120. NP:愚鈍なる管理者

 ――――― ★ ―――――




 書類の山と格闘しているベンジャミンは、凝り固まった背中を解すように伸びをした。


 ここ数日でギルドに届いた書類は、羊皮紙がバケツ3杯分。

 書類用紙に至っては、既に大箱で5箱を超えている。

 その多くが、今起きている「コネリー難」に関する苦情と問い合わせと嘆願だ。

 こういった事態を未然に防ぐことこそが仕事であるギルドとしては甘んじて受けるべき窮境なのだろうが、それはそれ。実際に捌く人間としては、勘弁願いたいと思ってしまう。

 正直、通常業務を圧迫して仕方がない。


 ベンジャミンは伸びをしながら、痛む頭に眉を顰める。


 厄介な難題に直面して汲々とする様を「頭が痛い」というが、実際に厄介事が積み重なり過ぎると人は本当に頭が痛くなってくるらしい。

 今この瞬間も、長時間の高速回転を強いられた頭は、ズキズキと不調を訴えてきている。

 大方は過労とストレスのせいだが、たまに本当に何かの病気になっているのではないかと本気で疑ってしまう。

 それだけ激務が常態化しているのだ。

 明らかに組織として健全ではないし、個人的にも健康的でもないだろう。

 誰か少しは分担してくれてもいいだろと思うも、ギルドの支部長トップなので、安心して頼れない。

 他の職員もそれぞれの職務があるから、一時的な応援ならともかく、管理職務の一部を丸投げするなどできるはずがない。

 結局の所、全て自分でやるしかないのだ。

 副支部長という役職に就いたのが運の尽き、というやつである。


 ただ正直、書類に埋もれるだけならば、まだ何時ものこと諦めもつくし、我慢もできる。

 長年の激務で培ってきた「慣れ」というものだ。

 が、そんなベンジャミンの慣れも、昨日の昼から今朝にかけて舞い込んできた情報の数々によって容易く挫かれることとなった。


 第一報に、衛兵隊と共にギルドを後にしたポーション師サムと冒険者ミモリーが連行の道中で何者かによって襲撃された、という報告が上がってきたのだ。

 ギルドからも破砕音や爆発音が聞こえていたが、まさか町中でそんな大規模な戦闘が起きるなどとは誰も考えていなかったし、ましてやそれにサムたちが巻き込まれているなどとはつゆ程も思っていなかった。

