61. EO:一蓮托生
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蜘蛛の形をした怪物を目の前に、黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入ったデウス族の少女──オルガは、己の死を悟った。
森から突如として現れたそれは、暴力の権化のような外見をしていた。
武術など何も嗜んでいない少女でも見ただけで分かる──
それは、生物としての本能が告げる警告。
己の死を回避させようと、脳が勝手に危険信号を身体に送っているのだ。
フェルファストから来た冒険者が、なにかを叫んでいる。
が、今の少女の耳には届かない。
走っていた足が竦み、まるでいうことを聞かない。
全身の血が消えたのかと思うほどに血の気が引き、四肢は感覚がなくなるほど冷たくなる。
耳鳴りと早まった己の鼓動音が煩い。
頭が真っ白になり、見ているものの意味が分からなくなる。
今感じているのが恐怖という感情だということすら、しばらく気付くことができなかった。
耳を劈くような奇声を上げる蜘蛛の怪物。
それでようやく少女は失いかけていた理性を取り戻す。
冷たくなった身体は、小刻みに痙攣を繰り返すばかりだ。
絶え間なく笑う膝が、なんとも煩わしい。
いや、或いはこの上下に揺れ続ける膝こそが、少女の感情を忠実に表しているのかもしれない。
真っ白になった頭を満たすのは、「こんなのは嘘」「夢なら覚めて」という虚しい願望と懇願だけだ。
嘗て、少女は盗賊団に故郷を滅ぼされ、今生で最悪な恐怖を味わった。
あの後悔と無力感と理不尽に押しつぶされそうな感覚を、少女は生涯忘れることはないだろう。
だが、今感じている恐怖は、それとはまた別物だった。
これは、純粋な恐怖。
理屈も理由付けも必要としない、単純な恐れ。
生物として、回避し難い死を前にしたときに現れる、純粋な忌避感情だ。
振り上げられた蜘蛛の怪物の前足が、自分たちに向かって振り下ろされる。
それを、少女はただ呆然と眺めていることしかできなかった。
迫りくる死。
ふと、少女は己の肩に温もりを感じた。
隣に立つ家主の少年が、少女を抱き寄せたのだ。
肩に回された手の温もりと、少年の胸板から伝わる落ち着いた心音。
それらを感じ取った少女は、スッと我を取り戻した。
漂白されていた意識が冷静さを取り戻す。
同時に、言いしれぬ安心感に包まれた。
恐怖は鳴りを潜め、震えと冷えは直ぐに治まった。
冒険者たちが、少女と家主の少年を守るために前へと躍り出る。
ほぼ同時に、冒険者のリーダーの少年に思い切り後方へと押し退けられた。
緊急事態なので、動作が多少乱暴になってしまうのは仕方がない。
幸い、家主の少年に支えられているおかげで、少女はよろめきすらしなかった。
少女が自分を支える少年の腕に安心感を抱いていると、
盾を持った冒険者──レクトが派手に吹き飛んだ。
それを見た長剣を持った冒険者──アレンが、呆気にとられる。
短杖を持った冒険者──ダナンも、驚きのあまり凍りついている。
家主の少年を見上げれば、至近距離にある彼の眉は──微かに顰められていた。
アレンに呼ばれて我を取り戻したダナンが魔法を放ち、回復したレクトが徐に立ち上がる。
「ぐっ、クッソ……き、気をつけろ、アレン、ダナン……!
や、やべぇぞ、こいつ……!
