63. NP:誰がための理想

 ――――― ★ ―――――




 マズい。


 黒髪の人族の少年──アレンの頭の中は、その一言によって占められていた。


 巨大な杭のような後ろ脚が眼前を横切り、遅れて突風が前髪を掠める。

 強引に回避するために捻った身体はバランスを崩し、後ろへと倒れる。

 片手を地面に着きながらバク転することで、なんとか転倒を免れた。


 このような間一髪のやり取りがずっと続いている。


 アレンたちのランク6というのは、一つの高みだ。

 このランク帯まで来れば、冒険者という職業の上位10%に位置する。

 疑いようのないエリートであり、アレンたち本人も己のランクを誇りに思っている。


 だが、今この瞬間に思い知った。

 冒険者としての名誉そんなものは何の価値も無かった、と。


 相手はタナト・アラフニ。

 レベル7の──正真正銘の化け物だ。


 タナト・アラフニの背面に回ったアレンが、タナト・アラフニの背後からその蜘蛛腹を斬りつける。

 が、軽い音と共に呆気なく弾かれた。


 何の痛痒も感じていないタナト・アラフニは、アレンを無視して前足を一閃。

 前面で攻撃を引き付けていたレクトを木の葉のように吹き飛ばした。


 すかさず、ダナンがレクトに3級回復魔法である《中治癒ミドルキュア》を掛ける。

 それでようやくレクトは立ち上がり、戦線に戻った。


 ギリギリの攻防だ。

 いや、そもそも、攻防にすらなっていない。


 こちらの攻撃は、掻痒にすらなっていない。

 剣も魔法も、アレンの攻撃はタナト・アラフニの外殻に僅かな跡を残すだけで、ダメージは無きに等しい。


 それなのに、こちらの防御は紙ペラのように一撃で貫かれる。

 なんとか自己強化系の戦技を発動したレクトだが、あまりにも実力に差があるので、殆ど用を成していない。

 もはやタナト・アラフニの猛攻によって一方的に嬲られている状況だ。

 今もなお不屈の精神で以って攻撃を受け止め続けているレクトだが、その都度大ダメージを負わされ、地面を転がされている。

 ダナンの防御魔法と回復魔法の補助がなければ、戦線は瞬く間に崩壊するだろう。


 ダナンからの魔法攻撃はない。

 彼女も最初に魔法で攻撃してみたものの、タナト・アラフニの外殻によって呆気なく弾かれてしまった。

 今はレクトの支援に全神経を注いでいるため、攻撃する余裕は皆無だ。

 そしてマズいことに、彼女は既に魔力の大半を消費しているようで、倦怠感と行動の遅鈍化が明確に現れ始めている。

 レクトのために絶え間なく高位の防御魔法と治癒魔法を使用し続けているのだ。

 いつ魔力切れで意識を失っても可怪しくない。



 チッ、と思わず舌打ちが漏れるアレン。


 現在の戦況は、危険なバランスの上で辛うじて崩壊を免れている状態だ。

 アレンの回避があと少しでも遅れていれば、レクトの盾の角度が少しでもズレていれば、ダナンの支援があと少しでも遅ければ──誰か一人でも、何か一つでもミスがあれば、状況は一気に覆る。


 勝機など全く見えてこない。

 今のアレンたちには、現状維持が精一杯だ。

 死を先延ばしにするだけの、ただの悪足掻きでしかない。


 そして、それすらももう長く続かないだろう。


 レクトのダメージは確実に蓄積している。

 ダナンによってある程度は回復しているが、明らかに追いついていない。

 そのダナンの魔力も、既に危険な水準まで減っている。

 このまま戦闘が長引けば、間違いなく彼女は魔力切れで脱落するだろう。

 そうなれば連鎖的にレクトも崩れ、PTは全滅する。


 自分たちの命の刻限タイムリミットは、刻一刻と迫っている。


(そうなる前に、なにか手を打たなけれ────ぐぁっ!?)