 これによって新薬「コネリーの赤・改」を狙う勢力が居ることがハッキリしたわけだが、そんな勢力はレシピ解明と普及を目標とする薬師ギルドからすれば不倶戴天の敵だ。

 はっきり言って、存在そのものが邪魔である。


 続いて入ってきたのは、連行中の容疑者二人が行方不明になっている、という報。

 なんでも、騒ぎを聞きつけた衛兵大隊が現場に到着したときには、既に戦闘が終了していて、現場には人っ子一人居ない状況だったという。

 連行中だったポーション師サムと冒険者ミモリーの姿はなく、証拠品として暫定的に押収された「コネリーの赤・改」の現物も発見されていない。

 今となってはレシピを知るかもしれない唯一の人物と、レシピ解明へと繋がるかもしれない唯一の手掛かりが、同時に失われてしまったのだ。

 薬師ギルドとしては堪ったものではない。


 そして、一晩明けた今朝。

 突如、「スラム内で大規模な騒動が起きている」という不確定情報が飛び込んできた。

 それがサムたちかどうかは分からないが、タイミングからして無関係ではないだろう。

 もしサムがスラムに隠れているのであれば、薬師ギルドでは手出しができない。

 後は、衛兵隊や騎士団に任せるしかないだろう。


 どれも薬師ギルドと直接的もしくは間接的に関係している出来事なので、ギルドにも被害が及ぶことが予想される。

 特にサムと「コネリーの赤・改」の現物が行方不明になっていることは、「コネリー難」に苦しむこの領の行く末に直結する。

 軽々しく考えていい問題ではないだろう。


 ただ、これらはまだギルドにとって「一番の問題」ではない。

 一番の問題は、ギルド内で浮上した一つの疑惑だ。


 今朝に開かれた緊急会議を思い出し、ベンジャミンは思わず重い溜息を吐いた。


 ギルド内で浮上した疑惑。

 それは、「薬師ギルド内に襲撃犯の内通者がいる」というもの。


 これのせいで、今朝は上級職員が全員招集され、支部管理層による緊急会議が開かれることとなった。


 疑惑の根拠となったのは、サムたちが襲撃されたタイミング。

 もし襲撃犯が最初からサムや「コネリーの赤・改」の存在を知っていたのであれば、襲撃はサムとミモリーたちがギルドに入る前に起きていただろう。

 サムたちに時間を与えれば与えるほどレシピが拡散するリスクが高まるので、襲撃が早ければ早いほどいいのは自明の理といえる。

 しかし、実際に襲撃が行われたのは、サムたちがギルドを出た後だった。

 ならば、襲撃犯がサムや「コネリーの赤・改」の存在を知ったのは二人が「コネリーの赤・改」をギルドに持ち込んだ後、ということになる。

 サムがギルドに駆け込んでから襲撃されるまでの時間の短さ、そしてギルドの立地と構造を考えると、ギルドの建物内に居た何者かが襲撃犯に情報を流した可能性が非常に高い。

 それが襲撃犯の一味か、それとも襲撃犯と通じている協力者かは定かではないが、ギルドから情報が漏れたのは間違いないだろう。


 事は、ギルドの機密保護能力だけでなく、運営体制そのものに関わる。

 厳密な調査を行わなければ、ギルドの信用は地に落ちるだろう。

 何を差し置いても優先して対処すべき問題であるだけに、夜通しで内部調査が行われたのだった。


 そうして上がった容疑者は、全部で84人。

