68. NP:史実は歴史に載らず、物語は奇々怪々に紡がれる

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 星が瞬く夜空の下。

 深い森の中を、その魔物は歩いていた。


 己の身長よりも長い大剣を背負った、低身長の魔物だ。

 衣服は、革製の腰当と革の靴だけ。

 上半身や両脚などは、その緑色の肌を大胆に露出している。

 背中の留め具に掛けられた大剣は、その重厚な外見と釣り合うほどに重いが、それを背負う魔物は全く苦に感じていない。

 月明かりに照らされた刀身は曇りなく輝いており、所有者である魔物に釣り合う強い存在感を放っていた。


 幾多の剣を手にしてきたが、魔物が満足できるものはなかった。

 どれも魔物が振るえば容易く折れ、砕き、壊れてしまう。

 魔物の強すぎる力に負け、数合ほど斬り合えばすぐ使い物にならなくなったのだ。

 その点、この魔法武器マジックウェポンの大剣は最高だ。

 どれだけ力を込めようと、どれだけ振るおうと、どれだけ粗雑に扱おうと、十分な魔力さえ込めてやれば決して欠けも壊れもしない。

 手入れも簡単で、水と葉っぱで拭いてやるだけで曇りのない輝きを取り戻す。

 強敵を倒して手に入れた甲斐がある逸品だ。


 素手でも十分に戦える魔物ではあるが、やはり武器がある方が良い。

 魔物は、武器を用いた戦い──戦士の戦いが何より好きなのだから。




 小さな集落で生まれた魔物は、嬰児の時から強い力を持っていた。

 他の追随を許さないその驚異的な戦闘能力と知性により、魔物は歩けるようになった日から群れの長として遇されることとなった。


 自分たちの種族は、人間たちから「ゴブリン」と呼ば、目の敵にされている。

 そのことを、魔物は自分たちを討伐しにやってきた冒険者たちから学んだ。

 もちろん、襲ってきた冒険者たちは一人残らず返り討ちにした。


 暫くすると、魔物は自分と一族の同胞との間に無視できない相違があることに気が付いた。


 同胞たちは獣然とした意識しかなく、思考というものをほとんどしない。

 学習することもあるにはあるが、それも生存に必要な最低限の知識、例えば簡易な服と武器の作り方や初歩的な狩りの仕方などが精々。

 それ以上は、なぜか学ぼうとしないのだ。


 そんな同胞に、魔物は戸惑いを覚えた。


 最初は同族たちの思考力の低さに驚愕し、やがてその学習能力と改善意識の低さに戸惑い、最後は種としてのポテンシャルの低さに絶望した。

 繁殖能力は驚異的に高いのに、知性が低い上に学習能力も獣並しかないため、生存率が極端に低いのだ。

 それは、ゴブリンという魔物が食物連鎖で常に最下位争いをするしかない種族である、ということを意味する。

 群れを愛するが故に、そして一族への帰属意識が強いが故に、何より一族を預かる長であるが故に、魔物は同胞たちの不甲斐なさに嘆息するしかなかった。


 同胞たちが悪いのではない。

 魔物が賢すぎたのだ。


 賢すぎたが故に、本来なら自然の摂理として当然のように受け入れていたことを客観的に捉えてしまい、ゴブリンという魔物が抱くはずがない戸惑いを抱いてしまった。

 狩りの仕方も、装備の整え方も、集団の統治方法も、そして戦闘の仕方も、魔物はあらゆる事柄に対する認識がゴブリンという種族のそれを遥かに超越していた。

 いや、もしかしたら、並の人間のそれすらも軽く超過していたかも知れない。

 そんな魔物が同族と一緒に生活を続けることは、大の大人が幼稚園児に混ざって本気で幼稚園児と同じ生活をするのに等しい。


 暫くすると、魔物は静かに集落を離れた。


 ただ、それは魔物が一族を低く見たからでもなければ、愛想を尽かしたからでもない。

 魔物が「自分という異質な存在は群れに負の影響しかもたらさない」という皮肉な事実に気が付いたからだ。


 確かに、魔物は賢く、強い。

 圧倒的な戦闘力で獲物を狩ることができたし、そのおかげで一族はゴブリンにしては珍しく飢えを知らなかった。

 十分な食料があるので雌たちの体調は常に良好だし、乳児の生存率も嘗てないほどに高かった。

 もともと多産という生存戦略を取っていたゴブリンだ。賢いリーダーのおかげで食料事情が安泰となり、強いリーダーのお陰で外敵の脅威がなくなればどうなるか、想像に難くないだろう。