 回避した左後の蜘蛛脚を見送っていたアレンは、突如、右から攻撃を受けて吹き飛んだ。

 相手は八本脚を有する蜘蛛型の魔物だ。

 二本しか脚がない人間と違って、両脚で交互に攻撃する必要はない。

 左足を回避したからといって、安全になったわけではないのだ。

 そんな事すら忘れてしまう程に疲れていたのかと、アレンは吹き飛ばされながらようやく気が付く。



 ボールのように宙を飛ぶアレンは、民家の一角にぶつかる。

 建物を破壊しながら納屋の前まで転がって、ようやく停まった。


 身体を捩って起き上がるが、意識が朦朧としているのか、よろめきが止まらない。

 直撃を受けた右脇腹も死ぬほど痛むし、ゲホゲホと咳がこみ上げる。

 口の中にヌメリとした唾液が溜まったので吐き出したら、赤黒い色をしていた。


 これくらいの怪我なら、過去にも何度かしたことがある。

 けれど、これ程までに先が見えない戦いは、なかったかもしれない。


 離れたところでは仲間たちが死闘を続けている。

 それなのに、アレンの両足は生まれたての子鹿のように震え、言うことを聞いてくれない。

 早く戦いに戻らなければと気が急くほど震えは酷くなり、身体が冷たくなっていく。


 アレンはこの感覚をよく知っていた。


 ──恐怖だ。


 まだランクが低かった頃によく味わった、懐かしい感覚である。

 ただ、今感じているのは死ぬことへの恐怖ではない。

 死ぬことは、そこまで怖くはない。


 怖いのは、何も守れないこと。


 大切な仲間が死んでしまうことが怖い。

 そして、自分たちが死ぬことによって、守ろうとしているピエラ村の人々が死んでしまうことが怖い。


 相手はレベル7。

 自分たちが魔物の大移動の元凶と考えていたあのオークロードよりも更に上の、正真正銘の怪物だ。

 こいつがオークロードの後から出てきたということは、自分たちが死力を尽くして戦ったあのオークロードでさえこの怪物に追われていた獲物だった、ということ。

 そんな相手に、どうやって勝てというのか。


 覆りようがない現実に吐き気が込み上げてくる。


 嗚呼。

 俺は、なんと無力なのだろう……。


 ヒモ男自称薬草師を役立たずと罵りながら、結局、自身も役に立っていないではないか。

 ランク6冒険者であると誇りながら、結局、強敵を前に手も足も出ていないではないか。

 英雄に憧れ、英雄を目指していながら、結局、大切な仲間や無辜の村人を守れていないではないか。


 あまりの不甲斐なさに、思わず唇を噛み締める。

 血が滲むが、もう既に口の中は切り傷だらけなので、気にする気も起きなかった。




「──アレン」




 突如名前を呼ばれ、アレンは振り返った。


 声を発したのは、アレンがこの世で最も美しく知的で清楚で可憐だと確信している少女──オルガ嬢だった。

 側までやってきた彼女の懐には、ぬいぐるみのような黒いトカゲ──バームが前向きに抱かれていた。


「オ、オルガ嬢!? 何故まだこんなところにっ!?」


 既に避難しているものとばかり思っていた少女の出現に、アレンは激しく動揺する。

 同時に、凄まじい焦燥に駆られた。

 ここは戦場の真っ只中からは離れているとはいえ、危険地帯であることに変わりはない。

 彼女のような清楚で可憐で儚い少女が居ていい場所ではない。

 そもそも、彼女と一緒に逃げた筈のあの少年クズは一体どこで何をしているのか。


 そんなことを考えていると、少女から不安げな眼を向けられた。


「あの、大丈夫ですか? 血が……」

「そんなことより、オルガ嬢こそ早く逃げるんだ! 俺が時間を稼ぐ!」


 最も避難して欲しかった人が、まだこんな危険な場所に残っている。

 その事実がアレンを狂わしい程に焦らせた。


 状況は、最悪な方に進みつつある。


 どうする?

