115. S02:病床の少女と二度目の家宅侵入

 ――――― Side: 02 ―――――




「あら、今日はなんだか街が賑やかね」


 ベッドに横たわる少女──クラリッサは、優しげな垂れ目を窓の外に向けながらそう言った。


「お祭りかしら?」

「いえ、お嬢様。あれは爆発です」


 のほほんとした少女の感想に、彼女を守るように窓際に立った専属護衛の女性は、鋭い視線を轟音がする方へ向けた。


「街中で爆発? 戦闘なの、ヘレン?」


 お茶の用意をしていた専属メイドの女性が、ヘレンと呼ばれた専属護衛に問う。


「恐らくな。

 方角は……薬師ギルドと東門のちょうど中間辺りだな。

 見たところ、攻撃魔法の類だろう」


 貴族街を囲う内周城壁越しでも分かる大爆発だ。

 彼女たちがいる屋敷からは遠く離れているので、こちらに直接的な影響はないだろうが、戦闘区域周辺はそうはいかないだろう。

 かなりの被害が出るはずだ。


「物騒ねぇ」

「物騒って、オリー……」


 完全に他人事な専属メイド──オリーに、ヘレンは呆れた視線を向ける。

 貴族の役目は、領地を統治して人々の生活を守ることだ。

 街中で戦闘が起きているのに他人事とは、貴族に仕える者として些か無関心が過ぎるのではないだろうか。


「何よヘレン。

 今は外のことより、お嬢様のことでしょう?」


 オリーの反論に、「そうだった!」と言わんばかりにヘレンがベッドへ振り返る。


 ヘレンとオリーの二人のプライオリティは、何をおいても先ずクラリッサお嬢様が最上位に来る。

 代々お仕えするこのファルマス法衣子爵家を裏切ることにならない限り、クラリッサお嬢様のためならどんなことでもやる。

 いや、法衣子爵家を裏切ることになっても、お嬢様に従うだろう。

 それが二人の覚悟であり、行動指針だ。

 明らかに忠誠心過剰で、ともすれば狂信的ですらあるが、二人はクラリッサが生まれた時から彼女に仕えているのだ。

 過ぎるくらいには情が深いのである。


 そんな二人は、直近の3日間を実に複雑な心境で過ごした。


 ことの始まりは3日前。

 クラリッサの部屋に謎の侵入者が現れたことが原因だ。


 侵入されたこと自体は悪事なのだが、好事もまた同時に起きていた。

 なんと、クラリッサの病が目に見えて良くなったのだ。


 謎の侵入者の「せい」というべきか、「お陰」というべきか……とにかく、その謎の侵入者は、飴玉のような薬をクラリッサに渡した。

 それを服用したクラリッサは、見る見るうちに元気を取り戻した。

 これまで激しい病苦のせいで身体を起こすのも難しく、食事も殆ど喉を通らなかったのに、今ではベッドに座ることができるようになり、更には進んで食事を摂るようにまでなっていたのだ。

 必死に目を背けようとしても見えてしまう死相も、今では完全に消えている。

 これが二人にとってどれだけ嬉しいことか、余人には想像もつかないだろう。

 まさに人生最大の好事だ。


 しかし、喜んでばかりもいられなかった。


 クラリッサの話を聞く限り、あの飴玉は病気を完全に治すものではなく、一時的に押さえるもの。

 つまり、時間が立つと病がぶり返してしまうのだ。


 また来る、と謎の侵入者は言っていたが、果たしてそれは何時なのか?

 いずれ病気を全て盗む取り除く、と言っていたが、果たしてそれは何時になるのか?