 魔物が率いるその群れは、瞬く間に大きくなり、それに伴って縄張りもどんどん広くなっていった。

 ゴブリンの群れとしては、想像できないほどの繁栄ぶりだった。


 しかし、その分、直面する問題も大きくなった。


 集落の規模が大きくなったことで、人間から狙われるようになってしまったのだ。

 以前は狩りに出掛けた同胞が人間と遭遇して殺される、というのが精々だった。

 群れの規模も小さかったので、集落の存在も見逃されることが多かった。

 殺された同胞たちには悪いが、被害は無視できる程度のものでしかなかったのだ。


 だが、今は群れが嘗て無いほど大きくなり、縄張りが十数倍に広がった。

 以前のように森の奥地でひっそりと生きていくことができなくなったのだ。

 そのせいで、人間の目に留まるようになり、徐々に人間たちに脅威として認識されるようになってしまった。

 討伐に来る人間は日に日に多くなり、やってくる人間も日に日に強くなっていった。


 これ以上群れが大きくなれば、人間は確実に自分たちを危険視し、大軍団を送り込んでくるだろう。

 このときの魔物の実力では、個々に強い相手へは対処できても、大挙して押し寄せてくる人間の軍団を跳ね除けることは不可能だった。

 人間の大群が攻めてくれば、同胞たちは皆殺しにされ、群れはこの世から消え去る。


 同胞たちは誰一人として気が付いていなかったが、全滅の危機がすぐそこまで迫っている状態だったのだ。


 では、群れを間引いて人口をコントロールできるかと言えば、それも不可能だった。

 雌ゴブリンは一度に3〜5匹の子を生む。

 おまけに年中発情期で、懐胎期間は僅か2ヶ月だ。

 群れの数を一定に保とうと思うと、毎日何匹もの新生児を殺さなければならなくなる。

 それは、魔物にも同胞にもできない所業だった。


 全ての原因は、優秀やり過ぎたリーダーである自分にある。

 そう分析したからこそ、魔物は群れを離れることにしたのだ。


 自分が離れたことで、群れは大いに荒れるだろう。

 すぐに食糧不足になり、餓死者は劇的に増える。

 冒険者に対抗できる者が居なくなるから、たくさん殺されるだろう。

 だが──それでも、群れは残る。

 人間の軍団に群れごと滅ぼされることだけは避けられる。


 そんな希望とも願望とも取れない思いを胸に、魔物は旅立った。






 そうして旅立った魔物だが、なにか明確な目標があったわけではなかった。

 他の地で新たに同族を束ねて群れを成す気もなければ、これから殺されるであろう同胞たちのために人間に復讐する気もなかった。

 ただ宛もなく彷徨い、その日を生きた。

 最低限の獲物を狩り、目立たず平穏に生きた。


 そんな無聊な放浪生活を送っていた魔物だが、やがて最も個体数が多く、自分が群れを離れる原因となった生物──人間──を観察することにした。


 人間の言葉を学び、人間の行動を分析し、人間の技を盗んだ。

 人間の言葉は、同族の鳴き声よりも意思が伝わるので好きだった。

 人間の行動は、複雑怪奇で見ていて飽きることがなかった。

 人間の技は、応用性が高いので学ばない理由がなかった。


 特に感銘を受けたのは、人間の「戦士の戦い」というものだった。


 薄汚い打算も薄暗い陰謀もない、ただ己の誇りを掛けて技をぶつけ合う。

 無駄に気取っていて面倒臭い「騎士道精神」とは違い、礼儀と道理を守りつつも心ゆくまで戦闘を楽しみ、力を高める。

 強者と相対し、互いに敬意を払いながら心震える戦いを繰り広げる。

 そんな戦士としての戦いに、魔物は憧れた。

 そして、いつしか「戦士」になることを目指すようになった。


 求めるは強さ。

 欲するは強敵。

 望むは戦士としての戦い。


 宛のない放浪はいつしか武者修行の旅となり、無頼の日々はいつしか戦いの日々へと変わった。


 獣型の魔物。

 同族の上位種。

 人間の冒険者。


 魔物は敵と戦いながら相手の技を盗み、同時に自分の技を編みだすべく研究した。

 戦闘を通して腕を磨き、研鑽と進化を続ける日々だった。


 そして、武者修行を続けるに連れ、戦う敵はどんどん強くなっていった。


 青い大鷲の魔物。

 肉が分厚い鬼のような魔物。

 愛剣の持ち主だった高ランク冒険者。


 中でも、高ランク冒険者との戦いは嘗て無い激戦で、それはもう心躍る死闘だった。

 見たことがない技も、今まで知らなかった戦い方も、戦術戦略という概念も、魔物にはとても目新しく、その全てが有意義だった。

 初めて腕を一本失う重症を負ったが、持ち前の超高速再生能力のおかげで、100度ほど飯を食ったら元通りに生えてきた。

 愛用の大剣を手に入れた代償としては安いものだ。


 この一戦は、魔物に大きな影響を与えた。

 強敵と死闘は、これまで味わったことがない程に興奮を感じさせてくれた。

 魔物にとっては、病みつきになりそうな感覚だった。

 見たこともない戦技の数々を見れたのも、大きな収穫だった。

 これで自己研鑽も捗るというものだ。

 そして、相棒となる大剣を手に入れることができた。

 これで魔物が求めていた「戦士の装備」が揃ったことになる。

 精神面でも物質面でも、得るものが多い一戦だったのだ。


 やがて、魔物は自分なりの戦い方を築き上げ、自分なりの「戦士」としての価値観を形成した。

 人間の行動を学び、人間の文化を学び、より賢くなった。

 そうして旅を続け、戦いを続け、研鑽を続け、魔物はさらなる進化を遂げた。


 しかし。

 太陽と月の入れ替わりが300を数える頃になると、魔物に瞬殺されない相手が殆ど居なくなってしまった。


 強敵を求める魔物としては、本当につまらない状態だった。

 だから、仕方なく進行方向を変えた。


 目指すは、人間が多くいる場所。

 求めるは、技を持つ人間の強者。

 欲するは、血湧き肉躍る戦士の戦い。


 案の定、魔物は進む先で高い壁に囲われた「人間の砦」を見つけた。

 そこで、魔物は人間の強者に出会った。


 礼儀を弁える、戦士の鏡のような人間だった。

 魔物を「ゴブリン風情」と侮らず、一人の戦士として遇してくれた。


 魔物は嬉しかった。

 こんなに気持ちのいい相手に会ったのは初めてだ。

 これまでに会った人間は、誰も彼もが魔物のことを忌み嫌い、侮蔑し、罵った。

 だが、この人間は違った。

 魔物を一端の戦士と認めてくれたのだ。

 これほど誇らしいと感じたことはなかった。

 それに、勝ったら相手の名前を貰ってもいいと約束までしてくれたのだ。

 名前のなかった魔物にとっては更に嬉しいことだった。

 だから、魔物も真剣に戦った。


 相手の人間は、剣速で言えば、これまで出会った中で一番だろう。

 技も豊富で、判断も中々に的確だった。

 人間の中で言えば、間違いなく上位に位置する実力者だろう。

 自分が嘗て激戦を繰り広げたあの大剣の持ち主ですら、この人間には及ばないだろう。


 だが──それでも、やはり魔物の相手ではなかった。

 パワーも素早さも技量も判断力も、その全てにおいて魔物のほうが上だった。

 だから、戦いは終始、魔物優勢で進んだ。


 そろそろ決着が着きそうなタイミングで、しかし邪魔が入った。


 入れ替わるように入ってきた人間は、罵声が五月蝿いだけの、特に語ることもない雑魚だった。

