今回の件は家族にしか話していない。凱斗たちも誰にも言っていないはずだった。

 采希の表情が固くなる。


「……助けてくれた人って、誰なんだ?」


 怒っている訳ではなかったが、思いがけず低い声が出た。

 どうやって情報を得たのか、とても怪しげだと思った。


「あなたの情報は、身体に危険が及んだ時に白虎から教えて頂いております。常に監視している訳ではありませんので、ご安心を」


 澄ましたように前肢を揃えて座る猫に、采希はゆっくりとしゃがんで目線を合わせる。


「…………巫女さん?」

「え?」

「あんたのご主人」

「……どうしてですか?」

「あの鈴、神楽鈴だろ? それに、柏手って言ってたし……」


 一瞬、猫が笑ったように見えた。


「中々の観察と推理ですね。……そうですね、マスター……主人は巫女の能力を持っておられました。でも……。それよりも、あなたの血筋の力の方が驚愕に値します」

「俺の?」


 猫の口から発せられた意外な言葉に、采希はちょっと眼を見開く。


「あなたの先祖はかんなぎ――つまり本来の意味での巫女や巫覡シャーマンの家系です。私の主人とは違って」

「……あんたのご主人様は巫女さんなのに?」

「はい。マスターは家系としてはかんなぎではなく……いえ、喋り過ぎました。マスターの事はいずれご本人から。何より、本人は巫女と呼ばれる事を好ましく思ってはおりません。――あなたの血筋が女系であると言う事については?」

「ああ、母さんと叔母さんがそんな事言ってた。ここでも言われるってことは、それ、本当だったのか……。じゃあ何で……俺達は全員男だぞ」

「そこです。しゅによって女系となったあなたの家系に、この時代に成人男子が――しかも複数存在する。この事実が何を意味し、何が起こるのか分からないのです」


「偶然なんじゃないか?」


 ぼそっと呟いた采希に、猫が訝しげに首を傾げる。

 急にそんな血筋がどうの、何かが起こるだのと言われても戸惑うしかない。


「母さんからも『これまでは七歳までも生きてない』って言われたよ。でも俺たちはみんな成人した。って、のろいだろ? そんなものに、俺たちの人生を左右されたくない」

「――そうですね」

「だから、これまでが偶然女系みたいになってたんだ、って思う事にする」


 にっと笑う采希に、猫が小さく頷いた。


「わかりました。マスターにもそう、お伝えいたします」

「せっかく教えてくれたのに、悪いな。――家系が呪われているとか、そう言われて平然としていられる程、俺は強くないんだ」


 はっとしたように、猫が采希の顔を見つめた。

 采希は猫の方を見ずに、足元に寝そべった白虎の背を撫でながら口を引き結んでいる。

 采希の膝に猫の前肢がそっと乗せられた。

 気遣われているようなその仕草に、采希の目が嬉しそうに細められる。


「そういえば、俺、寝ぼけて『ご先祖様の警告』とか言ったらしいんだ。俺は覚えていないんだけど、何か警告みたいなのがあったのか、知ってるなら聞いていいか?」

「警告と感じたのは、あなた自身の能力のようです。恐らくは生霊の気配を感じて、あなたの守護が動き出したのを察知したものかと」

「…………」



 どんどん話が自分の手に負えない方向に進んでいく。『能力?』と首を捻りながら、采希は猫の銀毛にそっと触れる。そこにはきちんと柔らかく滑らかな感触が存在した。

 猫の言っている事は采希の中でもきちんと理解できていない。なので、とりあえず別の疑問を投げ掛ける。


「マスターって言ってたけど、お前さんはご主人の守護霊的な感じなのか?」

「使い魔のようなもの、でしょうか」

「違いがよく分からん……。また、会えるかな? もっと話を聞きたいし、あんたのご主人様にも会ってみたいんだ」

「そうですね、いつか私の息子には会って頂きたいです。あなたの手は猫に対してとても優しいので。マスターは、あなたの期待される巫女像とはかなりかけ離れておりまして……」

「そうなのか? 俺は別に、変な期待はしてないぞ」


 まさに、おかしな期待はしていなかった。単純に助けてもらった礼と、あの凛とした低めの声の主を見てみたかった。何となく、あの女が化けた顔が件の巫女さんじゃないかと、何の根拠もなく思ってはいた。