 すなわち、全ギルド職員だ。


 ギルドのホールにいた加盟員薬師たち一般客一般市民は、最初から容疑者リストから除外している。

 確かに、サムとミモリーが大慌てで受付カウンターに駆け寄って受付嬢に小声で何かを訴えていたのをホールにいた多くの人間が目撃している。

 その後、数言ほど会話を交わした受付嬢が駆け足でカウンターの裏に消えていったのを見た人間も少なくない。

 が、それは大した問題ではない。

 たとえそれらを目撃した者が「なにかあっな」と興味を持ったとしても、核心新薬の存在に触れることは決してできないからだ。

 サムとミモリーが通されたギルド長室は、ギルドの職員専用区画の最上階の最奥に位置している。

 許可無き人間は立ち入りが禁止されている場所だ。

 加盟員薬師たち一般客一般市民では近づくことすらできないだろう。

 あの部屋で行われた会話を部外者が直接盗み聞くことは不可能なのだ。

 たとえ盗聴用の魔法道具マジックアイテムを使ったとしても、1階のホールからでは距離が離れすぎているので、物凄い雑音が入るだろう。

 それこそ、ジェットエンジンの真横で蚊の鳴く音を聞き分けるような作業になる。

 なので、1階からの盗聴は実質的に不可能と考えていい。

 ならば、残るは比較的ギルド長室に近い場所からの盗聴ということになるが、2階にあるVIPルームや3階にある貴族用応接室は当時使用者が居なかったことが分かっている。

 部外者による盗聴の可能性は除外していいだろう。


 内通者は、職員専用区画を自由に出入りできる者。

 つまり、ギルド職員の中にいる、ということだ。


 勿論、内通者の条件が「サムの情報に多少なりとも触れた者」や「サムたちと直接接触があった者」と考えるならば、衛兵隊の中に内通者がいる可能性もあるだろう。

 が、その説は討論の結果、棄却された。


 衛兵隊を呼んだのは、あくまでも「強盗殺人」が起きたからであり、新ポーション云々のことについては彼らに何一つ詳しく話していない。

 実際、彼らを呼びに行った職員は彼らに対し「他人のポーションを奪う目的で殺人を犯した可能性がある人物がいるので、連行して調査してほしい」としか言っていない。

 通報した段階で衛兵隊が「コネリーの赤・改」の情報を知ることは不可能だったはずだ。

 それに、もし衛兵隊内に内通者が居るのであれば、連行させてから詰め所の中で尋問なり殺害なりすればいいのだ。

 わざわざ連行する途中で襲撃する、などという目立つ真似をする必要はないはず。

 そんな「内通者がいればする必要がないこと」をしたということは、逆説的に彼らの潔白を証明していると言っていいだろう。


 では、衛兵隊全体ではなく個人、つまり連行に直接携わった衛兵5人に関してはどうかというと、こちらも白だろう。

 確かに、彼らはベンジャミンが最後に口にした「これは重要なもの、大事に扱え」という発言から押収物である「コネリーの赤・改」が貴重なものであることを知った可能性はあるだろう。

 しかし、それが具体的にどんなもので、どういう風に貴重で、どんな価値があるのかまでは分からなかったはずだ。

 百歩譲って、彼らが押収物貴重なポーション現在の状況「コネリー難」を合わせて考えて何らかの結論を導き出せたとしても、それを襲撃犯内通相手に伝えることはできなかっただろう。