 期限が無い待望ほど辛いものはない。

 恋人との再会を待ち侘びる乙女のようなルンル気分のクラリッサお嬢様とは違い、二人は一日千秋の思いでこの数日を過ごしたのだった。


 相手の目的が分からないことも、大きな懸念事項だった。

 不治の病を患った貴族の娘を、純度100%の善意で救う人間など、お伽噺の中にすら存在しない。

 薬を授かった以上、何らかの見返りを要求されるのは必至。

 というか、ただ施さるだけというのは、貴族という立場上とてもマズい。

 たとえ本当に見返りを求められなかったとしても、こちらから何らかの謝礼を差し出す必要があるだろう。

 果たして、その謝礼が幾らになるのか──お嬢様のお命に釣り合う値段はどのくらいなのか。


 不確定要素が多い懸案ほどストレスフルなものはない。

 久方ぶりのデートに待ち合わせるようなランラン気分のクラリッサお嬢様とは違い、二人は呉牛喘月の気持ちでこの数日を過ごしたのだった。


 そして、そんな複雑な気持ちだった二人にとどめを刺したのが、今朝の出来事だ。


 クラリッサの病状が、再発の兆しをみせたのだ。

 熱が少しばかり出て、すぐに収まった。

 その間、全身の痛みがぶり返し、久しぶり──本当に久しぶりに──クラリッサの呻き声を聞いた。

 病状は数分後には収まったが、それでも悪夢のような一時だった。

 ここ2日ほど快調だったクラリッサの体調が、数分とはいえ悪化したのだ。

 恐らく、薬の効果が切れつつあって、抑え込まれていた病魔が勢いを取り戻し始めたのだろう。


 何よりも二人を辛くさせたのは、クラリッサの呻き声だった。

 これまで、クラリッサは家族を心配させまいと、何時も呻きを堪えていた。

 長期の闘病生活で病苦に慣れたのか、ここ数年は一度も呻き声を上げなかった。

 決していいことではないが、少なくとも二人の前では我慢できていた。

 それが、今日の朝。

 痛みを堪えられず、クラリッサは二人の前で「ぅうぅ……」と苦痛を口に出してしまったのだ。


 二人が真っ先に感じたのは、「回復による反動」だった。

 砂糖を舐めた後の塩がより塩辛く感じるように、久しく忘れていた「苦痛のない感覚」を味わったことで、これまで我慢できていた病苦をより苦痛に感じるようになってしまったのだ。


 一時的とはいえお嬢様に健康と安らぎを取り戻してくれたことに感謝するべきか、それともその反動でよりお嬢様を苦しめることになったことに激怒するべきか。

 二人には分からなかった。

 だから、二人は、くだんの侵入者──お嬢様曰く「泥棒さん」──に一刻も早く来て欲しかった。

 お嬢様の病状が酷くなる前になんとかしてもらいたい、とそんな複雑な心境で祈るしかなかった。




「心配のし過ぎよ、オリー。

 きっと泥棒さんがまた来て、なんとかしてくださるわ」


 窓の外から聞こえる微かな爆音を聞きながら、クラリッサはそう言った。

 その顔には、まるで全幅の信頼を置いている騎士が帰還するのを待ち侘びる姫のような笑顔があった。


「お嬢様……」


 のほほんとしたクラリッサに、ヘレンとオリーはなんとも形容し難い顔になる。

 

 専属護衛であるヘレンにとって、察知されずに入り込んできた件の泥棒は、まさに天敵だ。

 護衛という自分の職務を愚弄するかのようなその行いに、そしてそれに対して何の反応もできなかった無能な自身に、ヘレンは無性に腹が立っていた。

 何より、そんな相手にお嬢様が全幅の信頼を置いていることが、無性に複雑だった。

 お嬢様に自身の護衛としての力量を疑われている、というわけではない。

 件の泥棒の侵入を許してしまった今でも、クラリッサは心の底から信頼している目をヘレンに向けてくれる。

 だから、別に見放されているわけではないのだろう。

 だが、自分に向けるのと同じ目をしながら件の泥棒を語るのは、ヘレンとしてはなんとも嫌だった。

 お嬢様の体調と態度から危険なことは何も起こらなかったのは明白だが、それでも「護衛対象を侵入者と二人きりにした」という状況を作ってしまったことは、ヘレンにとっては許されざる痛恨事だ。

 あまりの不甲斐なさに、「そのような──私でも見たことがない可愛い笑顔で不届き者の話をしないでくださいお嬢様ぁ!」と思わず内心で絶叫を上げてしまった程だ。


 それは、専属メイドであるオリーも同じだった。

 お嬢様のお世話をするのが専属メイドの仕事だ。

 それなのに、「お嬢様の苦痛を一時的に取り除く」という大役を担ったのは、専属メイドである自分ではなく、どこの馬の骨とも知れない奇妙な男だった。

 これまでの専属メイドとしての仕事を全て否定されたような気分になり、オリーは酷く傷ついた。

 そして、そんな相手に、お嬢様が王子様の再訪を待ち侘びる姫君のような乙女心を向けていることが、無双に複雑だった。

 オリーはクラリッサの専属メイドであり、同時に貴族女子としての初歩的教育を施す教育係でもある。

 これまでは病気のせいで教育指導など不可能だったが、それでも教育係として、何より友人として、オリーはクラリッサの純潔を何時いかなる時も監視・守護する義務がある。

 それなのに、オリーが目を離した一瞬の隙きに、お嬢様は何処の馬の骨とも知れない男──それも泥棒などと自称する輩──と出会ってしまった。

 お嬢様の体調と態度から疚しいことは何も起こらなかったのは明らかだが、それでも「未婚の貴族令嬢が男と二人きりで部屋に居た」という状況を作ってしまったことは、オリーにとっては許されざる痛恨事だ。

