42. EO:He knew every Magic under the sun

 ――――― Episode Olga ―――――




 コンコン、と黒いボブショートの先端に紫のメッシュが入ったデウス族の少女──オルガは家主の少年の寝室の扉をノックする。


「おはようございます、ナイン。起きていますか?」


 返事はない。

 ということは、既に起きているのだろう。


 こういう場合、家主の少年がいる場所は2つだ。

 トイレか、彼の仕事場か。


 仕事場というと仰々しく聞こえるが、一農村に住む薬草師の仕事場など、台所か物置に毛が生えたようなもの。ただ単に「仕事をする場所」というだけで、街に住む腕利きの職人が持つような本格的な工房などは望むべくもない。

 それが常識だ。


 しかし、この家に常識そんなものは存在しない。

 少女はそのことを学習していた。


 なぜなら、ここは「ナインの住む家」だから。

 この一言に尽きる。




 少年の寝室を後にし、少女は廊下の一番手前の部屋──少年の仕事場を目指す。

 部屋の前に着くと、扉をノックし、レバー型のドアノブを捻り、そのまま扉を開ける。


 少女の目の前に現れたのは、ごく普通の薬草師の部屋。

 四角い部屋の右側の壁には長机が壁際に設置され、作業台代わりになっている。

 机の上にはすり鉢や薬研などの道具類と、何が入っているか分からない小さな麻袋や木箱が散乱している。

 机自体にも様々な色の汚れが染み付いており、擦り傷も多い。いかにも使い込まれた感がある机だ。

 左の壁には扉も引き出しもない簡易な棚が置かれており、怪しげな液体の入った瓶が所狭しと並べられている。

 瓶入りの液体は、暗い緑色のものもあれば、泥水のようなものもある。淀みや沈殿物があるものが殆どで、これが薬と言われても誰も信じないだろうという代物ばかりだ。

 部屋の奥の壁には窓があり、窓の下には水の入った樽と空の桶や手ぬぐいなどが置かれている。ここは簡易な洗い場だ。

 天井には数本の植物が吊り干しにされており、いかにも「薬草師の作業場」という雰囲気を醸し出している。

 何処をどう見てもごく普通の、村付きの薬草師の作業場だ。

 ただ、少女は知っている──この部屋がただのカムフラージュであることを。




 部屋に誰もいないことを確認し、少女はそっと扉を閉めた。

 が、部屋の前からは立ち去らない。

 扉を閉めたことを確認した少女は、今度は「コン、コンコンコン、コンコン」と1度と3度と2度に分けて扉をノックし、「マウンテン」と扉に話しかけ、「ガチャガチャッ」とドアノブを連続して2度捻り、一拍置いてから扉を押し開けた。

 まるで何かの符丁か儀式のような操作を経て開けた扉の向こうには、先程とはまるで違う部屋があった。

 部屋の広さは、先程の部屋のほぼ3倍。実際の建築面積を遥かに超えた広さだった。

 部屋に窓はない。それなのに室内は煌々と明るく照らされている。光源は、全体的に白く光る部屋の天井。少年によると「一面型魔導無影灯」という魔法道具マジックアイテムを天井に設置しているらしい。

 家具の配置は、先程の部屋とほぼ同じ。

 しかし、その質と内容は天地ほどの差がある。

 向かって右側にある作業台は、白色の謎素材で出来ている。触るとツルツルに磨かれた石材のような感触だが、微かに柔らかさのようなものがあり、石材特有の冷たさは感じられない。少年曰く「完全無反応白鉄デッドマンズアイアン」という材料らしいが、少女は聞いたことがなかった。

 その作業台の上に置かれているのは、これまた見たこともない奇妙な器具ばかりだ。複雑に組み合わさったガラス瓶、難解極まりない魔法陣らしきものが描かれた金属板、猫が一匹まるまる入る程大きい円柱状のガラス容器、そこから伸びる絡まった糸玉のような管の数々。ここに置かれている器具で少女が用途を推測できるものは一つもなかった。

 左側の壁にある棚には、先ほどの部屋と同じように様々なものが並べられている。が、こちらのほうが理路整然と整理されており、種類も多い。先程の部屋に置かれている薬品は汚らしい見た目のものばかりだったが、こちらのは濁りや沈殿物がなく、透き通った綺麗な色をしている。

