124. NP:House of Noble
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眠れぬ夜というものは、実に三種類に分けることができる。
一つは、興奮して眠れぬ夜。
次の日のお出かけが楽しみで目がギラギラする、子供の時にありがちな夜だ。
悲しいかな、こういった楽しげな不眠は、大人になるに連れてどんどん少なくなっていってしまう。
ある意味、幸福の象徴と言えよう。
一つは、心配事で眠れぬ夜。
あまりの緊張と憂鬱で目が閉じられない、人生を左右する大事の前夜などがいい例だ。
悲しいかな、こういったできれば避けたい不眠は、大人になるに連れてどんどん多くなってくる。
ある意味、成熟の宿命と言えよう。
最後は、純粋な病気。
不眠症は病ではなく精神病、という医者もいるが、精神の病を治すことは残念ながら非常に難しい。
悲しいかな、こういった如何ともし難い不眠は、大人になるに連れて罹りやすくなる。
ある意味、偶発の不幸と言えよう。
寝ることが嫌いな人間ならいざ知らず、人並みの夜が人並みに好きな人間であれば、眠れない夜とは苦痛そのものだ。
立場が上がっていくほど「次の日に影響する」という焦りが募り、「なぜこうなった」という疑問が頭から離れず、余計に辛く感じてしまう。
カイルソン・ファルマス・ド=ローブネスは、まさにそんな眠れぬ一夜を明かしたばかりだ。
彼の不眠は、上記の二つ目──心配事が原因だった。
革張りのアームチェアに背中を預け、クマの残る両目で睨みつけているのは、一通の手紙。
昨日の昼前、最愛の末娘──クラリッサから貰った、一通の手紙だ。
この手紙が、カイルソンを一晩中苦しめ、遂には一睡もできずに日の出を迎えることを強いたのだ。
手紙の内容は、至極簡単だった。
カイルソンであれば、ただ口を開くだけで為せる、その程度のことだった。
問題は、この手紙の差出人にある。
これが貴族や商人からの手紙であれば、悩むことは遥かに少なかっただろう。
カイルソンの立場上、そういった相手からの手紙は秋季の落ち葉のように絶え間なく舞い込む。
それらを適切に処理することは彼の業務の内に含まれているし、何ら苦にならない。
だが、そんなカイルソンをして、この手紙だけは軽々に処理することができなかった。
なぜなら、その差出人が、娘を救った男──件の泥棒──だからだ。
「はぁ……」
もう何度目になるか分からないため息を吐き、カイルソンは手紙を手に取る。
もう何度目になるか分からないほど、手紙を読み返す。
実にシンプルな手紙だった。
書面は、たった一行の短文。
主旨は、たった一つの要求。
内容は、たった一度の瑣事。
それは、法衣子爵であるカイルソンならば簡単に為せること。
いや、カイルソンでなくとも、貴族であれば誰でもできることだ。
そんな些末なことを、わざわざ娘を介して自分に要求してきたのだ。
この事実を、カイルソンはどう扱ったら良いか分からず、たっぷり一晩悩み続けた。
まるで明けない思考から逃げるように、カイルソンはついつい昨日の出来事を思い出す。
昼頃、執務室で仕事をしていたカイルソンはドアをノックされ、机から顔を上げた。。
入れ、と許可してもなんの返事もないので自分で扉を開けてみたら、なんと末娘のクラリッサがそこにいた。
寝たきりだったクラリッサが、専属メイドのオリーと専属護衛のヘレンに支えられながら、その痩せ細った両足で目の前に立っていたのだ。
カイルソンは反射的に幻覚を疑い、事実だと確信すると、娘を力いっぱい抱きしめた。
どういうことか詳しく聞いてみれば、つい先程、件の泥棒がまたやって来て、娘に新しい薬を渡したというではないか。
就寝前に服用するその薬を、娘は「今日は大事を取って午後から休む」ということにして、試しに飲んでみたらしい。
その結果、娘は途端に元気になり、なんと自分の脚で立ってみたいという願いが立ち所に叶ったそうだ。
そして、過保護な専属二人の支えのもと、10分ほどかけてカイルソンの執務室まで歩いて来たという。
それも、カイルソンを驚かせるために、コッソリと。
元気になった娘の姿に、カイルソンは狂喜した。