 気持ちのいい相手との真剣勝負だったのに、それを邪魔された。

 そればかりか、闖入者は相手をしてくれていた気持ちのいい戦士までをも侮辱した。

 イラッとした。

 だから、闖入者を瞬殺した。

 それも、なるべく苦しむような殺し方で。

 気晴らしのつもりだったが、相手の叫びを聞いても特に感じるものはなかった。


 興が削がれた魔物は、進行方向を変えた。

 砦のすぐ西にある、人間の住処から離れた大森林だ。


 だが、そこでも魔物は強敵に出会うことはなかった。


 白い猿の魔物。

 人間のような豚の魔物の親玉。

 巨大な蜘蛛の化物。


 広い森の中は魔物で溢れていたが、特筆すべき脅威はなく、求めているような強敵も見つからなかった。

 殆どの魔物は、出会うなり、錯乱したかのように逃げ出した。

 中には攻撃してきた魔物もいるが、その殆どが一合で敗れるか、こちらが構えた瞬間に尻尾を巻いて逃げ出した。


 白い猿の魔物は、こちらが大剣を構えただけで錯乱したように逃げていった。

 人間のような豚の魔物の親玉は、部下が瞬殺されたのを見るや、他の部下を引き連れて一目散に西へと逃げていった。

 巨大な蜘蛛の化け物だけは、僅かばかりに戦い甲斐があったが、片方のハサミを切り落としたところで、怒りながら逃げていってしまった。

 ちなみに、切り落としたハサミはかなり美味かった。


 これら以外の魔物は、戦う以前の問題だった。

 そんな感じで、森に入って数日もすれば、魔物の周囲から生き物の姿が消えた。

 武者修行をしている魔物からすれば、物足りなさに拍車がかかる状況だった。




 そうしてゆっくりと散歩するかのように進んできた大森林も、あと山を一つ残すだけとなった。


 風の音からして、山の向こうは開けた平原だろう。

 また魔物の巣窟にたどり着くのか、それとも人間の住処に行き着くのか。

 いずれにせよ、魔物が求めるのは強者との戦いだけだ。

 相手が強ければ強いほど戦いは面白くなり、同時にいい修行にもなる。


 ちょうど数日前に、山向こうで膨大な魔力の波動を感じたばかりだ。

 空に向かって一直線に伸びるような魔力の光線と、それが振り下ろされる残光。

 あの恐ろしい程の魔力量から推測される実力は、魔物と互角かそれ以上だ。


 まだ見ぬ強敵に、魔物は「ゲギャ」と小さな笑みを浮かべた。






 ◆






 山越えの途中で、魔物は小さく開けた場所を見つけた。

 山の中腹にできた、人間で言う所の「銅貨ハゲ」のような場所である。

 奇襲を受けづらく、休憩するのにちょうどいい場所である。

 尤も、魔物に奇襲を仕掛けられた者は今まで一人もいないが。


 断面が綺麗な切り株に腰掛けようとしたところで、魔物の耳に声が届いた。


「お、いたいた」


 魔物の警戒が瞬時に限界に達する。


 気配が、しなかった。


 肉声が鮮明に聞こえる距離まで近づかれたのに、何も感じ取れなかった。

 これは今までに一度もなかったことだ。


「なんか砕天の爺さん俺の武術の師父みたな鋭い気配がすると思って来てみれば……なんだ、魔物か」


 闇から溶け出すように現れた声の主は、白い仮面を被った人間だった。


 ……いや、人間なのか?


 魔物は迷った。


 気配が、一切しないのだ。


 生きている限り、生物が気配を完全に消すことはできない。

 呼吸、体温、魔力、存在感、生命の鼓動。

 それらの気配は、生きていれば必ず漏れ出るものだ。

 察知能力が高い魔物にとって、それらの気配を感知することは造作もない。


 事実、気配を薄める相手には幾度となく出会ってきたが、その尽くを見破ってきた。


 待ち伏せる狼の魔物。

 影から飛びかかってくる虫の魔物。

 闇に潜む冒険者の斥候。


 どれだけの巧者であろうと、誰一人として魔物の察知から逃れることは叶わなかったのだ。


 なのに、この仮面の人間には、その察知能力がまったく働いていない。


 こうして夜目の効く両目でしっかりと姿を捉えているのに、本当にそこに居るのか疑問すら覚えてしまう。

 こうして現在進行形で会話をしているのに、気配を感じ取ることが全くできていない。

 こうして目の前で堂々と立っているのに、頭が「そこにいる」という事実を拒否している。

 まるで生物ではなく、幻か何かのような気配の希薄さだ。


 こんな相手は、見たことがない。

 もしかしてこれが話に聞く「生きていない者アンデッド」という魔物なのだろうか、と思うほどだ。



 魔物の警戒など意にも介していないのか、仮面の人間が軽い口調で言った。


「それで、そこの大剣を背負ったゴブリン。装備と気配からして、お前が魔物たちを追いかけ回して大移動させたで間違いないな?」


 って聞いてもゴブリンには分からんか、と呟く仮面の人間。

 それに、魔物は人間の言葉で応じた。


「俺、魔物、追いかける、してない。魔物、勝手に、逃げる」

「………………驚いた」


 心底驚いたのか、仮面の人間は少しだけ硬直してから、ようやく口を開いた。


「まさか、ゴブリンが喋るとは……」

「人間、学んだ」

「……なるほど、賢い個体もいるってわけか……」


 仮面の人間は「ふむ。話が分かるなら、先ずは話し合うべきだろうな」と呟く。

 そして、気を取り直したように魔物に提案した。


「単刀直入に言おう。お前には、もと来た道を引き返してもらいたい」

「?」


 首をかしげる魔物に、仮面の人間は鬱陶しそうに続けた。


「お前がこっちに来るから、お前に怯えた他の魔物が俺の住処に押し寄せてきたんだよ。そうでなくても、お前がこのまま進んだら俺の住処にぶつかる。正直、迷惑だ。だから、このまま回れ右して引き返してくれ」

「……いや、なら?」


 試すようにそう聞き返した魔物は──次の瞬間、ブルリと身を震わせた。


「排除する」


 仮面の人間の、平坦な声。

 だが、そこには微量の苛立ちと殺意が含まれていた。


 魔物の口元が、思わずニヤリと釣り上がる。


 魔物が覚えた震え。

 それは、魔物が久しく忘れていた感覚──興奮だ。


 心躍る戦いの前は、いつも身震いするほどの興奮を覚えた。

 所謂「武者震い」というものだ。


 過去に倒した冒険者からは「戦闘狂」と言われた。

 魔物自身も、確かにその通りだと納得している。


 戦士としての戦闘は、とても楽しい。

 強者との戦闘は、いっそ快感ですらある。

 戦士を目指すと決めた時から、魔物はこの快感を追い求めていた。


 目の前にいるこの仮面の人間は、間違いなく強者だ。

 ここまで気配が掴めない存在は、今まで居なかった。

 そして、微かな殺気だけで自分を興奮身震いさせる存在も、今まで居なかった。


 探し求めていた強敵が、目の前にいる。

 ならば、戦わすに去ることなどできない。


 永らく感じることのなかった武者震い快感に喜びながら、魔物は返答した。


「俺、お前、戦いたい。だから、戻る、やだ」


 その返答に、仮面の人間は絶句したように硬直し、続いてがっくりとため息を吐いた。

 そして、ボリボリと後頭部を掻きながら「……ったく、言葉が通じるから話し合いで解決しようと思ったのに」と呟くと、地面に落ちている木の枝を拾い上げ、それを魔力で包んだ。