 なぜなら、連行途中で襲撃犯に情報を流したのでは遅すぎるからだ。

 伝令を走らせ、襲撃準備を整え、現場に駆けつける。

 これらの手順を踏み終わるまでに必要な時間を考えれば、遅くてもギルドを出る前には伝令を走らせる必要があるだろう。

 それは、比較的早い伝達手段である伝書鳩やアローピジョンを使っても同じだ。

 ベンジャミンたちが見た限り、5人はギルドに居る間、5人全員が常に行動を共にしていたし、怪しげな行動を取っていた者もいなかった。

 伝令を走らせることも、伝書鳩を放つことも、明らかに不可能だっただろう。

 通信の魔法道具マジックアイテムを使えば話は別だろうが、そういったものは超が付くほど希少で、目玉が飛び出るほどに高価だ。

 この都市でも冒険者ギルドくらいしか保有していないし、部外者が使うことは一切許されていない。

 それに、そういった魔法道具マジックアイテムは巨体になりがちで、実際に冒険者ギルドで独占しているものも大部屋一つをギュウギュウに占領する程の体積である。

 個人で持ち運び出来るような大きさのものもあるが、それでも満杯の登山バッグより大きい。

 そして、そういった携行可能なものは、国が強制管理するようになるので、個人での所有は極めて稀だ。

 そんな戦略兵器にも等しい代物を、戦時中でもないのに一介の内通者に渡すなどあり得ないだろう。

 何より、彼ら5人は全員が襲撃の際に殺されている。

 せっかくの内通者を──それも身分がバレていない内通者を──殺害対象と一緒に殺す理由など何処にもない。

 彼ら衛兵5人の中に内通者が居る可能性は、限りなく低いだろう。



 そうして消去法で容疑者を絞っていった結果、残ったのが現在の84人全ギルド職員というわけである。



 本当は、この84人の内13人が最有力候補として挙がっていた。

 その13人とは、「コネリーの赤・改」の鑑定に立ち会った者たち。

 あの時サムやミモリーと一緒にギルド長室に集まっていた上級職員たちだ。


 薬品の在庫管理と流通管理を担う副支部長のベンジャミンを始め、

 新薬開発とレシピ登録管理を担うゼルスト支部長、

 「コネリーの赤・改」本体の鑑定を直接行なったバーリス鑑定師、

 「コネリーの赤・改」の屋号を鑑定したベイバーン加盟部長、

 「コネリーの赤・改」の瓶を鑑定したフェラート器具部長、

 衛兵を呼びに行ったトレイゾン法務部長、

 たまたまゼルスト支部長に報告をしていて成り行きでその場に残ったブラントン一般職員、

 受付カウンターでサムの対応をしてそのまま彼らをギルド長室まで連れてきた上に原作者の死体の確認に向かうよう命令されたイズメアナ受付嬢、

 そしてその他の部署を取り仕切る5名の上級職員、

 計13名である。


 鑑定の場に居たこの13人は、「コネリーの赤・改」に関する一次情報を誰よりも早く知り得た人物たちだ。

 襲撃までの時間の短さを考えると、この13人の中に内通者が居る可能性が最も高い。

 それに、この13人は全員が個々に問題を抱えており、何れも裏切りを働く動機として十分なものだった。


 ベンジャミンは、此度の「コネリー難」で管理責任を問われることがほぼ確定しており、未来は非常に暗い。

 良からぬ輩に「機密に触れられる今なら簡単にを稼げますよ」と言われれば、頷いてしまう可能性は十分にあるだろう。


 ゼルスト支部長は、管理責任に加えて職務怠慢も追求されるので、ギルドでの立場はベンジャミンよりも危うい。

 良からぬ輩に「本部に伝手があるから復権に協力しますよ」と囁かれれば、「それじゃあ」となる可能性は非常に高いだろう。


 バーリス鑑定師は、ギルドで鑑定業務に携わっているが、本職は錬金術と並んで金が掛かると言われている「薬理研究」で、最近は資金的な理由で研究が行き詰まっている。

 良からぬ輩に「貴方のライフワークのために協力させてください」と申し出されれば、ギルド業務アルバイトよりそちらを優先することは十分に考えられるだろう。


 ベイバーン加盟部長は、薬師の認定基準で本部と意見が対立しており、その選民的な基準と思想は本部でも度々問題視されている。

 良からぬ輩に「私も同じ考えなので理想実現のために協力し合いましょう」と絆されれば、簡単に靡く公算は高いだろう。


 魔法道具マジックアイテム収集家であるフェラート器具部長は、狙っている迷宮産の魔法道具マジックアイテムが幾つもあるらしく、手に入れられるならどんなことでもすると常々口ずさんでいる。

 良からぬ輩に「それなら私が入手できますよ」と仄めかされれば、嬉々として言いなりになる可能性が出てくるだろう。


 普段は紳士なトレイゾン法務部長は、実は無類の女好きで、家庭を持っているにも拘わらず影では愛人を取っ替え引っ替えしている。

 良からぬ輩に「ご親密になる代わりに私のお願いを聞いてくださる?」と誘惑されれば、容易に引っかる可能性は捨てきれないだろう。


 年若いブラントン職員は、採用されてまだ2年で、以前の経歴はほぼ空白だった。

 そのため、最初からどこかの組織と繋がっていた可能性がある。

 経験が浅いので、良からぬ輩に「ギルド本部の者ですが、極秘の内部調査にご協力ください」となりすまされれば、簡単に騙される可能性が高いだろう。


 イズメアナ受付嬢は、元カレに騙されたせいで多額の借金を背負っており、受付嬢という高給取りでありながら極貧生活を送っている。

 良からぬ輩に「彼への復讐と生活改善に協力しましょう」と誘われれば、「お願いします」となる可能性は拭えないだろう。


 他の5人の部長級職員たちも、大なり小なり仕事や私生活に問題を抱えており、外部勢力と結託する動機を有している。


 よって、この13人を最重要候補者としてマーク・調査しようという案が出されたのだ。


 が、その案はゼルスト支部長の指摘によって、その場で廃案となった。

 理由は簡単で、この13人には外部と連絡を取るような時間と隙きがなく、物理的に内通が不可能だったから。

 それと、ギルド長室に接近できる一般職員による盗聴の可能性を考慮していないからだ。


 あの場に居た者は、全員が終始行動を共にしていた。

 全員が常に誰がしかの視界内に収まっていたし、怪しい行動を取っていた者は居なかった。

 外部に知らせることは、現実的に不可能だっただろう。

 そうすると、ギルド長室を離れた二人の人物──原作者の死体を確認しに行かされたイズメアナ受付嬢と衛兵隊を呼びに行ったトレイゾン法務部長──が怪しいということになるが、二人の容疑はすぐに晴れることになった。