 あまりの不甲斐なさに、「そのような──私でも見たことがない可愛い笑顔で見知らぬ男の話をしないでくださいお嬢様ぁ!」と思わず内心で絶叫を上げてしまった程だ。



「……お嬢様、その泥棒のことなのですが……」


 と、オリーが気まずそうに切り出した、その時だった。



「「────ッ!」」



 オリーとヘレンの身体が突然、動かなくなった。


 話の途中で突然喋らなくなったオリーに首を傾げるクラリッサ。

 窓を締め切っていたはずの部屋にそよ風が流れ、クラリッサの桃髪をふわりと揺らした。


「あら?」


 何時の間にか開いた窓に視線を向けたクラリッサが見たのは、


「まぁ!」


 彼女が待ち望んでいた相手だった。


「また来てくださったのですね、泥棒さん!」


 目と鼻だけを覆う、所謂ベネチアンマスクを被った、顔の輪郭がピーナッツ型の男。

 クラリッサが言うところの「泥棒さん」だ。


「やあ、お嬢さん。

 約束通り、また会いに来ましたよ」


 赤いジャケットを翻し、男──泥棒さんは、いつの間にか鍵が外された窓から部屋へと入ってきた。


「そっちのお嬢さん二人には申し訳ないけど、ちょこ〜っとだけ大人しくしてもらうよ」


 先程から彫像のように固まったまま冷や汗を流しているオリーとヘレンに向かって、男は言った。


「あら、二人が動かないと思ったら、泥棒さんが何かなさったのですか?」

「ええ。ちょっと動かないように魔法をかけました」

「痛くはありませんか?」


 友人でもある二人に心配する視線を向けるクラリッサ。

 男は安心させるように応じた。


「勿論、痛くも怖くもない魔法ですよ。

 お嬢さんと二人だけで話がしたくて、仕方なくこうしました。

 ご容赦ください」

「それなら良かったですわ。

 では、早くお話を終わらて、4人でゆっくりお茶にいたしましょう」


 思った通り優しい人でした、とでも言いたそうな笑顔を浮かべるクラリッサ。


 オリーのお局様のような厳しい視線とヘレンの看守のような怖い視線を一身に浴びながら、男はベッドサイドに歩み寄る。

 そして、どこからともなく救急箱ほどの大きさの木箱を取り出すと、クラリッサたちに見せるように開いた。


「これが、お嬢さんの病気の『治療薬』、その前半になります」


 その一言に、クラリッサたち3人が驚愕する。


 治療薬。

 それは、ファルマス家が総力を上げて探して終ぞ見つけられなかったものだ。

 誰もその存在すら知らず、故にクラリッサの病は「不治の病」と認定され、ただ死を待つだけの身となった。

 その治療薬が、ここにある。

 お嬢様の未来が、

 誰もが閉ざされていると思っていたクラリッサの未来が、

 本人ですらも諦めていた輝かしい未来が、

 そんな未来への鍵が──ここにあるのだ。


 喉から手が出るほど……いや、全身の穴という穴から腕が伸びるほどに、その薬が欲しい。

 この場にいる全員がそう思った。


「約束通り、その病を盗みに参りましたよ」


 演劇の役者のように、大袈裟な仕草で差し出す男。


 クラリッサは、恐る恐るといった手付きでその箱を受け取った。


「これが……」


 クラリッサの瞳が揺れる。


「……これで、この病が治るのですか?」


 まるで恐れているような、それでいて期待するような、そんな顔で問うた。


 もともと──最初に会った時から、泥棒さんのことは信じていた。

 だから「この病を治せる」という彼のにも疑問を抱いたことはなかったし、これからも無いだろうと思っていた。

 でも、病を治す薬のを目の前にしたら──ただのだったものがになったら、途端に怖くなってしまったのだ。


 そう、怖いのだ。

 怖くて怖くてたまらないのだ。


 全てが手の込んだ冗談だったらどうしよう。

 全てが周到な嘘だったらどうしよう。

 全てが回りくどい意地悪だったらどうしよう。


 そんな残酷な妄想が、頭の中を占めてしまう。

 今の自分では──生きることへの希望を抱いてしまった今の自分では、そんな冗談には耐えられない。

 だから、信じるのが怖くて、失望するのが怖くて、何もかもを疑ってしまう。


 だけど──結局の所、本心では信じたいのだ。


 未来が欲しい。

