133. NP:The one who was kept out of the loop

 ――――― ★ ―――――




 執務室に座るエスト・ヴァルキス・フォン=ストックフォードは、入ってきたデルギンに期待の眼差しを向けた。


「東メイン通りでの戦闘について、ようやく調べがつきました」

「ようやくか……」


 期待通りの回答だったことに、エストは少しばかり安堵する。


 ここ数日、このフェルファストの裏で何かが起きている。

 そのことは、エストにも分かっていた。

 しかし、自動的に上がってくるはずの報告が、一向に上がってこない。

 そのせいで一番状況を把握していなければいけない立場にいるエストは、ずっと蚊帳の外状態だった。


 明らかに何者かが情報を握り潰している。

 それが誰なのか、エストも調査はしてみた。

 が、今に至るまで何一つ掴めずにいる。



 エストの家臣は、大まかに二種類に分けられる。

 それぞれ「ヴァルキス家」に仕える者たちと、「ストックフォード伯爵家」に仕える者たちだ。


 ヴァルキス家に仕える者たちは、その殆どがエスト個人の直臣や陪臣である。

 出自に関係なくエストが自ら見出した者もいれば、親の代から関係を引き継いだ者もいる。

 前者の代表はデルギンで、後者の代表はこの屋敷の家令だろう。

 中には数世代に渡ってヴァルキス家に侍從し続けている家系もあり、エストとは公私ともに親しい関係にある者が殆どだ。

 彼らはエストやヴァルキス家への思い入れが強く、「ストックフォード領」のために働いているというよりも「エスト個人」のために働いている面が強い。

 公私混同と言われれば否定できないが、その分、何事にも親身になってくれるし、忠義にも厚い。

 為政者としては好ましい関係の一つであるのは間違いないだろう。


 対して、ストックフォード伯爵家に仕える者たちは、もっとビジネスライクだ。

 身分としては法衣貴族が殆どで、代表はカイルソンだろうか。

 彼らは雇われ文官としての側面が強く、純粋に仕事として「ストックフォード領」のために働いている。

 そのため、エスト個人への「情」という点では比較的希薄で、雇用主と被雇用者の関係が色濃い。

 貴族同士の付き合いや仕事上の往来はあっても、私的な交流は直臣たちと比べると圧倒的に少ない。


 両者とも「ストックフォード伯爵領を良くしていく」という共通目的を有しているが、前者の動機は「エストのため」であり、後者の動機は「収入のため」だ。

 同じ家臣でも、温度差があるのは仕方がないと言えるだろう。


 もちろん、全ての直臣がエストに完全傾倒しているわけではないし、全ての雇われ法衣貴族がエストと上っ面の付き合いをしているわけではない。

 エストの屋敷の中にも野心の強い直臣が数名いるし、カイルソンのようにエストに無二の忠誠を誓っている雇われ法衣貴族も少なくない。

 こと忠誠や裏切りに関しては、決して一概には言えないのだ。


「愚か者はトーア法衣男爵で最後と考えていたのだが……まだ居たか」

「確証はありませんが、騒動の詳細がこうまで上がってこないことを考えると、やはりまだ身中に虫はいるかと」

「困ったものだ」


 貴族たるもの「間諜や密偵の類は常に紛れ込んでいる」と考えて然るべきであり、「それが外来者ではなく身内である可能性もある」という考えを常に持ち続けなければならない。

 それができない者に貴族は務まらないし、できない者が統治すれば領地全体に不利益が降りかかる。

 好むと好まざるとに拘わらず、親しい者を疑うことは貴族として当然の常識であり、避けれ得ぬ業なのだ。


「裏切り者探しは後でするとして…………今回の騒動、裏で一体何が起きている?」


 本題に戻ったエストに、デルギンは調査で判明したことを余さず報告した。


「──『コネリーの赤』に代わる新薬だと!?」

「はい。ポーション師ギルドでは暫定的に『コネリーの赤・改』と命名しているようです」

「なぜギルドはこちらに知らせなかった!?