「私やロキ――眷属にも頼らずに力尽くで解決しようとするような方ですので……」

「ロキ?」

「あの白狼です。悪神の名前をあえて付けるような、趣味の御方ですよ」


 北欧神話のやんちゃな神様だったか、と采希は思い出す。白狼の姿を見て僅かに言葉を交わしただけではあったが、その気配から何か特別な存在なのだろうとは想像できた。


「う~ん……海で聞こえた声って、そのご主人様だよな? だったら一度会ってお礼が言いたかったんだけど。ところで、お前さんの名前は?」

「シェン、と申します」

「俺も、こいつに名前とか、付けた方がいいのか?」


 采希の足元で眠るように丸まっている、小さな白い虎を指差す。


「それに、こいつって大きさが変わったりするのか?」

「守護霊獣の大きさはその主の力によります。今はあなたの能力は、そのほとんどが封印されておりますので。この子が先般大きくなったのは、ロキが力を貸したからですね。名前はご自由にお呼びください。あなたの守護ですから」

「封印? どういうことだ?」

「……詳しい説明はご勘弁を。いずれ、お分かりになるかと存じます」


 シェンがふと視線を逸らし、遠くを見るような仕草をした。


「もう戻る頃合いです。申し訳ございませんが、記憶を少し操作させて頂きますね」

「……は? なんで?」

「現実を生きるためには不要ですので。では――」




 * * * * * *



 采希が眼を覚ます。

 いつもの天井のはず――なのに、なぜか違和感。


(どこだ、ここ? いや、うちだよな。なに言ってんだろ)


 そっと身体を起こし、居間のある一階へと降りて行く。居間では起きたばかりと思しき琉斗が大きな欠伸をしていた。他の面子はもう朝食のために母屋へ向かったのだろうと考え、采希は琉斗の隣に腰を下ろす。


(よかった、こいつが無事で。……あれ? 何があったんだっけ?)


 ゆっくりと記憶を辿りながら琉斗の方を見るともなく見つめていると、琉斗が困ったように笑う。


「おはよう、采希……なんだか久し振りのような気がする」

「は? 昨日振りで、何言ってんの?」

「……そうだな」

「お前、大丈夫?」

「あぁ、……なぁ采希、あの時、なぜ海に飛び込んだんだ? 俺を巻き込んで自殺するつもり、ではないよな?」

「バカか、なんでだよ。単に、浄化するなら塩だと思ったから。海水でも効くんじゃないかと思って」


 琉斗の言葉に、あの時の事を思い出すと同時に首を傾げる。自分の口から出た言葉に、記憶との齟齬を感じた気がした。


(……浄化? 何を浄化しようと……ああ、生霊だ。俺、まだ寝ぼけてんのか?)


 記憶が混乱しているのを自覚し、眉を顰めながら琉斗の言葉に答えようとする。


「それで効き目があるって確信はあったのか?」

「いや、何となく思っただけだし……そういや、なんであの時、浄化できると思ったんだろ?」

「采希、『なんとなく』で俺は死にかけたのか? 兄貴たちがいなかったら……」

「……いいだろ、助かったんだし。それに、大丈夫、浄化できるって……」

「誰が?」

「俺が……あれ?」

「采希?」

「……?」


 ――どうしてそう思ったんだ?