間違いなく、レベル7だぜ……!」
その言葉を聞いて、少女は驚愕した。
レベル7というのは、「信じられないような化け物」の代名詞だ。
有名所でいえば、数十年前に「フィッシェンナファソの悲劇」を引き起こした「魔法を使うコボルト」だろうか。
かのコボルトは特殊な個体で、たった一匹で南方にあるとある小国を半壊にまで追い込んだらしい。
最終的には討伐されたそうだが、そのために数名のランク7冒険者と多くのランク6冒険者が犠牲になったと言われている。
いくつもの街が消え去ったこの出来事は「フィッシェンナファソの悲劇」として語り継がれ、レベル7の魔物が如何に危険かを示す実例となっている。
そんな国を半壊に追い込むほどの化け物と同じレベルの魔物が、目の前にいるのだ。
いくら荒事に疎い少女でも、事の重大さを理解するには十分だった。
「こいつはレベル7の魔物だ! 俺たちでは足止めが精一杯だ! なんとかやつを抑えるから、その間に二人とも早くここを離れろ!!」
アレンからの指示に従い、少女は家主の少年に引き連れられてその場を後にした。
が、遠くへは行かず、直ぐ側にある家の納屋に隠れた。
一先ずは逃げたが、事は何も解決していない。
少女は思わず少年に問うた。
「これからどうしますか?」
すると、少年は苦虫を噛み潰したような顔になった。
しばらく待っても、少年からの回答はない。
その顔は、ひどく葛藤しているように見えた。
少年ほどの力があれば、蜘蛛の怪物を一瞬で消し去ることは容易いだろう。
その証拠に、今の彼は、現状そのものに焦ってはいるものの、蜘蛛の怪物に対しては些かの恐れも見せていない。
彼にとって、あの恐ろしい蜘蛛の怪物ですら小物に過ぎないのだ。
だが、彼は平穏な生活を守るために己の力を隠している。
特にアレンたちの前ではどんな小さな魔法も使えない、と言っていた。
であれば、彼がこの場でできることは何も無いだろう。
何もできないから、少年は苦い顔をしているのだ。
それなのに、少年はこの場を離れようとしない。
その理由が「彼がアレンたちを気にかけているから」だということは、すぐに推測できた。
少年も、アレンたちを見捨てる選択肢があることは知っているだろう。
だが、彼はその選択肢を取らなかった。
見捨てるつもりなら、こんな戦場近くにある家の納屋に隠れてコソコソ覗き見する必要などない。さっさと遠くへ逃げればいいのだ。
このように二人してアレンたちを見守っているのは、少年が彼らを捨て置けないから。
心優しい少年らしい行動と言える。
それに多分、優しさばかりではない。
アレンたちを見捨てることは、後々面倒を引き込むことに繋がる。
たとえ家主の少年がアレンたちがやられた後に蜘蛛の怪物を倒したとしても、きっと後になって冒険者ギルドから調査なり追求なりが来ることになるだろう。
実利を鑑みてもアレンたちを見捨てるべきではない、と聡明な少女も理解していた。
見捨てられないのに、できることがない。
だからこそ、少年は葛藤しているのだ。
ふと、少女は自分がずっと少年の腕に縋り付いていたことに気が付いた。
あまりの安心感から、ずっと彼にくっついていたらしい。
少し恥ずかしくなり、思わず少年の腕を離す。
と、その時、少年が口を開いた。
「……なぁ、オルガ。
もしかしたら、この村から逃げ出すことになるかもしれない。
──その時は、付いて来てくれるか……?」
思わず、呼吸が止まりそうになった。
そう言った少年は────────泣きそうな顔をしていたのだ。
「もしかしたら、名前を変える必要が出てくるかもしれないし、暫くは放浪生活になるかもしれない……」
まるで何かを懺悔するかのように、何かを懇願するかのように、少年は言葉を絞り出す。
「でも、俺が必ずなんとかする!」
普段の飄々とした彼からは想像も付かない、弱々しくて儚い姿だった。
「住処も、食料も、全部、俺がなんとかする!