 病気を治して、家族に、友人に、自分を支えてくれた全ての人々に、恩返しがしたい。


 だから、押し潰されそうな程の不安を押し殺して、抑えきれない程の期待を抑え込んで、クラリッサは問うた。

 本当なのか、と。

 自分は生きていられるのか、と。



「ふふ」


 男が笑った。

 意地悪な笑みではない。

 人を安心させる、そんな暖かな笑みだった。


「もちろん、治りますよ。嘘は言いません」


 一筋の涙が、クラリッサの頬を伝った。


「あぁ…………」


 それはクラリッサにとって……いや、この部屋にいる全ての人にとって、まさに救いの言葉だった。

 まるで重圧から解放されたかのように、クラリッサは静かに涙を流す。

 そんなクラリッサを、男はただ黙って見つめた。

 その姿には欺瞞も嘲笑も無く、ただただ慈しみだけがあった。

 少なくとも、クラリッサはそう感じた。






 暫くして落ち着いたクラリッサは、受け取った箱を覗き込んだ。

 箱の中には5本の瓶と、灰色・白色・赤色の三色の紙包みがそれぞれ5包ずつ入っていた。


 クラリッサは瓶を手に取り、太陽にかざす。

 瓶の栓は、針金で作られたギミックでロックが掛けられており、間違って栓が抜けることがないようになっている。

 中の液体は透明感のある緑で、とても綺麗に見えた。


「そのレバーを推し上げると、栓が外れます。

 同じように栓を瓶の口に合わせてレバーを推し下げると、栓にロックが掛かります」


 言われた通り、渾身の力──今のクラリッサではこれが精一杯──で針金のレバーを上げると、ロックが外されて栓が開かれた。

 中身を嗅いでみると、薬草の青い香りがした。


「その瓶の中に入っているのが治療薬……いえ、治療薬のになります」

「ベース、ですか?」


 不思議そうに首を傾げるクラリッサ。


「はい、ベースです。

 なぜなら、この薬は、このままではまだ未完成だからです」

「未完成……」

「ええ。

 なので、そのままでは絶対に口にしないように」


 死にますよ? と脅しているんだか警告しているんだか分からない茶目っ気たっぷりな仕草で付け加えた。

 目を見開くクラリッサに、男は紙包みを指差して見せる。


「薬を完成させるための『素材』が、その紙包みの中に入っています」


 3色の紙包みをそれぞれ1包ずつ取り出し、開けてみる。

 灰色の紙包みには小魚の干物が、白色の紙包みには白い粉が、そして赤い紙包みには赤い粉が、それぞれ入っていた。


「服用する直前に、この3色の紙包みを1包ずつ、このベースとなる液薬の瓶に投入し、栓をしてから思いっきり振って下さい。

 瓶の中の薬がピンク色になりましたら、完成です」

「思いっきり……振るのですか?」

「ええ。シャカシャカ振ってください」

「ふふふ、とてもおもしろい作り方ですわね」


 実に楽しそうに、クラリッサは笑う。

 飲む直前に完成させる必要がある薬はたくさんあるが、完成させるのに「思いっきり振る」という破天荒な手法を用いる薬は聞いたことがなかった。

 けれど、クラリッサに疑念はない。

 誰もが「不治の病」と断定して匙を投げたこの病を治すのだから、どれだけ奇天烈な作り方でも不思議じゃないだろう。


「本当は違う作り方だったのですが、これまで使っていた素材がつい最近になって取れなくなってしまったのですよ。

 それで急遽、レシピを変えましてね。

 こういう変わった作り方になってしまいました。

 いやぁ、ちょうど知り合いがその取れなくなった素材を研究していて助かりましたよ」


 と、男はおちゃらけたように肩を竦める。

 そんな男に、クスクスと楽しそうに笑うクラリッサ。

 クラリッサが一頻り笑うのを待ってから、男は薬箱に視線を戻した。


「こちらの薬ですが、用量は一日一本、寝る前に服用して下さい。

 作り置きなどはせず、必ず飲む直前に完成させてくださいね」

「思いっきり振って、ですね。わかりましたわ」

「ええ、思いっきり振ってくださいね」


 見つめ合い、二人で笑い合う。

 その様は、まるで長年の友人同士のようであった。


「それと、食事のメニューは肉と果物を多めにしてもらってください。

 食事の時間は適当でもいいですが、気持ち悪くならない範囲でできるだけ多く食べてください。