 棚の片隅には「ボツ品」というラベルが貼られた小さな箱があり、そこには件の「光る失敗作」が3本ほど入っていた。

 部屋の奥側の壁には作業台と同じ材質で出来た流し台があり、その上には金属製の管が取り付けられている。その管は、上にあるレバーを捻ると澄んだ水がドバドバと流れ出る仕組みになっている。少年の発明品の一つで、「蛇口」というらしい。家の台所でも使っているから、少女には慣れ親しんだ魔法道具マジックアイテムである。

 この部屋こそ、少年の本当の作業場──彼の工房だ。


 この扉と部屋のからくりについて、少女は一度少年に訪ねたことがある。


「あの扉には魔法を掛けてあるんだよ。特定の動作と合言葉に応じて、指定した部屋に繋がるようになっている。で、この建物の実面積よりも広い部屋だけど、これは俺が魔法で作り出したものだ」

「……作り出す? あるはずのない空間を、ですか?」

「ああ。1から9次元までの実在空間にガウス多面構造を多重定義して、《占星神の次元杭ナクシャトラ・アンカー》で全構造体を固定したんだ。俗に言う『虚数空間』ってやつだな」


 当然のことながら、少女には少年の言葉の半分も理解できなかった。

 だが、問題はない。

 たとえ自分の目には神の如き御技にしか見えなくとも、それを行った本人が誇りもせずにケロッとしているのだから、それ以上何かを考える必要も、何かを言う必要もない。

 害さえなければ、すぐに慣れるのだから。




 少年のを覗いた少女は、少年がそこにもいないことを確認し、再度扉を締めた。


 この扉は、3つの部屋に繋がっている。

 一つは、カモフラージュ用の

 一つは、少年が実際に仕事に使っている、異空間にある

 そして最後の一つが、彼が鍛錬に使っているだ。


 最初の部屋はカモフラージュだけあって、どのようにしても入ることができる。

 ノックせずに扉を開いても、扉を破壊しても、何なら窓から入っても、繋がるのはあのカモフラージュ用の仕事場だけだ。

 だが、他の二つの部屋を訪れたいのであれば、決まった方法で扉を開けなくてはならない。


 少女は再度扉をノックする。

 今度は、ノックする箇所が決まっている。

 この扉は左勝手の内開きだ。ドアノブは扉の左側、蝶番は扉の右側に付いおり、部屋の中へと押して開く構造になっている。

 少女がノックしたのは、扉の右上の端と右下の端、それぞれを3回だ。続けて、ドアノブには手を触れず、「ヴァレイ」とドアに向かって合言葉を呟き、最後にドアの右側──蝶番がある方を押した。

