第9話 時間は人を変える

 薄暗い夜道、歩くほどに遠くの夕焼けが引いていく。街灯がつき、暗くなった道が点々と道標のように明るく光る。昼間は暖かったが、まだ4月の初め。夜になって冬の名残の風が肌を撫でた。


「……」


 沈黙の間を埋めるように、隣に並んで歩く澪を横目で盗み見る。馴染んだ横顔。陶磁のような白い肌に端正な顔立ちはまるでどこかの彫刻品のようで、目を惹くほどに美しい。

 さらり、さらり、と歩くたびに黒絹のような髪が滑らかに揺れ動く。それすらどこか色気を孕んでいるように見えてしまう。


————なぜ澪は急に感謝を伝えてきたのだろうか?


 分からない。あんなことはこれまでの中で初めてで、戸惑うしかない。澪は一体何を考えている?

 理解は出来ずその考えも読めず、混乱で頭の中は一杯だが、それでもやはり「ありがとう」と言われたことは嫌ではなかった。そう改めて思う。


 澪のことは嫌いだ。それはまだ変わらない。でも、さっきの出来事がほんの僅かだけ心の紐を緩めた。少しは話してみるか、と思う程度には。


「なぁ、受験勉強、どのくらいやったんだ?」


 入学式のときは聞き忘れてしまったが、澪がどういった勉強をしたのかは気になった。

 嫌いな奴ではあるが、勉強に関してだけは尊敬している。それに仮にも入学試験では俺よりも良い成績を取ったのだから、どんなことをやってきたのかは知りたい。


「夏休み中は1日のほとんどやってて、学校がある時はそれ以外の時間をずっとやってた」


「ふうん、そうなのか。どんなことやったんだ?」


「もう中学の内容は終わってたから、これまでのノートを見直したり復習したり。仁が教えてくれたから」


「……なるほど」


 俺が教えた、か。


 確かに昔、勉強を教えていた頃、復習のやり方を教えたことがあった。基本勉強というのは復習が1番大事だ。人間は忘れる生き物なので、何度も復習をすることで初めて定着する。

 そのことを澪に話して、色々やり方を教授したことがあった。だが、それを覚えていて実行していたとは……。

 

 なんとも言えない複雑な感情が胸中を満たす。もう癒えたと思っていた古傷がズキリと傷んだ気がした。

 

「復習のやり方とか、そんな昔話したことまだ覚えていたんだな」


「うん……」


「まあ、なんだ。俺と同じやり方で俺に勝って、そして学年で一位になったのは凄いと思うぞ」


 きっと今日、澪にありがとうと言われたからだろう。緩んだ心の紐のせいで、ぽろりと本音が漏れ出た。


「そう?」


「ああ、本当に頑張ったんだな」


「うん」


 澪の口角がわずかに上がる。自分の目を疑い、二度見をすれば既に笑みは消えていた。澪が微笑んだように見えたのは気のせいだろうか? 

 わざわざ確認するわけにもいかず、言葉が無くなる。また沈黙が続き、静寂が漂い始めた。だが今度は会話をした分だけ気まずさは薄れたようだった。


 いつまでも脳裏に張り付いて離れない澪の微笑みを振り払うように、黙々も歩き続ける。一歩、一歩、確認して。自分の踏んだ足跡が正しいと信じて。ひたすら歩みを進めた。


 気付けば家の前までたどり着いていた。


「じゃあな」


「うん、じゃあね」


 それだけ挨拶を交わすと、澪は玄関前で翻して扉の奥へと入っていく。


 ああ、懐かしいこの感じ。いつも一緒に帰った時は家の前で別れを惜しんだものだ。だが、今はそんな気持ちは湧いてこない。ただひたすらに澪のことが分からないまま、家の中へと消えていく澪の背中を眺め続けた。


(さて、俺も戻るか)


