39. NP:真実、噂となりて

 ――――― ★ ―――――




「ぐおぉっ!」


 アルベルトは咄嗟に剣を引き戻し、己を襲う斬撃の波動を防ごうとした。

 が、剣一本で防ぐには限界があった。


「ぐっ!」


 防御を抜けた斬撃が、左の肩口と右の脇腹を大きく切り裂く。


「〈縮地〉!」


 アルベルトは戦技を発動し、距離を取る。

 ゴブリンからの追撃はない。


 はぁはぁ、と息を切らすアルベルト。

 ズキズキと痛む左肩と右の脇腹のせいで、脂汗が滲む。

 このままでは駄目だと、アルベルトは大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。

 すると、乱れていた息が整い、失いかけていた冷静さが戻ってくる。


「……まさか、戦技まで使えるとは……!」


 警戒と感嘆が入り混じったアルベルトの呟きに、ゴブリンは大剣を片手で持ち直しながら答えた。


「せんぎ、知らない。今の、冒険者、学んだ」


 その言葉に、アルベルトは警戒度合を更に引き上げる。


 先程の技は、間違いなく〈斬撃波スラッシュウェーブ〉と呼ばれる戦技だ。

 膨大な魔力を剣身に込め、斬撃を波動として飛ばすことで離れた敵を切り裂き吹き飛ばす、人によっては切り札にすらなり得る大技だ。

 そんな技を、冒険者から学んだというのか?

 冒険者が魔物に技を教えて鍛えるなど、あるはずがない。

 であれば、この戦技は間違いなくこのゴブリンが冒険者の戦闘を盗み見て、或いは実際に対峙して、自力で習得したもの。

 それが本当なら、この上ない大問題だ。


 戦技とは、繰り返し鍛錬を積んだ先にようやく身につけることができる高等技術だ。

 普通の冒険者や兵士が生涯で身に身につけられる戦技は、精々2つ〜3つが限界だ。

 5つも戦技を持っていれば、その者は「一流の戦士」や「戦闘の達人」と呼ばれるようになる。

 それほどまでに、戦技というのは得難く、強力なのだ。


 だからこそ、このゴブリンが戦技を習得していることが空恐ろしい。


 職人の神業を1〜2度見ただけで完璧に習得できる人間がいないように、見様見真似で戦技を習得できる人間はいない。それは、武術や剣術の達人であってもだ。

 生涯を研鑽に費やす達人でさえ不可能なのだから、魔物となれば言わずもがなだろう。


 だが、このゴブリンはそんな常識を嘲笑うかのように、アルベルトの眼前で戦技を披露して見せた。

 それもキレのある──ランク7冒険者に匹敵するアルベルトですら防ぎきれないほど完成された一撃を。

 これがどれだけの脅威か、分からない人間はいない。


 驚異的な学習能力だ。

 こいつは、ここで確実に倒さなければならない。

 ここで逃がして更に成長させたら……もはや人間の手ではどうしようもなくなってしまう!

 アルベルトにはそんな確信があった。


 冒険者ギルドでは魔物の強さを「レベル」という評価基準で大まかに分類している。

 それで考えれば、ランク7冒険者に匹敵するアルベルトを圧倒するこのゴブリンは、少なく見積もっても同格であるレベル7。最悪、人類の頂点たるランク8と同格のレベル8ということもあり得る。

 そんな魔物を放っておいたら、確実に人間ではどうすることもできない存在──レベル9に育ってしまう。

 そうなってしまった魔物は、もはや生きた天災だ。


 アルベルトは一切の感情を捨て去り、集中力を極限まで高める。


 もはや戦士がどうのこうのと言っている場合ではない。

 戦士の矜持よりも、守るべきは人類の未来だ。


「〈縮地〉!」


 再び疾風の如く駆け出す。


(飽和攻撃で一気に押し込む!)


