第11話 そしてまた……

 周りの片付ける音がやけに大きく聞こえる。椅子を引く音、物が擦れる音、さまざまな音が耳に届く。


「えっと、成瀬くん?」


 あまりの予想外のことに一瞬固まってしまった。戸惑うようにもう一度声をかけられて、胡桃さんと向き合う。


「あ、ああ、悪い。確か、胡桃さんだよね?」 


「うん、そう。私の名前知っててくれたんだ?」


「最初の自己紹介で話していたしね。一応、クラス全員の名前は覚えてるよ」


 名前を当てると嬉しそうにぱぁっと顔を輝かせた。クラス全員の名前を覚えた甲斐があった。


 やはり、新しい人間関係を築くのに重要なのは、名前を覚えることである。

 これは良好な関係を築くのに不可欠だ。顔見知りの状態で名前を知ってくれているというのはそれだけで第一印象を良くする。いい印象を持ってもらえればその後の関係が円滑に進むし、親しくなりやすい。

 このように良いことづくめなのでクラスの人の名前は自己紹介のときに覚えておいたのだ。


 改めて胡桃結衣を見る。明るい茶色の髪に少し派手めな化粧をしている。周りの人よりもさらに垢抜けた印象が強い。でもきつい感じはなく、話しやすさというのが凄く伝わってきた。


「それで、何か用があって話しかけてきてくれたんだよね?」


 一体なんの用事だろうか?

 まだ話したことがないのにこんな急に話しかけてくるとは。予想外のことに戸惑いを隠せない。


「さっきの数学のところが全然分からなくてさ、少しの間でいいから勉強教えてくれない?お願い!」


 憎めない愛らしい笑顔を浮かべ、顔の前で手を合わせながら上目遣いにこっちを覗き込んでくる。

 普通の人が相手ならいきなりなんなんだ、と警戒するが、彼女には馴れ馴れしさを感じず、なぜか不快感がない。


 なんとなく彼女の見た目の印象からあまり勉強に意欲的でないタイプかと思っていたので、意外だった。おそらく自分の学年の順位を知って尋ねてきたのだろう。


「ああ、良いよ。今なら空いているから教えられるけど?」


「え、いいの?ありがとう!じゃあ、よろしくお願いします」


 表情を緩ませほっと安堵しながら、胡桃さんはぺこりと頭を下げた。


「じゃあ、図書館でいい?」

 

「うん、全然いいよ。荷物取ってくるから少し待ってて」


 そう言って自分の机へと戻っていく。その後ろ姿を眺めていると、隣から肩をぽんっと叩かれた。そちらに視線を向けると、舞がリュックを背負って立っていた。


「なに、胡桃さんと勉強会するの?」


「ああ、困ってるみたいだし。別に暇だからな」


「そっか」


 少しだけ沈んだ声を出しながら、真剣な視線がこちらを射抜く。真面目な雰囲気に思わず戸惑う。


「ど、どうした?」


「……ダンナ、ナンパはやめておきなよ」


「ったく、クラスメイト相手にナンパするわけないだろ。早く部活いけ」


 まったく。真剣な顔で何を言うのかと思えば、結局いつもの冗談かよ。心配して損した。思わず肩の力が抜ける。

 しっしっと追い払うと、舞は「はーい。じゃあね」と言って帰っていった。


「お待たせ」


「じゃあ、行こうか」


 胡桃さんが荷物を持って戻ってきたので、図書室へと向かうことにした。


「佐伯さんと何話してたの?」


「舞とか?普通に別れの挨拶をしてた感じかな」


「あ、そうなんだ。成瀬くんって結構佐伯さんとか如月くんとかと仲良いよね」


「そうだな。最初に話したのもあるし、やっぱり話しやすいからかな」


 そんなことを会話しながら廊下を歩いていく。日は傾き始めているがまだ外は明るい。太陽の光が廊下を差して輝かせている。


「胡桃さんこそ、愛月さんと仲良いよね。2人は知り合ったの高校からでしょ?」


「あ、呼び方、結衣でいいよ。同級生なのにわざわざさん付けしなくて大丈夫」


「そうか?じゃあ、こっちも仁でいいぞ」


「分かった。じゃあ仁くんって呼ぶね。あ、それで華と仲が良いって話だったよね?」


「そうそう」


「華から話しかけてきてくれたんだけど、不思議と話しやすくて、私の周りの女子とも仲良くなって今に至る感じかな。懐に入ってくるのが上手いというか、本当に話しやすいんだよね」


「へー、そうなのか」


 愛月華。話を聞く感じだとかなり話しやすい人みたいだ。まあ、グループの中心人物になるくらいなんだから、予想通りといえば予想通りだが。

 愛月さんは計算なのか、素なのか。どちらにしても、周りが見知らぬ人達しかいない中で、ここまで溶け込めているのは凄いと思う。自分と似た境遇なだけに、少しだけ興味が湧いた。


 しばらく歩くと目的地の図書館へと辿り着いた。

 

