116. S01&03:Escape From Trackers

 ――――― Side: 01 & 03 ―――――




 荒い呼吸音がフェルファストの路地裏に響く。

 前を走る目つきの悪い少女の後を、サムは癖の強い金髪を揺らしながら懸命に付いて行く。


 二人は、襲われた東メイン通りから一路北へ向かって我武者羅に走った。

 方角や距離的に、既にスラムに入っているだろう。

 周囲の荒廃気味の景色からも、ここがスラムであると分かる。

 ここまで来ると、サムではもう道が分からない。

 万が一少女とは逸れれば、出口が分からなくなってしまう。

 そうでなくても、今は追手から逃げるている最中だ。

 置いていかれるわけには行かない。


 追手、という単語を考えた瞬間、サムは手足が冷たくなるような錯覚に陥った。

 自分たちを付け狙う──追手。

 その追手には、2つの勢力があった。

 一つは、こちらを殺そうとしてくる、黒ずくめの刺客。

 もう一つは、こちらを捕まえて拷問しようとしてくる、荒っぽいマフィア。

 どちらに追いつかれても、良い結果はないだろう。

 なぜか自分たちを守る勢力もあるみたいだったが、その目的が分からない。

 見た感じ、味方をしてくれていたのはヤクザっぽい人たちだが、サムにそういった勢力との関わりは無い。

 だから、なぜ彼らが自分を助けるのか理解できなかった。



 どれくらい走っただろうか。

 そろそろ疲れで足がもつれ始めてきた頃。

 前を走っていた目つきの悪い少女が脚を止めた。


「この辺は街が出来た初期の頃のスラムで、随分前に放棄されているわ。

 いつ倒壊してもおかしくないボロ屋だらけだから、住み着いている人もいない。

 ここなら身を隠せるかも」


 そう言って、少女は廃墟のようなボロ屋群の中に脚を向けた。


 元は小さな広場だっただろう場所に、100を超えそうな数のあばら家が犇めき合うように建っている。

 素人が廃材を寄せ集めて建てたような雑な作りで、どれも面積は10平方メートルもない。

 コンテナか何かとすら思える建物だ、部屋割りなどというものは存在せず、窓と扉はボロ布をかけたり板を立て掛けたりして代用している。

 平屋はどれも立っているのがやっとという状態で、触れれば崩れそうな程にボロボロだ。

 少女の言う通り、今では住んでいる人間がいないらしく、散らかってはいるが、生活臭はしない。

 放棄された難民キャンプ、という形容がしっくり来る場所だ。


 確かに、ここなら一軒一軒探すだけでもかなりの時間が掛かるだろう。

 隠れるにはいい場所といえる。


 納得したサムは、少女に付いて平屋群へと入っていった。




「建物にはあんまり触らないでね。マジで崩れるから」


 そんな物騒な警告を少女から受けながら、サムは隙間を縫うように通った狭い通路を進む。

 途中で壁板から突き出た木片に気付かずに服の袖を引っ掛けたら、ものの見事に平屋が崩れた。

 それは隣の平屋をも巻き込み、連続して3軒の倒壊事故を引き起こした。

 まるで子供の積み木かなにかのように脆いその様に、サムは顔を青くする。

 それからは、建物に触れないよう全力で気をつけながら進んだ。


 二人は中心地帯にある適当な平屋に入ると、やっと一息つくことができた。


「それで、あんた、なんで追われてたのよ?」


 完全に巻き込まれた側である目つきの悪い少女が、説明を要求してくる。

 素直に答えようとしたサムだが、躊躇った。

 ここで全てを話すと、少女を完全に巻き込んでしまう。


「もう完全に巻き込まれてるから、今更遅いわよ」


 逡巡するサムに、少女はジト目を向ける。

 それで観念したのか、サムは最初から説明を始めた。


 この領で起きている「コネリー難」のこと。

 店を訪れた包帯の客のこと。

 その客が持ち込んだポーションのこと。

 その客が殺されているのを発見したこと。

 ポーションをギルドに持ち込んだら、容疑者になったこと。

 連行されているところを襲われたこと。

 そうして今に至ること。


 事情説明を聞いた少女は、「はぁ……」とため息をついて、疑惑の目をサムに向けた。


「あんた、本当にその客のこと殺してないの?」

「ほ、本当だよ!」

「全然関係ないあたしが聞いても、あんたとそのミモリーって女が犯人だとしか思えないんだけど」

「ほ、本当だってば! ミモリーが言うには、あれはプロの暗殺者の仕業だって!」

「なら、そのミモリーって女が第一容疑者ね。冒険者で斥候なんだから」

「そ、そんな……」


 情けない顔でしょぼくれるサム。

 目つきの悪い少女は腕を組み、厳しい顔で話を続ける。


「で、あんたたちを襲っていた連中に、心当たりは?」

「……ないよ。僕も何がなんだかさっぱりなんだ」

「ま、どう考えてもそのポーション絡みでしょうね」

「……やっぱり、そうだよね……」


 懐に隠したポーション瓶を取り出し、サムは少女に見せた。


「ふーん、それがねぇ?