 どうすればいい!?


 自問しても、答えなど出ない。

 いつも冷静に状況を分析し、何某かの作戦を弾き出してくれる己の頭脳が、今は空転するだけで、なんの役にも立ってくれない。

 何もできない自分が、ただただ不甲斐なくて仕方がなかった。



 アレンの中には、理想の冒険者像というものがある。

 伝説の冒険者アレイダスだ。

 優しく、賢く、恐れを知らず、弱きを助け強きを挫く。

 まさに英雄譚の主人公のような冒険者だ。

 彼の英雄譚を聞いたときから、彼は自分の理想と目標になった。


 彼のような理想の冒険者に成りたくて、これまで挫けず、曲がらず、全力で頑張ってきた。

 そして、同じ志を持つ仲間たちと出会い、PTを組んだ。

 共に研鑽し、冒険し、気付けばランク6冒険者となり、皆に一目置かれる存在になっていた。


 だが、それがどうしたというのか?


 結局、自分は──自分たちは、ここで躓いているではないか。

 何もできず、何も守れず、全滅しようとしているではないか。


 フッ、と自嘲の吐息が漏れた。


 自分の左腕には強大な力が宿っていて、それを開放すれば倒せない敵はいない。

 伝説の冒険者アレイダスが秘めた力を開放して邪悪竜イビルドラゴンを打倒したという話に憧れ、自分にも作った設定だ。

 そんな子供じみた妄想を頼りに、挫けそうな心を支えてきた。

 ──いざとなれば秘めた力を開放すればいい、

 ──切り抜けられない困難はない、

 ──自分には最強の切り札があるのだから、

 そんな馬鹿げた虚構を頼りに、余裕と冷静を装ってきた。


 自分でも、そんなものはただの設定で、稚拙な妄想だと理解していた。

 でも、いつしかそれが心の拠り所精神安定剤となり、知らず識らず本気にしかけていた。


 なんと滑稽なことか。

 結局、自分はそんな妄想に頼らなければ立っていることすらままならない、徹頭徹尾の弱虫だったのだ。

 あの少年自称薬草師を罵る資格など、自分には無かったのだ。


 大切な仲間も、守りたかった人々も、失いたくない少女も、何も守れない。

 自分ごときが伝説の冒険者に成れるはずなどなかったのだ。


 不甲斐なさで潰れそうだ……。






「アレン」



 再び名前を呼ばれ、アレンは我に帰る。


 気付けば、可憐な少女が黒いトカゲを懐に抱いたまま、自分の左腕を胸に抱き寄せるようにして取っていた。


 アレンの頭が機能を停止する。


 まるで旅立つ恋人を引き止めるかのような、そんな感じの腕の取り方だった。

 自分の左腕と彼女の胸の間に挟まれているこのトカゲさえ居なければ、自分の腕は彼女のその適度に豊満な谷間に埋まっていただろう。


 ふっ、と視界が真っ白になった。


 左腕から伝わる、彼女の温もり。

 向けられて来る、彼女の眼差し。

 鼻孔をくすぐる、彼女の香り。

 その全てが意識を漂白し、惹きつけ、仙境の彼方へと誘う。


 全身の痛みが消えた気がした。

 気遣うような少女の視線は、まるで幻の霊薬のように心に染み渡り、全身を癒やしていく。

 彼女の意識が自分に向いているということに感動すら覚える。

 いつもの無表情が今はこころなしか少し硬く見えるが、そんな事はどうでも良かった。

 寧ろ、その強張った顔も自分を心配してのことだと思うと、天にも昇る心地になる。


 全身に力が滾る気がした。

 彼女の柔らかな手が、強張った身体を解かしてくれる。

 彼女の暖かな体温が、冷たくなった心を温めてくれる。

 彼女の甘美な香りが、弱った精神を奮い立たせてくれる。

 まるで最上級の強壮薬「コルトの朱血」を一気飲みしたような心地だ。

 もちろん、そんな伝説級の逸品は飲んだことがないのでただの想像になるが、とにかく今はそういう気分なのだ。

 先程までの弱りきった自分が、まるで嘘だったかのようである。


