74. Prologue 02:What a f*cking heartful world

 ――――― Prologue 02 ―――――




 ああ。

 なんて優しい人生でしょうか。


 ベッドに横たわる垂れ目の少女は、屋敷にある自室の窓から覗く青い青い空を見上げながら、そう吐息を漏らした。






 両親はストックフォード伯爵家に仕える法衣貴族で、少女は愛情たっぷりの幼少時代を過ごした。

 法衣子爵家の次女である少女は、生活面で不自由したことは殆どなかった。

 文官肌の父はとても穏やかで、良妻賢母な母はとても優しい。

 長男である兄は優秀で、少女を溺愛していた。

 長女である姉は既に嫁いだが、少女とは毎月欠かさず手紙のやり取りをする程に仲がいい。

 使用人たちも真面目な働き屋ばかりで、少女のことをとても気にかけてくれる。

 特に、自分の専属メイドと専属護衛は、当主である父親が苦笑いする程に過保護だ。


 誰もが羨むような、幸福が約束された人生。

 少女には、そんな人生が待っていた。


 異変が起きたのは、少女が10歳を迎えようとした頃だった。


 始めは、ただの風邪だった。

 3日ほど高熱にうなされたが、すぐに熱は引いた。

 それで治った──はずだった。


 それから、少女は身体の異変に苛まれるようになった。

 背中や関節の痛み、四肢先端の痺れ、味覚と嗅覚の鈍化、左目の視力低下、突然の高熱。

 どれも一過性のもので、長くても2〜3日で症状は消える。

 だが、その間はまともに活動できず、少女にとっては肉体と精神の双方でとても苦しいものだった。


 そして悪いことに、時間が経つに連れ、それらの症状は酷くなっていった。


 両親が法衣子爵家の総力を以て医者を探し、少女の病を診させた。

 しかし、その尽くが匙を投げた。

 結論は決まって「原因不明」。

 大陸でもトップを争う名医と謳われるソンミン師ですら、少女の病因を突き止めることができず、少女に赦しを請うた程だ。

 ソンミン師ですらこうなのだ、もはや並の医者や薬師では話にならなかった。


 回復ポーションも試したが、症状を緩和することはできても、少女の病を根本から治すことはできなかった。


 不治の奇病。


 それが万策尽きた医者たちが下した、少女の病の名だった。






 病窓から見る空は澄み渡っており、とても美しい。

 もはや伴侶となりつつある全身の痛みに汗を流しながら、少女は唸り声を必死で堪える。

 ここで痛みに声を出そうものなら、自分の専属メイドと専属護衛が部屋に飛び込んできて、ベッドの横でヨヨヨと泣き崩れるだろう。

 彼女たちに辛い思いをさせる必要はない。

 だから、少女は今日も一人、静かに発作と戦う。


 あと8日で、少女は17歳の誕生日を迎える。

 貴族子女としては、既に成人一人前とされる年齢をとうに超えているが、少女はまだ社交界デビューすらしていない。

 日々激化する病の苦痛は、少女から日常生活を奪い去っていた。






 10歳から始まったこの奇病は、少女の成長と共に悪化し続け、少女が15歳を過ぎた頃には床を出られる日が殆ど無くなるほどにまでに達した。

 今ではほぼ全身が不随となり、完全に寝たきりとなっている。


 日に日に窶れていく少女の姿を間近で見ていた家族は、絶望に苛まれた。

 それは、少女が最もハッキリと感じている。

 父親は悲しげな顔をすることが多くなり、娘がまだ生きていることを噛みしめるかのように、毎日寝起きと就寝前に少女を抱きしめに来る。

 母親は、メイドたちから仕事を奪うかのように少女の世話を焼こうとする。それこそ、入浴やトイレの世話までもだ。貴族家の婦人では考えられないことである。

 兄は、外に出られない少女のために市井の面白話をかき集め、面白おかしく語ってくれる。文官としての勉強と父親の仕事の手伝いで死ぬほど忙しいのに、少女を飽きさせない話を毎日のように持ってくるのだ。

 姉は月イチで手紙を書いてくれるだけでなく、年に一度は自ら見舞いに来てくれる。嫁ぎ先の遠さを考えれば、彼女がかなりの無茶をしているのは明白だ。他家の人間になったというのに、ここまで実家の妹のことを気遣うというのは、貴族ではそうないことである。


