第12話 過去の欠片
「……仁?」
教室入り口で立ち止まっていると、澪がこちらを不思議そうにして見た。透き通る瞳と視線が交わる。
「ああ、傘が無くて時間を潰そうと思ってな。澪は勉強していたのか?」
「うん、最近はいつも教室で勉強してる」
「そうか、相変わらず頑張ってんだな」
委員会の集まりもなく、放課後はさっさと帰っていたので知らなかった。変わらない澪の頑張りように、また尊敬の念を抱く。
そういうところは変わらないんだな。と僅かに湧き上がった懐かしさに包まれていると、澪は躊躇いがちに、ぽつりと言葉をこぼした。
「……仁は傘がないの?朝から雨、降ってたのに?」
「ん?ああ、ちょうど困ってる人がいて、その人に傘貸したからな」
「そう、仁は変わらないね」
優しく、それでいて温かい声。ぱっちりとした二重の目が柔らかく僅かに細められる。
その視線に微妙に居心地が悪くなり、視線を少しだけ横にずらす。
「別に。困った人は見捨てておけないだけだ」
そう。これは親切心からきてる行動じゃない。もちろん、親切心が一切ないわけではない。だが一番の理由は、
——償いだ。
俺が背負った罪の。これがある限りどんな人でも捨て置けない。例え、それが悪いことをした奴だとしても。
苦々しい過去の記憶を思い出し、奥歯をぎりっと噛み締めていると、澪は「……そっか」と淡白に頷いた。
「それで、傘がないならどうやって帰るつもりなの?」
「とりあえず、下校時間までは勉強して、それでも止まなかったら、最悪走って帰るかな」
「それなら……」
「ん?」
澪が何かを言いかける。先を促す意味で首を傾げると、澪はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……私の傘に入って帰る?」
「は?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。まさか、澪から相合傘の提案をされるなんて。固まる俺に澪は言葉を続ける。
「濡れて帰るよりはマシでしょ」
「あ、ああ……」
事態を理解できないまま、首を縦に振る。一緒に帰る?相合傘をして?俺と澪が?
戸惑い。混乱。
頭の中の整理がつかない。澪の真意を確かめる意味で、澪の顔を見続けると、ついっ、と目を逸らした。
「……この前と同じで外は暗いし、一人で帰るのは危ないから、誘っただけ」
「……そっか。ありがとな」
「別に」
澪から誘ってくることなんてこれまで一度もなかった。それが今になって。違和感。戸惑い。色々な感情が胸の内に溜まる。
だが、俺が濡れて帰らないようにするために誘ったのは本当だろう。そのことだけは素直に嬉しかったし、ありがたかった。
「帰る用意するから少し待ってて」
「いや、下校時間になってからでいいぞ?」
「ちょうど区切りのいいところだから大丈夫」
それだけ言って、物音を立てながら勉強道具を仕舞っていく。筆箱、教科書、ノート。そしてプリント。それぞれ丁寧にまとめてリュックへと入れていった。
「ん、終わった」
「じゃあ、行くか」
1週間ぶりの澪と一緒の下校。不思議と気まずさは薄れていた。
靴を履いて外へ出ると、既に外は暗くなっていた。止まない雨が降り続ける。空は厚い雲に覆われて闇に溶け込むほど暗い。さらにじめじめと湿った空気が肌に張り付き、それが少しだけ不快で顔を顰める。
「……はい」
「ああ」
澪が傘を差し、自分のスペースを空けて待つので、そのスペースへと入る。澪のフローラルな香り。爽やかな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
2度目の相合傘。きっと付き合っていたらとても幸せだったに違いない。だが、今の俺たちには、それはただの一行為にしかならなかった。
ポツ。ポツ。ポツ。
雨が傘を打つ音が二人の間にずっと響く。暗闇の中、街灯の道標だけを頼りに、帰路を歩き続ける。道路に跳ねる小さな水飛沫があちこちで見えた。
「そういえば、最近舞とちょくちょく話してるよな。何話してるんだ?」
「舞さん?基本的には挨拶。それに時々勉強の質問……かな」