 サムとの会話で「コネリーの赤・改」の存在を把握していたイズメアナ受付嬢だが、彼女がギルド長室を離れることになったのはゼルスト支部長の適当な指名によるもので、彼女自ら志願したわけではない。

 何より、「殺人現場の確認は危険が予想される」と彼女の身を案じたベンジャミンが、ギルドの護衛を一人ランダムで選出し、彼女に同行させている。

 彼女と護衛、両方ともが内通者でない限り、彼女が襲撃犯と内通することはできないだろう。

 確率論的に、彼女が内通者である公算は限りなく低い。


 トレイゾン法務部長に関しても、ギルド長室を一度離れていることは確かだが、彼は最速で衛兵隊詰め所に直行しなければ実現できないような速さで5人の衛兵を連れて戻ってきている。

 あの短時間で何処かに寄り道できたとは思えないし、彼が大急ぎで衛兵隊に向かうところは街の多くの人間に目撃されている。

 もし彼が内通者なら、そんなに急ぐ必要はなかっただろう。

 50分で戻ってこようが、58分で戻ってこようが、徒歩での移動や詰め所との距離を考えればそんな時間差は誤差みたいなものだから、寧ろ遅めに帰ってくるはずだ。

 その無駄な全速力こそ、彼が潔白であるという証明になっている。


 そんなわけで、この13人は怪しくはあるが、物理的に内通が不可能であった。

 何より、この案は、13人以外の容疑者を全く考慮に入れていないところが危うい。


 ギルドの職員であれば、殆どのエリアを無制限で歩き回ることができる。

 許可が必要なのは、上級職員の執務室か、登録レシピや重要書類が厳重に保管されている禁書庫か、希少素材が保管されている高等保存庫くらいだ。

 もちろんギルド長室の周辺は、一般職員の立入禁止エリアに含まれていない。

 その証拠に、イズメアナ受付嬢とトレイゾン法務部長を送り出した際も、開かれたギルド長室の扉の前を多くの職員たちが忙しなく通りかかっていた。

 何時も通りの光景ではあるが、ここに内通者が付け入る隙きがある。

 一般利用者が集う1階ホールからの盗聴は不可能でも、ギルド長室の外やその周辺からであれば可能だ。

 盗聴スキルがある者ならば、もしくは魔法道具マジックアイテムを使えば、隣室や下階からの盗聴は造作もない。

 であれば、一般職員を容疑者リストから外すのは危険だし、容疑者をギルド長室にいた13人だけに絞るのは非合理的だろう。


 普段は理不尽なゼルスト支部長の予想外に論理的な指摘に、会議に参加した全員が論破され、渋々納得。

 こうして、「最有力容疑者を13人に絞る」という案は即刻破棄されたのだった。


 会議終了後、「ギルド内に外部組織と内通している者がいる」という知らせがギルド職員全員に対して通達された。

 これは「お前の存在は把握しているぞ」という内通者に対する牽制であり、これ以上の内通を防ぐための防衛手段だ。

 実際にどれだけの効果を得られるかは分からないが、心理的圧迫を与えることはできるだろう。

 ただ、この「ギルドが密告を推奨している」とも取れる通達のせいで、現在の薬師ギルドは内部紛争のような状況になっている。

 上層部の緊張感は嘗てないほどに高まっており、職員同士も何だかピリピリしている感じだ。

 はっきり言って、あまり良くない雰囲気である。




 伸びをしたことで背中がバキバキと鳴るベンジャミン。

 それを心地よく感じながら、彼は疲労を吐息に乗せて吐き出した。


 色々と複雑な状況だが、まだ自棄になる必要はない。

 襲撃が起きた場所に、サムとミモリーの死体は無かったという。

 ならば、二人はまだ死んでいないだろう。

 死んでいるなら、死体はその場に残していくはずだからだ。

 恐らく、二人の居場所は騒動が起きているというスラムだろう。

 希望を捨てるには、まだ早い。




 疲れが若干緩和したところで、執務室の扉がノックされた。

 入室許可を出すと、一人の職員が入ってきた。


「副支部長」


 まだ年若い男性職員、ブラントン職員だ。

 最近すっかりベンジャミンの秘書のようになってきている彼だが、能力的にも性格的にも問題ないので、来季の人事異動では自分の補佐に据えようとベンジャミンは密かに決めている。