「しょうがない。実力行使だ」


 その一言には、明確な怒りが含まれていた。

 が、冒険者から向けられる怒りに慣れている魔物は、それを自然と無視した。


 ──その怒りの由来を深く考えもせずに。




 宣戦を布告した仮面の人間を見て、魔物は奇妙に感じた。

 木の枝を剣のように握る仮面の人間の腕には、一切の力が入っていない。

 というか、まさかその手に握った木の枝を武器にしようとでも言うのだろうか。

 もしそうなら、装備からしてまるでやる気が感じられない。

 何より、実力行使と言っておきながら、仮面の人間からは何故か逆に殺気を一切感じなくなったのだ。

 これは、これから戦う生き物の気配では決してない。 


 余計なことを頭から追い出すように首を振り、魔物は背負っていた大剣を構える。


 相手の為人は、剣を交えれば分かる。

 それが戦士というものだ。


「俺、名前、無い。だから、名乗れない。でも、参る!」


 戦士らしく口上を述べると、仮面の人間は面白そうに首を引いた。


「……ふむ、武人みたいな名乗りとは、いよいよ砕天さいてんの爺さんっぽいな」


 ここがツボか? と仮面の人間が小さく呟いた。

 大したことのない一言なのに、そのセリフからはなんとも不吉な気配がした。


 襲来する嫌な予感を、魔物は努めて無視する。


「いいだろう。俺もそれっぽく名乗るとしよう。

 砕天さいてん流殺法 二之位にのくらい皆伝 ヤエツギ、参る」


 戦士としての名乗り。

 それは自分を同じ戦士と認めてくれた証だ。


 強敵が、自分を戦士として認めてくれたのだ。

 これほど嬉しいことはない。


 ブルリ、と一層大きな武者震いが駆け抜ける。


 戦士としての強敵。

 戦士としての尊厳。

 戦士としての戦い。


 魔物が追い求めた全てが、ここにはあった。


 獰猛な笑みが浮かぶのを止められない。


「ギャギャッ! いざ!」


 魔物は滾る血潮を抑えきれず、飛び出した。

 仮面の人間の「ふむ、やはりここがツボか」という呟きは、耳に届かなかった。




 魔物は疾走する。


 先ずは小手調べ。

 上段からの斬撃だ。

 速度はそこそこ。

 体重は半分も載せない。

 これだけで沈む相手も多いが、強者には見切られて武器で受け止められるか、回避される。

 小手調べには丁度いい一手だろう。


 そう思って振り下ろした大剣。


 しかし、次の瞬間──


 ハシッ。


 敢えて文字に起こせばそうなるだろうか。

 なんと、魔物が振り下ろした大剣は、仮面の人間の空いている左手で軽々と掴まれたのだ。


 魔物は思わず瞠目する。


 ありえない。


 こんなことをされたのは生まれて初めてだ。

 というか、こんなことができるなどとは誰も考えられないだろう。

 魔物自身、今の攻撃を素手で受け止めようなどとは考えもしないし、やろうと思ってもできない。


「お、《空気盾エアーシールド》を一枚砕かれた? へぇ、意外とやるな。こっちに来て初めてだよ、《空気盾エアーシールド》を破られたの」


 本当に驚いているのか疑わしい口調の仮面の人間は、興味津々といった感じで魔物を見下ろす。


「けど、まぁ、性能テストは適当でいいか……」


 ゾクリ、と背筋に寒気が走る。


 魔物は仮面の人間の手から逃れようと、反射的に大剣を引いた。

 仮面の人間も掴んだままにするつもりが無かったのか、大剣は呆気なく取り戻せた。


「ゲギャギャギャァァ!」


 魔物は魔力を開放し、筋力を強化。

 同時に、大剣に魔力を込める。

 そして、地面を抉りながら下段から振り上げた。

 近距離からの〈岩斬突風ロックスラッシュブラスト〉だ。


 散弾のような石礫が、仮面の人間を襲う。


 ──かに見えた。


「お、これが戦技ってやつか。──《空裂エアーバースト》」


 そう呟きながら、仮面の人間は左手の指をパチンと鳴らした。


 瞬間、魔物は身体の前面を巨大なハンマーで殴られたような衝撃に襲われ、後方へと吹き飛ばされた。

 石礫の散弾は、その見えないハンマーで跳ね返されたのか、逆に魔物の全身を打ち据える。


 宙返りして体勢を整え、魔物は着地する。

 困惑と警戒も顕に、相手を睨みつけた。


 何をされたのか、全く分からなかった。


 恐らく、〈岩斬突風ロックスラッシュブラスト〉を迎撃するために、何らかの技を放ったのだろう。

 それで石礫が自分の方に跳ね返され、自分も吹き飛ばされたのだ。

 まともに食らったが、大したダメージは負っていない。

 その大したことないダメージも、既に超高速再生能力によって消えている。 


 睨みつける魔物に、仮面の人間は軽い感じで応じた。


「何をされたのか分からないって顔だな。悪いが、説明するつもりはない。魔法使いの戦いの基本は『わからん殺し』だ。技名は口にしてやるから、それで察して見せろ」


 ほらかかって来い、と人差し指をクイクイとさせる仮面の人間。

 仮面の人間が何を言っているのか、それなりに人間の言葉をマスターしている魔物でもちっとも分からなかった。

 というか、この仮面の人間に関することは、全てが謎だ。

 観察力がずば抜けて鋭い魔物でも、どれだけ観察してもなにも掴めない。

 今の反撃が戦技なのか、それとも魔法なのか、それすらも分からない。

 だから、無策に攻め込むのは躊躇われた。


「来ないのか? なら、こっちから行くぞ。──《空気弾エアーブレット》」


 何かが、飛んでくる!


 高速で自分に迫る「何か」を眼で捉えた魔物は、咄嗟に大剣を盾にして眼前に構えた。


 カキンッ!


 硬質な音と共に、大剣に衝撃が広がる。


「お、防ぐじゃん。じゃあ──《魔力弾マジックブレット》」


 今度は魔力の塊が、先ほどよりもよほど速い──とんでもない速度で飛んできた。


 同様に大剣で防ぐ。


 ガキンッ!


 先ほどよりも重い衝撃が広がる。


「ほぉ、これも防ぐじゃん。ちゃんと目で追えてるみたいだし、動体視力は中々だな」


 ブルリ、と魔物の肩が震える。


 仮面の人間の、この態度。

 この態度には、身に覚えがあった。


 これは、冒険者の技を盗み見る時の自分と、全く同じ態度だ。


 つまり、ただの観察。

 興味のある対象を見て、分析しているだけ。

 肉が残っている骨を口慰み程度にしゃぶって、味を楽しんでいるようなものだ。


 今までは、自分が観察する側だった。

 観察し、手合わせし、その尽くを倒してきた。


 だが、今は立場が逆転している。

 今度は自分が観察される側だ。

 ならば、その後に待っているのは──


 魔物は堪らず踏み込んだ。


「ウッキャアアアァァァ!!」


 なにが堪らなかったのかも分からず、魔物は咆哮し、大剣を高速で振り回す。


 上段からの斬撃、切り返し、横薙ぎ、刺突、大回りの袈裟斬り、そして切り上げ。

 連続した斬撃を仮面の人間に浴びせる。

 以前戦った気持ちのいい戦士が使っていた戦技──〈疾風連斬〉だ。


 だが──


「よっ、ほっ、のっ、とっ、おっ、ろっ」


 その全てが、仮面の人間が持つ木の枝によって軽くいなされてしまった。

 柳を払うが如く、とはまさにこのことだろう。


 戦技〈疾風連斬〉は、一撃一撃の重さこそ軽いが、剣速はとても速い。

 その速さは、魔物が持つ戦技の中でもトップクラス。

 それなのに、軽々とあしらわれてしまった。


 相手は、速度面でこちらを圧倒している。

 ならば、速度ではなく一撃の重さで勝負すればいい。


「ギギャァァァァ!!」


 魔物は腰から身体を捻り、大剣を横に構えながら大回転する。

 そして、重い重い大剣に遠心力を乘せ、仮面の人間へと斬りつけた。

 魔物が使える戦技の中でも上位に数える威力を持つ戦技──〈回転切りスピンカーヴ〉だ。


 旋風を思わせる回転斬撃が、仮面の人間に迫る。


 仮面の人間は、またしても大剣を素手で掴もうとしているらしく、左手を突き出した。


 スパッ!


