132. NP:彼の居ぬ間に〜ピエラ村狂想曲③

 ――――― ★ ―――――




 どんな別れ方が「円満な破局」になるのか?

 最近のアビーは、そればかりを考えている。


 もちろん、恋人であるエドに愛想が尽きたわけではない。

 ……いや、村の皆が全力で復興に取り組んでいる時に一人だけサボっていることに対しては若干ガチギレしているのだが、彼が純粋に怠けたいからサボっているわけじゃないことを知っているので、怒りはすれど別れるとまでは考えていない。

 普段は子どもたちの世話をしている老人たちまでもが忙しくしている今、暇を持て余している子どもたちの面倒を見ている大人はエドだけだ。

 村の皆も、暗黙のうちに彼に託児していることは自覚しているらしく、退屈な力仕事をサボる彼を表面上は叱るが、誰も本心から嫌ったりはしていない。

 変なところで気が利くエドのことだ、きっと放ったらかしにされていた子どもたちを見て、サボりに託けて……サボりの比重の方が大きいかもしれないが……とにかく、子どもたちの面倒を見ようと考えたのだろう。

 恋人としては情けなく思うのと同時に、少しだけ誇らしくもある。


「はぁ……」


 アビーは切り株に腰掛け、溜め息を吐く。

 薪となる枝は、既に十分な量を拾った。

 あと一往復もすればノルマは達成できるだろう。

 休憩を挟まずにここまでやってきたのだ。

 悩むついでに少し休んでも誰も咎めはすまい。


「別れる、ねぇ……」


 エドと別れるつもりもないのになぜこんなにも恋人との別れについて悩んでいるのかというと、今回の魔物災害が関係していた。



 村に訪れた未曾有の魔物災害。

 幸いなことに、人的被害は皆無だった。

 一応、ケビンだけは重傷を負ったが、完治したので人的被害には含まれない。

 ただ、人的被害はゼロでも、村内の人間関係はそうはいかなかった。


 普段は見せない勇ましさを見せて奥さんに惚れ直された旦那さんもいれば、逆に普段は亭主関白なのに思いっきり魔物にビビってしまって家族から白い目を向けられた旦那さんもいたりと、実に色んなドラマが巻き起こっていた。