 距離を詰めると、ゴブリンに高速の斬撃を放つ。


 斜めからの袈裟懸け。

 しかし、その一撃は持ち上げられた大剣によって弾かれる。

 軽快な金属音と共に小さな火花が散る。


 が、アルベルトの攻撃は止まらない。

 体を半回転させ、振り切った剣をそのまま下から切り上げる。


「〈垂直斬波バーティカルウェーブ〉!」


 半月状の斬撃が縦に広がり、ゴブリンを股下から襲う。


「ギャギャッ!」


 ゴブリンは左にサイドステップを踏み、アルベルトの戦技を軽快に回避する。

 そのまま逸れるようにアルベルトの右側面へと踏み込み、右肩に担ぐように持った大剣をそのまま肩の上で横倒しにし、軽く上半身を捻る。

 すると、大剣は首を横から刈るギロチンと化し、アルベルトに迫る。


「ふっ!」


 アルベルトは振り上げた剣を強引に引き戻し、真横から斬りつけてくる大剣を斜め上に受け流すべく腰に力を入れる。

 受け流しは、姿勢が崩れればそのまま身体全体を持って行かれてしまい、大きな隙ができていまう。

 そのため、下半身の動きが乱れないよう、腰に適度に力を入れておく必要がある。

 それがこの重い斬撃を放つゴブリンの一撃ならば、尚の事、腰には力を込めておかなくてはならない。


 が、そんな戦士としての癖のような行動すらも、このゴブリンは読んでいた。


 アルベルトが受け流しの姿勢を取った瞬間──

 彼の首を刈るはずだった大剣は、その軌道上から外れた。


「なにっ!?」


 真横に走っていた大剣は、まるで最初からそうするつもりだったかのように突如として垂れ下がり、首を狙う軌道から腰を狙う軌道へと変ったのだ。


「ちぃっ!」


 今のアルベルトは首への斬撃を受け流すべく腰に力を入れており、両足もそうするための足さばきに入っている。

 そんな腰の入った下半身を狙った攻撃を回避するには、強引かつ大幅に姿勢を切り替える必要があり、それが大きなタイムロスとなってしまう。

 一瞬が生死を分ける戦闘においては致命的なロスだ。


 だが、それでもなんとかしなくてはならない。


 首への斬撃を防ぐ体制に入っているアルベルトは、下半身への攻撃を剣で受けることができない。

 ならば、取れる選択肢は回避のみ。


 体勢を崩すことも厭わず、アルベルトは強引に後方へと飛ぶ。

 瞬間、アルベルトの体があった場所を大剣が薙いで通った。


(厭らしい手を打ってくる!)