 弱った身体が強くなりますよ」


 男の指示を、動けないオリーが人生で一番の集中力で以て余さず記憶する。

 それはヘレンも同じで、文字通り脳に焼き付けるように男の言葉を暗記する。

 なにせ、比喩でもなんでもなく、お嬢様の命がかかっているのだ。

 たとえ自分たちの名前を忘れたとしても、この薬に関することだけは忘れないだろう。


「ただ、これはまだ薬の前半ですから、これだけでは完治しません。

 5日後にまた来ますので、そのときに薬の後半を持ってまいりましょう。

 それを以て、あなたのその病を完全に盗み出します」


 そう言うと、男は芝居臭い動作で一礼した。


「おっと、これはいけない。忘れるところでした」


 これまた芝居臭い仕草で、男は額をピシャリと叩いた。


「これを、お父上に」


 そう言って差し出されたのは、一通の封筒。

 白くて厚い紙で折られた、舞踏会の招待状のような封筒である。

 赤い封蝋で閉じられており、封蝋には「薬草を口に咥えたベネチアンマスクの顔」という巫山戯たイラストの印が押されていた。


「それでは、また5日後に」


 クラリッサが手紙を受け取ると、男はすぐさま窓から出ていき、そのまま何処へともなく消えたのだった。






 男が姿を消すと、今まで微動だにできなかったオリーとヘレンが解放された。

 オリーはすぐさまクラリッサの元へと駆けつけ、ヘレンは忌々しそうな顔で窓から身を乗り出して男を探す。


 変なものを付けられてないか身体をチェックしてくるオリー。

 何処へ行ったこの賊めと、地団駄を踏むヘレン。

 そんな二人を眺めながら、クラリッサは薬の入った箱と父親に渡すように言われた手紙を抱きしめた。


 彼女にはもう、不安はない。

 今の彼女の心にあるのは、未来への希望と、愛する人達への情愛と、件の泥棒への感謝。

 そして、一つの決心。


 ちゃんとした貴族教育はまだ受けていないとは言え、クラリッサとて貴族子女の一人だ。

 無償の救済を信じられる程、貴族として失格者ではない。

 だから、父親に渡すように言われた手紙の中身も、大凡の検討はついている。


 内容は間違いなく、薬の対価──自分の未来の値段についてだろう。


 少女が救済を受けたのは──受けたいと思ったのは、家族や友人に恩を返すためだ。

 断じて迷惑を掛けるためではない。

 あの優しい父と献身的な母であれば、きっと対価の支払いを渋らないだろう。

 それこそ、家が困窮するくらいの値段であってもだ。


 だから、少女は決心した。

 もし救済の対価が自分の全てを差し出しても支払えないのであれば、

 ファルマス家に迷惑や不利益が振り掛かるのであれば、

 自分はこの救済病の治療を諦めよう、と。


 これまでは不確かなことが多すぎて、未来への希望と期待ばかりが膨らんでいた。

 そのせいで、これまで身近だった死が突然、怖くなってしまった。

 生にしがみつこうと、治療を心待ちにするようになった。

 生きたいと、そう思うようになってしまった。


 だが、今はもう違う。


 病が治ることを確信した今、不安は消えた。

 そして、不安が消えたが故に、心に余裕が出来た。


 これまでは不可避の強要としてあった「死」が、今では自らの意志で選ぶことを許された一つの選択肢となったのだ。

 同じ「死」という結果でも、強要されるのと自分で選ぶのとでは、雲泥の差がある。

 心に余裕が出来た今の自分には、自ら死を選ぶ──治療を放棄するという決心が付くようになっている。


 自分の全てを差し出すことは、何ら吝かではない。

 妻にでも愛妾にでも奴隷にでも、何にでもなろう。


 だが、実家に迷惑が掛かることは、ちゃんと断ろう。

 自分の命以上の値段を対価に求められたら、潔く病死することを選ぼう。


 それが、クラリッサの決意だった。



 でも、とクラリッサは思う。


 あの泥棒さんのことだもの。

 きっと無茶な要求はしないわ。


 決心の上にそんな盲信を重ねながら、少女は「うふふ」と微笑む。


 開かれた窓から見える青い青い空には、白い太陽が燦々と輝いていた。

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