 その中でも、人間関係に最も顕著な変化があったのは、アビーたちより少しだけ年上の若者世代だ。


 逼迫した事態に彼女の名前を呼び間違えて、浮気がバレてしまった彼氏。

 咄嗟の仕草で秘密にしていた交際が発覚し、関係が壊れてしまった仲良し男女三人組。

 非常時に勇ましさを発揮した結果モテ期が到来し、それに浮かれて三股したら地獄を見ることになった愚か者。


 ピンチは人の本性を顕にさせる。

 その結果、様々な事件が起こり、それほど広くないピエラ村の若者コミュニティは大いに荒れることとなった。

 関係が良かった男女が破局し、関係が薄かった男女が結ばれ、そこに別の男女が割って入り、複雑になった関係を更にかき乱す。

 さながら長期連載で登場人物が増えすぎて関係図が絡まった糸玉みたいになってしまった恋愛マンガのような様相を呈していた。


 不幸中の幸いというべきか、アビーと親しい人間は、その地獄絵図に含まれていない。

 強いて言えば、モテ期に浮かれて三股した結果、地獄を見ている野郎バカが一人、その地獄絵図にちょっとだけ掠っているくらいだろうか。

 親友であるオルガに原始人みたいな告白を何度もしておきながらよそ見などするから、地獄に落ちることになるのだ。

 しかも、分不相応にも程がある三股ときている。

 こんなのにオルガが振り向くはずがないし、アビーとしてはザマミロとしか思わない。


 とは言っても、周囲の関係変化に思うところがないわけではない。

 というか、思うところがあるからこそ、今こうして破局などという愚にもつかないことについて色々考えているのだ。


 数日前までは仲良さそうに見えていたカップルが、一晩経ったら赤の他人のように別れていた。

 いつも一緒にいる仲良しな男女三人組が、一晩経ったら知らない人のように疎遠になっていた。

 これまで「女気」の「お」の字もなかったブ男が、一晩経ったらチャラいモテ男のように三股かけていて、次の日の午後にはそれが発覚して「女の敵」の烙印を押されていた。


 様々な激変が、短い間に目の前で起きたのだ。

 アビーに男女交際の脆さを頭に焼き付け、後味の悪い物別れについてあれこれ考えさせるには十分だった。


「恋愛って……なんだろう?」


 イタイ女子中学生のような呟きを漏らし、アビーは青い青い空を見上げる。


 今年で18歳になるアビーは、健康的で素敵な獣人族だ。

 犬耳はピンと立っており、尻尾もフサフサ。

 容姿端麗で、スタイルも抜群だ。

 面倒見もよく、サバサバした性格も好ましい。

 どこに出しても恥ずかしくない、魅力的な女性である。


 そんなアビーだが、実はエドが初めての恋人だったりする。


 小さい頃はお隣に住んでいた歳の離れたお兄さんに片思いしていたこともあったが、お兄さんが結婚したことで完全に諦めがついた。

 多分、恋愛というよりは憧れが強かったのだろう、と今では納得している。

 多感な時期になると、ケビンのような逞しい男をいいなと思うようになった。

 が、結局は逞しさとは無縁のエドに落ち着いた。


 姉のアンバーからは「あんたは間違いなくダメ男好きだわ」と呆れられたが、そんなはずはない。

 だって、元はお隣のお兄さんやケビンのような「男らしい男」が好きだったのだ。

 何の前触れもなく逆属性ダメ男に目覚めるなどあり得ない。


 考えに考え、分析に分析を重ねた結果。

 アビーはようやく自分の「男の趣味」を理解した。


 自分が好きなのは、徹頭徹尾なダメ男ではない。

 普段はだらしなくてダメダメだけど、いざとなったら逞しくなる。

 そんな男が好きなのだ。


 普段はダメダメでもいい……というか、ダメダメなのがいい。

 自分が世話を焼いてあげられるし、それが楽しいから。

 でも、いざとなったら頼り甲斐のある男になって、怖くてダメダメになってしまった自分を全力で守ってくれる。

 そんな関係が理想的なのだ。

 ある意味、駄目なベクトルのギャップ萌えである。


 考えてみれば、最初にエドに惚れたのも、彼が怪我したアウンとオウンを救ったことがきっかけだった。

 大して力持ちでもないくせに、汗だくになりながらも必死の形相で子供二人を背負って村に帰ってきたエドを見て、胸がキュンキュンしてしまったのだ。


 そう。

 普段はダメダメなエドだが、いざという時には頼りになる男なのである。

 今回の魔物災害でも、ちらほらと魔物の姿が見える中、エドは進んで避難所の外で避難誘導をしていた。

 そんな自分の身を顧みずに皆を助けようとするエドに、アビーが惚れ直したのは言うまでもない。

 恋とは《盲目ブラインド》という悪性状態異常デバフ魔法が掛かっている状態、とはよく言ったものである。



 エド同様、今回の騒動で頼れる一面を見せて好感度が上がった人間は、数多くいる。

 その中には、あのナインも含まれていた。


 彼が提唱した避難訓練と、彼が構築した避難所、そして彼が提供した備蓄薬。

 これらのお陰で、ピエラ村は唯の一人も犠牲者を出すことなく、今回の魔物災害を乗り切ることができた。

 これは村を丸ごと救ったに等しい功績だ。

 彼の功績は、魔物と直接戦った「アレイダスの剣」に何ら劣るものではない。

 目立つことを嫌うナインに気を使って敢えて大々的に称賛していないだけで、村人全員がそう考えているのだ。


 アビーにとってのナインは、友人であり、村唯一の薬草師であり、オルガ親友の家族である。

 彼が村に来た当初からの付き合いであるため、交流は深い。


 オルガには秘密にしていることだが、もしエドとオルガがいなければ自分はナインに求愛アタックしていたかも知れない、とアビーは密かに思っている。

 なぜなら、ナインこそアビーが好む「普段はダメダメだけどいざとなったら頼れる男」の典型例だからだ。


 普段のナインは礼儀正しくて大人しい少年だ。

 決してナヨっとしている訳ではないが、それでも粗野な野郎が多い農村では珍しいタイプの男である。

 頼り甲斐とか、勇ましさとか、荒っぽさとか、そういうのとは縁遠い雰囲気の少年だ。

 けど、いざ緊急時となると、彼は驚異的な落ち着きと頼り甲斐を見せる。

 アウンとオウンが怪我で血だらけになった時も、バート爺さんが腰をグキッと鳴らしてそのまま動けなくなった時も、トミックの娘の一人が高熱を出して意識がなくなった時も、周りはパニックになっていたのに、彼だけは泰然自若としたままテキパキと治療を行っていた。

