59. NP:それぞれの戦い③

 ――――― ★ ―――――




「こんな日がマジで来るなんてな……」


 2メートルを超える逞しい肉体を有するパルタゴン族の大男──ケビンは、鍬を片手に早足で駆けながらそう呟いた。


 村で唯一の薬草師であり、自分に友人でもある移住者の少年。

 彼が「ひなんくんれん」なるものを村全体で実施すると言い出した時は、「また何か変なことを始めた」程度にしか考えていなかった。

 が、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。

 村長を交えた説明会で、その「ひなんくんれん」がかなり有意義な催事であると理解したからだ。


 この村では、幸いにして魔物被害が長らく出ていない。

 出ても、精々が畑への獣害程度。人的被害に関しては、自分が生まれてこの方、一度も出ていない。

 それは偏に豊かな森と山が村の直ぐ側にあるからだ、とちゃんと理解している。

 この地域では、ほぼ全ての獣と魔物が、食べ物が沢山ある東の森と裏山に生息している。

 西と南と北にある平原には兎や鼠の魔物くらいしか生息していないので、脅威にはなり得ない。


 ただ、災難というのは、往々にして突如降り掛かってくるもの。

 その事を、自分はよく知っている。

 友人だった若夫婦が突如として病に斃れた時のように、悲劇はなんの前触れもなくやってくるのだ。

 薬草師の少年が、もう1年ほど早くこの村に来ていれば……。

 そうすれば、二人は助かっていたかも知れないのに……。

 かつてはその友人夫婦の住いだった少年の家に行くと、ついついそんな思いが頭をよぎってしまう。

 そんな経験をしているからこそ、分かってしまう。

 事前に災難に備えるという薬草師の少年の提案は、賛成こそすれ、決して反対する理由などない。


 もちろん、村人の意見は満場一致の賛成。

 村全体で、簡単な魔物講座と避難訓練が行われた。


 ただ、当時は誰もが「備えあれば憂いなし」という認識でしかなかった。

 だから、まさかその「備え」がこうも早く役に立つとは思ってもみなかったのだ。



 走りながら、ケビンは周囲をキョロキョロと見回す。


 両親と隣人一家は、既に避難所へと向かった。

 本当はケビンも一緒に避難所へと向かっていたのだが、今はこうして一人で行動している。


 その理由は、只一つ。

 道中で、トゥニの両親が泣きながら我が子を探しているのを見つけたから。


 聞いてみると、どうやらトゥニはいつものように薪となる折れ枝を集めに、一人で森の外縁近くまで行ったらしい。

 が、なぜか未だに彼女の姿を見た者がいないそうだ。


 避難はもうかなり進んでいる。

 そして、村の中では既に逃げ惑う魔物の姿もチラホラと見られている。


 このままでは、トゥニが危ない。


 自分たちの身の安全を度外視して我が子を探そうとする、トゥニの両親。

 そんな二人を、ケビンはを力ずくで制止した。

 代わりに自分がトゥニを捜索するから、と申し出たのだ。


「任せろ。俺なら魔物に襲われても返り討ちにできる」


 太い腕を見せつけるように袖を捲くるケビンに、トゥニの両親は涙ながらに感謝を述べた。

 彼らも知っているのだ、ケビンが実は荒事に弱いことを。

 体格は大きくとも、魔物と出遭ってしまえば、ケビンも他の人間同様に命の危険があるのだ。


「……行って来い、ケビン。そして、絶対に帰ってこい」


 ケビンの父親が、ゴツい手でケビンの肩を叩く。

 同じパルタゴン族である父親は、避難所の扉を内側から支えるという役割がある。