 あたしはポーションには詳しくないから分からないんだけど、かなり金になるんでしょ、それ?」

「金になる、なんてもんじゃないよ!

 これは、この領のポーション界に革新をもたらす秘宝なんだ!

 ポーションに携わる人間なら、親を売ってでも欲しがるものだよ!」

「へ、へぇー、そんなに凄いんだ……」


 ポーションの話になると人が変わったように興奮し出すサムに、目つきの悪い少女は少し後退る。


「つ、つまりこういうことね──」


 いつまでも終わりそうにないサムのポーション賛美を中断させるように、少女は無理やり現状をまとめる。


「あんたを狙っている連中は、あんたがそのポーションのレシピを知っているって思ってて、でも、あんたは本当は知らない、と」


 うんうん、と頷くサム。


「でも、それを言ったところで信じてもらえないから大ピンチになってる、と」


 うん、と若干元気なく頷くサム。


「あんた、これからどうするつもりなの?」


 ド直球な質問に、サムは沈黙するしかなかった。

 こんな状況下での「これからのプラン」など、とてもではないが思いつかない。


「ま、協力はするわよ。あたしも今や他人事じゃないしね」

「……ごめん」


 顔を見られた以上、どんなに懸命に無関係を主張しても、追手は聞く耳など持たないだろう。

 相手からすれば、少女が本件に関係してようがしていまいが、そんなことはどうでもいいのだ。

 拷問にかければすぐに判明するし、どの道、最後には殺すことになるのだから。

 それだけ、スラムの住人である少女の命は軽い。


「いいわよ、謝らなくて」


 そうため息を吐き、少女はあばら家を出ようとする。


「ど、何処に行くの?」


 親に捨てられた子供のような顔で問うサム。


「なにか食べられそうなものを探してくるわ」


 少女の言葉が終わった途端、サムから「ぐー」という腹が音が鳴った。


「あんたはここで待ってて。勝手に出歩いたら戻れなくなるからね」

「あ、あのさ」


 出かけようとする少女を、サムが引き止める。


「何?」

「名前、まだ言ってなかったね。僕はサム」

「……グレタよ」


 そう言えばという感じで、目つきの悪い少女──グレタは、素っ気なく自己紹介した。






 ◆






 グレタがいなくなり、サムはあばら家の中で一人、膝を抱えて座り込んだ。


 疲労が酷いせいで、両足が酷く痛む。

 長時間走ったせいか、背中も若干痛む。

 もともと運動はそれほど得意ではないのだ。

 人並み以下の体力でよくこれだけ走れたものだと、今更ながらに思う。


「ミモリー……」


 お得意様であり、友人でもある女性の名前を呟く。

 果たして、彼女はあの後どうなったのだろうか。


「僕のせいだ……」


 脇腹に大痣を残して気絶しているミモリーを思い出し、自責の念が湧き上がる。

 自分が不甲斐ないから、こんなことにミモリーを巻き込んだのだ。

 あの時、ミモリーに包帯の客の捜索をお願いしなければ、彼女は無関係でいられた。

 自分が彼女に頼ったばっかりに、彼女も自分と同じように容疑者となり、命を狙われ、怪我まで負ってしまった。


 ああ。

 どうして世界は僕にこんなにも厳しいんだろう。


 最近できたこの嘆き癖に、更に憂鬱になる。


 僕が何したっていうんだ!

 何も悪いことをしてないのに、なんで僕だけこんな目に合うんだ!