 大剣を掴もうとしたその左手が、掌の半ばで切り飛ばされた。

 遅れて、鮮血が吹き出す。


 確かな手応えだ。

 魔物の口角が上がる。


 ──が、それがぬか喜びだったと、すぐに思い知った。


「おぅっふ、いてぇ。流石に《空気盾エアーシールド》5枚じゃあ戦技を受け止めきれないか。あ〜あ、左手が半分になっちまったよ」


 まるで小石に躓いたかのような軽い嘆息。

 とても左手を失った者の態度ではない。


「《蘇生女神の生命十字アンク・オブ・イシス》」


 仮面の人間が唱えた。

 瞬間、地面に転がっている左手が砂のように崩れて消え、地面を濡らしていた鮮血が灰となって霧散する。

 代わりに、なくなったはずの四指が、断面からスッと生え出た。

 一秒もしない内に、その半ばから先がなくなった左手は何もなかったかのように元通りになっていたのだ。


 魔物は戦慄する。


 魔物は「超高速再生能力」を持っている。

 再生能力によって傷が治る過程は、誰よりもよく知っている。

 だからこそ、確信を持って言える。


 たった今、仮面の人間が自分の手を元通りにした、あの術。

 あれは、「再生能力」などというチャチな物ではない。


 高速再生能力で部位の欠損を治すのは、酷く時間がかかる。

 怪我の状態によっては、再生できない場合もある。

 事実、「高速再生能力」の上位交換である「超高速再生能力」を持っている魔物でさえ、高ランク冒険者との死闘で失った腕を再生させるのに丸々一月は掛かったのだ。

 腕一本まではいかないとは言え、親指以外なにも残っていない左手を一瞬で元通りに治すなど、不可能だ。


 何より、仮面の人間の、あの態度。


 全く痛みを感じていないかのような口調だった。

 いや、「いてぇ」と言っていたのだから、痛み自体は感じているのだろう。

 だが、それを全く意に介していないような、そんな態度だった。


 手を半分失ったのに、痛みにのたうち回るでもなく、判断力を失ってヤケになるでもない。

 ただ平然と結果を確認し、過程を分析し、冷静に対処するだけ。

 あれでは、まるで「手足など失っても惜しくない」と考えているようではないか。

 そんなのは、生物としてオカシイ。




「ふむ。性能テストはもうこの辺でいいかな」


 そんな小さな呟きが耳に届き、魔物の全身に緊張が走る。


 直後、仮面の人間が眼前から消えた。


 魔物は反射的に大剣を構える。

 気づけば、いつの間にか相手の蹴りが真横から迫っていた。


 馬鹿な、と魔物は驚く。

 音のない身のこなしと驚異的な攻撃速度も驚異的だが、それ以上にその攻撃方法に驚かされた。

 脚甲すら付けていない脚で大剣に向かって蹴りなど放ったら、ガードされただけで脚に大ダメージを受けてしまうではないか。

 大剣の刃で受け止められたなら、逆に脛から先を失ってしまうだろう。

 そんな自滅攻撃を放つ意味が分からない。

 いくら手足を失うことを恐れないと言っても、限度というものがあるだろう。


 困惑する魔物の大剣に、仮面の人間の蹴りが直撃する。


 ボガンッ!