 薬草師の少年の提案で、万が一に備え、体格に優れたパルタゴン族と運動神経のいい獣人族が、倉庫の扉や壁を内側から支えることになっているのだ。

 もしも倉庫避難所の扉や壁が破られた場合、彼らは皆を守る最後の砦となる。

 だから、ケビンの父親がケビンに同行することはできない。


「任せとけ、親父。トゥニと一緒にさっさと帰ってくるからよ。おふくろも、心配すんな」


 泣きそうな顔で抱きついてくる母親。

 そんな彼女の華奢な背中を安心させるように撫でてから、ケビンは走り出した。



 そうして、今に至る。



 ケビンは今、村の中心から南東に向かって捜索している。

 トゥニがいるであろう方向だ。


 森に近づくに連れ、魔物の姿が多くなっていく。

 それらを隠れてやり過ごしながら、ケビンは少しずつ進む。

 幸い、殆どの魔物が脇目も振らずに西側へと逃げているので、ケビンに関心を持つ魔物はいなかった。


 大声を上げてトゥニに呼びかけたいところだが、村の中は既に魔物が跋扈する魔境となっている。

 この状況で声を出せば、瞬く間に魔物に囲まれてしまうだろう。

 なので、ケビンは目視だけでトゥニを探すしかない。

 捜索は、自然と難航してしまう。


 そろそろ森の外縁に着くかというところで、ケビンは異様な光景をみつけた。

 片耳がちぎれたダイアウルフが、小さな納屋の前で身を低くしたまま、まるで敵を威嚇するかのように低く唸っているのだ。


 ──誰かがそこにいる。


 ケビンは反射的にそう悟った。


「トゥニかっ!?」


 呼びかけると、納屋から「ひっ」という小さな悲鳴がした。

 幼い女の子の悲鳴──トゥニの声だ。


 ──トゥニが、ダイアウルフに襲われようとしている。


 状況を瞬時に把握したケビンは、ダイアウルフに向かって渾身の力で吠えた。


「俺が相手だ、この犬っころ!!」


 トゥニに向かって唸っていたダイアウルフが、グルリとケビンの方に向く。

 そして次の瞬間には、容赦なくケビンに飛びかかってきていた。


 見れば、ダイアウルフの後ろには、涙で頬を濡らてガクガクと震えるトゥニの姿があった。


 探していたトゥニが見つかった──そのことに安堵する。

 トゥニへと向けられていた敵意が自分に移った──そのことに更に安堵する。

 が、同時に、それ以上の恐怖を感じる。


 片耳がちぎれているそのダイアウルフは、両目を食欲と狂気でギラギラと光らせながら、ケビンを食い殺そうと飛び掛かってきている。


 話が全く通じない、殺意しか映していない瞳。

 血生臭さすら漂う、鋭い牙だらけの大きな口。

 容赦なく迫りくる、凶器さながらの鋭利な爪。


 戦闘とは無縁なケビンにとっては、そのどれもが身の毛をよだたせるものだった。


 食欲に燃える瞳に、戦慄が走る。

 捕食対象として見られるということがこれほどまでに恐ろしいとは想像すらできなかった。


 開かれた鋭い牙に、恐怖が募る。

 どれだけ立派で丈夫な体格を誇ろうと、あの凶悪な牙に首元を噛まれたら一巻の終わりだ。


 足先から覗く爪に、絶望が過る。

 どうしても助からないという幻像が脳裏を占め、ただでさえ鈍くなった四肢を完全に縛る。


 罠を使って狩人の真似事をしていた頃では経験したことがない「剥き出しの殺気」を向けられ、たまらず足が竦む。

 体格が大きくて口調が荒いケビンだが、彼は生粋の平和主義者なのだ。

 徴兵された経験もなければ、まともに戦ったこともない。

 本物の殺気を向けられて平気でいられるはずがなかった。


 ──死ぬ。

 ──これは死んだわ。


 迫りくるダイアウルフに、思わず己の生を諦める。