 采希には、自分の事が分からなくなっていた。


 急に、その眼から涙が溢れる。

 慌てて眼を覆うが、涙は止まらない。


「……どうしたんだ?」

「……わかんね」


 理由のわからない喪失感が采希の全身に広がる。


「采希……」


 思わず、膝を抱えて顔を伏せる。


「俺……何かをなくした気がする」


 しゃくり上げる采希に、琉斗はどうしていいか戸惑う。


「また、って、どう言う意味だ? 采希、何を無くしたんだ?」

「……なんだろ? 気持ち……感情……違う、……うまく言えない……」


 自分でもよくわからないといった風にしきりに頭を振る。

 身体の一部が無くなったような、喪失感。それは過去にも経験のある感覚だった。

 もう会えない、誰か。

 それって、誰だっけ……。

 ずっと采希は泣き続け、琉斗は黙って傍に座っていた。



 * * * * * *



「……海に飛び込んだくらいじゃ、生霊は引き剥がせないってさ」


 電話を終えた朱莉の言葉に、凱斗たち五人の表情が強張る。

 電話の相手は、凱斗たちの祖母。

 生霊に憑かれたと聞いた蒼依が『怒られようが連絡するべき』と主張し、朱莉が嫌そうにしながらも旅行中の母に電話を掛けた。

 楽しみを邪魔したことで怒られるかもしれないと朱莉は思っていたが、逆に興味津々の様子で質問されてしまい、途中で采希本人に代われば良かったとしみじみ思ってしまった。


「お婆ちゃんいわく、『そこまで采希に干渉できる生霊なら、その程度では退散しない。大方、采希が無意識に力尽くで除霊したんだろう』って。」


 采希と那岐が困ったように視線を交わす。息子たちのその様子を見て、朱莉がふっと笑った。


「本人にはそんな心当たりはないようだけど、って言ったんだけどね。そしたら『だったら誰かが手伝ったんだろうね』って。――助けられた覚えは?」


 うーん、と唸る采希の隣で那岐がぽつりと呟く。


「兄さん、ほら、夢で……」

「え? ……ああそう言えば、何か白いモノに護られていたような……あれ? よく覚えてない……」

「…………え?」


 訝し気に眉を顰めた那岐に、凱斗が少し驚いたように尋ねた。


「夢って、何のことだ? 采希、そんな話してたっけ?」


 凱斗を振り返った那岐が一瞬、固まる。

 じっと凱斗を見つめ、僅かに目を細めながら口角を引き上げて笑顔を作った。


「……ううん、何でもない」


 ごく小さく、『そういう事か……』と呟いた声は、誰にも届かなかった。




 ~side:采希~


 あの日の崖に立ってみる。

 海風がかなり強い。

 思い出そうとしても、あの憑依された琉斗と対峙した時、なぜ振り返ったのか、俺には思い出せない。

 ゆっくりと後ろを振り返ってみる。今、見えているこの景色を、こんなにはっきりと見た記憶もない。


(俺はあの時、振り返って何を見たんだ? この景色じゃない気がするけど……)


 ぼんやり見ていた景色に、見慣れた気配が入り込む。


「采希、気が済んだか?」


 琉斗が遠慮がちに声を掛けてくる。


「……うん」


 何かを無くした喪失感にイラつく俺を、ここまで連れ出してくれた。


「……もう平気。帰ろうか」


 溜息混じりに呟いて、俺は歩き出す。


 電車に乗ってからずっと、俺は黙り込んでいた。電車を降りて、家に向かう。神社の辺りまで来たとき、琉斗が言った。


「この神社、今日は春のお祭りらしいぞ。屋台も出てるようだし、寄って行かないか?」

「……べつに、いいけど」


 別に興味はなかったが、促されるまま境内に足を踏み入れる。

 気遣うように話しかけてくれる琉斗は、いつもよりも眉尻が下がっている気がした。


 お社では祭事が行われているようだ。

 何となく琉斗について行く。

 人混みの先に、数人の赤い袴を見に付けた巫女さんたちが舞っているのが見えた。


 しゃらーん……


(……?)


 しゃん、しゃらん……


「采希、どうした?」

「え?」

「お前、泣いて……大丈夫か?」


 目元に手をやると、自分がぼろぼろ泣いているのがわかった。


「ねこ……」

「え? なんだ、采希?」

「猫たちに、餌をあげに行きたい……」


 琉斗が怪訝そうな顔をする。

 今は、無性にあの野良猫たちに会いたかった。


「わかった。じゃあ、餌を買いに行かないとな。しばらく行ってなかったし、猫たちも喜ぶだろう」

「うん」

「仔猫はもう産まれたんじゃないか? 楽しみだな」


 琉斗が笑っている。

 俺の記憶はどこかに消えたみたいだけど、こいつが消えてしまわなくてよかった。

 またこれから、いろんなことを記憶していけばいい。

 いつだって、俺の傍には家族がいてくれる。少なくともしばらくの間は。

 歩き出そうとした足元を、何かの影が掠めた気がした。

 俺が忘れても、ここに……俺の傍にいる。

 そんな考えが頭をよぎる。

 ふっと笑って、少し安心して歩き出す。


「行こう、琉斗」


 ちょっと眼を瞠り嬉しそうに笑う琉斗と、境内を後にした。

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