 澪と向かいの自分の家へと帰る。ガチャリ、と扉を開ければ、台所の方からいい匂いが漂ってきた。香辛料の効いたカレーの香りに食欲がそそられる。


「ただいま」


「あ、仁?おかえりー。ご飯できてるから荷物置いたらすぐに降りてきてね」


「分かった」


 母親に言われた通り、自分の部屋に荷物を置いてすぐにリビングに向かう。すでにテーブルにはカレーが用意されていた。


「いただきます」


「はーい。召し上がれ。いただきます」


 母親も向かい側に座って一緒に食べる。父親はまだ仕事だろう。いつも遅いので、晩御飯は2人で食べるのが日常だ。熱々のカレーを一口、また一口と頬張り続ける。


「どう?新しい学校は」


「普通だよ。まあ、話せる友達も何人も出来たし、順調ではあるかな」


「そう、それならよかった。まさか、あんたが急に進学校に行くって言い出すなんて思ってもいなかったから、少し心配してたのよ」


 ほっと安心したように表情を緩める。まあ、勝手なことを言い出したのは自覚しているし、心配はかけたのだと思う。安心させる意味で少しだけ語調を強める。


「今のところは大丈夫。勉強もついていけてるし、クラスの人もいい人たちだよ」


「なら、いいんだけど。あ、そういえば澪ちゃんとは会ったの?」


「……ああ。もしかして同じ学校ってこと知ってた?」


「あたり前じゃない。お向かいさんなんだから。そういう話はすぐ耳に入るわよ」


「なんで教えてくれなかったんだよ」


 入学初日に同じ制服を着ていた澪の姿を見た衝撃は未だに覚えている。わざわざ離れようと思った奴が同じ学校に行くなんて、そうそう予想できるものではない。


「ずっと勉強に集中していたみたいだし、わざわざ教える必要もないかなって。それに本人から話を聞いているものだと思ってたわ」


「知るわけないだろ。そもそも澪とは話してないし。おかげで入学初日鉢合わせしてめっちゃ気まずかった」


「気まずいって……ああ、まだ喧嘩してたの?今回は本当に長いわね」


 長嘆息をして、白けた目を向けてくる。そんな目を向けられても困る。こっちにだって事情はあるのだ。


「別に、喧嘩じゃないし……」


「はいはい、そういうのはいいから。年頃だし色々あると思うけど、ちゃんと仲直りしなさいよ」


「いや今のままでいいし」


「まったく、見た目が変わって少しは成長したかと思えば、本当に中身は変わらないわね」

 

 母親は呆れたように、またため息を吐く。だがさっきとは違い、こちらを見る目は見守るように温かった。その視線に居心地が悪く、目を逸らす。

 

「別に仲直りはしなくても構わないけど、せめて話せる程度には戻りなさいよ」


「……」


 忠告、あるいは助言。経験を重ねた大人としての言葉は染み入るように心に響く。反抗は出来ないが、もちろん素直に頷けるはずもなく、頭上からのその言葉には何も返せない。


「まあ、いいわ。それで今日の学校は……」

 

 そんな俺の様子を察したのか、わざとらしく明るい声で話題を切り替える。そのことにホッと内心で安堵しつつ会話に勤しみ、それはご飯を食べ終えるまで続いた。


「ごちそうさまでした」


 洗い場に食器を置いて、2階に上がろうとドアの取手に手をかける。扉を閉める直前、「仁。まあ、頑張りなさい」と優しい声が聞こえた気がした。


 その言葉が指すものが何なのか考えながら、階段を上がり部屋へと戻る。パチリ、とスイッチの音と共に部屋が明るくなる。さっきは荷物を置いただけだったので、カーテンはまだ閉まっていない。

 閉めようとした時、そこから覗く夜空に、星が散りばめられて煌めいているのが目に入った。澄んだ空気が星を一層際立たせて、これでもかと星明かりが存在を主張している。窓の額縁に肘をついてそんな景色をぼんやりと眺める。


 頑張ると言っても何を頑張ればいいのか。さっきの母親の言葉を振り返る。直前の会話から推測すれば、それは澪との関係についてで間違いない。


 「話せる程度には戻りなさいよ」と母親は言っていた。それが具体的にどういう状態を指すのかは分からない。だが、確実に一つ言えるのは「歩み寄れ」ということなのだろう。

 歩み寄るために人は会話をする。互いに話し合い、理解し合うことで和解を図る。一般的な喧嘩ならそれは正しい方法だ。多くの人が取っている手段だし、実際解決するだろう。


 だが恋人の関係が壊れてもその手段は正しいのだろうか。


 未だにあいつが言った「仕方なく付き合っている」という言葉は許せないし、好きでもないのに付き合っていたことは苛立つ。だから嫌いだ。大嫌いだ。


 そんな奴とどう歩み寄れというのか。歩み寄ってどうなるというのか。壊れた関係は戻らないというのに。……本当に何か変わるのだろうか?

 

 分からない。本当に分からないことだらけだ。だが、一つだけ対話をする意味に心当たりがあった。今日会話して、少しだけ気まずさは減った気がするのだ。


 未だにどんな調子で接していいのかなんて不明だし、一緒にいれば気まずさしかない。それでも、初めて再会した時よりは幾分かはマシになっているようにも思える。

 今日は特にそれを感じた。最後の帰り道には、以前の親しさはなくとも他人行儀ではない程度の話は出来ていた。


 その理由は察しがついている。おそらく澪の感謝の言葉だ。今日の澪は一体なんだったのか。改めて振り返る。


 昔の澪ならあんなことはなかった。ありがとうなんて滅多に言われたことがなかったし、あんな些細なことで感謝をすることは一度もなかった。


————もしかしたら澪は変わり始めているのかもしれない。


 時が経てば自然と人は変わる。好きな気持ちが嫌いな気持ちに変わるように。俺の見た目が変わったように。歳を重ねて成長していくように。否が応にも人は変わる。変わってしまう。

 澪も例外ではないだろう。澪も変わったのかもしれない。この半年話さない間に。


 話してみようか、もう少し。別に歩み寄るつもりはない。仲直りをするつもりもない。理解なんてもっての他だ。

 ただ、澪が変わったのかどうか、それだけは確かめてみようか。


 夜空に散る星に手を伸ばす。だかもちろん、届かない。虚しく空を切る。手と星の間には限りないほどの距離がある。それはもう諦めたくなるほどに。それでも確かに、手を伸ばした分だけは近づける。


 些細なことでも動くことが大事なのだ。少しでも引っかかることがあるなら、行動して確かめてみるしかない。

 例えそれがどんな変化をもたらすとしても。神のみぞ知るものだとしても。


————少しだけ向き合ってみようか。

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