 ──その直前だった。


 父親に叩かれた肩の感触と母親に抱きしめられた温もりが、脳裏に蘇った。


 絶対に帰ってこいと送り出してくれた父親のその手は、微かに震えていた。

 無言で抱擁してきた母親のその瞳には、大粒の涙が溜まっていた。


 無口で不器用な親父のそんな姿を見たのは、生まれて初めてだった。

 肝っ玉母さんな母親のそんな姿を見たのは、生まれて初めてだった。


 そんな弱々しい両親の姿が意識を掠め、ケビンは頬を打たれたように正気に戻る。


 ここで死ぬわけにはいかない。

 絶対に、ここで死ぬわけにはいかないのだ。


「おおおぉぉぉ!」


 手に持っていた鍬を、反射的に真横に振るった。


 バキャッ! と言う音とともに、木製の鍬が飛び掛かってきたダイアウルフの脇腹に直撃し、ダイアウルフを真横に吹き飛ばした。

 が、老朽化した鍬は、その一撃に耐えきれなかった。

 木製の柄は、ケビンの手元部分からポッキリと折れてしまっている。

 ケビンの手に残ったのは、斜めに折れて短くなった柄だけ。


 殴り飛ばされたダイアウルフは、「ギャンッ!」と悲鳴を上げたが、すぐに立ち上がった。

 今にも再び飛び掛かってきそうな体勢で、ケビンに向かって低く吠えている。



 ふぅ、とケビンは短く息を吐きだして己を落ち着かせる。

 すると、過剰分泌されたアドレナリンのせいで震えていた指先が、少しだけ動くようになった。


(思い出せ。ナインに教えてもらっただろう)


 魔物講座で薬草師の少年に教えてもらったことを懸命に思い出す。



 友人である薬草師の少年は言っていた──



「獣系の魔物は、反応速度と身体能力が人間とは比べ物にならないくらい高い。だから、相手の攻撃を躱せるとは思わない方がいい。同じ理由で、走って逃げ切るのも不可能と考えた方がいいだろう」


 ならば、どうすればいいのか?


「魔物と相対した時に最も重要なのは……如何に『致命傷を負わない』か、そして如何に『怪我を少なくする』かだ」


 もちろんその方法も、友人である薬草師の少年は教えてくれていた。


「獣系の魔物が出してくる最悪の即死攻撃は、首に噛み付くことだ」


 獣や獣型の魔物は、獲物の首筋に噛みついて窒息や出血多量を引き起こすことで獲物を絶命させる。

 喉に噛みつかれれば、肉が柔らかい人間では絶対に助からない。

 気管を噛み千切られれば即死。

 頸動脈を傷つけられれば致命傷になる。


「だから、首周りは何があっても絶対に死守しなきゃ駄目だ。手足をやられても、首さえ守れれば、助かる見込みが残る」


 これこそが、少年が語った「致命傷を負わない」という目標の真意だ。


 それを思い出したケビンは、視線をダイアウルフに固定したまま、徐に両腕を首の高さまで持ち上げた。

 ボクシングのファイティングポーズに似た姿勢だ。

 これで一応、首元をガードする姿勢が取れたことになる。


「次に厄介なのは、噛みつかれた後に暴れられること。腕や足に噛みつかれてグリングリン捻られたり、左右にブンブン首を振られたら、そのまま四肢を持っていかれてしまう」


 即死はしないものの、そうなってしまっては出血多量で危険な状態になってしまう。

 たとえ助かったとしても、余生を腕一本か足一本だけで送らなければならなくなってしまう。

 片端者が気楽に生きていけるほど、この世は甘くはない。

 肢体の喪失は、農民にとっては致命的だ。

 命はもちろんのこと、腕や足を失わない立ち回りも重要となる。


 これこそが、少年が語った「怪我を少なくする」という目標の真意だ。


(確か、腕を交差して防御、だったよな)