「ふーん、そうなのか」
まあ、想像していた通りだな。と思っていると、澪はさらに付け足した。
「あとは……」
「まだあるのか?」
「仁と中学が一緒だから、仁の中学時代はどんな感じだった?面白い失敗はない?っては聞かれた」
「あいつ……」
舞がにやにやしながら、澪に尋ねてるところが容易に目に浮かんだ。
絶対からかう気満々だったに違いない。明日、会ったら修に舞の失敗について聞いてやろう。そう心に決める。
「何か教えたのか?」
「ううん、教えてないよ。……昔のことなんて、教えられない」
「……確かに、そうだな」
影を落として憂う澪の横顔を見ながら、自分も無意識に僅かに声が低くなる。
過去のどんなシーンを切り取ったってそこには澪がいる。
それは澪と俺が特別な関係だったことを意味するわけで、そんなのを他人においそれと教えられるものではない。元カノなんてバレるのは面倒だし。
既に過去になった、その事実が2人の間に漂う。それは重く、触れられない何かで、それ以上、話を続けるべきか一瞬迷う。
普段だったらここで黙って沈黙を享受していただろう。だが俺は、澪のことを確かめるために話そうと決めたのだ。
その一歩として、一つ、尋ねることを決意して、今一度口を開いた。
「……前にもさ、こうやって傘を一緒にさしながら帰ったよな」
朝の記憶。澪の気持ちが分からない過去。どの過去に触れるか迷ったが、触れるならこの過去だろう。
「……そうね。あの時とは状況が逆だけど」
「覚えてたんだな」
「うん、仁に助けてもらった日だから。……あの時は、傘に入れてくれてありがとう」
思いがけない言葉。ここでもまた「ありがとう」と言われてしまった。その事実に少しだけ気持ちが軽くなる。
「迷惑じゃなかったか?あの時、結構強引に誘ったと思ったんだが」
「ううん。凄い助かったし、その……嬉しかった」
僅かに目を伏せ、俯き加減にポツリと零す。細く消え入りそうな声であったが、確かに俺の耳に届いた。
ああ、そうなのか。俺は力になれていたのか。迷惑ではなかったのか。
しみじみと胸の奥に響き渡る。ストンッと腑に落ちるように、心の重しが無くなった。引っかかっていた過去の欠片は安らかに消えていった。
暗雲は消え、爽やかな風が心の内を吹き抜ける。
「そうか、お節介になっていなかったなら良かった」
「うん、本当にありがとう」
さっきよりも幾分か軽くなった足取りで帰り道を進んでいった。
気まずい雰囲気はほとんどなく、気付けば互いの家の前までたどり着いていた。
「じゃあね」
「ああ、じゃあな」
澪を見送り、背を向ける。背中越しにガチャッと家へと入っていく音が聞こえた。その音を聞き届けて、ほっと息を吐いた。
ここまで話せば流石に分かる。
やはり、澪は変わっていた。礼を言ってくれるし、過去のことについても感謝された。きっとそれが彼女なりの変化、いや成長なのだろう。
『凄い助かったし、その……嬉しかった』
さっきの澪の言葉が蘇る。
嘘ではない。本音だろう。情感の篭ったその声には、確かに優しさと真剣さがあった。不覚にもあの言葉に救われてしまった。
澪は過去と向き合って変わったのかもしれない。いつまでも何もかも自分から動かなかったあいつは、そうして成長したのだろう。
それに比べて俺はどうだ?いつまで過去に囚われている。今と向き合っているのか?
否だ。いつまでも昔のことを気にして、振り返って。何も変わっていない。変わったのは見た目だけだ。
周りは変わっていく。時の流れと共に。澪も変わった。中学の他の奴らだって変わった。みんなみんな変わった。
……そろそろ、俺も変わろう。いつまでも気にするのはやめて。澪との過去に囚われるのはやめて。
小さく想いを吐き出して空を見上げる。そこには空全体を覆う厚い雲があった。じっとりと湿った風が肌に張り付くように吹いてくるのも感じる。
学校を出た時と何も変わらない。それらは何も変わっていない。
————でも、雨だけは知らない間に降り止んでいた。
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