 少女をここまで愛してくれるのは、肉親だけではない。

 少女の専属メイドと専属護衛は、それ以上に尽くしてくれる。


 専属メイドのオリーは5歳年上で、少女の世話係だ。

 父親は庭師、母親はメイド長と、オリーは家族全員で少女の一家に仕えている。

 少女が生まれたときから見守ってきてくれた、正に専属と呼ぶに相応しい存在だ。

 下手をしたら、肉親以上に少女のことを気にかけているかも知れない。


 専属護衛のヘレンは同じストックフォード伯爵家に仕える法衣男爵家の四女で、オリーと同い年だ。

 対人戦に長けており、女性護衛としての腕前は申し分ない。

 直情的な性格の持ち主だが、少女に対する愛情はオリーに負けておらず、何事も少女のことを第一に考えてくれている。


 そんな二人は、日に日に窶れていく少女を見て、少女以上に痩せこけている。


 二人は、少女にとってたった二人しかいない「友達」だ。

 彼女たちに負担を掛けることは、とても心苦しい。



 ですが、そんな心配も、もうそろそろしなくて済むようになるでしょう。


 だって、私はもう、寿命が近づいていますから。



 痙攣と震えと麻痺が入り混じった指先を眺めながら、少女はそう確信していた。


 諦めることを決してしない家族と過剰なまでに自分を思ってくれる専属の二人には悪いが、少女にとって死は一種の開放だった。

 もう7年近くも病苦に苛まれ続けてきたのだ。

 16歳の少女にとっては、人生の半分近くに値する時間だった。


 世の中には滅気ずに何十年も闘病生活を続ける人がいるが、まだまだ年若い少女には、そうした強固な精神を養うだけの時間も余裕もなかった。

 日々悪化する病状と持続的に襲ってくる苦痛は、絶望となって少女の精神を蝕み、少女を絶望の淵へと追いやった。

 少女の精神は、もはや限界だった。


 死が避けられないのであれば、苦痛は短い方がいい。

 自分の手で全てを終わらせることは、皆を裏切ることになるのでする気は毛頭ない。

 だが、それでも開放を望まないと言ったら嘘になる。


 ──苦しむのにも、そろそろ飽きました。

 それは、偽ざる本音だった。






 上手く動かせなくなった首を回し、少女は窓から遠くを眺める。


 ああ。

 なんて美しく、なんて暖かな世界なのでしょう。


 私よりも不幸な人は多くいますのに。

 私は愛する家族と愛する友人に恵まれました。

 これで文句を言うのは、きっと罰当たりなことなのでしょう。


 私の命は、何時まで持つでしょうか?