 ケビンは講義の内容を思い出して、構えた己の両腕を動かす。

 右腕を前に突き出し、左腕を横にして右腕の上に乗せ、両腕で「十字」を作る。

 突き出した右手には、先端が尖って杭のようになっている折れた鍬の柄を握っている。


 薬草師の少年の話によれば、獣型の魔物──特に村の周辺でも見かけるダイアエルフなどは、噛む力が強く、鋭い牙が肉に刺さってしまえば、引き離すのはまず無理なのだそうだ。

 このときに大事なのは、肢体を引き千切られないこと。

 彼らは獲物を早く絶命させるために、噛み付いた後に体全体で捻りを掛けたり、激しく首を振って肉を引き裂く習性がある。

 無防備なままこれをやられたら、間違いなく腕や足を持っていかれてしまう。


「両腕をこうやって十字に交差させることによって、重ねた腕と腕の間に隙間ができる。それが可動ジョイントとして働くから、たとえ上下から噛まれて捻られても、この隙間が緩衝となってすぐには噛み千切られなくなるんだ」


 少年の言葉が正しいことは、村の守護神であるジャーキーの協力のもと、村人全員の前で実証されている。

 筵を腕に巻いて、それをジャーキーに軽く噛ませて暴れさせたその実演は、村人たちに実感と自信を持たせてくれた。


 もちろん、腕を交差させただけで攻撃を防げるわけではない。

 鋭い牙を突き立てられれば肉は抉れるし、噛まれた状態で暴れられれば肉をごっそりと持っていかれてしまう。

 噛まれる以上、重傷は免れない。

 だがそれでも、「直ちに手足を失う可能性が低くなる」という知識は、戦いの素人である村人たちの心の支えになる。

 過信は禁物だが、方法としてはある程度有効なのだ。


「トゥニ! 俺がこいつを片付ける! だからもう心配するな!」


 ダイアウルフの後ろで震えるトゥニを勇気付けるために、精一杯の虚勢を張る。

 トゥニには、いつでも動けるように冷静さを取り戻してもらわなければならない。

 恐怖に身動きが取れない状態では駄目なのだ。


 ──なぜなら、これからの行動が肝心なのだから。


 思い出されるのは、友人である薬草師の少年の言葉。


「さて、身を守る方法を色々と語ったけど、一番難しいことが最後に残っている。それが『如何にして逃げるか』だ」


 相手の攻撃を一度防いだだけで「はい終わり」なはずがない。

 致命傷を回避できたとしても、攻撃され続ければいずれは命を失うことになる。

 これまで少年が教えてくれた事柄は、全て「時間稼ぎの方法」でしかない。

 真に重要なのは、如何にして逃亡するのか、ということ。


(確か、獣の習性を利用する、だったな)


 少年の話によると、獣は逃げる相手へは一切容赦しないが、反撃してくる相手には攻撃を躊躇う習性があるという。


 自分を目の前にして怯む相手、特に背を見せて逃げる相手は、体格の大きさに関係なく被食者獲物として認識するらしい。

 逆に、威嚇してきたり、反撃してきたりする相手へは警戒心を抱き、軽々に攻撃してこなくなるそうだ。

 特に、有効的な反撃をしてくる相手──大変な苦痛を与えてきたり、大怪我をさせてくるような相手に対しては、もう一度襲うどころかさっさと逃げ出すらしい。


 たまに大熊が子犬に追い回される光景を眼にするが、それはまさにこの習性が両者に上手い具合に働いたために起きていること。

 子犬は威嚇のために吠え、大熊は自分に立ち向かってくる子犬に驚き怯み、それを見た子犬が「あ、こいつ格下だわ」と判断して襲いかかる。襲われた大熊は「もしかしてこいつ俺より強い!?」と習性に駆られて逃げ出す。