 普段の頼りなさそうな彼からは想像もつかない、実に男らしい姿だった。

 まさにアビーのストライクゾーンど真ん中。

 それこそ、エドとオルガが居なければ、などという妄想をするくらいには好みに合致している。


 とは言え、所詮は「タラレバ」の話だ。


 現実の自分にはエドという恋人がいるし、自分はそのエドに現在進行形で首ったけ。

 ナインも、オルガといういい感じの同居人がいるし、そのオルガに至ってはナインのことを憎からず思っていて、おまけに自分の大親友だ。

 タラレバなど、意味を成さないだろう。

 そもそもの話、エドと付き合い始めてこの方、エド以外の男にときめいたことは一度もない。

 ナインに対しても、「自分の好みに合致する属性」と分析・分類しているだけで、実際に恋愛感情を抱いているわけではない。

 これが理性による自制の結果なのか、それとも純粋に感情的な帰結かは分からないが、それはさしたる問題ではないだろう。

 重要なのは、アビーとナインの間ではどう転んでも「万が一」など起こりようがないという事実だけ。


「分かんないものよねー」


 と、青い青い空を見上げながら、アビーは思わず微笑む。


 自分の好みから理想の恋愛対象を割り出したところで、本当に好きになるとは限らない。

 ベストアンサーであるはずのナインではなくエドにべた惚れな自分が、まさにその証拠だろう。

 これまでは、「好きなタイプは?」と聞かれて「好きになった人がタイプ♡」などと答えるぶりっ子が嫌いだったが、案外その答えは的を射ているのかもしれない。


「人間の感情って不思議だわ」


 と、年甲斐もなくイタイ感じにセンチメンタルになってみるアビーだった。



 そう言えば、と男友達ナイン繋がりで別のことに思いを馳せる。

 それは、大親友オルガ男友達ナインのことだ。


 今回の騒動を経て、この二人の関係もまた微妙に変わってきている。

 アビーはそう感づいていた。

 なんというか、二人の距離が近くなっているのだ。

 物理的にも、心理的にも。


 ナイン本人を含めた野郎どもは全く気が付いていないみたいだが、アビーはそのことを知っている。


 決定的なのは、オルガが「攻勢」に出たこと。

 これまでアビーがどれだけ「オシャレしろ」と勧めても一顧だにしなかったオルガが、自分からスキンケアやヘアセットに乗り出したのだ。

 いつもよりちょっとだけ身だしなみに気を使ったオルガを見たアビーは、「あの恐ろしいまでの美貌にもっと上のステージがあったのか!」と大いに恐れ慄いた。

 同時に、赤く染まった顔をギクシャクとした動きで逸らしたナインを見て、「あれは落ちたな」と確信した。


 何より衝撃的だったのは、ナインの反応を見たオルガが浮かべた顔である。

 完全に「女の顔」だった。

 あんなにも艶麗な笑みがこの世に存在したのか、と普段のオルガを知るアビーは、その場で腰を抜かしそうになってしまった。

 同性の筈なのに、オルガのあの初々しくも艶やかな顔を思い浮かべるだけで、キュンキュンとムラムラが同時に襲いかかってくる。

 惜しむらくは、そんなオルガの女の顔を、当のナインが見ていなかったことだろうか。

 あれを見たら、死んだ豚よりも鈍感なあのナインでも、秒で虜になっていただろう。


 この「お披露目」に手応えを感じたのか、それとも女としての本能が呼び起こされたのか。

 それからというもの、オルガはオシャレに目覚め、日々ナインを追い詰めている。


 そんなオルガを見て、アビーは「やっぱオルガもあたしと同じ属性だったか」と同志を見つけたサブカル好きのような気持ちになった。

 同時に、二人のあまりの焦れったさに、枕に顔を埋めて「お前らもう付き合っちゃえよ!!」と思いっきり叫んだりもした。


 そんな微笑ましくも焦れったい二人に、男女交際の脆さや後味の悪い物別れを見て思い悩んでいたアビーは、変な方向に感化されてしまった。

 唐突で後味の悪い破局を見て生まれた「恋愛ってなんだろう」というネガティブな思考に、友人二人の甘酸っぱい光景が加わり、結果として「どんな破局が一番円満だろう」というポジティブでネガティブな──斜め上の命題が生まれたのだ。