 この忌々しい『コネリー難』を直ちに終わらせることができるのだぞ!?」

「どうやら、ギルド長が意図的に報告を遅らせているようです」

「……手柄の独り占めが狙いか!」

「恐らくは」

「あのジジイめ!」


 個人の思惑で大局に支障をきたすことは、統治者として一番許容できないことだ。

 しかし、薬師ギルドは冒険者ギルドや商人ギルドと同じ世界を股にかけた独立組織。

 領主と言えど、そのギルド長を安易に処断することはできない。


「とにかく、その容疑者二人を早急に確保せよ。ことは一刻を争う」


 ポーション師サムと冒険者ミモリーは、今回の事件のキーパーソンだ。

 原作者の死亡が確認された以上、新薬に繋がる手がかりはもうこの二人しか残されていない。


「それは難しいかと」


 しかし、デルギンは難色を示した。


「なぜだ?」

「原作者の殺害について、不審な点が幾つかございます」

「不審な点、だと?」

「衛兵隊に保管されていた聴取書が、いつの間にか紛失しておりました。

 その上、原作者の死体も、初期検分の直後に何者かによって焼却処分されています」

「なッ!?

 ということは──」

「恐らく、衛兵隊の中にも内通者がいるかと」

「クソっ!

 連行に向かった衛兵が5人も殺されているというのに衛兵隊の動きが妙に鈍いのは、それが原因か!」


 衛兵隊は治安を守る、謂わば警察のような組織だ。

 その結束力は強く、仲間を殺めた者を決して逃しはしない。

 そんな団結力の塊のような衛兵隊が、5名もの仲間を殺されながら、何故か今回は遅々として捜査を進めていないのだ。

 何らかの妨害が働いていると考えて然るべきだろう。


 内通者が居る組織を使うわけにはいかない。

 ましてや重要人物の確保など、間違っても命じられないだろう。


「幸い、現在の衛兵隊で容疑者二人と直接面識のある者はいません。

 冒険者ミモリーはそれなりに有名なので顔を知っている衛兵もいるかと思いますが、最重要人物であるポーション師サムの方はほぼ面が割れておりません。

 確保しようにも、捜索は難しいでしょう」

「う〜む、痛し痒しだな」


 容疑者二人を早急に確保できないという現状は全く喜べないが、内通者にも情報が渡りにくいことを考えれば、最悪とも言い難い。

 打てる手はないが、打たれる手もない。

 実に微妙な状況である。


「隠滅されたもの以外でまだ無事な証拠品はあるか?」

「現在残っている物的証拠は、凶器のナイフだけです」


 そう言って、デルギンは一つの木箱をエストに差し出す。

 蓋を開けて見れば、中に入っていたのは一本の黒いナイフだった。


「ふむ……」


 目の前に置かれた凶器ナイフを、エストは細かく観察する。


「細身で鍔がなく、柄と刃が一体になっているな。

 投げナイフか?」

「ご明察です」

「片刃ではなく両刃だな。

 刃は鋭利に研がれているから、投げるだけでなく斬るのにも使える」


 ナイフを使う人間はとても多い。

 冒険者や傭兵は言うに及ばず、一般の狩人や旅人も普通に持ち歩くし、なんなら商会の見習い坊主ですら所持しているほどだ。

 戦闘から髭剃りまで、獲物の剥ぎ取りから梱包の開封まで、とにかく幅広く使われる。

 そのため、ナイフは鍛冶屋のみならず雑貨屋でも取り扱っている。

 実にありふれた商品だ。


 しかし、エストの目の前にあるこのナイフは、それらとは一線を画すものだった。


「ナイフ全体が黒く塗られているな。

 と言うことは……」


 視認性を下げるための黒色塗装は、メンテナンスに手間と費用がかかる。

 よって、通常用途のナイフにそのような加工を施すことはない。

 このような塗装を施すのは、メンテナンスと費用面のデメリットを度外視してでも「隠密性」が必要な──な用途で用いる場合だけだ。


「……暗殺用、か」


 こういった暗殺用需要の少ない武器は、一般の鍛冶屋ではあまり取り扱われない。

 暗殺目的良からぬ用途で使用されるのが目に見えているので、そもそも鍛冶師が受注を嫌がるのだ。

 よって、こういった暗殺用品が一般に流通することは稀で、殆どが裏のルートからでしか買うことはできない。


「……ん?」


 柄に当たる部分に目を凝らすエスト。

 そこには、見えるか見えないかくらいの小さなマークが薄っすらと刻印されていた。


「これは…………スマイリーフェイス?」


 ニッコリと笑った、デフォルメされた人間の顔である。