「どうしたのかね?」


 なんだか周囲を伺うような不審な挙動をしているブラントン職員に、ベンジャミンは首を傾げる。


「あ、あの、実は、報告がありまして……」


 何か嫌な報告でもあるのか、ブラントン職員の声は酷く不安定だ。


「聞こう」

「その、報告といいますか、私なりの発見といいますか……」


 とても歯切れが悪いブラントン職員に、ベンジャミンは椅子を勧め、落ち着かせる。

 数度ほど深呼吸をして落ち着いたのか、ブラントン職員の顔色がだいぶマシになってきた。


「それで、君の発見とは?」

「はい。実は私、昨日の夕方に衛兵隊に呼ばれまして、例の殺された原作者の死体の検分に立ち会わされたのです」

「ふむ? なぜ君が? イズメアナ君ではないのか?」

「サム氏の証言を聞いた人間に聴取したかったらしく、ちょうど暇だった私が呼ばれました」

「なるほど、それは災難だったな」


 又聞きの情報を確認するためにわざわざ死体を見せられるなど、ちょっとした嫌がらせだ。

 労われたブラントン職員も同じように感じたのか、苦笑いを浮かべている。


「それで、その原作者の死体を見ていた際に、とある発見をしたのです」

「ほう。それはどんな?」

「彼の靴の底に付着していた泥です」

「泥? 何か特殊なものだったのかね?」

「はい」


 まるで説明の順番を考えるように一泊置いて、ブラントン職員は報告する。


「死体の靴についていた泥には、微量の『カビセリ苔』が混じっていました」

「ふむ?」


 それが何なのか、また何を意味するのか分からず、ベンジャミンは首を傾げる。


「まず、この街で靴に泥がつくような泥濘は、町の入口か、建築現場か、スラムにしかありません」


 都市開発が進んでいるフェルファストは、石畳が普及している。

 大通りはもちろん、裏通りや倉庫内にまで及んでいるため、靴に泥が付く場所は非常に限られている。


「次に『カビセリ苔』ですが、これはちょっと特殊な苔で、カビが生えている所に湧きやすいという特徴があります」

「ほう……聞いたことがない植物だ」

「それも無理はないかと。

 外見は何処にでも生えている苔と殆ど同じですから、見分けは難しいそうです。

 効能も、微量のカビ毒を中和するというかなり微妙なもので、自身にも毒がありますので使い所が難しく、そのせいでこれまで薬師の目に止まることが無かったのでしょう。

 私も、以前スラムの排水路に湧く藻の調査で住人に教えてもらうまで、存在すら知りませんでしたから」


 薬師や医者にとっては無用でも民間では役に立つ知識や技術というのは、実は意外に多い。

 所謂「民間療法」というのは大抵がその類で、根本的治療にはならないが、応急処置や誤魔化しとしては非常に役に立つ。

 この「カビセリ苔」もまさにその典型例で、カビが生えた食べ物でも食べなければならないスラム住人が編み出した苦肉の策……いや、生活の知恵というものだ。

 一般の薬師が知らないのも無理はないだろう。


「それで、その苔なのですが、スラムでも特定の場所にしか生えていないのです」

「な、なにっ!? ということはっ……!」


 それが示唆していることを察したベンジャミンの目が見開かれる。


「はい!

 原作者の住所を特定できるかも知れません!」


 それが実現すれば、レシピ解明への大きな一歩となる。

 まさに大発見だ。


「ブラントン君!