何処かで抱いていた「件の泥棒は本当に娘の病を知っているのか?」「本当は全て巧妙な嘘で、娘が飲んた薬も実はただの強力な鎮痛剤なのではないのか?」といった疑念は、この瞬間、完全に消え去った。
ただの鎮痛剤で、寝たきりだった娘が歩けるようになれる筈がない。
今回飲んだ薬は、娘の病に効果があるだけでなく、弱りきった娘の身体をも強くしてくれたのだ。
まさに奇跡の薬だった。
娘は「泥棒さんがくださった『病を盗んでいく薬』ですので、この薬は『泥棒薬』と呼ぶべきですわね」などと嬉しそうに名付けていたが、言い得て妙だと思った。
だが、喜ぶのと同時に、カイルソンは不安も覚えた。
そんな奇跡の薬には、一体どれだけ支払えば良いのだろうか、と。
クラリッサの命を救えるならば、どれだけ支払っても惜しくはない。
それは、間違いなく家族全員が思っていることだ。
だが、それはカイルソンや家族の「心情」であって、実際に「できる行為」ではない。
ファルマス家が負担できる範囲内でなければ、払うに払えない。
金銭が欲しいならば、家が潰れないギリギリまで、借金してでも支払おう。
権力が欲しいならば、法衣子爵の権限が許す限りで、必要なだけ行使しよう。
利権が欲しいならば、カイルソンの手が届く範囲で、いくらでも用意しよう。
だが、それが限界だ。
領主の首を取ってこいとか、息子を奴隷に差し出せとか、妻を抱かせろとか、そういった「家族を犠牲にする要求」には、いくらなんでも従えない。
果たして、件の泥棒がどんな要求をしてくるのか。
カイルソンは処刑を待つ罪人のような心境で、娘から手渡された手紙を読んだ。
結果は──なんのことはない。
シンプルすぎる要求だった。
娘の病気の半分を治す対価としては安すぎる、そんな要求だった。
だからこそ、カイルソンは訝しみ、悩み、苦しんだ。
普通であれば、カイルソンが管理を任されているこの領の流通に関する特権の二つや三つは要求してくるはずだ。
実際、
最大の利益を得たいと考えるならば、そのくらい要求しても何らおかしくはない。
というか、この領で商売をしている商人であれば、親を殺してでもこれらの特権を欲するだろう。
しかし、件の泥棒がカイルソンに求めたのは、実にシンプルな事だった。
確かに、その要求は、特権と同じで貨幣に変換することができない事柄だろう。
だが、カイルソンであれば……いや、この貴族街に居を構える貴族であれば、挙手の労で済ませられることでしかない。
それこそ「無価値」という意味で、値段が付けられない事柄だった。
カイルソンからすれば、国宝級の財宝を押し付けられて「銅貨1枚で売ってやる」と言われたような気分だ。
裏の裏を疑わずには居られなかった。
回想を終え、カイルソンは再び手紙と睨めっこを始める。
手紙には暗号や隠し文字もなければ、隠喩や参照もない。
それは一晩検討して、既に確認済みだ。
だから、文面に記されている以上の内容はない。
「さて、どうしたものか」
カイルソンが色々と悩み、最後にたどり着いたのは、たった一つの葛藤。
それは、此度のことを彼が仕えているストックフォード伯爵に報告するかどうか。
これだけだ。
何気ない些事が実は大事の要である、などということはままあるものだ。
城のメイドが、出入りしている商人から「壁際の二番目の甲冑が汚れているから綺麗にしたほうが良い」と言われて綺麗にしたら、実はそれはクーデターを企んでいた王子への決行の合図で、その夜に王が変わった、というのは物語でもなんでもなく実際にあった話。
小さな要求に対しても用心すべき、というのは貴族社会では常識だ。
今回のことも、これに当て嵌まる。
これだけの手間暇をかけて要求するからには、絶対に重要な要求であるはずだ。
であれば、それが何か大きな事件の要であってもおかしくはない。
件の泥棒の要求を叶えることは、一向に構わない。
だが、それが蟻の一穴となって領に不利益をもたらすことは、断じて許容できない。
そして、自分が知らず識らずその片棒を担ぐことになることも、断じて許されない。
それは敬愛するストックフォード伯爵への裏切りであり、下手をすれば御家断絶にすら繋がる。
だから、何をするにしても、領主への報告はなされるべきだ。
「だが……」
果たして、件の泥棒は、それを許してくれるだろうか?