 こうして、この「小が大を追い回す」という構図が生まれるのだ。


「要するに、相手に『こいつと戦っても割に合わない』と思わせることができれば助かる、ということだ」


 それが、村人が魔物の襲撃から生き残る唯一の道である、と少年は断言した。


 ゴクリ、とケビンは唾を飲み込む。


 勝利への道筋は見えてきた。

 要は、相手にある程度の怪我を負わせればいいのだ。


 幸い、今ケビンが相対しているダイアウルフという魔物の毛皮は、そこまで強度があるわけではない。

 小さな刃物でも傷つけられるし、何なら尖った枝でも怪我を負わせることができる。

 当たりどころが良ければ、仕留めることすら可能かもしれない。


 右手に握っている折れた鍬の柄に視線を向ける。


 長さ15センチほどの、先が尖った木製の柄だ。

 見ようによっては、木杭に見えなくもない。


 今のケビンが有する武器と呼べそうなものは、これだけだ。

 これでどうやって凶暴なダイアウルフに攻撃するのか。



 ──残念ながら、それを考える時間は与えられなかった。



 ヒッ! というトゥニの悲鳴が耳に届く。

 見れば、大きく開かれたダイアウルフの口が、ケビンの眼前に迫ってきた。


「クソッ!!」


 首を守る。

 その一念で、ケビンは交差した両腕を持ち上げた。


 瞬間、激痛が両腕を襲う。


「ぐあああぁぁぁ!!」


 杭のような牙がケビンの両腕に突き刺さり、肉を抉る。

 数瞬の後に、鮮血が両腕から滴り始めた。


 噛み付いてきたダイアウルフは「グルルルッ」と唸る。

 そして、薬草師の少年の言葉どおり、ケビンの両腕を咥えた状態で暴れ始めた。


「ぎゃあああぁぁぁ!!」


 何が起きるか分かっていても、痛みはなくならない。

 ケビンは激痛に悲鳴を上げ、辺りに鮮血を撒き散らす。


 このままでは危険だ。


 そう分かってはいても、頭が思うように働かない。

 これからどうすればいいのか、教えてもらったことが脳内を素通りする。

 恐怖と焦りで、思考が空転する。

 戦いの素人であることがこうまで祟るのか、とケビンは歯噛みした。


「ケビィィィン!!」


 トゥニの悲鳴が聞こえた。

 叫んでいるのは、自分の名前だ。


 あの気弱なトゥニが──恐怖に震えてまともに声すら出せなかったトゥニが、自分の名を呼んでいる。

 何故か?

 自分の身を案じて、健気にも警告を発してくれたのだ。


 失いかけていた理性が、一気に引き戻される。

 両親に続き、またしても周りに救われたな、と頭の片隅で自嘲する。


「おおおぉぉぉぉぉ!!」


 裂帛の咆哮を上げ、ケビンは両脚をダイアウルフの首に回す。

 そして、そのまま両脚でダイアウルフの首を固定するように締め上げる。


 友人である薬草師の少年の教導が脳裏に蘇る。


「手足を食い千切られる原因は、人間の四肢には関節が幾つもあって、捻られる際に四肢と胴体の動きがバラバラになるからだ。

 例えば、ダイアウルフに腕を噛まれて暴れられた場合、大抵の人間は反射的に腕を引っ張ったり庇ったりする。噛まれた腕を捻られても、胴体は寧ろ腕の動きに抵抗しようとする。それでは捩じ切られて当然だ」


 では、どうすればいいのか?


「方法は2つ。噛まれた箇所の動きと同じ動きをするか、魔物が暴れられないようにするか、だ」


 前者は、普通の人間にはできない。

 噛まれた箇所と同じ動きをするということは、例えば腕を捻られた時にそれと連動して自身の身体も一回転する、ということだ。

 関節を極められた状態を宙返りして抜け出すなど、武の達人にしかできない神業。ごく普通の農民が真似できるわけがない。


 現実的なのは、どう考えても後者の方法だろう。


「ダイアウルフやファイアフォックスのような四足獣型の魔物は、首さえ固定してしまえば大した攻撃はできなくなる。こうやって……よっと……こんな風に、両腕もしくは両脚を相手の首に回して、自分の身体と相手の口を固定させれば、いくら暴れられても大したことにはならない」