 肉の脚と金属の大剣がぶつかったとは思えないような音が響き、魔物が吹き飛ばされる。


 間違いない。

 これは、魔力で身体を鋼鉄並みの強度にまで強化することで肉体そのものを武器と化す、モンクの戦い方だ。

 これなら生身でも武器と対等以上に打ち合えるだろう。


 問題は、仮面の人間の攻撃が今まで戦ってきたモンクとは桁違いに強い、ということ。


 信じられない威力の蹴りは、大剣から浸透するように腕へと打撃を伝え、魔物の骨と関節に直接ダメージを与える。

 ダメージ自体は超高速再生能力ですぐに回復するが、崩れた体勢はどうしようもない。

 魔物の小さい身体は容易に蹴り上げられ、無防備に宙を舞う。


 そこに、仮面の人間の左フックが迫る。


 魔物は「ギギャ!」と渾身の力で大剣を構え、その拳を空中で迎え撃つ。


 ふっ、と左フックが姿を消した。


 フェイントか、と魔物が悟ったときには、既に遅かった。

 上段から、仮面の人間が持つ木の枝がとんでもない速度で振り下ろされていた。


 攻撃が、あまりにも速すぎる。

 驚く暇すらなく、木の枝が左肩に直撃した。


「グギャッ──」


 短い悲鳴と共に、地面に叩きつけられる。


 木の枝が出せる攻撃力ではない。

 一撃で左の鎖骨と肩甲骨は砕け、肋骨が折れた。

 左の肺も、半分ほど潰れている。

 心臓はなんとか無事だが、左腕は全く動かない。


 幸い、利き腕である右腕は、先程の蹴りを受けたせいで多少痺れているが、大きな損傷はない。

 移動するための両足も無事だ。

 これほどまでの重傷は久しいが、損傷した骨と内臓は超高速再生能力のおかげで絶えず治っている。


 地面に倒れ伏した魔物は、立ち上がるのと同時に、大剣を下段から振り上げる。


 仮面の人間の脚を狙った斬撃は、しかし、相手の足裏によって地面に踏みつけられた。

 大地に縫い付けられたように動かない大剣を手放そうとする魔物。

 だが、いつの間にか放たれた蹴りをまともに食らい、そのまま真後ろに吹き飛んだ。

 背後の大木にぶつかり、ズルリと力なく地面に落ちる。


 深く傷ついた身体に鞭打って立とうとするも、ダメージが大きすぎて全く動かない。


 たった3撃。

 たった3撃で、負け知らずだった自分は得物大剣を失い、瀕死に陥っている。


 高速再生能力で治りかけていた左肺は、最後の蹴りで今度こそ完全に潰された。

 ついでとばかりに、右肺と心臓も蹴り潰されている。

 胸骨と肋骨が全部折れているので、胸腔を支えるものがなくなり、上体を起こすことさえできない。

 この状態でまだ死んでいないのは、超高速再生能力と魔物の強すぎる生命力のおかげだろう。

 木の枝で叩き潰された左肩はまだまだ再生中で、左半身は暫くは使い物にならない。

 背骨の何処かがやられているらしく、両脚は無傷なのに動かそうとしてもただ痙攣するだけで、まともに動かすことができない。

 全身に走る激痛に視界がぼやける。


 それでも、魔物の闘志はまだ尽きていない。


 ゆっくりとこちらへと歩いてくる仮面の人間に、魔物は木に寄りかかって座り込んだまま、腰の後ろから予備の短剣を抜き取り、震える右手で正眼に構えた。


 確かに重傷を負った。

 だが戦士としての魔物は、まだ負けていないのだ。


 重傷は、これまでも負ったことがある。

 負けそうになったことも、死にそうになったことも、数少ないが、ちゃんとある。

 即死しない限り、自分は負けない。

 一人の戦士として、死への恐怖で闘争を諦めて安々と投降することは、決してできない。


 魔物は、まだまだ折れていないのだ。



 バキッ、と何かが砕ける音がした。

 見れば、構えた短剣を蹴り飛ばした仮面の人間が、そのまま魔物の右手を寄りかかっている樹に縫い付けるように踏みつけていた。

 悲鳴を上げようにも、肺が潰れているので息が出ない。


「勝負ありだ」


 木の枝が魔物の首元に突きつけられる。


 全てをの武器を失い、重傷を負い、首元に武器を突きつけられている。

 完全に詰みの状態だ。


 だが──


「まだ……負け……違う!」


 魔物は絞り出すように、しかし力強くそう宣言した。


 ハッタリではない。

 こうしている間にも、魔物の怪我は治ってきている。

 心臓と肺は膨らみ、呼吸が楽になってきている。

 背骨は修復され、両足が少しずつ動くようになっている。

 肩はまだまだだが、指先ぐらいならば動くようになってきている。

 最悪、踏み付けられた右手を諦めれば、今すぐにでも脱出は可能だ。

 一瞬でも隙きを突いて時間を稼げれば、全快とまでは行かなくとも普通に戦えるまでには回復できるだろう。


「は? 何言ってんのお前」


 だが、そんな魔物の思惑は、仮面の人間の怒りが交じる一言によって一蹴された。


「終わりに決まってんだろ」



 瞬間、仮面の人間の気配が何十倍にも膨らんだ。



 全身が押し潰される感覚に襲われ、魔物は思わず目をギュッと瞑ってしまう。


 プレッシャーだ。

 強すぎるプレッシャーに晒されたせいで身体と精神が耐えられず、押し潰されたと錯覚したのだ。

 気配、魔力、武威、存在感。

 仮面の人間が放つそれらが織りなすプレッシャーは、魔物をして精神的に追い詰められるほどに重いものだった。


 目を開けていられないほどのプレッシャーの中、魔物は懸命に瞼を開き、相手を睨みつける。

 が、その姿を瞳に映した瞬間、唖然とした。



 仮面の人間の外見が、いつの間にか変わっていたのだ。



 背中からは、2メートル程もある細長い菱形の光翼が4対、まるで生えているかのように伸びている。

 その後ろには、後光のような大きな光の輪っかが浮いており、仮面の人間を背後から照らしている。

 頭上からは光輝く一本の角が生えており、耳鳴りのような甲高い音を発している。

 その巨鳥とも天使ともつかない姿から発せられるオーラは信じられないほど膨大で、何処か神聖さを感じさせるものがあった。



 その姿を呆然と見上げる魔物は、次の瞬間、「ヒッ!」と悲鳴を上げる。



 魔物の右手を踏み付けながら睥睨する仮面の人間の周囲を、無数の「暴力」が旋回し始めたのだ。



 虹色の針。

 純白の球体。

 漂う幾何学模様。

 歪み続ける空間。

 詩篇が魚のように宙を泳ぎ、全てを吸い込みそうな黒点が明滅する。

 名状しがたい何かが周囲で渦巻き、言葉にできない現象が現れては消える。

 見たこともない文字や図形が空間を埋め尽くし、悍ましくも神秘的な光景を生み出していた。


 魔法だ。

 宙を漂うその一つ一つが全て、強大な魔法なのだ。

 幾百では足りない程の魔法が臨界状態で魔物を取り囲み、いつでも魔物をこの世から跡形もなく消し去るべく待ち構えているのだ。

 幾多の人間の魔法師と戦い、その全てに勝利してきた魔物だが、これほど悍ましい気配の魔法は、これほど夥しい数の魔法は、見たことがなかった。


 これだけの魔法に対抗する手段を、魔物は持っていない。

 いや、持っている者などこの世には存在しないだろう。

 まさに「暴力」の権化だ。

 死と絶望が形を成して、目の前に佇んでいるのだ。


 零れんばかりに両目を見開いている魔物に、仮面の人間はさも当然のように告げる。


「これが俺の本当の姿だ」


 本当の姿。

 つまり、今までの気配がしない人間の姿は仮初で、近くにいるだけで震えが止まらない今のこの姿こそが本来の仮面の人間、ということ。



 魔物は、自分が何もかもを勘違いしていたことを悟った。



 求めていた強敵が現れた?

 違う。

 相手は、決して触れてはいけない化け物だった。

 これまでは普通の生き物のフリをしていただけ。

 そして自分は、愚かにもそんな化け物に挑戦してしまった。


 相手が自分を武人として認めた?

 違う。

 相手は、剣も体術も魔法も扱える、戦士などという枠組みに収まらない怪物だった。

 これまではただ調子乗った虫けらが偉そうに名乗るを面白おかしく眺め、それに付き合って遊んでいただけ。

 そして自分は、どうやってか、愚かにもそんな怪物を怒らせてしまった。


 強敵を相手に興奮して武者震いしていた?