 すると、左開きであるはずのドアは、ドアノブを軸に──右開きに開いてしまったのだ。


 少年によれば、このように設計した理由は「家族以外の人間が間違っても入ってこれないようにするため」だそうだ。

 確かに、こんな開け方のドアなど存在しない。

 どれだけ突飛な発想を持つ人間でも、左開きの扉をドアノブに触れずに右開きで開けようとはしないだろう。


 まるで忍者屋敷か騙し絵のような扉を潜り、少女は新たに現れた部屋へと脚を踏み入れる。


 いや、部屋などというチンケな場所ではない。

 そこは、巨大な空間だった。


 ざっと100メートル四方はあるだろうか。天井も途方もなく高く、そして空間全体が明るい。

 家具などは一切ない。というか、塵の一つもない。

 ただただ広く、ただただ空っぽの空間だけがあった。

 強いて言えば、扉を潜った入口付近──玄関マットに当たる場所に四角い魔法陣が地面に刻まれているくらいか。

 少年曰く、その魔法陣は部屋に入ってきた人を守る結界で、その中からは絶対に出ては行けないそうだ。


 なぜならば、ここは少年の稽古場。

 危険な魔法が充満している死の空間だからだ。


 だだっ広い空間の真中に、少年は一人佇んでいた。

 少女は少年の姿を認めたが、声は掛けなかった。


 少女は、少年に見惚れていた。

 ただただ見惚れていた。


 静かに佇む少年の周りには、無数の文字や魔法陣らしきものが漂い、回転し、絡まり合っていた。

 幾何学的な図形、不思議な絵のようなもの、見たこともない文字や記号の数々。

 それらがときに規則的に融合し、ときに変則的に組み合わさり、すぐに変形して分散し、少年の周囲を満たしていた。

 周囲の空間は絶えず脈打つように揺らめき、複雑に歪み、眩く輝き、淡く暗転し、休むことなく変化し続けている。

 まるで、そこだけが異界へと繋がっているかのように。


 その中央に少年は佇み、瞑目していた。

 見れば、少年の体はなぜか無数の像が被っているかのようにブレており、輪郭がはっきりとしない。無数の影が現れては消え、数多な半透明の何かがその身を包んでいるのだ。

 そんな少年は、少女にも分かるほど濃密な魔力を纏っていた。


 少年を見つめる少女は、微動だにできない。


 美しかった。

 幻想的だった。

 神々しかった。


 幾度となく見てきたが、このようになった少年の姿からは、未だに目を離すことができない。


 力の奔流を感じた。

 世界の鼓動を感じた。

 神の息吹を感じた。


 まるで魅了の魔法でも掛けられたかのように、少女は少年の姿を凝視し続けた。

 たとえこれが少年にとっての「日課の早朝運動あされん」でしかないと知っていても、見ずにはいられなかった。


 数秒後。

 少年の周りに漂っていた現象ものが全て消え去た。

 途端に、少女は世界から音が消え失せたかのような錯覚を覚えた──もともとこの部屋には音など何一つなかったというのに。


 それでようやく少女の意識が現実へと引き戻される。


「おお、オルガ、おはよう」

「……おはようございます、ナイン。朝食ができましたので、呼びに来ました」


 内心に湧き上がる微かな喪失感を振り払い、少女は少年に要件を伝えた。


「おう。ちょうど朝練も終わったし、腹減った」


 そう言って、少年は部屋を後にする。


 本人が言うには、これは「魔法の練習」で彼の「日課」らしいのだが、少女には創世の一幕か終末の光景にしか思えなかった。

 あのような膨大な力を意のままに転がすことがただの練習なら、彼の本気は如何ほどのものか。

 そこまで考えて、少女は再び首を振った。


 考えるだけ無駄。

 だって、「ナイン」だから。


 この魔法の言葉は、この家に偏在する全ての「異常」を瞬時に「普通」に変えてくれる。


 スッキリと切り替えた少女は、少年と一緒に広い空間を後にした。






 ◆






 朝食を終えた少女は、適度に腹が膨れる心地よさに満足の吐息を漏らす。


 今朝の献立は、フォーホーンキャトルの焼き肉と野菜たっぷりのスープ、そして「麦飯むぎめし」という大麦を炊いた料理だ。

 この麦飯というものは、少年と住み始めてから知った新しい料理だった。


 この村では、春小麦と冬小麦の両方を栽培している。

 冬が暖かくて土地が肥沃なこの村だからこそ許される栽培方法だが、もちろん年中小麦だけを栽培し続けているわけではなく、大麦も少量ながら栽培している。


 春小麦は春に種を撒き、その年の秋に収穫する。そして冬小麦は秋に種を撒き、次の年の春に収穫する。

 こうして聞くと種まきの時期と収穫の時期がちょうど良く繋がっていて一年中小麦を栽培し続けられるように思えるが、実際にはそうはいかない。

 春小麦と冬小麦の収穫・種まき時期には若干の重なりが存在する上に、それらの工程は完全手作業で行わなければならないからだ。

 完全手動による農作物の収穫と乾燥、収穫後の畑の処理と掃除、次の栽培に向けての下準備などなど、要する手間と時間はかなりのものになる。

 そのため、春小麦と冬小麦を一年のうちに両方栽培することは不可能なのだ。


 その点、大麦は秋口から冬前に栽培でき、早いものでは春前に収穫できる。

 一年目に春小麦を栽培し、秋に収穫する。そして冬は大麦を栽培して、二年目の夏前に収穫し、若干の休耕期間を経て秋に冬小麦を栽培する。それを三年目の春に収穫し、今度は短めの休耕期間を置いて、早めの夏終わりに大麦を栽培し、四年目の春前に強引に収穫してしまう。そうすれば、四年目の春に再び春小麦が栽培出来るようになり、このサイクルが続く。

 この方法を採用すれば、四年周期で春小麦と冬小麦を交互に無駄なく栽培でき、なおかつ大麦というおまけも得られる。


 つまり、大麦栽培は小麦の種まきと収穫時期の調整に最適なのだ。


 それに、小麦と違い、大麦は税として物納する必要がないので、品質は適当でも十分。

 どうせ売っても大してお金にならないし、結局はあまり美味しくない大麦粥にして食べるか、挽いて粉にした大麦粉で固くて味気ない大麦パンにするのだから、寧ろ品質に拘る者の方が少ない。

 だから、早めに栽培して早めに収穫してしまっても一向にかまわないのだ。

 勿論、他の地域では大麦が主産物の村も多く存在するし、そういった所では税金として大麦の現物上納が義務付けられているのでこだわりを持って良質な大麦を産出するが、ここピエラ村では大麦は「小麦のついで」「ながら作物」という認識だ。