 明日までかも知れません。

 もしかしたら、来月まで永らえるかも知れない。

 それとも、今夜終わるのでしょうか。


 何れにせよ、優しさに恵まれた人生でした。


 天地を作りし創世の大女神様に感謝を。

 大女神様より生まれし九神に感謝を。

 私を産んでくれたお父様とお母様に感謝を。

 私を愛してくれるお兄様とお姉さまに感謝を。

 そして、私の側にいてくれるオリーとヘレンに感謝を。


 少女は日課の祈りを捧げる。

 それが、愛する人達に何も残せず、恩返しなど何一つできないこんな自分でも、唯一できることだから。




「やあ、お嬢さん。ご機嫌麗しゅう……ございませんね、見た感じ」




 突然、聞き慣れない男の声が、少女の元へと舞い降りた。


 少女は驚き、声の主を探す。


 見れば、開け放たれていたバルコニーの窓から、いつの間にか一人の男が入ってきていた。

 男は目と鼻だけを覆う、所謂ベネチアンマスクを被っていて、素顔は判然としない。

 顕になっている顎には無精髭が生えており、何処かラフな印象を与える。

 赤いジャケットと黒いズボンを履いており、体型はスラリとしている。

 年の頃は30前後だろうか。

 顔の輪郭がピーナッツに似ているのが特徴的だ。


「どなた?」

「泥棒です」


 思わず訪ねてしまった少女に、仮面の男はおちゃらけた調子で応じる。


 そんなはずはない、と少女は混乱しながらも冷静に分析する。


 確かに、法衣子爵はそこまで裕福な階級ではない。

 この屋敷も、そこまで広いというわけではない。

 が、それでも使用人はそれなりの数いるし、門衛も警護もいる。

 余程腕が達者な泥棒でない限り、塀を跨ぐことすら叶わないだろう。

 それに、本当に泥棒ならば、こうして堂々と家の人間の前に姿を晒すはずがない。


「……泥棒さん?」

「はぁ〜い、泥棒さんですよ〜」


 真面目さの欠片もない男の返事に、少女は毒気を抜かれたようにクスリと笑った。


 部屋の扉の外には、オリーとヘレンが常に控えている。

 小さく咳をするだけで「如何ないさいましたかお嬢様っ!?」と喚きながら部屋へ飛び込んでくる二人だ。

 こうして見知らぬ人間と話しているのに、二人からの反応が無いというのは、本来ならありえないこと。

 恐らく、音を遮断する何らかの魔法か魔法道具マジックアイテムを使っているのだろう。


 それを分かっていながら、少女は楽しそうに微笑む。


 どうせ、自分は長くないのだ。

 誘拐も暗殺も、さしたる意味を成さないだろう。

 ならば、この愉快な泥棒とくだらない会話をしても大害はないはず。


 そう考えた少女は、可笑しそうに訪ねた。


「では、当家へは何を盗みに?」

「勿論、お嬢さんを……と言いたいところですが、どうやらお具合が優れない様子」


 芝居がかった仕草と台詞でそう言うと、男は少女に一歩、歩み寄った。


「なれば、まずは貴女を苦しめるその病を盗むと致しましょう。どうかこの泥棒めに盗まれてやってください」


 芝居気たっぷりにお辞儀をする仮面の男。


「この病を……盗めるのですか?」


 少女は、思わず聞き返した。


 胡散臭い口説き文句のような言葉だ。

 何処まで信じていいか、分かったものではない。

 寧ろ、何一つ信じてはいけないだろう。


 だが──それでも、少女は仮面の男から何かを感じた。

 だから、聞かずにはいられなかった。

 自分を苦しめるこの病を、自分を殺すこの病を、本当に盗めるのか、と。


「ええ。この泥棒めに盗めないものはありませんので」


 そう言って、仮面の男は更に少女へもう一歩、歩み寄った。


「貴女が患っているそれは『グラーレン感染型多発性硬化症』という病で、『グラーレン魔化細菌』という特殊な生き物に感染することによって引き起こされます」


 目を見開く少女に、仮面の男は構わず続ける。


「症状は四肢の麻痺と硬化、五感の麻痺、全身の痛み、突発的な発熱などなど。これらの症状は全て、神経組織の損傷と病変によるものです」


 当たり前のことのように事実を言い当てる仮面の男。


 少女の症状など、ちょっと頑張って調べれば分かること。

 症状を的確に言い当てられたからと言って、この仮面の男が少女の病を知っている証明にはならない。

 だが、男のその淀みない言葉は、諦観に凝り固まりつつあった少女の心を大きく震わせるのに十分だった。


「グラーレン魔化細菌は生物の身体だけでなく、情報構ぞ……生命の根幹となる部分をも蝕みます。ですので、この病は、普通の薬と治療法では治りません」


 まるで詩を歌うかのように紡がれる言葉。

 しかしその内容は、少女にとって残酷なものであり、同時に少女が追い求めていた答えでもあった。


「ですので、私にも治せません──」


 その言葉に、少女は再び絶望する。


 初めてだった。

 初めて、自分の病が何なのかを知る者が現れたのだ。