 違う。

 あれは武者震いなどという上等な反応ではない、と今なら分かる。

 あれは、純粋な恐怖。

 死を前にした生物が抱く、最も原始的な情動だ。

 そして自分は、その情動が正しく自分の未来を予言していたことを理解してしまった。


 魔物は強かった。

 これまで苦戦する相手はいたが、全く勝てない相手というのはいなかった。

 その弊害というべきか、魔物は心の底から恐怖するという経験がほどんどなかった。

 だから、これまで仮面の人間に対して抱いた感情も、仮面の人間から向けられた感情も、そのすべてを見誤ってしまった。


 仮面の人間は、魔物が出会った初めての格上だ。

 それも、圧倒的なまでの格上だった。

 なまじ武に精通するからこそ、その格の差を明確に理解してしまう。


 魔物はこの瞬間、初めて「真の恐怖」を体験した。

 体験してしまった。

 そして、それに耐えられなかった。


「……ヒッ、ヒギャァァァアアァァァァ!!」


 堪らず、絶叫する。

 あまりにも隔絶した力を目の当たりにし、魔物は涙を流しながら錯乱したように首を振る。

 反射的に逃げようとするが、身体が言うことを聞かず、一歩も動けない。

 その様は、奇しくも今まで魔物が見てきた他の生物──魔物から逃げ惑う他の魔物と全く一緒だった。


 本能で感じ取ってしまったのだ。

 はどうしようもない、と。


 理性が理解してしまったのだ。

 には逆立ちしても勝てない、と。


 そして、心と魂が察してしまったのだ。

 自分のちっぽけな戦士の矜持も、ご自慢の技の数々も、が相手では糞の役にも立たない、と。


 そう。

 の前では、自分が大事にしていたものなど、全て糞以下の価値も無いのだ。



「さて──」


 右手を踏みつけたまま、仮面の人間が顔を近づけてきた。


「俺は話し合いで解決しようとした。けど、お前はそれに応じなかった」


 魔物の目を覗き込む仮面の人間のその目には、確かな怒気が浮かんでいた。


「迷惑を掛けておきながら、張本人であるお前はそれを無視して、自分の我儘を通そうとした。

 なんだ? 武人にでも憧れてたのか? それで武人の真似事でもしたかったのか?

 こっちは真剣に迷惑していたってのになぁ」


 氷のように冷たい声。

 今まで気に留めようとしなかった、仮面の人間の怒りの原因。

 それが何なのかを察してしまい、魔物の震えが更に酷くなる。


「チャンスはやった。

 それを不意にしたのは、お前自身だ。

 ──《バヒア偽典 反貪望の果に残り転頁 29章12節しは永久の喪失》」


 踏み付けられている右手に激痛が走り、思わず「ゲギャッ!!」と悲鳴が漏れる。


 痛みに強い筈の魔物が耐えられない痛み。

 痛みなど、超高速再生能力のおかげで、何時もすぐに引く。

 なのに、今は信じがたい激痛がいつまでも右手に残っていた。

 なぜ、と踏みつけられている右手を見て、魔物は驚愕した。


 右手小指が、根本から切り落とされていた。


 いや、それ自体は大したことではない。

 問題は他にある。


 怪我が、治らないのだ。


 いつもは超高速再生能力ですぐに傷口が塞いで痛みが引く筈なのに、その兆候が一向に現れない。

 これは、一度も経験したことがない緊急事態だ。


 魔物の視線が自分の小指を切り落としたものへと映る。

 仮面の人間が手に持つ、木の枝だ。

 剣に見立てたその木の枝は、先程までとは違って「明るい黒色」という不気味な光を放っていた。


「ついさっき、この木枝に8次元までの情報を半永久的に破壊する魔法を付与した。8次元魔法よりも高次元の回復魔法じゃなきゃ、生えてくることは二度とないぞ」


 仮面の人間の言葉には分からない単語が多かったが、大体の意味は理解した。


 つまり、魔物の力超高速再生能力だけではこの失った指を再生させることは不可能、ということだ。


 魔物の顔がサッと青褪める。


 利き手の小指の、な喪失。

 それは、魔物にとっては致命的な損失だ。


 小指は、物を握り締めるときに重要な働きをする指だ。

 小指があるからこそ、物を握るときに手に力が入り、安定感が増す。

 多くの文化で小指を立てて物を持つことが丁寧さや優雅さの証とされるのも、無骨の代名詞である戦士が武器を持つ力を込めるときの手付きと対照となるからだ。


 そんな小指を──しかも武器を握る利き手の小指を──永遠に失うというのは、戦士として大きなハンディキャップを背負うことに他ならない。

 それどころか、下手をしたらもう二度とまともに剣を握れないかも知れない。

 戦士を目指す魔物にとって、それは信じられない程に「痛い」ことだった。


「安心しろ。殺しはしない。

 代わりに、お前が大切にしているもの──武人としての矜持やら尊厳やらを、全て没収する。ちょっとずつ、な」


 再び、右手に激痛が走る。

 今度は、薬指が根本から切り落とされていた。


 もはや木の枝でどうやって指を切り落としているのかなどという疑問は、どうでもいい。

 このままでは、右手の指を全部失ってしまう。

 そうなったら、もう剣を握れない。

 そうなったら、もう戦士になれない。

 それは、死よりも辛いことだ。

 それは、何よりも耐え難いことだ。



 魔物の心は、ポッキリと折れた。



「ギャギャァァァ!! 戻る!! 戻る!! 戻る、だから、指、切る、やめる!!」


 泣き叫ぶように懇願する魔物。

 だが、


「は? 今さらおせぇんだよ」


 仮面の人間の返事は、何処までも無慈悲だった。


「人に迷惑かけといて、話は聞かないわ、改善要求は無視するわ、更なる迷惑行為まで働くわ……そんだけのことをやっといて、不利になったら今度は従うから許してとか、どんだけ自己中なんだよ。

 こちとら人命に関わる事態になってたんだぞ?

 今更『すみません』じゃ済まされねぇんだよ」


 ドスの利いた声に、魔物が絶望する。


「……ただまぁ、このままお前を痛めつけるだけじゃあ効率が悪いのも事実だ。

 だから、に一番『効く』方法を取るとしよう」


 そんな不穏なことを言うと、仮面の人間は踏み付けていた魔物の右手から足を退かし、左手を魔物へ向けた。


 どうやら指を切り落とされる地獄から開放されたようだ、と安心する魔物。

 だが、次の瞬間──



「《》」



「ギィィィヤヤヤャャャァァアァァアァァァ!!!!」



 想像を絶する苦痛に、魔物はこの世のものとは思えぬ絶叫を上げた。


 当たり前だ。

 なぜなら、魔物の身体から、自分の骨が独りでに這い出し始めたからだ。

 指の骨が、手の骨が、足の骨が、腕の骨が、腿の骨が、骨盤が、背骨が、胸骨が、肋骨が──頭蓋骨以外のすべての骨が、バキバキと音を立てて独りでに蠢き、ミヂミヂと不快な音を立てて血管と神経を引き裂きながら、ブチブチと肉と皮を破いて勝手に体外に這い出てくる。