 そうして、今に至る。



「円満な破局、か……」


 もしエドと別れるようなことがあれば……果たして自分は円満な形で別れることはできるだろうか。

 エドへのべた惚れ具合から見て、恐らく無理だろう。

 無理心中、とまではいかなくても、きっとギャン泣きしながらエドをボコボコにするくらいは平気でやるだろう……たとえ別れの原因がエドになくても。

 どう考えても、大荒れすること必至だ。



「何やってんのよ、あんた」

「あ、お姉ちゃん」


 声を掛けられたアビーが振り返れば、そこに居たのは姉のアンバーであった。

 アビーと同じ毛並みの耳と尻尾を揺らし、婀娜っぽい感じで腰に手を当てている。


「仕事終わったの、お姉ちゃん?」


 アビーが尋ねると、アンバーはアビーの隣に腰掛けて応えた。


「壊れた柵の補修は終わったわ。踏み潰されたカゴとかは夜に編み直せばいいから、今は休憩中ってとこ。

 ……で、あんたはなにを一人で黄昏てんのよ?」

「あ……うん、ちょっと、円満な破局ってどんなのかなって考えてて……」


 アビーが答えると、アンバーは仰け反った。


「えっ、あんた、エドと別れるの?

 ちょー意外」

「違う違う!

 分かれたりなんかしないから!

 ただ、最近のみんなを見て、なんとなく想像してただけ」

「ああ……ここ数日、別れるカップル多いもんね。

 なるほど、それに影響されてエドとの別れを想像して勝手に一人で黄昏れてたってわけか」


 ウンウンと訳知り顔で頷くアンバー。


「お姉ちゃんは、どんな別れ方が円満だと思う?」


 既婚者である姉に問うと、アンバーは「ん〜〜」と唸った。


「別れに円満なんてないんじゃない?」

「……それ、あたしの苦悩を全否定してんだけど?」

「だって、結局はその人と一緒になれてないわけでしょ?