 世の理不尽に、ただただ怒りがこみ上げる。

 己の不遇に、ただただ悲しみが溢れ出す。


 急転直下に悪化していく自分の人生に、もはや嘆き以外なにも出てこない。

 負の感情が渦巻きながら膨れていき、サムの心を飲み込む。


 青い青い空も、この薄暗いあばら家からは見えなかった。






 ◆






 どれくらい経っただろうか。


 扉代わりの垂れ布が捲られ、グレタが帰ってきた。

 右手には黒緑に変色した数切れのパン、左手には建物に使用されていたらしき木材の破片が握られていた。


「見つけてきたわよ、食べ物……って、どうしたのよ、あんた?」


 部屋の隅で体育座りしているサムを見て、グレタが怪訝な顔になる。

 彼女は、拾ってきたパンをポケットから取り出した布切れハンカチで包んで、部屋に置いてあった木組みのオブジェテーブルらしきものの上に置く。

 そして、部屋の隅できのこを栽培しているかのように湿った雰囲気を纏うサムに歩み寄った。


「何があったのよ?」

「……なんでもないよ」


 面倒臭い女みたいな返しをするサムに、グレタはうんざりしたような気分になりながらも、事情を聞こうとする。


「なんでもないわけ無いでしょ。ほら、どうしたのか、話しなさい」

「……僕のせいで、ミモリーを巻き込んじゃったんだ。僕のせいで……」

「そりぁ、不可抗力ってもんよ。

 あたしもあの場で話しとかチョロっと聞いてたけど、そのミモリーって女はあんたのこと全然責めてないみたいだったわ。

 さっきの戦闘の時も、全力であんたのこと守ってたみたいだし、案外気にしてないんじゃない?」

「で、でも、僕を守ったせいで怪我までして……」

「あー……まぁ、冒険者なら大丈夫じゃない?」

「でも……」


 ウジウジと自責するサムに、グレタは励ましの言葉を探す。


 スラムでの生活は、常に死と隣り合わせだ。

 ウジウジしていたら餓死していた、なんてことはザラにある。

 思い悩むような余裕も、そんなことに使うエネルギーもないのだ。

 だから、グレタにはこのような状態の人間にどう声をかければいいのか、分からなかった。


「兎に角、過ぎたことを考えるのはやめなさい。

 考えるなら、これからのことよ」

「これから……」

「そう。

 どうやって追手から逃げるか。

 そして、どうやって容疑を晴らすか、ね」


 胡乱げな顔をグレタに向けたサムだが、直ぐに諦めたように俯いた。


「……ないよ、そんな方法」

「いやほら、こういうのって探せば案外なんとかなるんじゃ──」

「ないんだ……」

「で、でも、諦めなければ──」

「ないんだよそんなの!」


 絞り出すように励ますグレタに、サムは我慢の限界を迎えたように怒鳴った。


「解決方法なんかないよ!

 追手から逃げる方法があったら、こんなところでコソコソ隠れてないよ!

 容疑を晴らす方法があったら、僕たちはそもそも連行なんてされてなかったよ!」


 結局、取れる手段が何もなかったから、今のような状況に陥っているのだ。


「僕の人生は何時もこうだ!

 何時もこうなんだ!

 いい事なんかなにもない!」


 尾を引くネガティブな思考が、グレタの必死の慰めをトリガーとして、サムの中で暴発した。


「才能が無いってだけで実家での居場所が無くなって!

 せっかくポーション師として一人前になろうってときに師匠が死んで!

 ようやくポーション師として安定して来た矢先に『コネリー難』なんかが起きて!

 何かを掴んだと思ったら、何もかもが無くなっていくんだ!」


 感情の爆発。

 極限状態という特殊な環境のせいで、抑えていた感情が溢れ出したのだ。

 もう、歯止めが効かなかった。


「なんで僕だけこんな目に遭うんだよ!

 なんで世界は僕にだけこんなに厳しいんだよ!

 オカシイじゃないか!」


 度重なる理不尽が、積み重ねてきた苦悩が、急転直下していく状況が、遅効毒のように心を蝕み、徐々に壊していく。


「僕が何したっていうんだよ!

 努力は人一倍してきた、我慢だって人一倍した!

 なのに、僕だけ何も掴めない!

 何もかも、僕の手から逃げていく!

 なんでだよ!

 こんなの、理不尽じゃないか!」


 それは、流されるしかない者の魂の叫び。

 辛酸を嘗めた数だけ、理不尽を覚えた数だけ、抑圧されてきた感情がぶり返す。

 怨嗟が、呪詛が、涙が、止めることのできない濁流のように溢れ出す。


「厳しすぎるよ、こんなの……」


 そして濁流の後に残るのは、ドロドロの汚泥と、何もかもを吐き尽くした空虚だけ。

 商家生まれのボンボンから、落ちて、堕ちて、オチて、今や殺人の容疑者だ。

 生計を失い、晴らすことのできない容疑を抱え、命を狙われる禍にまで見舞われた。

 多すぎる困難は心を疲弊させ、解決法なき窮状が希望を砕く。


「こんな人生、もうやだ……」


 もう耐えられなかった。






 パシンッ!