 取り残された内臓はベチャベチャと体内に撒き散らされ、引き千切られた血管からはドクドクと血が止めどなく溢れ出ている。

 普通の生物なら即死しているところだが、もともと強靭で超高速再生能力までも有する魔物の肉体が、それを許さない。

 頭蓋骨以外の骨を生きたまま抜き出される感覚に、魔物は絶叫を上げることしかできない。

 今だけは、己の強靭すぎる肉体を恨めしく感じた。


「おっと。指2本以外に《医療神の杖ワンド・オブ・アスクレピオス》っと」


 まるで玄関から出たところで財布を忘れたことを思い出したかのような調子で、仮面の人間が瀕死の魔物に魔法を掛ける。

 須臾、魔物の身体が──最初に切り落とされた右手の小指と薬指を除いて──完全に元に戻った。

 頭蓋以外の全骨格を失った身体には何事もなかったかのように骨が再生され、配置が滅茶苦茶になった内臓と引き裂かれた血管や肉も元通りになっていた。

 信じがたい苦痛も、すべて消えている。


 死と苦痛から開放された魔物だが、安心は一切できない。

 なぜなら、たったいま己の身体から這い出した己の骨格が、新鮮な肉片と鮮やかな血糊を付けたまま目の前に浮かんでいるのだから。


「さて、お前がちゃんと俺の言うことを聞いてくれるように『保険』を作るとしよう」


 そう言って、仮面の人間は血なまぐさい臭いを放ちながら宙に浮かぶ骨格に魔法を掛けた。


「《逃れ得ぬ呪苦クレイ・ヨン・ポゥプ・マディチォン》」


 黒い靄が骨格に絡みつき、骨の表面に黒色の模様を刻む。

 複雑な模様は蝕むように骨格全体へと広がり、神秘的で悍ましいオブジェを作った。

 それと同時に、魔物の全身に激痛が走り、すぐに収まる。


「これで、等身大のゴブリン型ブードゥー人形の完成だ」


 不穏な響きに慄く魔物。

 その反応は正しかった。と直ぐに思い知る。


「この人形は、お前の8次元までの情報構造体と同調している。この人形に現れる変化は、お前にも現れる。

 例えば──」


 仮面の人間が無造作に骨格人形の左大腿骨を蹴る。


「グギッ!」


 骨を折ったかのような強烈な痛みが、魔物の左太もも同じ箇所に奔る。


「こんな風に、人形を傷つけると、お前も同じように傷つく。

 そして──」


 仮面の人間が、左手を骨格人形に向けてワキワキと動かす。

 すると、骨格人形が独りでに動き出し、三本指しか残っていない右手で左手の小指の骨を掴み、そのまま強引に引き抜いた。


 その一連の動きは、魔物とも連動した。

 つまり──


 ブチッ


「ゲギャアアア!」


 魔物の右手が勝手に動き、己の左手の小指を握ると、そのまま力任せに引き千切ったのだ。

 幸い、あの「明るい黒色」に光る木枝に切り落とされたときみたいに再生できないということはなく、小指の断面はすぐに止血し、徐々に肉が盛り上がって再生を始めた。


 左手の小指まで永遠に失うことは免れたが、魔物の心が軽くなることはない。

 寧ろ、恐怖は先程と比べて数段も増していた。


「これで分かっただろう? 俺の言うとおりにしなければ、この人形でお前を思い通りに操って、好き放題に弄くり回す」


 明言せずとも、魔物は理解できた。


 仮面の人間は今、自分のすべてをその手に握っているのだ。


 その気になれば、仮面の人間はいつでも骨格人形を通して自分を肉体的に苦しめ、身体を操作して好き勝手を働くことができる。できてしまう。

 それはつまり、魔物の身体だけでなく、魔物の戦士としての生き方や誇りまでも──魔物を構成するすべてを、仮面の人間は思うままにできるということ。


 それは、惨たらしく殺されることよりもよほど恐ろしいことだ。


 この骨格人形が存在する限り、自分に真の自由と安寧は訪れない。

 この仮面の人間が許さない限り、自分はその言葉に唯々諾々と従うしかない。

 自分という存在が生きている限り、この苦海から逃れることは絶対にできない。



 ポッキリと折れていた魔物の心が、完膚なきまでに砕け散った。



 死人のように項垂れる魔物。

 それを睥睨する仮面の人間は、「ふむ、これくらいでいいか」と小さく呟くと、周囲に待機させていた魔法の数々を消し去った。

 同時に、背後に浮かばせていた8枚の光翼と大輪の光輪を引っ込め、頭頂部に生えた光の角を消した。

 すると、これまで押し潰されんばかりの威圧が霧散した。


 世界に静寂が戻ったように感じた魔物が、顔を上げる。

 その先に佇むのは、最初に見たときと同じ、気配がしない仮面の人間の姿だった。


「これで俺の要求どおり、もと来た道を戻る気になったか?」


 議論の余地などない再確認に、魔物は末期の病人のように弱々しく頷いた。


「これからは二度と俺に迷惑を掛けるな、俺と関わるな、俺のことを誰にも話すな。

 この3つを守れば、こいつを使うことはないと約束しよう」


 骨格人形を指差しながら、仮面の人間が比較的穏やかにそう宣言した。


 意気消沈していた魔物は、驚きながらも僅かばかりに安心する。


 あれだけ怒らせてしまった相手が、あれだけ苛烈に自分を痛めつけていた相手が、突然として許しをくれたのだ。

 もちろん条件は付いているが、それは魔物にとって遵守するのに難しいものではない。


「約束、守る。絶対、絶対、絶対、守る」


 幼児のような言葉で必死に誠意を示す魔物。

 それを見た仮面の人間は一つ頷き、左手を骨格人形に向けて小さく握った。

 すると、骨格人形がキュッと圧縮され、白い豆粒大の珠になった。

 また骨格人形を通してなにかされるのかと身体を強張らせた魔物だが、何も起きなかったことに小さく安堵した。


 骨格人形だった白い豆粒をポケットに仕舞いながら、仮面の人間が口を開く。


「これは俺が保管しておく。お前が俺の要求に従っている限り、これを使うことはない。

 だが、もし破ったら──」

「破る、ない! 俺、約束、守る! 絶対! 絶対!」


 脅迫のような最終確認に、魔物は必死で言い募る。


「ならいい。

 ……そういえば、お前、名前が無かったな。

 なら、これからは『指欠け』と名乗れ」


 と、仮面の人間は思わぬ事を言った。


「剣を握るたび、飯を食うたび、その手で何かをするたび──その欠けた指を見て、今日のことを思い出せ。そして、俺のことを、俺の要求を思い出せ」


 恐怖を脳裏に刻むような、無慈悲な命令。

 魔物は、一も二もなく首を激しく縦に振った。


 この名は、この指は、戒めだ。


 愚かな慢心への──戒め。

 触れてはいけないものに触れてしまったことへの──罰。

 そして、初めて目にする絶対的強者への──憧れ。


 この名は自分には丁度いいのかもしれない、と魔物は恐れ慄きながらもスッと受け入れることができた。



 仮面の人間が「行け」と顎をしゃくる。


 ビクビクと不安そうに振り返りながら、魔物は自分の大剣を拾い上げ、ソロリソロリと来た道を戻る。

 来たときは他の魔物が自分から逃げていたが、今は自分が一人の人間から逃げている。


 決して消えぬ傷を心に刻まれたが、生を諦めるつもりはなかった。

 決して忘れ得ぬ恐怖を覚えたが、ある意味いい経験になった。

 決して小さくないものを失ったが、得るものも確かにあった。


「ギャギャ……俺、指欠けユビカケ


 戒めと共に貰った名前を噛み締め、魔物は東へと歩む。

 命令通り、もと来た道を戻るために。

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