 なら、どんな別れ方だろうと円満なんかにはならないわよ。

 最近別れた連中だって、喧嘩別れにせよ、合意の上での別れにせよ、結局は何回か泣いてるわけだし」


 そもそもな話をする姉に、アビーは微妙に負けた気分になる。


「なら、お姉ちゃんが若い頃は?」

「……ああん?」


 まるで今は若くないかのようなアビーの物言いに、まだ30直前のアンバーがドスの利いた声で聞き返す。


「あ、い、いや、そ、そうじゃなくて、ええっと……お、お姉ちゃんが、その、あたしと同じ歳の頃は、どうだったのかなって……」


 しどろもどろになりながらもなんとか言い換えることに成功したアビー。

 アンバーは半目になりながらも、妹の質問に素直に答えた。


「そうね……あたしがあんたと同じ歳の頃は、今と大分状況が違ってたわね」

「へぇー」

「ナインが居なかったからね。

 怪我や病気になったら死んじゃうし、ご飯も今ほど食べられなかったし、美味しくもなかったから」


 最近の豊かな食事に慣れたせいか、アビーはもう以前の貧しい状態を忘れかけていた。

 味のしないパンも、塩っぱいだけのスープも、今はもう遥か昔のことのように思える。

 贅沢に慣れるというのは存外に簡単らしい。


「あの頃は、男も女も子供を生むことを第一に考えてたからね。

 死んじゃう赤ちゃんが多かったから、とにかく数を生んでカバーしてたのよ。

 あたしとデナムがこれまで子供を欲しがらなかったのも、我が子を失って悲しむ人たちを見過ぎて、怖くなったからよ」


 結婚して既に10年も経った姉夫婦の苦悩を知り、アビーが悲しそうな顔をする。

 そんな妹に、アンバーはニンマリと笑って見せた。


「そんな顔すんじゃないわよ。

 最近はナインたちのお陰で何もかもが良くなってきているからね。

 あたしたちもそろそろ、って考えてるのよ」

「えっ……じゃあ?」

「そ。あんたもそう遠くない未来に『叔母』になるわよ。

 けどまぁ、こればっかりは生命神第七神様のご意思だから、何年先になるかは分からないけどね」


 姉夫婦が子供を持つことに前向きになっている。

 ことを知り、アビーは思わず姉に抱きつく。


 子供とは神からの祝福であり、人類の未来そのもの。

 これまで諦めていた子供を、ようやく欲することができるようになったのだ。

 これほど喜ばしいことはない。

 大好きな姉が幸せになることは、アビーが幸せになることと同義。

 普段はあまりベタベタしない姉妹だが、この時ばかりは二人でギュッと抱き締め合ったのだった。


 ただ、喜ぶと同時に、最近の義兄が萎びた野菜のようになった理由が分かってしまい、アビーは若干微妙な気持ちになる。

 さすがは繁殖に強いとされる獣人族。

 穏やかな人族であるデナム義兄には、少々荷が重いのかも知れない。

 とりあえず心の中でデナム義兄のために生命神第七神に祈るアビーであった。



「話を戻すけど、あの頃は恋人と別れる〜なんてことは、殆どなかったわ」


 生活が苦しいと、人は余裕を失う。

 余裕がなければ、選り好みなどという贅沢なことができなくなる。

 人々は夫婦という社会的役割をまっとうすることに全力を注がざるを得ないので、その邪魔となる行為や価値観は徹底的に削ぎ落とされるのだ。


「人間なんだから、中には破局するカップルも当然いるんだけど、殆どはちょっと付き合って問題ないと分かればそのまま結婚するわね」

「ナインが言ってた『自然消滅』とかは?」

「あるわけないじゃん、そんなの」


 徐々に疎遠になっていってそのまま関係が終わる「自然消滅」は、ある意味長く付き合った結果の一つと言える。

 子孫を残すことが重要視される農村では、自然消滅するほど長く付き合う前に殆どのカップルが結婚してしまうので、自然消滅の起こりようがない。

 都市部になるとまた話は違ってくるが、少なくともこの村ではナインが「自然消滅」という単語を持ち込むまで、その概念すらなかった。

 ある意味で贅沢な価値観と言えるだろう。


「じゃあ、浮気とかは?」

「あくまでレアケースだけど、あったわね」

「あ、やっぱりレアケースなんだ」

「当然でしょ。

 そもそも、恋人と付き合うのは『その人に惚れた』からでしょ?