だから────!」
知らず識らず、言い募る少年の手を、少女は自分の両手で包み込んでいた。
「分かっています」
思考を経由しない──心の底から発せられた言葉が、少女の口から独りでに溢れ出てくる。
「本当に、あなたは『偽悪者』ですね」
我ながら「偽悪者」という言葉は本当にぴったりですね、と少女は微笑む。
自分に秘密をバラしたら殺すと脅したり、アレンたちの戦闘を辛口評価したりと、家主の少年はいつもニヒルに振る舞う。
だが、その根源にあるのは、いつだって優しさだった。
少年のポカンとした顔に、少女は嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
少年の家に住む人間は、全員が一蓮托生だ。
生きるときが一緒なら、死ぬときも一緒。
一蓮托生とは、そういう意味だ。
少なくとも、少女はそう理解している。
少女の「どうするのか」という問いに対する少年の回答は、沈黙からの逃げる算段だった。
これからも分かるように、少年も現状を打開する方法を持っていない。
少年一人であれば──彼が自分のことしか考えないのであれば──解決方法はいくらでもあるだろう。
少年は変装や潜入も得意だと言っていた。
彼一人ならば、全てを無視して何処か遠くの地に逃げて、一からやり直すことは造作もないだろう。
ここで少年が逃げれば、アレンたちは間違いなく魔物に殺される。そうなれば、残る目撃者は少年と一緒にいる自分だけになる。
そんな自分も、このまま放って置けば蜘蛛の怪物が殺されるので、口封じの手間すら必要ない。
少年の素性を知っている幼いエルフの双子と村の人間も、このままなら全員殺されることになるだろう。たとえ生き残りがいたとしても、少年が消えたのは「死体を跡形もなく魔物に食われたから」だと考えるに違いない。
後からギルドが調査をしようと思っても、既に逃げた少年の存在にはたどり着けないだろう。
彼にとって、全てを放り出して雲隠れするというのは、最もローリスクで最も手っ取り早い方法なのだ。
だが、彼はそうしなかった。
それどころか、少年は恐る恐る尋ねてきたのだ。
共に逃げてくれるか、と。
泣きそうな顔で──まるで親に捨てられることを心底恐れている子供のような顔で、そう尋ねてきたのだ。
そんな少年の儚い顔が、とても愛おしかった。
そして、早口に説得してきたのだ。
自分が全部なんとかするから、と。
言い募るように──お願いを断られることを心底恐れている幼子のような口調で、そう説得してきたのだ。
そんな少年の焦った言葉が、堪らなく愛おしかった。
一緒に来てくれないことを恐れる。
それは、自分たちと一緒に居られないことに対して恐怖を感じているから。
自分たちを本当の家族のように大切に思ってくれている証だ。
言葉で明確に言わないだけで、少年は少女たちをそれだけ大切に思ってくれているのだ。
そんな少年の赤裸々な本心が、狂おしいほどに愛おしかった。
なんだかんだで、自分たちのことを本当の家族のように思ってくれる──
「そんなあなただからこそ、私達は……」
──いつまでも一緒に居たいと思うのです。
そこには不安も迷いもない。
「あなたの思うようにしてください。私は──私達は、何処までも付いて行きます」
きっと、弟妹のように思っている幼いエルフの双子──ミュートとミューナも、自分と同じように考えているだろう。
ポカンとした少年が、スッと穏やかな顔になった。
そして、彼は感謝するように微笑み────真剣な眼差しを戦場に向けた。
そんな少年の真剣な横顔に、少女の呼吸が思わず止まる。
男の顔だった。
いつも飄々としている家主の少年の、初めて見る顔だった。
滾る決意と静かな闘志を秘めた、男の顔だった。
全てを背負う覚悟を決めた、漢の顔だった。
見る者の胸を無意識に高鳴らせる、凛々しい顔だった。
胸の奥が締め付けられ、たまらなく切なくなる。
名状し難い激情が、少女を襲う。
初めて感じるその激情に、思わずキュッと少年と繋いだ手に力を入れた。
伝わってくる少年の体温が、いつも以上に熱く感じる。
蜘蛛の怪物相手に感じたのとは全く別の、激しい鼓動。
思わず少年の横顔に固定される、自分の視線。
みぞおち辺りが引っ張られるような、不思議な症状。
全身を優しく駆け巡る、もどかしくも心地よい、甘い疼き。
今まで一度も経験したことのない感覚だった。
ただ、不思議と嫌な感覚はまったくしない。
寧ろ、心がより軽やかになったような気がするし、世界がより鮮やかに見えるようになった気さえする。
己の中に生まれた名も知らぬ激情を噛み締めながら、少女はいつまでも少年の横顔を眺め続けた。
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