 村では大麦をそこまで重要視していないため、その調理方法もあまり研究されていない。

 大麦の食べ方は、ほぼ塩味の大麦粥一択。

 特別美味しくもなければ、腹持ちもそれほど良くない。


 そんな中、家主の少年がこの「麦飯」という料理を出したのだ。

 彼が言う「炊く」という料理法を知らなかった少女は、少年が木製の椀によそった麦飯を微妙な顔で眺めた。

 粥と違ってドロリとしておらず、大麦の一粒一粒が立っていた。


「んな微妙な顔すんなよ〜。意外と美味いぞ、麦飯」


 そう言って、少年は「お箸」という彼の故郷伝来の食器らしい二本の細い棒で麦飯を掬い、躊躇なく口に入れた。


「んんん〜〜〜! お米じゃないけど、これはこれで美味いなぁ!」


 至福の表情を浮かべる少年に感化され、少女も木匙で麦飯を口に含んだ。

 幾分ふっくらしているが、やはり大麦は大麦だ。

 味気がなく、食が進むわけではない。

 悪くはないが、そこまで美味しいとも思えなかった。


「これと一緒に食ってみ」


 少年から渡されたのは、一皿の焼き肉。

 数種類のハーブと塩で味付けされた、シンプルなフォーホーンキャトルの焼き肉だ。

 少年はそれを麦飯と一緒に食えと言う。


の人たちは欧米人に似て『ご飯』と『おかず』っていう概念があまりないからな。俺もフランスに行った時は『何種類もの料理を一緒に食って味が混ざらないの?』って不思議がられたっけ」


 懐かしさに目を細める少年が少女に説明する。

 なんでも、少年の故郷にはこの麦飯に似た「コメのご飯」という料理が存在し、それがパンの代わりに食べられていたらしい。

 彼にとって、この麦飯はそのコメのご飯の代用品なのだそうだ。

 だから、否が応でも郷愁を覚えるのだという。


 それをい聞いた少女は、躊躇なく焼き肉を口に含み、続けざまに麦飯を食べた。


 美味しかった。

 濃いめに味付けされた肉が淡白な麦飯と合わさり、絶妙な濃淡の美味となって口の中に広がる。

 パンはパンで独自の味があって肉は肉で単独で味付けされた「これまでの料理」とは違い、これは両者が合わさって初めて一つになる料理だ。


「な? 美味いだろ? 麦飯は濃い味付けの料理によく合うんだよ。バラ肉の角煮とか、カレーとかな」


 ニカッと笑い、少年は少女と一緒に麦飯を食べ始めた。

 この麦飯は幼いエルフの双子にも大変喜ばれ、今では月の半分程は食卓に麦飯が現れるようになった。

 麦飯の「炊き方」は少年に教わり、今ではこの家の全員が難なく作ることができるようになっている。

 正しく「この家の味」の一つになっているのだ。




 食後の怠惰に抗い、少女は裏庭へとやってくる。


 現在、少女が力を入れているのは、ハーブの栽培。

 少年から頼まれた大切な仕事だ。


 ハーブの成長は早い。

 まだ栽培を始めて一月ほどしか経っていないが、既に2回は収穫している。

 春という季節の恩恵もあるだろうが、この地域は冬でも極端に寒くなることはないので、植物の栽培に適しているのだ。

 この調子なら年中無休で収穫できるだろう、と少女は考えている。


 この家の裏庭は、全部で4つの区画に分けられている。


 1つ目はミュートが主導で手掛けている野菜畑。

 面積は4区画の中で一番広く、約50メートル四方──4分の1ヘクタール。

 栽培作物は3〜5ヶ月で収穫できるものに限定し、軌道に乗れば徐々に畑面積も種類も増やしていく予定だ。

 今はキャルロット、オルニオン、ピールマン、キャンベージ、キュウリルとブロッコリナをメインに栽培している。

 栽培時期を無視した強行栽培である。


 2つ目は、少女が手掛けているハーブ畑。

 広さは20メートル四方で、面積的には二番目に広い。

 ここでは10を超える種類のハーブを栽培しているが、侵食防止のために区画全体が少年の魔法によって隔離されている。

 村全体の消費量を賄うにはまだ足りないが、拡張工事は既に検討済みで、夏の休耕期間に実施する予定だ。


 3つ目は、少年が手掛けている薬草畑。

 ここは面積が一番小さく、10を超える種類の薬草を栽培しているにもかかわらず、その面積は約5メートル四方しかない。

 複数の薬草が適当感溢れる配置で雑に植え付けられており、まるで見様見真似で始めたは良いがすぐに飽きて止めてしまった家庭菜園のようだ。

 ただ、畑の外観とは裏腹に、薬草の生育状況はかなり良好で、産出量も低くない。

 ではどうしてこんな乱雑な状態になったのかといえば、曰く「薬草の生態と生育環境を重視したら自然とこうなっちゃった」ということらしい。

 少女も少なくないアドバイスを提示して一緒に手掛けたので、乱雑とした畑の現状に疑問はないのだが、やはり農業従事者の目からすればなかなかに残念な畑と言わざるを得ない。

