60. レベル7

「あ、あれは、ま、まさか……タナト・アラフニ……レベル7の魔物だとっ!?」


 絶望に染まったアレンの叫びが鼓膜に突き刺さる。


 見れば、目の前には巨大な蜘蛛の化け物──タナト・アラフニ。

 4対8つの目で俺たちを見据え、先端が鋭く尖っている前足を振りかざし、「キシャァァァァァ!!」と奇声を発している。


 俺は反射的にオルガの手を引き、いつでも彼女を庇えるように抱き寄せた。


「マジかよコンチクショー!!」


 悪態をつきながら、レクトが盾を構えて前に飛び出る。


「"身に宿りし魔力の奔流よ、強固な盾となりて我を守れ"──《魔力の盾マジックシールド》!!」


 素早く呪文を唱えたダナンが、タナト・アラフニの眼前へと躍り出たレクトに魔法を掛ける。


「下がれっ!!」


 アレンが俺とオルガを乱暴に後方へと押し退け、レクトの側面へと走る。


 咄嗟に陣形を整えたアレンたちに、タナト・アラフニの鉄杭のような蜘蛛足が振り下ろされる。

 その一撃を受け止めるべく、レクトが盾を構えたまま両足を踏みしめ──



 ゴミクズのように吹き飛ばされた。



 レクトは「ぐおぉぉぉ!」という呻きを引き連れながら真横に吹き飛び、そのまま若木を3本ほどなぎ倒す。

 そして、4本目にブチ当たったところで、やっと止まった。

 力なく地面に崩れ落ちたレクトは、ゲホゲホと咳き込みながらも、なんとかして立ち上がろうとする。

 が、うつ伏せに倒れたままピクピクともがくだけで、立ち上がるどころか、上体すら起こせていない。

 明らかに大ダメージだ。


 そんなレクトを見たアレンとダナンは、言葉を失っていた。


 たった一撃。

 オークロードの猛攻すらも耐えきったレクトが、ダナンの防御魔法を掛けられながらも、たったの一撃で無力化されたのだ。


「ダナン!」

「……っ!」


 いち早く驚愕から立ち直ったアレンが、唖然としているダナンに呼びかける。

 それで我を取り戻したのか、ダナンが驚愕の残る頭で素早く呪文を唱えた。


「"命保ちし光よ、万傷癒やす御包と成りて我が傷創を治せ"──《中治癒ミドルキュア》!!」


 レクトに向けて回復魔法を放つ。

 緑色に輝く光の玉がレクトに届き、全身に染み渡る。

 すると、数秒してレクトは徐に立ち上がった。


「ぐっ、クッソ……き、気をつけろ、アレン、ダナン……!

 や、やべぇぞ、こいつ……!