 所謂「ニコちゃんマーク」だ。


「なんと巫山戯た刻印を……」


 暗殺武器には到底似つかわしくない刻印に、エストは眉を顰める。

 武器に刻まれる刻印は、その武器の製作者の署名か、もしくは使用者の署名のどちらかだ。

 前者であればブランドロゴ、後者であれば犯行声明の意味合いがあるので、決して軽々しく扱って良いものではない。

 偽造する人間は訴えられるし、騙る者は殺される。

 それほど意味重大な刻印が、所謂「ニコちゃんマーク」というのは、もはや巫山戯すぎているというより常軌を逸している。


「ダミアンには見せたか?」

「はい。

 ダミアン殿のお話では、ナイフの形状も、刻まれたマークも、どちらも裏ルートでは見かけたことがないものだそうです。

 『確実に特注品、それもかなり特殊なやつですね』と言っておられました」

「ふむ。うちの密偵を統括するダミアンがそう言うのならば、間違いないだろう」


 ダミアンは、数代に渡ってヴァルキス家に仕えてきた「汚れ仕事担当」だ。

 その能力と忠誠心は一級品で、エストは全幅の信頼を置いている。

 彼が特注品だと断言するのであれば、このナイフはほぼ確実に特注品だろう。


「しかし、そうなると、サムとミモリー例の二人が犯人である可能性は限りなく低くなるな……」

「果たしてそうでしょうか?」

「ぬ?」


 推測を否定されたエストは、デルギンに首を傾げる。


「容疑者の一人である冒険者ミモリーは、斥候職である『レンジャー』です。

 暗殺武器の扱いにも精通しているかと」

「ならば、何故わざわざ特注の武器を現場に残していく?」

「恐らく、捜査の撹乱が目的でしょう」

「む?」

「容疑者が証拠を現場に残していく筈がない──その固定観念を突いた妨害工作かも知れません。

 実際、衛兵隊は容疑者二人の追跡と並行して、この凶器ナイフの調査にも大量の人員を割いております」


 そして今の所まだ何も掴めておりません、と補足するデルギン。


「それに、現場には被害者と二人の足跡を除いた第三者の痕跡は、一切ありませんでした。

 どこからともなく飛んできたナイフに喉を切り裂かれたのでもなければ、二人以外の何らかの痕跡が残っていて然るべきでしょう」

「う〜む……」


 状況証拠から見れば、犯人はあの二人しかいない。

 だが、エストは何故か納得いかない感じがしていた。

 とは言え、その「納得いかない感じ」を追求するわけにもいかない。

 新薬の行方が絡んでいる今の局面では、二人の容疑などよりも、二人の身柄の方が重要だ。

 無情ではあるが、為政者としては個人の賞罰よりも領の安寧が優先されるのである。


「騎士団を総動員して捜索したいところだが……」


 そこまで言って、エストは忌々しそうに顔を顰めた。


「騎士団を北の領境に張り付かせたことがこうまで祟るとは……サットンの豚め!」


 北にあるアーデルフト子爵領の領主であるサットンは、彼が属する第二王子派の盟主であるサイルス内務大臣の策略に則って、ストックフォード伯爵領との領境に兵を置いている。

 それに対抗するために、エストも領境に騎士団を派遣せざるを得なかった。

 そのせいで、騎士団は今、領境で釘付け状態となっている。


 騎士は、謂わば領地所属の軍だ。

 冒険者に換算すればランク3〜6相当と実力者揃いで、領主への忠誠が厚く、仕事にも懸命である。

 領内の問題であれば、冒険者が引き受けてくれないような報酬が低い依頼や、割りに合わないほど手間がかかる依頼などでも、命令一つで即座に完遂してくれる。


 その騎士団が動かせないとなると、色んなところに支障が出てくる。

 数ヶ月前から始まった「魔物の大移動」など、まさにその典型例だろう。


 通常、騎士団の仕事は主に盗賊や侵略兵への対抗であり、謂わば「人間相手」が専門だ。

 魔物の間引きや討伐は冒険者の仕事であり、そこに騎士団が積極的に関わることは殆どない。

 ただ、それは「ある程度棲み分けがなされている」というだけであって、「互いに絶対不可侵」という訳ではない。

 冒険者だけでは対処が難しい事態が発生すれば、相手が人間であろうと魔物であろうと、必ず騎士団が出動し、冒険者と協力して事に当たる。


 今回の「魔物の大移動」も、本来ならば冒険者だけでは捌ききれなくなった魔物を騎士団が協力して討伐するところなのだが、肝心の騎士団が領境に釘付けにされて動くに動けないせいで、全ての重石が冒険者の双肩にのしかかることになってしまった。