 と、少年は腕を噛まれた状態で両脚をジャーキーの首に回して挟み、所謂「首固め」をしてみせた。


 今のケビンは、まさにそのときの実演を再現しているのだ。

 両腕をダイアウルフの口で咥えられている状態で、ダイアウルフの首を両脚でガッチリと締め上げている。

 これなら大きく暴れられまい。


 案の定、首を激しくブルブルと振るって暴れようとするダイアウルフだが、頭全体をケビンに抱え込まれている状態なので、動くに動けない。

 懸命に首を動かそうとするが、頭の動きに連動してケビン自体も一緒に動いているので、いつものように獲物の四肢をもぐことができない。


 ダイアウルフが、目に見えて焦り始める。

 自分のお得意の攻撃が封じられたのだ。

 魔物であるダイアウルフに取れる手段は限られている。


「ぐっ!!」


 背中に鋭い痛みが走り、ケビンは思わず呻きを漏らす。

 焦るダイアウルフが、前足でケビンの背中を引っ掻きだしたのだ。

 身体の背面──背中と腰と尻と腿裏に、引っ掻き傷がどんどんと増えていく。


 このままではマズいと感じたケビンが、勝負に出る。


「うおおおぉぉぉ!」


 ケビンは、折れた杭状の柄を握っている右腕に渾身の力を込める。

 ケビンの右腕は、まっすぐ前に伸ばした状態で、真正面からダイアウルフに噛みつかれている。

 つまり、ケビンの右腕は今、ダイアウルフの口の中にある。

 そして、その杭のような柄もまた、ダイアウルフの口の中にあるのだ。


「食らえ、犬っころぉぉぉ!!」


 叫ぶなり、ケビンは右腕を乱暴に動かし始めたのだ。

 鋭く尖った鍬の柄を、意図的にダイアウルフの口周りに突き立てる。

 もちろん、交差した両腕を口に咥えられている状態では、大した攻撃はできない。

 それでも、ケビンは我武者羅に折れて尖った鍬の柄をダイアウルフに突き立てた。


 グサリ、グサリ、グサリ。


 鋭い先端がダイアウルフの口の中を傷つける。


「キャイィン!」


 思わぬ反撃に怯んだダイアウルフが、思わず噛む力を緩める。

 それでも、ケビンの両腕に深く突き刺さたった牙が抜けるまでには至らない。


 が、両腕の位置を少し変えるだけの隙間はできた。


「おおおぉぉぉ!!」


 ケビンが行動に出た。

 なんと、右腕を引き抜くのではなく、逆に肩までダイアウルフの口内に突っ込んだのだ。


「──っ!?」


 このままダイアウルフがもう一度顎に力を入れれば、ケビンの右腕は付け根から噛み千切られるだろう。

 が、喉奥へと腕を突っ込まれたダイアウルフにはそれができない。

 反射的に吐き出そうとして、顎に力が入らないのだ。


 今だ。

 ケビンは、最後の勝負に出る。


 鍬の柄を持った右腕が丸ごとダイアウルフの口に入ったのだ。

 やることは決まっている。


「うおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!」


 鋭くなった鍬の柄の先端を、ダイアウルフの口内から上に──喉奥や上顎に向かって乱雑に突き刺し始めた。


「ギャウゥゥゥゥゥン!」


 ダイアウルフが大きな悲鳴を上げる。

 噛み付いていたケビンの両腕を吐き出そうと、噛み付いていた顎を外す。


 が、ケビンは離れない。


「うおぉぉぉぉぉぉ!!」


 両脚で首を締め上げたまま、口の中に深く突き込んだ右手を我武者羅に動かし、更にかき回す。

 その動きに連動して、鍬の柄の先端が容赦なくダイアウルフの喉奥を傷つける。


 ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ。