 なのに。

 それなのに、そんな人物ですら、この病を治せないと言う。


 心に灯った光が、吹き消されたかのようだ。



 だが、仮面の男の言葉には続きがあった。



「──そう、、ね」



 仮面の男は、両の掌をヒラヒラと振ってみせる。

 まるで、何の準備もしていない、とでも言うかのように。


「今は、これが精一杯」


 そう言って、仮面の男は病床の側までやってくると、右手で握りこぶしを作り、「んんん〜」と力を込めるように唸り、そしてパッと掌を開いた。

 見れば、その手の中には一粒の飴玉が乗っていた。


「今日のところは、これで精一杯。

 次に会ったときは、貴女から病の一部を盗み出してみせましょう。

 そして何時しか、その病の全てを頂いていきます」


 少女に飴玉を渡して優雅に一礼すると、男は入ってきたバルコニーの窓から出ていく。

 そして、次の瞬間には跡形もなく姿を消したのだった。






 飴玉を手にしたまま、少女は暫くの間、呆然とする。


 まるで、全てを巻き込む──嵐のような人物だった。

 ともすれば、何もかもを壊していく──地揺れのような人物だったのかも知れない。

 それとも、新たな芽吹きをもたらす──春雷のような人物だろうか。


 何れにせよ、仮面の男はとてつもない衝撃を残して去っていった。


 手に握る飴玉を見る。

 黄色と緑色が混ざりあった、変な色合いの飴玉である。


 これが毒であるということは、恐らくないだろう。

 そんなことをしなくとも、放っておけば少女の命はすぐに尽きるのだから。


 震える手で飴玉を顔まで持ち上げ、口にする。

 甘い。

 優しくまろやかな甘さだ。

 ほのかに香る薬草の風味がいいアクセントになっている。


 口の中で飴玉を転がしながら、少女は頬を緩める。

 が、次第に違和感を覚えた。


 最初は、その違和感が何なのか分からなかった。

 だが、時間が経つに連れ、違和感の正体が分かった。


 甘味。

 そう、甘味だ。


 久しく忘れていた、舌先で感じる甘さ。

 ほぼ味覚を失った舌が、甘さと薬草の風味を感じているのだ。


 そして、違和感は、それだけではなかった。



「え?」



 少女の身体に、久しく忘れていた感覚が蘇る。

 痛みのない、安らかな感覚が。


 そう。

 あのしつこい痛みが、引いたのだ。


 少女は呼吸すら忘れて、己の身体の感覚を確かめる。


 全身を襲う、焼け付くような痛み。

 病を患った当初は断続的だったその痛みは、この頃はもう途切れることなく少女を苛むようになっていた。

 そんな常態となりつつあった痛みが、突如として引いたのだ。

 もうどんな薬でも鎮めることができなくなっていたこの痛みが、跡形もなく引いたのだ。


 間違いない。

 飴玉の効果だ。


 仮面の男は、次に会ったときは少女から病の一部を盗み出してみせる、と言った。

 そして、何時しか病の全てを貰い受ける、とも。

 つまり、何回かに渡って少女の病を完治させる、ということ。


 涙が目に溜まり、視界をぼかす。


 とうに失っていた「希望」という二文字が見えた気がした。


 私は、まだ生きていいのでしょうか?


 そんな暖かくも残酷な希望が、少女の頭を満たす。

 同時に、その対価が何なのか、考えずにはいられなかった。


 仮にも貴族家に生まれた人間だ。

 タダというものが世の中にないことくらい、少女も熟知している。

 この飴玉一つの対価、そして自分のこの難病を盗み去ってくれる対価は、果たしていくらになるのか?


 いくらでも構いません。


 少女は溢れた涙を手の甲で拭い、窓の外を睨むように見る。


 やっと、この病が治る芽を見たのだ。

 家族と友人が悲しい顔をしなくて済むようになる。

 何より、家族と友人に恩返しができるようになる。


 そのためならば、私は私の全てを泥棒さんに支払いましょう。

 私の全てを、盗ませてあげましょう。


 家族に迷惑は掛けられない。

 だが、自身が持っている物であれば、いくらでも差し出せる。


 優しさに恵まれた人生だったが、それだけでいいと満足して目を瞑るのは、きっと、とても身勝手な考えなのだろう。

 自分には、感謝をするだけでは足りない、恩を返さなければならない人が、沢山いるのだから。


 今までは苦痛と絶望で眼が濁っていたせいで、こんな当たり前なことにも気づくことができなかった。

 気づく余裕がなかった。

 だが、今は違う。

 これからは違う。


 希望と決意を胸に、少女は病床から覗く青い青い空を見上げた。

 口の中の飴玉は、とても優しく、とても甘かった。











「情報源2号、ゲットかな?」


 屋敷の塀の影で仮面の男がそう呟いたことを、少女は知らない。

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