 冒険者の数は多いが、騎士相当の実力者は決して多いわけではない。

 今回の魔物流入のように、ある程度の実力者でなければ解決できない事態の場合、ただ数が多いだけの低ランク冒険者では荷が重いのだ。

 いつも通り低ランクの依頼に向かったら流入してきた魔物の群れに遭遇して全滅した、という低ランク冒険者PTは決して少なくない。

 今回の魔物の大移動に関しても、低レベル魔物に混じった高レベル魔物で命を落とした冒険者もいれば、連日の討伐の疲労で動きが鈍って怪我をした中ランクPTもいる。

 全て自己責任と言われてしまえばそこまでだが、騎士団が魔物討伐を多少なりとも分担することができていれば、また違った結果もあっただろう。


 それに、騎士団には騎士団にしかできないことが多々ある。

 例えば、騎士は馬に騎乗するため、冒険者にはない機動性能を有している。

 機動性を利用した高速連絡に始まり、走破力を利用した物資の高速輸送、突破力を利用した高速展開など、騎馬を生かした立ち回りは騎士団の本領であり、騎士団にしかできない芸当だ。

 実際、今回の「魔物の大移動」では、騎馬で高速移動できる騎士団が動けないせいで対応が遅れ、魔物被害が多くの地域に拡散してしまった。


 今回の「魔物の大移動」に伴う冒険者たちの無用な犠牲、そして領民および領地への多大なる被害。

 これらの全ては、突き詰めればアーデルフト子爵サットンのせいだとエストは考えている。

 事実、サットンが変な嫌がらせさえしてこなければ、エストは騎士団を動かして各地で跋扈している魔物を間引くことができていただろう。



 そして今、サムとミモリーという領の運命に関わる二人の捜索にも、騎士団不在の悪影響が出ている。


「今のフェルファストには、貴族街の門衛を3交代で賄える人数の騎士しか残っておりません。どこにいるとも知れない容疑者二人を捜索する余裕など皆無です」

「我が家の護衛を捜索に当てたいところだが……」

「家令のギャリス殿がっっったいに許さないでしょう」

「……だな」


 忠誠心が服を着て歩いているような老家令を思い浮かべ、思わず苦笑うエスト。


「それに、やはり捜索するには人員が少な過ぎます」


 人探しには時間、もしくは人員が大量に要る。

 敵に先んじて容疑者二人を確保しなければならない現状、時間は掛けられない。

 そうなると、代わりとして多くの人員が必要となるわけだが、その肝心の人員が今のエストには無かった。


「敵から情報を得たいところだが……」


 敵対勢力の動向を見れば、ある程度は大局を把握することができる。

 時間も人員もないのであれば、もはやそれくらいしか取れる手段は無いだろう。


「密偵たちからの報告は?」

「例の『ウェストノード商会』に表立った動きはありません。依然、ポーション原料の買い占めを継続していますが、大規模な人員の変動は確認できていません。不気味なほど静かです」