 引いていた血が、高速で全身を駆け巡っている。

 恐らく、大半の血は首より上に集中していることだろう。

 顔が妙に熱い。


 高鳴る鼓動が、今はなんとも煩わしい。

 オルガ嬢の美声を堪能したいのに、バクバクと鳴る自分の心音が邪魔でよく聞こえない。

 俺の心臓よ止まれ、などと思ったのは生まれてはじめてだ。


 左腕に鼻先をくっつけているトカゲが、心底邪魔に感じる。

 コイツさえ居なければオルガ嬢と密着できていたのにという逆恨み気味な怒りと、どんな形であれオルガ嬢に腕を取られているという純粋な嬉しさが、同時に込み上げてくる。

 トカゲが間に挟まっているので、実際に触れている箇所は、自分の左前腕と彼女の右掌しかない。

 でも──身体はほぼ触れ合っていなくても、心は繋がり合っているだろう。

 いや、繋がり合っているに違いない。



「無茶はしないでください」


 オルガ嬢が言った。

 上目遣いで見上げてくるその顔が、たまらなく愛おしい。

 更に熱くなった頭と身体は、もはや沸騰寸前だ。


「あなた達が犠牲になる必要などないのです。一緒に逃げましょう」


 表情は硬いが、その言葉は間違いなく本心だ。






 スッと心が軽くなったようにアレンは感じた。


 力だ理想だは、もはやどうでも良くなった。

 理屈などいらない。

 彼女のその一言だけで、全てが報われた気がした。


 べつに誰かに認められたかったわけではない。

 自分が好きで自己犠牲こんなことをしているのだから。

 でも、やはり誰かに認められるというのは嬉しかった。

 それがオルガ嬢なら、なおさらだ。


 迷いは消えた。

 自責も自嘲も消えた。

 残ったのは、たった一つの信念。



 ──オルガ嬢は俺が守る!



 その一念が、アレンの背筋を伸ばす。


 自分の背後にオルガ嬢がいる。

 オルガ嬢が自分の戦いを見てくれている。

 オルガ嬢を守れるのは自分しかいない。

 ただそれだけで、全ての理屈が跪く気がした。


 震えは、もうない。


「ふっ」


 いつもの不敵な笑みが戻ってくる。


「心配する必要はない」


 そこに居るのは、もう失う恐怖と何もできない不甲斐なさに震える少年ではない。


「君は──君たちは、この俺が守ってみせる」


 そこに居るのは、弱冠18歳でランク6という高みにまで上り詰めた立派な冒険者だ。



 アレンの変化を目の当たりにした少女は、僅かばかりに顔を伏せ、徐に彼から離れた。


 左腕から消えた少女の温もりを名残惜しく思いながらも、アレンは闘志を燃やす。


 レベル7が何だというのか。

 勝てないのが何だというのか。

 死ぬのが何だというのか。


 自分たちが追い求めた理想の冒険者像は、今も心の中で確かに輝いている。


 優しく、賢く、恐れを知らず、弱きを助け強きを挫く。

 そんな英雄に成りたかった。

 いや────



(今こそ成るんだ!)



 長剣を握りしめる手に力が入る。

 アレイダスも、邪悪竜イビルドラゴンと戦う前はこんな気持だったのかな。

 そう想像すると、無限の闘志が湧き上がってくる。


 仲間たちが、まだ戦っている。

 守りたい人が、まだここにいる。

 自分は、まだ戦える。


 ならば、戦おうではないか!


 たとえ勝てなくとも。

 戦ってみせる。

 抗ってみせる。

 守ってみせる。

 かの伝説の冒険者アレイダスが──自分たちの理想とする冒険者がかつてしたように。


 アレンは前を向き、敵を見据え、足を踏み出した。






 その瞬間──






 アレンの左腕が眩い光を放ち始めた。

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