 頬に走る痛みに、サムは気付け薬を嗅がされたように顔を上げた。


「……あんた、ふざけてんの?」


 その先で見たのは、もともと悪かった目つきを更に悪くした、怒り心頭のグレタの姿だった。


「それくらいのことで人生が嫌だとか、甘ったれてんじゃないわよ!」


 果たしてそれは本気の怒りか、それとも不器用な叱咤か、はたまた心からの妬みか。


「あんたがどんな人間か、あたしには分からない。

 でも、あんたが歩んできた人生がクソ甘ったるいってことだけなら、十分に分かったわ」

「グ、グレタ……?」


 自分の苦悩に満ちた人生を正面から「クソ甘ったるい」と言われ、サムはショックを受ける。


「いい事なんか何もない?

 あんた、お腹が空いて眠れない感覚がどんなのか、味わったことある!?」


 それは、経験したことがある人間だけが知る苦痛。


「何かを掴んだと思ったら何もかもが無くなっていく?

 あんた、最初から掴むものすら無い気分がどんなのか、考えたことある!?」


 それは、持たざる者だけが理解できる悲しみ。


「こんなの理不尽?

 あんた、生まれた瞬間から理不尽しか知らない人生がどんなのか、試したことある!?」


 それは、世の不条理を常に噛み締めた人間だけがたどり着く諦め。


「こんなの厳しすぎる?

