将棋短編『尻ぬぐい』

はまだ語録

第1話 前


     1


「兄貴、マジで頼んだからな」


 僕は弟のその言葉に逆らえたことがない。

 いや、実際には全くないなんてことはないはずだけど、ちょっと記憶にない。

 しかし、それは受け入れても問題ないくらいの内容だったからで、今回くらいの無茶はさすがに躊躇ちゅうちょした。

 良心の葛藤かっとうというよりも『絶対に無理だろう』という失敗への恐れからだ。


「いや、それはマズイだろ……というか、どう考えても無理だろ」

「大丈夫だって。問題ない問題ない。俺たち双子を見分けられる奴なんていねぇから」

「いや、バレる危険性はもちろんだけど、職業倫理とかいろいろあるだろう」

「はぁ? 遅刻で対局放棄のほうがヤバイっての。どう考えてもあと一時間はかかるから、その間だけで良いんだからさ」

「……龍棋戦の二次予選だっけ?」

「ああ。今日は三時間の将棋だろ。遅刻は三倍消費だから一時間遅刻したらもう持ち時間がなくなるわけ。どうにかして昼まで持ち堪えてくれよ。な?」

「……作戦は? 僕、最近の定跡詳しくないぞ」

「なんでも良いよ。有利な局面まで作れなんて言わないからさ。それっぽく指しておいてくれたら、後は俺が終盤力でなんとかするから」


 むちゃくちゃだ。

 こんなこと言いながら、劣勢だったら後でグチグチ言うに決まっているのだ。


「それに、今日の相手はスペシャルだからな。記念になるぜ?」

「あー……誰だよ」

「最年少棋士」

「……マスコミの囲い込み、凄いんじゃないか?」

「最近は落ち着いているから大丈夫だよ」

「そもそも、お前、あの天才に勝てるのかよ」

「勝つさ、当たり前だろう」


 この一言が言える人間性が少しだけ羨ましい。


 ……しかし、そもそも、僕が弟の頼みを断れるわけがないのだった。

 電話を切ってから、半年ほど前にクリーニングに出してから一度も袖に腕を通していないスーツを引っ張り出した。

 すこしだけ積極的な気分になれたのは(もう知らねぇし)という自暴自棄が進化して、ちょっとした悪戯いたずらを思いついたからだ。

 僕らはとても良く似ている。

 家族以外では間違えられることもしばしばだ。

 同じ日に同じ両親から生まれたたった二人きりの兄弟だが、決定的に違う部分が一つだけある。


 僕の双子の弟はプロの将棋棋士だ。


     2


 日本将棋連盟はJR千駄ヶ谷駅から徒歩十分ほどにある。

 大都会東京の中では閑静かんせいな地区で、途上にある鳩森八幡神社でひと祈りすると敬虔けいけんな気分に浸れる。

 ここは僕にとっても、なじみみ深い場所だった。

 ジッとたたずむと冬の風が冷たい。

 つい先日、東北北陸に大寒波だいかんぱがやって来て冬将軍が大暴れした影響も大きい。

 その余波で東京にも雪が降っていた。

 地元に比べれば大したことないが、交通網を麻痺まひさせるに十分な量だ。

 その残り雪を軽く蹴飛ばす――さ晴らしというほどのことでもない。


 弟はプロの将棋棋士だが僕は違う。

 だからと言って、僕が生まれつき将棋に全く興味がなかったというわけではない。

 人よりも興味があったが、相応しい立場に至るための実力が伴わなかっただけなのだ。

 プロ棋士になるためには奨励会を突破する必要がある。

 正確には新進棋士奨励会しんしんきししょうれいかい

 棋士を育成し、そして、棋士が食べていくための組織である。


 一般的には六級などの級位から始まり、一つ一つ昇級・昇段していかなければならない。

 そして、四段になったらプロを名乗り、対局料が発生して将棋で食べていくことが可能になる。

 つまり、三段と四段は段位一つで全然違う立場なのだ。

 しかし、その大きな関門として三段リーグというものがある。

 半年間リーグ戦を戦い続けて、上位二名がプロになれる。

 例外は多少あるが、プロの将棋指しは一年間に四人しか生まれない狭き門なのだ。


 しかし、僕はそもそもその土俵まで上がることさえできなかった。

 弟のおさむが三段リーグを戦っている時、僕は奨励会の二段だった。

 そして、彼がプロデビューを果たした時、僕は降級をくらい初段になっていた。

 僕は弟がプロとして活躍しているのを尻目に更に二年ほど闘い、足掻あがき――二十三歳の奨励会二段で諦めた。


 プロ棋士を諦めた人間は二通りの道を選ぶことがある。

 それ以降も将棋を指すか、指さないかである。

 これは一時的に捨てた人間でも、そこから再び帰ってくることがある。

 忘れられないという気持ちは分かる。

 半生をかけて学んできたものを無為むいにするのは本当に辛いことなのだ。

 だが、テレビ中継をしている日曜の昼に具合が悪くなる気持ちだって事実だった。


 そして、現在の僕は一切アマチュアの大会には参加していない。

 将棋界から背を向けた。


 ネット将棋を隠れて指すなんてこともないし、新聞に詰将棋がっていればチラッと見て無意識的に解いてしまうことがあるが、基本的には将棋とは一切関わりがない。

 唯一の例外は弟の対局くらいだ。


 弟の棋譜だけはどうしても確認してしまう。

 勝ったのか、負けたのか?

 その内容は?

 相手は誰なのか?