「子飼いの戦力をコッソリ使っているか、もしくは裏から人を雇っているか。

 ……いや、商業連邦がバックに居ることを考えれば、連邦の間諜や工作員を使っている可能性のほうが高いだろう」

「これ以上深く探るには、やはり人員が足りません」


 エストは都市の各所に密偵を配置している。

 普段は領内に存在する勢力の動向把握や物価変遷の監視などが主任務だが、今回の「コネリー難」では敵対勢力の監視を任せている。

 監視対象は、第一王女派と関係がありそうな商人や商会、そして第二王子派と接点がある人物全般だ。

 怪しい行動や目ぼしい情報があれば、即座に報告が上がるようになっている。

 ただ、膨大な数の監視対象に対して密偵があまりにも少ない。

 敵も馬鹿ではないので、誰もそれらしい行動を取るようなことはしない。

 そのため、未だ成果らしい成果を上げることができないでいる。


「そう言えば、最近『ジバゴのイチ』が安値で市場に流通し始めたようです。

 現在調査中とダミアン殿が言っておりました」

「それに関しては、私もダミアンから聞いている。

 その『ジバゴのイチ』というのは、確か『コネリーの赤』の代替品として候補の一つに上がっていたものはなかったか?」

「その通りです」


 エストが「コネリーの赤」に代わる低級回復ポーションとして挙げた候補は、全部で三つ。

 それぞれ「ニガモモ」「療傷油リョウサンユ」「ジバゴのイチ」だ。


「『ニガモモ』は現在、原料を第二王子派の商人によって押さえられています」

「ダミアンから聞いた話では、その商人たちの背後には闇組織の影がチラついているらしい。王国南部のマフィアの可能性が高いそうだが、まぁどの道『第二王子派』が絡んでいる時点で候補から外れている。

 気にするだけ無駄というものだろう」


 これは、かなり初期から決まっていたことだ。


「『療傷油リョウサンユ』は、その生産機材の特殊性と、予想される普及速度と浸透速度の遅さ、販売価格の高さから、一旦保留としておりました」

「最悪これにするか、という程度の候補だったからな」


 次善の策としては良案だが、第一候補にはならない。


「『ジバゴのイチ』に関しては、3つの中でも最有力候補だったが、第一王女派との背後関係が明らかになってからは候補から外した筈だが?」

「仰るとおりです。

 しかしながら、ことは嫌な方向に進んでいるようです」

「む……、どんな風にだ?」

「先程も言いましたが、現在『ジバゴのイチ』が安価に、しかも大量に市場に流れています。

 それ自体はポーション不足を解消してくれるので良いことなのですが……どうも商人たちは完成品のポーションしか売っておらず、それを作るための原料は何一つ取り扱っていないようなのです」


 デルギンの話を聞いたエストは顎を擦りながら、暫くして眉を顰めた。


「……有無を言わさず『ジバゴのイチ』を民衆に浸透させる狙いか……」

「はい。実に厭らしい一手です」


 領内の低級回復ポーション市場を席巻していた「コネリーの赤」が無くなった今、民衆はそれに代わるものを熱望している。

 そんな状況で「コネリーの赤」にほど近いコストパフォーマンスの「ジバゴのイチ」を大量に流せば、民衆は自ずとそれに飛び付く。

 その状態が暫く続けば「ジバゴのイチ」は瞬く間に普及し、民衆は自然と「ジバゴのイチ」を「コネリーの赤」の後継と考えるようになるだろう。

 民衆の声を聞いたポーション師たちも、こぞって「ジバゴのイチ」を作ろうとするに違いない。

 そして、原料が売られていないことに気付いた彼らは、その原因が「領主が交渉に応じないから」ということに行き着く。

 そうなれば、エストが「ジバゴのイチ」を拒むことは非常に難しくなる。 


 エストが「ジバゴのイチ」を拒むのは、政治的な理由からだ。

 生活的需要から「ジバゴのイチ」を欲する民衆がそれを理解するとは思えないし、理解したところで必要に迫られれば手が伸びてしまう。

 弾圧するのは簡単だが、比例して反発も強くなる。

 平和的に解決するには、今回の事件の真相を領民たちへ懇切丁寧に説明し、彼らの認識を変えるしかないが、それができれば苦労はない。

 幾ら「目の前の利益ジバゴの一に囚われるな」と説こうと、「煩いバカ、こっちは命が掛かってんだよ!」と怒鳴り返されるのがオチだろう。


 今の状態が続けば、第一王女派の思う壺となってしまう。


「やはり、一刻も早く『コネリーの赤・改』とやらのレシピを手に入れなくてはな……」

「そのためにも、先ずは例の容疑者二人を誰よりも早く押えなくてはなりません」


 原作者から新薬のレシピを奪った以上、容疑者二人を他勢力が放っておくことはありえない。

 結局、物事は堂々巡って最初の「誰よりも先に二人を押さえる」ということに集約される。


「……これは、ラトの爺さんに借りを作ってでも聞いたほうがいいかな」

「ラト……密輸組織『巾着鼠スマグラット』の首領ですか」

「あまり借りを作りたくない相手なんだが……背に腹は代えられん」


 この街の影で何が起きているのか、誰よりも把握していなければならない立場の自分が、誰よりも把握できていない。

 そのことに歯噛みしながら、エストは巾着鼠スマグラットの首領への報酬に頭を悩ませる。


 蚊帳の外に置かれた人間の哀れな姿が、そこにはあった。

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