 あんた、物心ついた時からゴミを食べてようやく生きていける境遇がどんなのか、想像したことことある!?」


 それは、どれほど無様でも懸命に生きようとする人間だけが持つ強さ。


「死にたければ勝手に死になさい」


 だからこそ、の逆境で全てを投げ出すことが許せなかった。

 人間が軽々に諦めることは、真に不遇な人間にとっては侮辱以外の何物でもないから。


「でも、それはあたしが抜け出した後にして。

 あたしを巻き込んでおいて、自分だけ楽になろうだなんて、許さないわよ」


 こんなところでイチ抜けなど、不義理でしかない。

 そんなことは、絶対に許容できない。



「……ごめん」


 打ちひしがれたように、サムは小声で謝る。


 考えたこともなかった。

 今まで、自分の人生は理不尽の連続だと、そう思っていた。

 世界は自分に厳しく、だから何も掴めないのだと、そう思っていた。


 だが、それはただの甘えだった。

 持つ者の、持つが故の甘えだった。

 本当の持たざる者は、自分が享受していた「当たり前」すら持っていなかったのだと、このとき初めて知った。


 餓死寸前の人間の前でパンを食べながら「美味しくない」と批評することほど、人間として最低なことはない。

 自分は、そんな最低なことを、このグレタという少女にしてしまったのだ。


「……ごめん……」


 彼女は何も関係がないのに。

 命を狙われている厄介者の自分を助けてくれたのに。

 それなのに、自分はそんな相手に最低な八つ当たりをしてしまった。


「……ごめん」


 謝るしかなかった。

 それで許してくれるとは思わない。

 でも、そうするしかなかった。



「……もういいわよ」


 隠れて袖で目元を拭い、グレタはそう言う。


「ほら、ご飯食べるわよ」


 布切れハンカチで包んでいたパンを一切れ、サムに手渡す。

 この切り換えの速さも、スラム暮らしゆえの強さなのだろうか。


 手渡されたパンを見てみれば、カビが生えまくっていた。

 あまりにもカビすぎて、既に黒緑に変色している。

 正直、とても食べられるとは思えない。


「この状態で食べるわけないじゃない」


 変な顔をしていたのがバレたのか、グレタは呆れたように応じながら、拾ってきた廃材で手早く火を起こした。

 そして焚き火の側に座ると、取り出したナイフでパンの表面を削り始めた。


「先ずは表面のカビをこうやって削るのよ」


 指一関節分ほど削ると、中は灰色っぽい──古いパンの色をしていた。


「カビを削ったら、あとは火で炙るだけ」


 だいぶ小さくなったパンを枝に刺し、焚き火にかざして炙り始める。


「これだけカビが生えてるってことは、塩の効いた堅焼きパンじゃなくて、柔らかめのパンってことよ。

 ここ、商店通りのゴミが集まりやすいから、良いパンの可能性は高いわ。

 きっと美味しいわよ」


 若干ワクワクしているグレタに、サムはやはり微妙な顔を向ける。

 カビが生えたパンは、削っても、加熱しても、食べられるものではない。

 カビの毒はパンの奥深くまで染み込むし、加熱しても解毒しないので、このまま食べればお腹を壊すだろう。

 最悪、中毒で死ぬこともある。


「分かってるってば」


 グレタが懐から小さな包を取り出す。

 中にあるのは、数種類の枯れ草だ。

 その中から乾いた苔のようなものを取り出し、サムに渡してきた。


「それは『カビセリ苔』っていう苔よ」

「かびせりごけ?」

「あんた、ポーション師でしょ? 知らない?」


 首を横に振るサムに、グレタは説明する。


「スラムでよく見かける苔よ。

 そのまま食べると滅茶苦茶お腹壊すけど、カビと同じ量をカビと一緒に食べると、何故か大丈夫なのよ」

「へぇー。カビの毒を中和してるってことかな?」

「じゃない?

 カビも、苔も、単独で食べると具合悪くなるけど、一緒に食べると大丈夫だから」

「すごい。知らなかったよ、そんな薬草があったなんて」

「薬草っていうほど貴重なものじゃないわよ。結構いろんなところに生えてるし。

 でもまぁ、スラムの住人以外が知らないのも無理はないかもね。

 他の所ではカビの生えたものなんて食べないだろうし」

「それでもこれはすごい発見だよ」

「スラムで生きていくために必要な知識ってだけよ。スラムの住人なら誰でも知ってるわ」


 サムの師ですら知らない、まさに生きる知恵だ。


「あ、でも、一緒に食べるにしても、食べ過ぎは禁物よ。

 いきなり気分悪くなって吐いちゃうから、自分の拳くらいの量より多く食べちゃダメよ」

「あ、無限に食べられるわけじゃないんだね」

「当たり前でしょ。そんなに便利なら、これとカビパンだけで生きていけるじゃない。3日に一回以上食べると確実に具合悪くなるから、これだけに頼ってられないのよ」

「なるほど。身体の許容限界もあるわけか。

 じゃあ、カビの毒を完全に無害化しているわけじゃなくて、カビの毒よりも許容量が多い別の成分に変換してるのかな?

 もしくは、カビの毒は完全に無害化しているけど、含有している別の成分が体調を悪くしている?」


 苔を観察しながら、サムが真剣な顔でブツブツと唱え出す。

 それを眺めながら、グレタは二人分のパンを炙る作業に戻った。


 表面が真っ黒になると、グレタは再びナイフで表面を削る。

 そして、更に小さくなったパンをサムに手渡した。


 受け取ったサムは、その見た目に一瞬だけ怯む。

 が、直ぐに決心が着いたようにかじりついた。


「……美味しい」


 意外過ぎる味だった。

 カビの土臭さと焦げの苦さは、少しある。

 だが、より多く感じるのは、サクッとした食感と、小麦の香りと、口に含んだときの甘さだった。


 もう一口かじる。

 美味しい。

 もちろん普段食べているちゃんとしたパンとは比べ物にならないが、それでもこんな状態で、これだけ美味しいパンが食べられることが、とても信じられなかった。

 いや、こんな状況だからこそ、というべきか。

 キャンプのご飯が美味しく感じるように、何時もと違う状況がスパイスとして働いているのかも知れない。

 喉を通らないと思っていたが、よく噛んだパンは、飲み込めばするりと胃袋に滑り落ちていった。

 そして、身体から湧き上がる満足感。

 まさにスラムに生きる人々の知恵の勝利だ。

 そのことに感動を覚えると同時に、今まで自分がどれだけ恵まれていたかを痛感する。


「うん、やっぱり当たりだわ」


 満足そうにパンを頬張るグレタ。

 それはまるで何か「いいこと」があったかのような、幸せそうな顔だった。


 そんな彼女を眺めながら、サムは再度パンを齧り、思う。


 今までは、ただ自分の不幸を嘆くだけだった。

 でも、グレタと出会った今──自分より余程の逆境にいながらも懸命に生きる、年下の少女である彼女を知った今、もう嘆くことはできなくなった。

 自分よりも不幸な人間は、数え切れないほど居る。

 恵まれている自分が足掻くことを放棄するということは、そんな彼らへの最大の侮辱だ。

 決して許されることではないだろう。


 立ち止まることは、もうできない。

 少なくとも、自分が巻き込んでしまったこの少女の安全が確保されるまでは、立ち止まるまい。


 焚き火越しにグレタを見つめながら、サムはそう決心する。

 その顔に、先程までの怯懦はもう無かった。

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