 間違いなく、レベル7だぜ……!」


 いつも明るくて元気なレクトの声が、今ではとても弱々しい。


「そんな事は分かっている! 具合はどうだ、レクト!? まだやれそうか!?」

「ったりめぇよ……。あれくらいで、やられるわけねぇだろ……!」


 慌てた様子で問うアレンに、レクトが無理やり口角を釣り上げる。

 強がっているのが丸わかりだ。

 それでも、レクトは若干よろめきながらもダナンの前まで戻り、盾を構えた。


 レクトがなんとか戦線復帰したところで、アレンが俺とオルガに向かって言った。


「こいつはレベル7の魔物だ! 俺たちでは足止めが精一杯だ! なんとかやつを抑えるから、その間に二人とも早くここを離れろ!!」


 切羽詰まったアレンの警告に頷き、俺はオルガを引き連れて走り出す。

 が、遠くへは行かず、すぐ側にあるご近所さんの家の納屋へと避難した。

 納屋の入り口からオルガと一緒にアレンたちの戦いを覗くように見守る。


「これからどうしますか?」


 俺の腕に縋るように抱きついているオルガが、無表情の中に心配そうな色を滲ませながらそう問うてきた。


 痛いところに突き刺さる質問だ。


 今の状況は、俺にとって八方塞がりに近い。

 それはもう、俺がこの場から離れられずにこうしてアレンたちを覗き見するしかないくらいには深刻だ。



 先程、アレンは「自分たちが足止めしているからその間に逃げろ」と言った。

 今の状況でそのセリフは、もはや遺言と変わらないだろう。


 アレンの言によると、この蜘蛛の化け物タナト・アラフニはレベル7。

 オルガから教えてもらった冒険者ギルドの評価基準からすれば、アレンたち「アレイダスの剣」よりもワンランク上の魔物ということになる。

 つまり、今のアレンたちでは勝てる見込みが限りなく低い相手なのだ。


 実際、アレンたちのPTは、たったの一撃で崩壊の縁まで追い込まれている。


 ランク6冒険者PT「アレイダスの剣」のリーダーはアレンだが、戦闘そのものを支えている大黒柱は盾役のレクトだ。

 盾役は、その活躍こそ地味だが、実際は戦術の根幹を成す役割を担っている。

 遊撃アタッカーであるアレンも、後方火力支援であるダナンも、相手の攻撃を一身に受けて食い止めてくれるレクトが居て初めて本領を発揮する。

 盾役のレクトがいなくなれば、アレンは相手の攻撃に対処せざるを得なくなり、攻撃力は激減する。

 アレンほど軽快に動けないダナンに至っては、ただの的になってしまう。

 冒険者PT「アレイダスの剣」はレクトという存在によって支えられている、と言っても過言ではないのだ。


 そのレクトがいとも容易く崩された今、「アレイダスの剣」は薄氷の上を進むが如く厳しい戦いを強いられることになる。

 一つのミスが命取りになるという点では先程のオークロード戦とそう変わらないかも知れないが、今回は難易度が桁違いだ。

 オークロード戦では相手の攻撃をレクトがある程度防いでくれるが、この蜘蛛の化け物タナト・アラフニが相手ではそれすらできない。

 早急に決着を付けなければ、ジリ貧になるのは身体的に弱いアレンたちの方なのだ。



 戦いに目を向けてみれば、アレンたちが相当苦戦していることが分かる。


 アレンの攻撃は、殆ど効いていない。

 先程から自慢の長剣で何度も蜘蛛の化け物タナト・アラフニを斬りつけているが、その尽くが蜘蛛の化け物タナト・アラフニの外殻によって容易く弾かれている。

 斬撃系の戦技も織り交ぜているようだが、それもただ「カキンカキン」と軽い音が鳴るだけで、ダメージらしいダメージは与えられていない。


 レクトの防御も、蜘蛛の化け物タナト・アラフニの攻撃の前では紙同然だ。

 先程から何度も盾で防ごうとしているが、その都度レクトは吹き飛ばされ、地面を転がされている。

 腕や肩からは時々ミシッという嫌な音が鳴り、その度にダナンから回復魔法を掛けてもらって無理やり戦い続けている有様だ。

 蜘蛛の化け物タナト・アラフニの攻撃が集中しているせいで、レクトはお得意の戦技を発動する暇さえ与えてもらえず、ダメージは蓄積していく一方だ。


 ダナンに至っては、ほぼ回復役に徹している。

 先ほどダナンは軽めの攻撃魔法を何度か撃ってみたが、その尽くが蜘蛛の化け物タナト・アラフニの外殻によって弾かれている。

 これでは、攻撃手段の大半を封じられたに等しい。

 より強力な魔法を放つには長い呪文の詠唱が必要だが、そんな時間はない。

 前線を張っているレクトは、攻撃を受ける度に怪我をしている。彼の回復と補助に全力を注がなければ、彼は瞬く間に潰されてしまうだろう。

 攻撃に割く余裕など、ダナンにはない。


 対する蜘蛛の化け物タナト・アラフニは、思いのままに暴れ回っている。

 鉄杭のように鋭い蜘蛛の前足で突き刺し、薙ぎ払い、弾き飛ばし、アレンたちを翻弄する。

 そして、ハサミで叩きつけ、挟み、切り裂き、アレンたちを確実に追い詰めていく。

 左のハサミは途中から切断されているが、鈍器としての攻撃能力は依然として高く、一発でも貰えば軽く死ねるレベルだ。

 というか、片方のハサミを失っているせいか、なんだかとても凶暴になっているような気がする。

 硬い外殻はアレンたちの物理攻撃も魔法攻撃も物ともせず、その尽くを弾いている。