 なら、その人じゃない人と浮気するなんてあり得ないでしょ?」


 価値観が多様化した現代の地球とは違い、この世界の農村では「遊びで付き合ってみる」という考え方はあまり一般的ではない。

 現代人のような「結婚するつもりはないけど付き合ってる」というユルい関係は非常に稀で、「駄目なら別れればいいや」と考える人も少ない。

 「交際」の先はいつだって「結婚」であり、それしかない。

 特に、農村では子孫を残すことが最重要視されるため、結婚は必須の結果ですらある。

 恋人 イコール 結婚相手という図式が根底にあるので、若者は恋人選びに慎重だ。

 離婚という概念も一般的でないから、交際は「楽しい時間を共に過ごす関係」というよりも「結婚生活に支障のある相手かどうかを見分ける期間」という意味合いが強い。

 浮気の主原因である「軽い気持ち」というものが介在する隙間がそもそもないので、この世界の農村では浮気が少ない。


「それに、浮気すると後々大変だから、誰もやりたがらないわね。

 たとえ『一夜限りの過ち』だったとしても、間違いなく噂が村中に広まるから、たくさんの人に迷惑がかかるわ。

 もう二度と浮気しないことを証明するには長い時間が要るし、その間はずっと針のむしろ。

 恋人に許してもらえなかったら、パートナー探しがものすごく難しくなるわ。

 要するに、リスクが大き過ぎるのよ」


 貞操観念に難ありと思われれば、結婚は果てしなく遠のく。

 余程の趣味の持ち主でない限り、パートナーに貞淑さを求めるのは当然のことだ。

 この国に「姦通罪」はないものの、それでもやはり浮気は大いに忌避されている。

 閉鎖された環境であればあるほど、この価値観は根強い。

 よって、一度でも不貞を犯した者は、生涯に渡って大きなハンディキャップを背負うことになる。

 たとえ時間を掛けて改心したと証明できたとしても、その頃には同年代は全員結婚しているので、歳の離れた相手からパートナーを探さざるを得なくなる。

 が、歳の離れた相手にだって同年代の異性がいるわけで、わざわざ歳の離れた「前科持ち」とくっつきたいとは誰も思わない。

 よって、たとえ改心したことを証明できたとしても、やはり結婚への道のりは遠いままなのだ。


 そういう人間が結婚する最も早い方法は浮気相手と結婚することなのだが、軽い気持ちが事の始まりなので、そうなることは非常に稀だ。

 たとえそうなったとしても、周囲から素直に祝福されることはほぼないので、大体が駆け落ちとセットになる。

 二人きりで異郷へ逃れて生活することは、言うほど簡単ではない。

 特にこの世界の文明レベルの場合、旅の途中で野垂れ死ぬか、駆け落ちした先で仕事を見つけられずに野垂れ死ぬ可能性が非常に高い。

 浮気軽い気持ちの代償としては重すぎる結果だろう。


 それだけ、浮気という行為は男女問わずにリスキーなのだ。



「けどまぁ、心変わりとか、妊娠とか、そういう結婚に支障が出るようなことにならない限りは、浮気が原因で別れることなんてなかったけどね」


 前言を覆すような姉の発言に、アビーが目を見開く。


「浮気されてもそのまま目を瞑って結婚しちゃうの!?」

「それだけ余裕がなかったのよ」


 結局、「子孫を残す」というファースト・プライオリティの前では、全てが些事になってしまう。

 特に、生活が苦しいと、我慢することや不都合に目を瞑ることが大事となってくる。

 そうしなければやってられないからだ。

 相手が共同生活と子供の扶養に問題のない人間であれば、多少の「前科」にも目を瞑らざるを得ない。望むと望まざるとに拘わらず。

 要は、貧困から来る諦めだ。


「まぁ、今はナインやオルガたちのお陰でその限りじゃなくなったけどね」


 とアンバーは感慨深げに付け加えた。


 ナインたちのお陰で、ピエラ村の生活水準は急速に向上している。

 健康と生活が劇的に良くなった今、人々の心には余裕が生まれており、未来を楽観視できるようになった。

 そのお陰か、「繁殖第一」という観念が薄れつつあり、価値観が多様化してきている。

 近頃では、若者たちが自由恋愛を大いに享受し、いつの間にかフィーリング重視のお付き合いも現れ始めている。

 これを風紀の乱れと憂う者もいるが、それはあくまでも少数派。

 大多数の村人は今の状況を歓迎し、楽しんでいる。

 尤も、そのせいで三股をして地獄を見る愚か者も現れるようになったのだが、それはまた別の話。



「で、あんたはどうするつもりなの?」


 姉に問われ、アビーは即答する。


「別れるわけないじゃん。エドのこと好きだもん」

「……ならなんで悩んでたのよ……」


 呆れを通り越して脱力するアンバー。


「……まぁ、あたしも、エドはあんたにとって悪くない相手だと思ってるから、別にいいんだけどね」

「あ、お姉ちゃんもそう思う?」

「そりゃあ、あのオルガに靡かない数少ない男の一人だからね。

 女に興味がないか、余程あんたに惚れてないと、あのオルガとあんなに普通に接せないわよ」


 感心しているのか呆れているのか解り辛い顔でエドを褒めるアンバーに、アビーは誇らしげに微笑んだ。


 オルガ自分の親友は、実はデウス族じゃなくて「アモル族」なのではないか、もしくは「魅了の魔眼」持ちなのではないか、と疑惑を持たれるほど魅力的な女性だ。

 同じ女である自分ですら、彼女の美しさに見惚れることは少なくない。

 そんなオルガに一度も色目を使ったことがないのだから、エドがどれほど凄いか分かるというもの。

 その強靭なまでの一途さは、エドの数少ない長所だろう。


「だから、あんたも変なこと考えてないで、エドをしっかりと捕まえておきなさいよ」


 いい男を捕まえて幸せになった姉の忠告に、アビーは素直に頷く。


 アビーの悩みは所詮、状況につられて生まれたただけの、謂わばロマンチック病だ。

 ありもしない恋愛シチュエーションを妄想してあれこれ悩むのは、年頃の女の子にありがちなこと。

 そもそもエドと別れるつもりがないのだから、何を悩もうが全て生産性のない妄想でしかない。


「じゃあ、あたし、薪拾いに戻るね」

「ん」


 そうして、アビーの無駄な思考実験は終わりを告げ、再び変わらぬ日常へと戻る。

 頭上に広がる青い青い空は、何処までも澄み渡っていた。

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