 このことを誰かに教えたかね!?」


 ガッシ、とブラントン職員の肩を掴むベンジャミン。


「い、いえ。内通者がいるということですので、副支部長以外にはまだ誰にも」

「うむ、それは賢明な判断だ」


 迂闊に情報を漏らせば、襲撃犯たちに先を越される可能性が高い。

 ブラントン職員が緊張していたのも納得できる。


「君は、もう既にその場所に検討がついているのだね?」

「はい。恐らく、原作者の住所はスラムの──」

「いかん!」

「むぐっ?」


 推測を述べようとしたブラントン職員の口を、ベンジャミンが咄嗟に塞ぐ。


「いいかね、そのことは、絶対に漏らしてはいけない。たとえこの私にも、だ」

「ふ、副支部長にも、ですか?」

「忘れたのか、私も容疑者の中の一人だ」

「そ、そんな……」


 このギルドで一番真面目に仕事をし、一番薬師と職員のことを思っているのは、他でもないこのベンジャミン副支部長だ。

 容疑者リストに入っているからと言って、そんな彼を邪険に扱うことなど、ブラントン職員にはできなかった。


 納得いかない、と本心が顔に現れるブラントン職員を、ベンジャミンは真剣に説得する。


「君のその発見は、この領の未来を左右する、非常に重要なものだ。決して迂闊に漏らしてはいけない。特に、人がいる所では口に出すことすらしてはいけない」

「で、ですが、この部屋には支部長と私以外、誰もいませんが……」

「内通者がいる以上、何処に耳があるか分からない」


 盗聴の可能性を示唆され、ブラントン職員は慌てて辺りを見渡す。


「ギルド長室ですら盗み聞かれた可能性があるのだ。情報が既に漏れている以上、例外はないと考えた方がいい。私の執務室であっても、な。用心しておいて損をすることはない」


