62. NP:それぞれの戦い④
――――― ★ ―――――
「見えた! 避難所だ!」
傷だらけで動かない右腕を懸命に伸ばして前方を指差すケビンが、喜色も顕に言った。
隣では、これまた傷だらけで動かない左腕にしがみついているトゥニが涙目で微笑んでいる。
片耳が千切れたダイアウルフに襲われていたトゥニを救出した後。
ケビンはトゥニを引き連れて魔物が跋扈する村の中を隠れて進み、遂に村の中心にある
そして、ついにその避難所を目視できるところまで来ている。
「グッ……!」
ケビンが呻く。
多量に分泌されていたアドレナリンのおかげで今の今まで痛みを感じていなかった両腕に、痛みが蘇ってきたのだ。
トゥニに怪我はないが、ダイアウルフと戦ったケビンの両腕はボロボロだった。
ここまで何も感じずに来れたことが奇跡に思える怪我だ。
「ケビン!」
涙目のトゥニが悲しそうにケビンの名を呼ぶ。
「……心配すんなって。避難所に付けば、ナインの薬があるからよ」
友人である薬草師の少年は、なんだかんだで頭が良い。
こういった状況を想定していたのか、避難所には保存が効く薬が用意されている。
避難訓練に参加した村の全員が知っていることだ。
少年の薬は、実によく効く。
今までは回復が悪ければ死んでいた風邪や食中毒のような病気も、少年の薬のおかげで何事もなく治るようになっている。
それどころか、村長の腰痛やホメット婆さんの膝痛のような慢性疾患までもが良くなっているのだ。
このピエラ村で彼の薬の効果を疑う人間は、一人としていない。
トゥニに向かってニヤリと笑ってみせるケビン。
しかし、その内心は厳しいものだった。
ケビンは、この絶望的な両腕が治るとは楽観視していない。
たしかに薬草師の少年の薬はこれまで、数多の病気や怪我を完璧に治してきた。
だが、それらはあくまでも「軽い病気や怪我」でしかない。
今のケビンの両腕のような重症を治せるかは、まったく不明だった。
身体の欠損やそれに準ずる重症を治す薬は、伝説の中にしか無い。
それは学のないケビンでも知っていることだ。
今のケビンの両腕は、まさにもげる寸前である。
ダイアウルフによる無数の噛み跡は穴が穿たれているのみならず、肉が容赦なく引き裂かれている。
腱が切れているのか、はたまた骨が折れているのか、両手の指はピクリとも動かない。
二の腕から先は、溢れる鮮血と固まった血痕によって赤と黒の斑模様に染まっている。
確かにケビンはダイアウルフの攻撃を凌ぎ、両腕を持っていかれずに済んだ。
だが、それは「腕がまだ身体にくっついている」というだけで、この両腕はもう使い物にならないだろう。
ここまでの重症を負った人間がいなかったから、薬草師の少年が何処までの負傷を治療できるかは誰も知らない。
彼の能力を疑うわけではないが、それでもこの両腕を治すのは
一抹の恐怖が、痛みとともにケビンの腕を伝って脳裏を過る。
片端者としての人生を想像し、絶望が心に広がった。
ケビンは思いっきり頭を振り、己を飲み込まんとするネガティブな感情を振り払う。
自分たちはまだ避難の最中なのだ。
余計なことを考えている場合ではない。
「行くぞ、トゥニ」
努めて平静を保ち、ケビンはトゥニを連れて避難所の倉庫を目指した。
倉庫に近づくと──
突如、視線の端から一匹のゴブリンが飛び出してきた。
しまった、と焦るケビン。
倉庫が近いという安心感、そして両腕の痛みのせいで、集中力が切れていたのかも知れない。
ゴブリンの接近を許してしまった。
ケビンは両腕が動かず、トゥニは全く戦えない。
今の二人では、ゴブリン一匹でも強敵だ。
万事休す。
噛み締めた奥歯がギリリと軋んだ。
次の瞬間──白い塊が横合いから飛んできた。
その白い塊は、長い
かなり絶妙な力加減で噛んでいるらしく、鋭い牙があるにもかかわらずゴブリンの首からは血が一滴も出ていない。
白い塊はゴブリンの首を咥えたまま、頭を軽く捻る。