 そして、その巨体からは想像できないほど俊敏な動きで縦横無尽に移動し、反応すら難しい速度で攻撃を放っている。

 まさに超高速に移動する要塞だ。


「魔力視の眼」で確認する必要も、魔法で分析する必要もない。

 現状を見れば一目瞭然だ。


 オークロードなど、ただの前座でしかなかった。

 この蜘蛛の化け物タナト・アラフニこそが、今回の魔物の大移動の元凶なのだ。


 ジャーキーでさえ処理しきれないあの魔物の大群だけではない。

 あのオークロードとその軍団でさえも、コイツに追われてこの村に逃げて来たのだ。



 思わずチッと舌打ちをする。


 避難するのは簡単だ。

 アレンたちが必死に戦ってくれているおかげで、蜘蛛の化け物タナト・アラフニは俺とオルガを標的として見ていない。

 この機に乗じて逃げればヤツは追ってこないし、アレンたちも俺たちがそうすることを望んでいる。

 ここで俺とオルガがおさらばするのは、至極自然な流れだと言えるだろう。


 だが、それをすれば、アレンたちは確実に全滅する。


 それは、俺的にはかなりマズいのだ。


 高ランク冒険者である彼らは、ギルドにとって得難い人材だ。

 それが失われるような状況になったとあれば、ギルドは必ずやその原因を探るだろう。

 我が村に調査団を派遣し、隅から隅まで調査して回るのは目に見えている。

 その際に、俺たち──特にバームとジャーキー──が巻き込まれる可能性は非常に高い。

 トラブル到来待ったなしである。

 だから、「アレンたちが殺られた目撃者がいなくなった後にゆっくりと蜘蛛の化け物タナト・アラフニを倒す」という手段は取れない。

 間違いなく後に「蜘蛛の化け物タナト・アラフニの死体は何処へ行ったのか」「どうやって助かったのか」という話になってしまうからだ。

 そんなわけで、彼らがこのまま殺られるのは非常に好ましくない。


 それに、アレンたちをこのまま見捨てるのは、なんか違う気がする。

 彼らは自らの身を顧みずに俺たちを助けようとしてくれた、優しい人達だ。

 善には善の報いあれ。

 これは、師匠から受け継いだ、俺の信念の一つだ。

 自分の身可愛さにここで彼らを見捨てるのは、流石に少し忍びない。

 俺は半分クソ野郎で間違いないが、そこまで恩知らずではないのだ。


 兎に角、状況的にも心情的にも、アレンたちに死なれては困る。



 では、俺が戦闘力皆無キャラを捨てて魔法全開でアレンたちを助けるか?


 いや、それは最悪すぎる悪手だ。


 ここで俺が魔法を見せれば、必ず村人たち行政の人間アレンたち冒険者ギルドから追求が来る。

 俺の真意がどうであろうと、俺がどんな弁明をしようと、正体がバレてしまえば全て無意味だ。

 村の皆は、俺を「弱者の皮を被って自分たちの懐に潜り込んできた不審者」と見なすだろう。

 冒険者ギルドは、俺を「凶悪な魔物ジャーキーとバームを従える、村人に偽装した身元不明者」と考えるだろう。

 そうなったら、ピエラ村に居られなくなるだけでなく、追われる身になってしまう。

 それだけは、なんとしてでも避けたい。


 だから、俺が堂々と前に出て戦うのはナンセンスだ。



 結局、今の俺が取れる手段は、アレンたちに気づかれないよう陰ながら援護することしかない。

 が……それができれば苦労はない。


 アレンたちに気づかれないくらいの援護というのは、さじ加減が非常に難しい。

 例えば、蜘蛛の化け物タナト・アラフニの足元にこっそりと凹凸を作ってバランスを崩すとか、アレンたちの背中に追い風を送って加速させるとかくらいだろう。

 が、そんな些細なことをしたところで、あの蜘蛛の化け物タナト・アラフニが相手では無意味だろう。

 実力が拮抗している相手であれば些細な援護でも有効的に働くが、蜘蛛の化け物タナト・アラフニとアレンたちの戦いは象と蟻のデスマッチだ。実力がかけ離れている相手との戦いに小さな助けを送ったところで、焼け石に水にしかならない。

 あの蜘蛛の化け物タナト・アラフニが相手では、「目立たない程度の補助」では意味がないのだ。


 では、強力な補助魔法を使ってやればいいじゃないか、という話になるが、それにもできない理由がある。

 例えば、相手の防御力を大幅に下げることができる《神能への冒涜ベネディクシット・デウム》という9次元魔法を使ったとしよう。

 人や物の6〜9次元情報を粉々に破壊するので、使えば間違いなく蜘蛛の化け物タナト・アラフニを紙細工のように脆くすることができるだろう。

 派手なエフェクトも無く、掛けられた相手の見た目にも変化はないので、目視では魔法を使ったと気づかれることはない。

 まさにこっそりと援護するのに最適な魔法と言える。


 問題は、こういった高次元情報に干渉する魔法は必要魔力が多いこと。

 アレンたちのような魔力を瞬時に感知できる人間に気づかれずに発動させるのは、非常に難しいだろう。


 それに、全く歯が立たなかった強敵が一瞬で雑魚になってしまったら、誰だって不審に思う。

 戦場の近くにいるのは俺たちだけなので、その疑惑は必然と俺たちへと向くことになる。


 何より、こういった魔法は痕跡が目立って仕方がない。

 戦闘後に蜘蛛の化け物タナト・アラフニを解剖なんてされたら、めちゃくちゃ硬いはずの甲殻がなぜか二度焼きしたクッキーみたいにサクサクになっていることが一発でバレてしまう。