 言われるまで盗聴のことなど頭にすらなかった様子のブラントン職員に、ベンジャミンは鬼気迫る顔で忠告する。


「いいか、ブラントン君。内通者が誰か分からない今、君は誰も信用してはいけない」

「そ、それじゃあ、私はどうすれば……?」


 情報を握ったまま沈黙を保ち続ける、というのは意味がない。

 今重要なのは、薬師ギルドが誰よりも早く原作者の住所を特定し、レシピを発見して公表することだ。

 そうすれば、製造不能になった「コネリーの赤」に代わる新ポーション「コネリーの赤・改」が普及し、「コネリー難」に終止符を打つことができる。

 襲撃犯の目的が何だったとしても、それで阻止できるのだ。


 だが、内通者がいる以上、薬師ギルド主導でそれをするのは得策ではない。

 何処かで情報が漏れて、レシピを盗まれるのがオチだ。

 であれば、頼るべき相手は、薬師ギルドと同様に新ポーションの普及を望みながら、裏切る心配がない人物。


「領主のエスト閣下だ。

 君が閣下に直接報告するのだ」


 ベンジャミンは、領主であるエストが今回の「コネリー難」解決のため苦心に苦心を重ねていることをよく知っている。

 有能な領主であるエストならば、ゼルスト支部長が報告をわざと遅らせていても、今回の件の大凡ないし輪郭くらいは把握しているだろう。

 きっと、ブラントン職員の発見も無碍にはしないはずだ。

 信用も権力もあれば物的・人的資源にも恵まれているエスト以上に頼れる人間は居ない。


「今信用できるのは、閣下だけだ。

 その間、君にはギルドから護衛を……いや、ギルドに裏切り者がいる以上、ギルドの護衛は信用できないな」


 今の所、原作者の住所と推測される場所を知っているのは、ブラントン職員ただ一人だ。

 用心のために報告を中断させたので、ベンジャミンですら肝心の内容を知らない。

 たとえこの部屋を盗聴している人間がいようとも、重要な部分は何も伝わっていないだろう。

 今のブラントン職員は、まさにサムとミモリー以上のキーパーソンだ。

 彼の身の安全を考えるのは当然であり、絶対にしくじる訳には行かない。


「とすれば、冒険者ギルド……いや、衛兵隊か」


 冒険者ギルドは一応、組織としては信用できるが、如何せん組合員である冒険者の素性が雑多過ぎる。

 組織や職員が潔白でも、依頼を請け負った冒険者までもがそうとは限らない。

 万が一ブラントン職員を護衛する者の中に襲撃犯やその手の者が混じれば、一巻の終わりだ。


「うむ。衛兵隊に護衛を頼もう」

「で、ですが、衛兵隊が私のような一般人の護衛など引き受けるでしょうか……?」


 己の運命をベンジャミンに預けているブラントン職員が、不安そうに問う。

 衛兵隊が護衛任務を引き受けるのは、重要人物が相手のときだけだ。

 ギルドの一職員では、断られるのがオチだろう。


「なに、副支部長としての権限をフルに使えば、衛兵隊も護衛くらいは引き受けてくれるだろう。

 いや、引き受させるさ、この私がな」


 権力を──特に強権を──何処で振るうかで、その人間の本質が見えてくる。

 新人職員である自分なんかのために副支部長の権限を振るうと言ってくれたベンジャミンに、ブラントン職員は感激した。

 こんな部下思いな上司は他に見たことがない。

 彼直属の部著で働く者たちは、相当な幸せ者だろう。


「では、誰かに衛兵隊に依頼を出させて……いや、私が直接衛兵隊に依頼しよう。

 それまで、君はここで待っていたまえ。

 いいか?

 誰が訪ねてきても、決して扉を開けてはならない。

 たとえそれが私だったとしても、だ」

「な、なぜ、副支部長でもダメなのですか?」

「世の中には声真似が得意な人間もいる。

 私の声で呼びかけられたから扉を開けたら実は声真似が上手い暗殺者でした、などということになったら笑えないだろう?」


 あまりにも用心深すぎると思ったブラントン職員だが、それだけベンジャミンは自分のことを案じてくれているのだとすぐに理解した。

 この世界でここまで職員を思いやれるのは、彼だけだろう。


「私が衛兵隊と共に戻るまで、この部屋で静かに隠れていたまえ。

 扉を開けていいのは、私が合言葉を唱えたときだけだ。

 その合言葉は──」


 ベンジャミンは盗み聞かれないよう、ブラントン職員の耳元で「赤色の救世主バンザイ」と小さく呟いた。


「りょ、了解しました」

「では、君は隠れていたまえ」


 そう言って、ベンジャミンはブラントンを自分の執務室に残し、衛兵隊の詰め所へと向かった。






 ◆






 半刻ほどして、ベンジャミンは護衛となる衛兵10人を引き連れて戻ってきた。

 合言葉を言うと、執務室の扉が開かれ、平穏無事なブラントン職員が迎えてくれた。

 ずっと不安だったのか、ブラントン職員は信頼するベンジャミンの帰還と筋骨たくましい衛兵隊の到着にホッと安堵の溜息を漏らした。


 隊長へは、事の顛末は一切話さず、ただ「ギルドから領主へ重要な報告がある。遺漏があってはならない」という曖昧な説明だけをし、後はギルドの副支部長としての強権でゴリ押しした。

 隊長も、こういったことには慣れているのか、大した不満もなく、何の質問もせずに、黙って引き受けてくれた。

 特別報酬として全員に握らせた銀貨も、ある程度効果を発揮したのかも知れない。


 そんな訳で、ブラントン職員はサムたちの時の倍の衛兵に護衛されながら、領主邸がある「貴族街」へと向かった。

 それを執務室の窓から見送るベンジャミンは「全てが上手く行きますように」と創世の大女神に祈りを捧げた。

 それが、彼ができる唯一のことなのだから。










 しかし、1時間後。

 ベンジャミンのもとに、一通の報告が届く。

 それを見た彼は、机の上に崩れ落ちることとなった。


 報告の内容は、ブラントン職員と衛兵隊10人の死体が貴族街にほど近い路地裏で発見された、というもの。

 ブラントン職員の遺体は損壊が激しく、拷問された形跡が複数見られるとのこと。

 それはベンジャミンが彼らを送り出した、僅か40分後に起きた出来事だったという。

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