 動くたびに、生々しい音が響く。


 腕力の強いケビンが、鋭い鍬の柄を持って全力で喉奥を掻き回しているのだ。

 最初こそケビンから逃れようと懸命に身を捩っていたダイアウルフだが、その動きは徐々に弱まり、やがてピクピクと痙攣するだけになっていった。


 そして、数分後。


 はぁ、はぁ、と荒い息を吐きながら、ケビンはようやく動かなくなったダイアウルフの口から自分の両腕を引き抜いた。

 噛み跡だらけの両腕は、ボロボロだった。

 流れた血で両肩から下は赤黒く染まっており、牙が刺さっていた箇所は肉が大きく抉れている。

 引き裂かれたような傷も無数にあり、どれも信じられない程に深い。

 噛み千切られはしなかったものの、これがちゃんと治って元通りに動かせるのかは甚だ疑問だ。

 大量に分泌したアドレナリンのおかげで痛みは感じないが、視野が狭窄しているし、両手足もプルプルと震えて言うことを聞かない。

 勝利の余韻を噛み締める余裕など何処にもない。

 むしろ、眼前を過ぎった死を避けられたことに半ば放心している有様だ。


「うわあああぁぁぁ〜〜ん!」


 小さな体がタックルしてきた。


「ケビィィィ〜〜ン!!」


 大泣きしているトゥニだ。

 小さな体はまだプルプルと震えており、小さな両手はビックリするほど冷たい。

 それでも、安堵したのか、彼女はケビンの胸元にしがみつき、繰り返しケビンの名を叫んだ。


「もう大丈夫だぞ、トゥニ。悪い魔物は俺がやっつけたからな」

「で、でもぉぉぉ〜〜!! ケビンのう、うでがぁぁぁぁ〜〜!!」


 号泣するトゥニに手を回して慰めようとしたが、腕が動かない。

 おそらく、何処かの腱が切れているのだろう。

 可哀想なくらいに大泣きしているトゥニの前で無様な姿は見せられない、とケビンは怪我のことを考えるのをやめた。


「大丈夫だ。これくらい、すぐに治るって!」

「でもぉぉぉ〜〜!! わだじのせいでぇぇぇ〜〜!!」


 目と鼻から汁を垂れ流しながら自責するトゥニ。

 そんな彼女を安心させようと、ケビンは不敵な笑みを浮かべた。


「なに馬鹿言ってやがる。お前のせいなわけないだろう? これは全部、あのダイアウルフが悪んだ。だから、お前は余計なことを考えるな!」


 側に転がっている片耳がちぎれたダイアウルフを顎で指しながら、ケビンは男臭い笑みを泣きじゃくるトゥニに向ける。


「そんなことより、お父さんとお母さんが心配してたぞ。さっさと避難所に行こうぜ」


 顔を真赤にして泣きじゃくるトゥニがコクリと頷く。

 それを見て、ケビンは立ち上がる。


 あとは、魔物を避けながら避難所に辿り着くだけだ。


 そこに行けば、トゥニの身も安全になる。

 彼女の両親もそこにいる。


 それから、親父とおふくろにも無事を伝えなければならない。

 この様を見られたら叱られるかもしれないが。


 友人である薬草師の少年も、既に避難しているだろう。

 この動かない両腕も診てもらわないといけない。

 優秀な薬草師である彼なら、なんとか治してくれるだろう。


「行くか、トゥニ」


 動かなくなった左手の袖を、トゥニがきゅっと小さく掴む。

 それを確認すると、ケビンは村の中心──避難所の方へと視線を向けた。


 魔物の数は、着実に増えている。

 無事に避難所まで辿り着けるかは正直、賭けだ。

 でも、絶対にたどり付いてみせる。


 隣で潤んだ瞳をジッと自身へと投げかけ続ける幼いトゥニを引き連れながら、ケビンは歩み出した。

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