 身内だから応援しているということはなく、むしろ、負けていた方が心の一部を慰められる。

 が、同じくらい嫌悪で死にたくもなった。


 そんな僕は二十七歳になり、昼間はアルバイト・夜間の大学という二足の草鞋わらじを履いている。

 周囲は年下ばかりで残念ながらあまり話も合わない。

 そんな余裕もないから友達がいないことは別に苦ではないが……いや、強がりではない。本当だ。


 現在の弟はプロ棋士の六段になり、まだタイトル出場は経験していないが、新人王戦で優勝。

 全棋士出場棋戦でベスト4や順位戦でB2昇級と順調にキャリアを重ねている。


 それを羨ましいと思う自分が嫌だが、それ以上に、両親のあわれみの視線の方が辛かった。

 僕の方が努力していた。

 客観的に見て、これは事実だと思う。

 ただ、自分を追い込むことを努力だと思いこんで自滅じめつしていったのだから――やはり才能がなかったのだろう。


 つまり、僕はいろいろと失敗してしまったのだ。

 弟はそんな僕を明らかに侮っている。

 だから、こんな無茶をお願いしてくるのだ。

 いや、お願いなんてものではないか。

 こちらの引け目に乗じた――ただの命令だ。


   +++


 僕はギリギリの時間に対局室へ滑り込んだ。

 対局相手は既に下座しもざへ折り目正しく座って待っていた。

 僕の姿を見て、ペコリと頭を下げるので、僕は弟らしく偉そうに頷いて応じる。

 が、内心で戸惑っていた。


 対局相手は学生服姿だった。

 そう、まだ学生なのだ。

 しかし、年齢に戸惑ったわけではない。

 弟から話を聞いていたし、相手がどういう立場なのかは分かっていたからこその戸惑いである。


 うちの弟は二十歳でプロデビューを果たした。

 それに対して、相馬龍翔そうまりゅうしょうは十五歳でデビューしているが、年齢の低さと才能の高さはほぼ間違いなく反比例している。


 彼は史上五人目の中学生棋士。段位は八段。

 しかし、彼は段位で呼ばれなく『龍王』と呼ばれている。

 七つあるタイトルの一つを彼は十七歳という若さで獲得していた。


 そもそも、奨励会に入るためには地元で負けなし。

 全員が天才と呼ばれているような存在ばかりだ。

 そんな地元最強を誇る天才たちの多くが挫折し、諦め、消えていく。


 つまり、プロになるのは選ばれし天才の中の天才だ。

 しかし、そのプロになった人間の中でもタイトルを取る人間は限られている。

 相馬竜王は歴史に名を残すレベルの怪物であった。

 タイトルホルダーである竜王が下座なのはおかしかった。

 年齢差を考えてこちらを立ててくれているのだろうが、心苦しいので止めて欲しい。


「相馬竜王、座る場所が違うよ」

「いやいや、西丘にしおか先生の上座には座れませんよ」


 僕は彼を昔から知っている。

 近所の将棋道場で教えていたのだ。

 それは僕だけでなく弟も一緒だったので、やはり向こうはやり辛い部分はあるのだろう。


 彼は高校進学時に引っ越ししたのだが、未だに覚えてくれているのはすこしだけ嬉しかった。

 いや、覚えているのは僕ではなくて弟なのだけれど。


「相馬竜王、立場に相応しい行動を取るべきだよ」