すると、ゴブリンの首から「ゴキッ」っという鈍い音がして、そのままその場に崩れ落ちた。
あっという間の早業に、呆気に取られるケビンとトゥニ。
白い塊が振り返り、二人の元まで走ってくる。
そして、足元まで来るとキレよく立ち止まり、「ワウッ」と吠えた。
この白い塊の正体を、ケビンとトゥニはよく知っている。
皆が愛してやまない、薬草師の少年のペットにして村の守護者。
世にも珍しい白い毛並みのダイアウルフ。
「ジャーキー!」
トゥニが満面の笑顔で白い塊──ジャーキーに抱きついた。
ジャーキーも嬉しそうにトゥニの顔をベロリ舐める。
「そうか、お前が倉庫を守っているんだったな」
避難訓練のときに薬草師の少年が言っていたことを思い出し、ケビンは安堵する。
災害時、ジャーキーは倉庫の外で護衛を務めることになっている。
倉庫に籠もるだけでは、外敵から身を守ることはできない。
木材製でしかない倉庫の外壁の強度など、たかが知れている。
盗賊が相手であれば外から壁を剥がされたり建物に火を放たれかねないし、魔物が相手であれば外から扉を破られたり下から穴を掘られかねない。
そうなったら、避難所は一転して逃げ場のない調理場になってしまう。
そうならないよう、倉庫の外にはある程度敵を排除できる護衛が必要だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、ジャーキーだ。
ジャーキーが優秀な狩人であることは、村の全員が知っている。
実際、西の平原でジャーキーがダイアウルフの群れを遊び半分で蹴散らしていたのを、エドが目撃している。
エドとジャーキーに案内されて6匹ものダイアウルフを村に持ち帰ったときは、ちょっとしたお祭りになった。肉を運んだケビンは、そのことを鮮明に覚えている。
ジャーキーの強さは、疑いようがない。
だから、彼が倉庫の護衛役に任命されたのだ。
嬉しそうに撫でられているジャーキーの周りを見てみる。
彼が守っていただろう
恐らく、倉庫に近づこうとして、ジャーキーに返り討ちにされたのだろう。
先ほどの神業──恐らく口元を汚さないためにわざと血を出さないように倒したのだろう──からも。その強さが見て取れる。
なんとも頼もしい守護神である。
と、その時。
遠く離れた東の森の方から「キシャァァァァァ!!」という奇声が轟いた。
嬉しそうにケビンとトゥニに甘えていたジャーキーが、一瞬で臨戦態勢となる。
「なんかヤバそうだな……。トゥニ、早いとこ避難するぞ!」
不安そうに頷くトゥニを引き連れ、ケビンは倉庫へと向かった。
「俺だ、ケビンだ! トゥニを連れてきた! 扉を開けてくれ!」
動かない腕の代わりに足で倉庫のドアを蹴りながら、ケビンが呼びかける。
すると、内側から閂が外される音がして、扉が開いた。
「トゥニ!」
「無事か!?」
扉を押し破るように、2つの人影が飛び出してきた。
トゥニの両親だ。
「……マ、ママぁ、パパぁ……ふえぇぇぇぇん!」
両親に抱きしめられて安心したのか、トゥニはぴや〜〜と泣き始めた。
倉庫からケビンの母親が飛び出してきて、思いっきりケビンに抱きついた。
「ケビン! その腕っ……!」
まるで自分の両腕がもがれたかのように、苦しそうな顔をする母親。
その後ろから、嘗てないほど厳しい顔をした父親が姿を表した。
「
「何が大丈夫だ、この馬鹿野郎がぁ!!」
怒り心頭に怒鳴る父親は、ケビンの腕に触れようとして、やめた。
宙で止まった父親の手は、無力に震えていた。
「……
悲しみが滲む目でケビンを睨みつけていた父親は、すすり泣く母親の肩を抱き、倉庫の中へと戻っていった。
「……次は、もうこんな無茶するんじゃねぇぞ」
低い声でそう呟いた父親に、ケビンは目頭を熱くして頷いた。
倉庫の扉に閂が嵌められると同時に、エドとアビーがエレインを引き連れてやってきた。
エレインの手には、赤い十字が書かれた小さな木箱が抱えられている。