 我が学校の図書館には勉強をするスペースが設けてあり、そこでは会話をすることが出来るので、利用する人は多い。

 実際に行ってみると、既に何個かのグループや人が話し合っていた。


 空いているスペースを見つけて、そこに座る。4人席で向かい合うように座り、空いた席に荷物を置く。


「じゃあ、やろうか。どこが分からないんだ?」


「えっと、この問題なんだけど、どうしてこの公式を使うのか分からなくて」


「ああ、それか。それはな……」


 出来るだけ丁寧さを意識しながら説明していく。結衣も理解は早いようで、「なるほど」と頷きながら段々とすらすら解き始める。


 一通り説明を終えて、結衣がノートでやり方を書いて確かめているのを待ちながら、ふと疑問に思ったことを聞いた。


「そういえば、なんで姫野さんじゃなくて俺に聞いたんだ?姫乃さんの方が同じ同性だし、俺より頭良いと思うんだけど」


「えっと、姫野さんは少し話しかけにくくて」


「なるほどね」


 まあ、分からなくはない。クラスでのあいつは無愛想で壁を作っている雰囲気があるから話しかけにくいだろう。

  話しかければ普通に丁寧に対応はするのだが、そこまでのハードルは確かに高い。


 それに今はクラスでずっと一人でいるので、孤高なイメージをより強めているようにも思える。

 実際、あの一緒に帰った日以来、俺は全く話す機会がなく話していない。唯一話しかけているのは舞くらいだろうか?時々挨拶を交わしているところは見たことがある。


「……それに仁くんと話してみたかったのもあったし」


「そうなのか。俺も結衣とは少し話してみたいとは思ってたんだ」


「そうなの?」


「ああ。涼が言っていたんだが、俺たちのクラスは結構有名になってるらしくて、その理由の1人に結衣の名前が上がってたから」


「あ、それ、知ってる。仁くんの名前も上がってた。実際、こうして話してみると、仁くんが噂になるのも頷けるな。かっこいいし、頭も良いし、教えてくれて優しいし」


「あはは、ありがとう」


 これまでにも何人にも同じようなことを言われてきたので、対応の仕方はもう学んでいる。笑いながら上手く流す。


 高校デビューが上手くいっていること自体は素直に嬉しい。自分の努力が実っている証拠でもあるし。だが、最近は少しだけ何か引っかかる。


——喉に引っかかった骨のように、ちくりと痛んだ。


「よし、終わり」


 結衣は、話しながら進めていたノートへの書き込みが終わったらしく、すっきりした表情で顔を上げる。


「ありがと。本当にわかりやすかった」


「どういたしまして」


「……ねぇ、よかったらでいいんだけど、これからもこんな感じで週に一回でもいいから教えてくれない?」


 結衣は少しだけ言いにくそうに言葉を詰まらせながら零す。長い睫毛が伏せられ、こちらを窺うように上目遣いで見てくる。


「……ああ、別にいいよ。委員会の集まりがある時以外なら放課後は空いているし」


 好意、いや、興味だろうか。向けられたものに一瞬警戒するが、すぐに解く。

 まあ、別に話した感じ結衣は悪い奴ではないし、問題ないだろう。そう思って頷くと、「ありがとう!」と結衣は顔を輝かせた。


「分からないところ、終わったみたいだし、もう帰る?」


「そうだね。この後バイトあるし。仁くんは?」


「俺もやる事ないし、帰ろうかな」


「じゃあ、下駄箱まで一緒に行こ!」


「いいよ」


 机に出していた勉強を道具をリュックに仕舞って下駄箱へと向かった。


 放課後になってから1時間ほどが経っているので、人気はかなり減っている。廊下ですれ違う人は少ない。響く足音を聞きながら隣の結衣の横顔を見る。


 胡桃結衣、か。想像以上に話しやすい人だった。この人懐っこさは結衣自身の1番の魅力だろう。普通なら不快に感じる馴れ馴れしさでも許されてしまうのは、彼女が纏う雰囲気のおかげか。


 まだ彼女が何を考えているのかはわからない。わざわざ放課後に一緒に過ごす約束を取り付けてまで何をしたいのか。

 少なくとも自分に興味は持っているのだろう。それ以上のことは分からないが、今はそれでいい。これから知っていくとしよう。


 薄暗くなった廊下を歩き続ければ、下駄箱へとたどり着く。外を見れば、未だに朝からの雨が降り続いている。


「あれ?傘がない」


 その声に視線を結衣へと戻すと、彼女は傘立てのところで困ったようにきょろきょろと首を振って探していた。


「傘ないのか?」


「うん……なんか、見当たらなくて。誰かが間違って持って帰っちゃったんだと思う」


「ん、じゃあ貸すよ」


 傘立てに置いてある自分の傘を手渡す。流石に困っているのを無視出来なかった。


「え、でも、そしたら仁くんの分の傘がないんじゃ……」


「いや、教室に予備の折りたたみ傘があるから大丈夫」


「そう?でも……」


「いいから。バイトに遅れるよ」


「分かった。ありがとう。今度お礼するね」


「期待してる。じゃあな」


「分かった。じゃあね」


 結衣は手を小さく振って校舎を出ていった。その揺れる茶色の髪の後ろ姿を見守って、教室へと向かう。


(どうするか……)


 結衣にはああ言ったが、予備の傘なんてものはない。傘を貸さなければ結衣が困ったことになっていただろうし、かといって一緒に帰ったとしても帰り道は全然違うはず。なのでおそらくこれが最善だろう。


 とりあえず、この後雨が止む可能性にかけて、下校時間まで勉強でもして待とうか。

 図書館はみんな話して勉強をするので、一人で勉強をするのには適さない。なので教室の方が良いだろう。教室で勉強を進めることを決め、自分の教室へと向かった。

 

 ガラガラガラ。人気の感じない自分の教室の扉を開ける。


「……っ」


 そこには机に向かってひたすら筆を進める澪の姿があった。紙に文字を書くたびに、垂れた黒髪の毛先が揺れ、煌めき輝く。髪の間からのぞく澪の横顔はやはり綺麗だ。

 静かで厳かな雰囲気と澪の美しさが相まり、目の前の光景に息を呑んだ。


 一瞬避けて別の場所でやるか考えたが、その考えはすぐに振り払う。あの日、澪がありがとうと言ってくれた日のことが、脳裏を過ぎる。


 もし変わっているなら。変わったというなら。


————少し話してみようか。


 

 

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