 幸いなことに、村人がこの乱雑とした薬草畑を見ても、何も言わない。

 確かに、村では少年の畑仕事を免除(禁止)している。だが、それは畑仕事が彼の薬草師としての仕事の邪魔になると考えたからだ。

 薬草師の仕事をより効率的にこなすための薬草栽培は仕事の邪魔それに当て嵌まらないので、彼が畑を作っても誰も文句を言わない。

 そして、その畑の見た目がかなり残念でも、「ナインがやることだから、なんか理由があるんだろ」と考えて、余計な口出しをしない。

 そこには妙な信頼関係があった。


 そして最後、4つ目の区画。

 5メートル四方のこの区画は、丈夫な木製の柵で囲われており、更には少年による範囲防御魔法が掛けられている。

 土壌にも魔法が掛けられているらしく、常に最適なpH値と湿度に保たれているそうだ。

 そんな本気すぎる環境づくりがなされた畑の中央にあるのは──一本の樹。


 通称「コショウの生る樹ユグドラシル」。


 少年が森の中で見つけたコショウの蔓がびっしりと這った大樹である。

 あの何事にも飄々と対処する少年をして「こればっかりは命と引き換えにしても守ってみせる!」と言わしめた、この家の鎮宅の宝だ。

 だから、彼が「世界樹ユグドラシル」という大仰にも程がある名前を付けても、誰も何も言うことができなかった。


 この区画は、この一本の樹のためだけに作られたものだ。

 少女は当初、これを物凄い技術と情熱の無駄遣いと考えて呆れていたが、今ではその思いは薄れつつある。


 なぜなら、毎日の美味しい食事を根本から支えているのは、誰あろうこの樹に這っているコショウだからだ。


 この大樹とそれに這ったコショウは、少年の魔法によって常に最良の状態に保たれている。

 今はまだ植え替えたばかりで経過観察中なため収穫は控えているが、うまくいけばかなりの産出量が期待できる。

 少年の見立てでは、およそ大籠で5つ──村全体に行き渡って余りある量の生コショウを収穫できるかも知れないそうだ。

 勿論、このコショウは売ればかなりの価格になる。

 皮むきや乾燥などの下処理をすれば更に高値で売れるだろう。

 それは、小麦を主産物とする一農村では考えられないほどの大金になるだろう。

 だが、少年はそれを良しとはしなかった。


「大量に売ったら目をつけられるからな。最悪、この樹を買い取るとか言われる可能性すらある。それは、断じて許されない。断じて……断じてだ」


 大切なことなのか「断じて」と3回繰り返して言い放った少年の目には、王を守護する近衛騎士が如き硬い意志が光っていた。


 少女も、その意見には同意だった。

 金欲しさに面倒で迷惑な事態を招くなど、愚かの極みである。

 特に、この家には「異常なもの」が多すぎる。

 自分たちに注目する人間は、少なければ少ないほど好ましいだろう。


 無意識のうちに大分少年の価値観に染まってきている少女は、自分が手がけるハーブ区画に脚を踏み入れる。

 今日も、ハーブたちは鬱蒼と生い茂り、青々とした生気に満ちていた。


「この調子なら、今月中にもう一度収穫できそうですね」


 そう呟き、少女は微笑む。


 そうして畑の世話に精を出していると、いつの間にか日が傾いていた。

 ここでの生活はとても穏やかで、一日はあっという間に過ぎてしまう。


 遠くで微かに聞こえる幼いエルフの双子の元気な声。

 作物を狙う鳥獣を追い立てる白い番狼ジャーキーの足音。

 玄関の靴箱の上でスピスピと可愛い鼾を立てる黒竜バームの鼻音。

 そして──


「ただいま〜」


 ナップサックと弓を背負って帰ってきた家主の少年に、少女は応じる。


「おかえりなさい」


 少年の帰宅に、畑で作業をしていたミュートとミューナが駆け寄る。


 もうすぐ夕ご飯の時間だ。

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