聞く話によると、件の泥棒は娘と話すために……いや、娘と
そして、自分への手紙も娘を介して渡すことを要求し、決して直接自分の前には姿を見せなかった。
この行動から読み取れるのは、件の泥棒がことを大きくしたくないと考えている、ということ。
富や名声が欲しいのであれば、正面玄関から堂々と薬師を名乗って入ってくればいい。
そうすれば、ファルマス家は彼を最上客待遇で迎え入れ、終身に渡って養うことを確約しただろう。
だが、件の泥棒はそうしなかった。
コソコソと娘に会いに来て、コッソリと薬と手紙を残していった。
つまり、富や名誉以上に隠密性を重要視しているということだ。
ここで自分が
今回、やつが残していった薬が「治療薬の前半」である以上、やつを刺激したり怒らせたりすることはできない。
ここでやつに見捨てられれば、娘の病気は治らない。
恐らく、やつもそれは計算済みで、あえて薬を前半と後半に分けて与えてきているのだろう。
娘を取るか、忠誠を取るか。
正に究極の選択だ。
もしかしたら、全ては自分の考えすぎと警戒のし過ぎで、手紙に書いてあった要求は本当にただの小さなお願いで、その裏にはなんの計略もないのかも知れない。
後々になっても何の事件も起こらず、最終的に自分たちは息をする程度の手間で娘の難病を治せるのかも知れない。
世の中には無償で子供たちを育てる「孤児院」というものもあるのだ。無償の救済や極安の救済もあるのかも知れない。
そして、自分たちは、幸運にもそんな奇跡のような救済に出会えたのかも知れない。
「……いや」
カイルソンは首を横に振り、もはや願望に近いくらい行き過ぎたその楽観論を頭から追い出す。
無償の救済など、そんなものはない。
領地を持たぬ法衣貴族とは言え、カイルソンとて魑魅魍魎が跋扈する政財界で長年泳ぎ続けてきた、一人の貴族だ。
御前会議からサロンまで、様々な場で様々な話を聞いてきた。
そんな彼をして……いや、そんな彼だからこそ、分かってしまう。
件の泥棒の、この小さな要求。
この裏には、途轍もなく大きな何かが隠されているはずだ、と。
なぜ自分を──自分の娘を選んだのか。
なぜ
考えれば考えるほど、裏で何かが起きているという確信が強くなる。
「クラリッサ……」
悲しそうな呟きが漏れた。
いつもそうだ。
末娘の名を呼ぶとき、自分はいつも悲しそうな声をしている。
顔を上げて見れば、窓に映った自分の顔と対面した。
青い青い空を背景に薄っすらと映った自分の顔は、とても疲れていて、とても悲しげだった。
父親として、娘のために何かをしてやりたかった。
が、結局、娘を救えるという何処の誰とも知れぬ泥棒が現れるまで、自分は何もできなかった。
そして今、娘が救われるための対価にすら、自分は迷いを見せている。
「クラリッサ」
昨日の昼に見た、娘の笑顔を思い出す。
久し振りの──本当に久し振りの、苦痛を隠す笑顔ではなく、楽しそうな笑顔だった。
もはや親である自分ですら忘れかけていた、心からの笑顔だった。
自分たち家族が何を対価にしても取り戻したかった、そんな笑顔だった。
腹は決まった。
今回は、
今回だけは、
今回こそは、
ストックフォード伯爵に仕える法衣子爵としてではなく、
家族や使用人を統べるファルマス家当主としてではなく、
ただ一人の父親として、
クラリッサの「お父様」として、
自分は行動しよう。
「ふっ」
と小さな笑みが浮かぶ。
自嘲だ。
きっと、自分のこの決断は危険なものになるだろう。
仕える領主を裏切り、家格を貶め、家族を不利に晒す、そんな危険な決断だ。
だが、それでも、
「クラリッサのためなら」
家族は勿論のこと、きっと使用人たちも、この決断を支持してくれるだろう。
エスト卿には、この首一つで我慢してもらおう。
意を決したカイルソンは、デスクの引き出しから
そして燃え始めた手紙を、この時期では使っていない暖炉の中に投げ捨てた。
真っ黒な灰になっていく手紙に目を細める。
これで、この手紙の存在を知る者は4人だけとなった。
自分と、娘と、オリーと、ヘレンだ。
この4人であれば、誰の口からも漏れまい。
この日、カイルソンは初めてストックフォード伯爵を相手に、隠蔽を働いた。
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