「ちょっ、大丈夫かよ、ケビン!?」
「大怪我じゃない!?」
慌てるエドとアビー。
その後ろから、エレインが手にした木箱を開けながら前に出る。
「はいこれ、ナインが用意していた薬よ。早く飲んで!」
薬草師の少年の腕前への信頼か、はたまた惚れた男への妄信か、エレインはそれほど慌てもせずに薬の入った瓶の蓋を開け、ケビンの口に突っ込んだ。
彼女が開けたその瓶には、赤いラベルが貼られていた。
薬草師の少年によると、倉庫に備蓄している薬には4種類あるらしい。
緑色のラベルは、軽度の怪我や病気に効く薬。それが10本。
黄色のラベルは、中度の怪我や病気に効く薬。それが5本。
赤色のラベルは、重度の怪我や病気に効く薬。それが3本。
黒色のラベルは、
緑・黄・赤の3種類はそれなりに効果が保証されているだが、最後の黒色のやつは気休めでしかなく、どちらかといえば苦痛を和らげて穏やかに逝かせるためのものだ、と薬草師の少年は言っていた。
両腕がもげそうな状態のケビンを見て、薬の管理者であるエレインは赤色のやつが必要だと判断したようだ。
瓶を口に突っ込まれたケビンは、ゴクゴクと中身を飲み干す。
すると、喉から胃に掛けて清涼感が突き抜けた。
薬草の匂いが強いが、変な苦味やえぐ味はなく、とても飲みやすい。喉越しも悪くない。
ただ、「
「ちゃんと飲んだわね。なら、早く傷の手当をするわよ」
薬草師の少年が教えた通りの手順を踏むエレイン。
木箱から青いラベルの大瓶を取り出すと、その中身をケビンの両腕に満遍なく振りかけた。
「────っ!!」
傷口に沁みる痛みに、大きく顔を歪ませるケビン。
「これで『しょーどく』は終わり。次は包帯ね」
言うと、エレインは木箱から白い布のロールを取り出し、ケビンの両腕に巻き始めた。
不思議とよく伸びるその布は、傷口を適度な力で包み、決して締め付けない。
「よし、っと」
包帯を巻き終えたエレインが安堵したように息を吐く。
手当してくれた彼女に、ケビンは礼を言おうとする。
が──
「なっ!?」
口をついて出たのは、感謝の言葉ではなく驚愕だった。
それも仕方ないだろう。
なぜなら──
「う、動く、だと……っ!?」
今までピクリとも動かなかった腕が、手首が、指先が、微かに動くようになったのだから。
もちろん、痛みはまだかなりを通り越して死ぬほど酷いが、それを忘れる程に驚きが勝った。
固まったまま呆然と自分の両腕を見つめるケビン。
トゥニの命のためなら、腕の一本や二本くらい失ってもいいと思った。
だから、両腕がズタズタになってしまった今も、後悔は欠片もしていない。
でも、両腕を失うという恐怖は、やはり心の奥底で蠢いていた。
これまではトゥニを守ることと避難所まで逃げることで、腕のことなど気にしていられなかった。気にしないようにしていた。
だが、すすり泣く母親とかつてないほど悲しげな父親を見て、その恐怖が鎌首をもたげ始めた。
自分は両腕を失い、生涯に渡ってもう何をすることもできなくなり、死ぬその瞬間まで誰かの世話になり続けるだけの──ただの廃人になってしまうのではないのか。
そんな絶望が、心の中で渦巻いていた。
けれど、現実は違った。
腕が、持ち上がる。
肘が、曲がる。
手首が、回る。
指が、動く。
痛みも、先程より軽くなっている気がする。
ポンッ、と背中を叩かれた。
振り返れば、大泣きしている母親がガバッと胸に飛び込んできた。
胸元が、すぐに濡れ始めた。
厳しい顔のままの父親に後ろ首を捕まれ、そのまま強引に頭を父親の胸板まで引き込まれ、乱暴に抱きしめられた。
父親の胸板に預けている頭の上に、雫がポタリポタリと落ちてくるのを感じた。
ケビンの両目からも、涙が溢れた。
涙を流して喜ぶ両親の温もりが嬉しかった。
また働けるようになれたことが嬉しかった。
将来にまだ希望が持てることが嬉しかった。
隣では、江戸が嬉しそうにウンウンと頷いている。
アビーは貰い泣きしているらしく、涙を拭っていた。