 僕がすこしだけ真剣に言うと、彼はハッとしたような顔で「失礼しました」と上座へ移動してくれた。

 嘘を吐くような自分が言えた立場じゃないのに……。

 申し訳なさで今すぐ頭を丸めたくなるが、もう今更どうしようもない。

 僕は照れ隠しもあり、マスク越しにゴホゴホッと咳をする。


 相馬竜王は移動しながら「風邪ですか?」と穏やかに質問してきた。


「ああ、ちょっとな」

「そうですか。それはお大事に」


 移動完了した相馬竜王は一礼してから駒箱をひっくり返す。

 彼が大橋流おおはしりゅうで並べているので、僕もそれに倣った。

 昔は伊藤流いとうりゅうだったような気もする。

 駒の位置はマス目の中央に綺麗に並べたか、それとも、下線に合わせたか……とにかく龍王を真似まねよう。

 順位戦やリーグ戦以外は、振り駒によって先手と後手を決める。

 振り駒とは上手側の歩を五枚投げて、その表裏(『歩』か『と』)の数で先後を決めるのだ。

 公式戦では基本的に記録係が振り駒をする。

 と、僕はようやく今日の記録係がすごく可愛らしい女の子だと気づく。

 間違って迷い込んできたかとさえ思うくらい場違いな少女に見えた。

 一瞬、誰だか分からなかったが、僕はその少女のことを知っていた。


 坂上桂花ちゃんだ。


 今の所、女性の棋士はまだいない。

 それは純粋な実力差であるが、いくつかの説がある。

 脳の使い方が違う説。

 男女で競技人口が違う説。

 男性社会だから女性が実力を発揮しきれない説……まぁ、他にもいろいろとあるが、奨励会を突破し四段になった女性は存在しない。


 だから、女流棋士という職業がある。

 棋士とは違い女流棋戦を戦う仕事だ。

 男性をはいし、女性同士で戦うというある種の逃げ道。


 差別と言えば、差別なのだろう。

 優遇ゆうぐうすることで、逃げ道を用意してしまうことで、女性から棋士が生まれる可能性は遠のいてしまっている。


 しかし、桂花ちゃん――いや、坂上さんは違う。

 彼女は本気でプロ棋士を目指していた。

 僕が奨励会にいたのはもう四年前だから、彼女は当時中学一年生くらいだった。

 小学生名人戦で男の子をぶっ飛ばして大活躍しただけあって気の強い子だった。

 当時は三級くらいだったが、三段にまで昇段しているらしい。

 大したものだ。

 まだ彼女も高校一年生くらいだろう。

 彼女が振り駒(投げた歩の表裏の枚数で先手と後手を決める)をすると、と金が三枚出て僕の先手になった。


「と金が三枚出ましたので西丘六段の先手でお願いします」


 相馬竜王が歩を戻してから僕は頭を下げる。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 相馬竜王がほぼ同時に頭を下げても僕は悩んでいるフリをした。すぐには指さない。

 僕の仕事は時間稼ぎだ。

 しかも、かなり時間を稼がないとならない。

 つまり、普段はやらない戦法を用意してきたという体が自然だった。

 僕が指した初手を見て、相馬竜王だけではなく、坂上さんも驚いたのか息を呑んだ。

 僕が指したのは七八飛車。

 奇襲戦法きしゅうせんぽうだった。

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