 見る人間が見れば、一発で何が起こったのか分かってしまうだろう。

 言うまでもなく、俺的には非常に有り難くない展開になる。



 ヤバい。

 八方塞がりだ。



 逃げるのは駄目。

 戦うのも駄目。

 コッソリ手助けするのも駄目。


 どんな手を講じても、必ず穴が見つかってしまう。

 最適解全部が上手くいく方法など何処にもない。

 というか、取れる手段自体がなにもない。


 時すでに遅し。


 詰みだ……。



 俺の返答を待っているオルガをチラリと見る。

 上目遣いで俺を見つめてくる彼女の瞳は、不安に揺れていた。


 喉の奥に苦い味が広がる。


 今の俺は、日本に居たときのような身軽な一人暮らしではない。

 俺の首には自分の頭だけでなく、オルガやミュート・ミューナの首もぶら下がっているのだ。


 ──俺たちは、一蓮托生。

 俺が彼女たちと出会ったあの日に言った言葉だ。


 もし俺の正体がバレれば、俺は村を出ていくことになる。

 そうなれば、オルガとミュート・ミューナもこの村を出て行かざるを得なくなるだろう。

 怪しい人間と一緒にいる者もまた、怪しい人間と断定されてしまう。

 俺と一緒に暮らしていた彼女たちが、俺の正体が明らかになった後も変わらずにこの村で生活できるとは思えない。


 スパイのような二重生活も、宛のない放浪生活も、俺一人ならなんとでもなるし、なんにも感じはしない。

 そんなものは師匠との修行で慣れっこだし、寧ろ師匠が亡くなってからはそれが俺の日常だった。


 でも、オルガたちは?


 故郷を失い、生と死の境を彷徨うような逃亡を経て、やっと落ち着ける場所を見つけたというのに、また彼女たちに放浪生活に戻れと言うのか?


「……なぁ、オルガ」


 口を開いたことを既に後悔し始めている。

 が、聞かずにはいられなかった。


「もしかしたら、この村から逃げ出すことになるかもしれない」


 喉の奥だけでなく、胸の中にまで苦い味が広がっている。

 それでも、俺はオルガに尋ねた。


「──その時は、付いて来てくれるか……?」


 嗚呼。

 我ながら、なんと最低な質問だろうか。


 家族同然だと言いながら、一連託生だと言いながら、結局、俺は何も守れないでいる。

 無数の魔法を習得していながら、数々の予防策を講じていながら、結局、俺は肝心な時に役に立たないでいる。

 この世界の魔法よりも優れていると自負していながら、この世界の人達よりもできることが多いと確信していながら、結局、俺は何もできないでいる。


「もしかしたら、名前を変える必要が出てくるかもしれないし、暫くは放浪生活になるかもしれない……」


 チクショウ。

 なんて情けないんだ、俺は。


 魔法が使えなくてもなんとかできるように達人師匠の友人たちから戦う術を学んだというのに、実際は何もできずにこうして呆然と佇んでいる。

 平穏な生活を送れるように色々とキャラ設定を考えて演じたというのに、実際は自分の足を縛って逆に何もできなくしている。

 賢しらにアレンたちを利用して我が身を守ろうとしていたというのに、実際はオルガたちを逃亡生活に巻き込もうとしている。


「でも、俺が必ずなんとかする!

 住処も、食料も、全部、俺がなんとかする!

 だから────!」



 勝手に口をついて出てくる俺の最低な言葉は、しかし、右手から伝わる柔らかな温もりによって遮られた。



 見れば、オルガが俺の右手を両手で優しく包んでいた。


「分かっています」


 俺を見上げるオルガの顔は、微かに微笑んでいた。


「本当に、あなたは『偽悪者』ですね。そんなあなただからこそ、私達は……」


 まるで全て分かっていると言わんばかりに、彼女はその深いアメジストの瞳で俺を見つめてくる。


「あなたの思うようにしてください。私は──私達は、何処までも付いて行きます」






 スッと心が軽くなった気がした。



 オルガの温もりが右手を通して全身へと染み渡る。

 いつの間に力が入っていた肩と背中が、ふっと柔らかくなった。


 俺の最低な要求が通った、とは思わない。

 でも──それでも、なんだか救われた気がした。


 解決策は、まだ思いつかない。


 でも、何があろうと、オルガたちは付いてきてくれる。


 こんな俺でも、まだ一蓮托生だと、付いてきてくれるのだ。




 ならば、俺は────






「ふむ。何やらお困りのようだな、我が主よ」



 突如、腹に響くバリトンボイスが耳に飛び込んできた。

 見れば、オルガにぬいぐるみのように抱きかかえられているバームが、そのクリクリとした目をこちらへと向けていた。



「我に考えがあるのだが、聞いてみる気はあるか?」



 ドヤ顔でそう勿体ぶるバームが、今だけは神に見えた気がした。

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