エレインは何故か誇らしげだ。
改めて、薬草師の少年の腕に舌を巻いた。
痛みはどんどんと引いていっている。
それと同調して、両腕もどんどんと動くようになっている。
確実に治ってきている、という実感が湧き上がる。
こんなに効く薬は、聞いたことがない。
「ははは。これは、他所に知られたら大変だね」
ケビンの驚異の回復を見ていた村長のベンが、苦笑いしながらそう言った。
ただ、その眼は全く笑っていない。
見れば、年長者はみな村長と似たような眼をしている。
「みんな。ここで見たことは、誰にも言っちゃいけないよ。子どもたちも、いいね?」
大人たちが無言で力強く頷く。
未成年の子供を持つ親は、子どもたちに鋭い視線を向ける。
子どもたちも、親の視線を受けて大きく頷いた。
当然の判断だ。
ケビンも、知識だけだが知っている。
ここまで効き目がある薬は、薬草だけでは作れない。
薬草で作る薬は、その殆どが遅効性のものだ。
効き目はゆっくりと現れ、徐々に怪我や病を癒やす。
特に、外傷などに対しては、薬草で作る薬は即効性が殆どない。
即効性がある薬は、ポーション師が魔法を併用して作る「ポーション」だけだ。
騎士や冒険者が愛用するポーションは、戦場で使用するというその性質上、即効性と高い薬効が要求される。
知識さえあれば誰でも作れる薬草薬とは違い、ポーションを作るには知識だけでなく専用の魔法と希少な素材が必要となる。
その製造方法の複雑さから、ポーションを作れる人間は限られ、自ずと値段が高くなる。
一般庶民や村人が使えるのは、せいぜい「貧者のポーション」と揶揄される薬草薬までだ。
もちろん、高名な薬草師が作る薬草薬も高い効果があるが、やはりその性質上、遅効性の物が殆どだ。
ここまで効果が高く、なおかつ即効性のある「薬草薬」は、聞いたことがない。
どうやって作ったにせよ、こうも素晴らしい薬をタダで提供してくれる薬草師の少年は、村にとって無くてはならない存在だ。
彼を裏切るわけには、絶対に行かない。
絶対に、だ。
「あの子は僕たちを守ってくれた。今度は、僕たちがあの子を守る番だよ」
村長の言葉に、全員が決意も露わに頷く。
少年が何かを隠していることは、みんな薄々と気が付いている。
だが、誰もそれを追求しようとはしない。する必要がない。
隠し事をしていない人間などいない。
問題は、隠し事をしているかどうかではなく、その人間の為人だ。
その点、少年は合格も合格。村人の中でも上位に当たる人格者だ。
だから、あの少年のことは損得を抜きにしても守る必要がある。
ふと、ケビンはこの場に薬草師の少年が居ないことに気がつく。
「お、おい……ナインは!? ナインはどうした!?」
取り乱す彼を、村長がまぁまぁと宥める。
「ミュートとミューナによると、彼はオルガと一緒に家に残ったらしいよ。多分だけど、冒険者の子たちをここまで案内するつもりなんじゃないかな。アレンくんたちが一緒なら、危険はないと思うよ」
人垣の後ろからミュートとミューナの「うん!」という元気な返事が聞こえてきた。
見れば、双子の顔に薬草師の少年とデウス族の少女を心配する色は欠片もなかった。
彼らの身が絶対に安全である確証が、双子にはあるのだろう。
ふぅぅぅ……、と思わず安堵のため息を漏らすケビン。
途端に、言いようのない疲労感が襲ってきた。
倉庫の外では、時折魔物の断末魔が響いている。
遠くでは、破砕音や恐ろしげな奇声が木霊している。
だが、不安はない。
この倉庫に避難している全村人──総勢300余名、全員が同じように感じているだろう。
泣き腫らした目のトゥニが、モジモジとしながらケビンに寄り添う。
そんな彼女の頭を、ケビンはかなり動けるようになった腕で優しく撫でると、そのまま安堵の中に意識を手放したのだった。
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