 思わず内心で悪態をつくアルベルト。


 戦いにおいて「厭らしい手」とは相手が最も嫌う手段であり、つまりは最高の一手だ。

 この一手で、アルベルトは姿勢を大きく崩されることになった。

 しかも、力によるゴリ押しで崩されたのではなく、変則的な技によって崩されたのだ。

 攻防を繰り返していた両者は、この一手で完全にアルベルトの防戦一方へと切り替わる。

 非常に危険な状況だ。


 地面を転がったアルベルトは、踏ん張って姿勢を正す。

 そこに、ゴブリンの大剣の柄底が迫る。


「くっ!」


 とてつもない膂力を持つ相手の柄突きだ。

 当たればただではすまないだろう。


「〈縮地〉!」


 戦技で強引に後退し、回避する。


 このまま防戦一方はマズい。

 そう考えたアルベルトは大きく息を吸い、意を決して逆に突進する。


「はぁぁぁぁぁ!」


 渾身の力を込め、ゴブリンに斬撃の嵐を浴びせる。

 右から、左から、上から、下から、斜めから、フェイントを掛け、速度を変え、強弱に変化を持たせ、戦技を織り交ぜ、打てる限りの手数で攻め続けた。


 そんな斬撃の嵐を、ゴブリンは大剣で受ける。

 高速の攻防は無数の火花を生み、連続した剣戟音を轟かせた。


 アルベルトが一方的に攻めている構図に、遠くの要塞で歓声が上がる。

 が、当のアルベルトは焦っていた。


 確かに雨霰の如く打ち込まれるアルベルトの攻撃の数々によって、今度はゴブリンが防戦一方となっている。

 だが、ゴブリンの体に届いた攻撃は、一つとしてない。

 アルベルトの攻撃はその尽くが回避されるか防がれるか、弾かれるか、いなされている。

 あるベルトには、決定的に決め手に欠けていた。


「……ウギャギャァァァ!」


 防戦一方に見えていたゴブリンが、裂帛の咆哮を上げた。

 同時に、手にしている大剣で地面を削りながら、信じられない速度で振り上げた。

 抉られた大地が一直線に弾け、魔力を宿した大量の石礫がアルベルトを襲う。


「〈岩斬突風ロックスラッシュブラスト〉か!」


 またしても戦技だ。

 広範囲に広がる石礫は、回避が難しい。

 攻撃態勢にあるアルベルトでは余計に難しいだろう。

 とても嫌らしい──熟練の戦士らしい攻撃だ。


 アルベルトは回避を捨てた。

 代わりに、石礫を全て迎撃する。


「うおぉぉぉ! 〈疾風連斬〉!」


 アルベルトの腕が霞み、目にも留まらぬ斬撃の嵐が彼の周囲に吹き荒れた。


 超高速の連続斬撃。

 ランク7冒険者ほどの実力がなければ真似ることすらできない、攻撃にも防御にも使える戦技だ。


 飛来する石の礫はアルベルトの間合いに入った瞬間、全てが粉砕される。


 石礫の暴風を防ぐことに成功したアルベルトだが、気を緩める時間など一瞬たりともなかった。

 ゴブリンの次の攻撃が、もう既に彼の下まで来ていた。


「ギョギャァァァ!」


 ゴブリンは大剣を横に構えたまま体を一回転させ、速度に乗る。

 そして、その勢いのままコマのように高速回転し、アルベルトを真横から切りつける。

 戦技〈回転切りスピンカーヴ〉だ。

 それも大質量を誇る大剣を用いた、高威力の技だ。


「うぐっ!」


 高難度戦技〈疾風連斬〉を発動して〈岩斬突風ロックスラッシュブラスト〉を打ち落としたばかりのアルベルトは、体への負担のせいで咄嗟に反応することができない。

 今の状態では、一回転目の斬撃は防ぐことができても、続く回転斬撃は防ぎきることができない。

 大怪我を負うことは必須だ。


(よかろう! 手足の一本や二本はくれてやる!)


 覚悟を決めたアルベルトは、全力で剣を構えた。




「やれやれ、あなたも年をとりましたねぇ、ローゼンベルガーさん」




 突如、第三者の声が飛び込んできた。

 気障りな、男性の声だ。


「食らいなさい。──〈強力斬パワースラッシュ〉!」


 言葉が耳に届くと同時に、回転していたゴブリンの大剣が火花を散らして弾かれる。

 ゴブリンは体勢を崩すことなく、瞬時にアルベルトから距離を取った。


 一人と一匹は同時に闖入者へ目を向ける。


 金色の巻き髪に青い瞳。

 オシャレのためか、ザックリと開け広げられた軍服の襟元。

 顕になっている胸元と同色の、色白な顔。そして、見下すように下げられた眉尻。

 貴公子然としていながらも漂う酷薄さを隠しきれないこの青年こそ、アルベルトのもう一人の同僚。

 ヤーゲン要塞の最強戦力の方翼を担っている男、イェルク・ホルベント・ニル・フリンツァー特務大尉だ。


「……フリンツァー特務大尉か。助かった」


 額に汗を浮かべながらも素直に感謝を述べるアルベルト。

 対するイェルクは。片頬を吊り上げて嗤った。


「いえいえ。年寄りの面倒を見るのも、若者の務めですからねぇ」


 アルベルトはまだ四十を過ぎたばかりだ。二十代前半のイェルクよりは年上だが、年寄りと呼ぶにはまだ早すぎる。

 つまりイェルクのこの発言は、ただの侮辱でしかない。


 ただ、そんな幼稚な侮蔑よりももっと大きな問題がある。

 イェルクがアルベルトへと向けている態度だ。

 その見下すような態度は、決して己より階級が高い軍人に向けていいものではない。


「そうか」


 だが、イェルクの性格を熟知しているアルベルトは、そんなことをいちいち注意したりはしない。

 ただ只管に受け流すだけだ。


 己の皮肉が通じなかったことに一瞬だけむっとなったイェルクだが、再び口元を歪めた。


「それにしても、酷いじゃないですかローゼンベルガーさん。この私に内緒で出撃するだなんて」

「……ああ、緊急事態でな」

「苦戦されているようですし、私が代わって差し上げましょう」


 その申し出に、アルベルトは思わず苦い顔になった。



 イェルクはアルベルトを敵視している。

 それはアルベルトが平民上がりの士官であることに起因している。


 現在の帝国は、もはや血統至上主義ではない。

 長きに渡る努力によって旧態依然とした血統主義は廃れ、社会全体が実力主義へとシフトチェンジしている。

 もちろん、貴族や平民といった身分制度はまだ存在しているし、違う身分の間には依然として隔絶した地位と権利の格差が存在している。

 だが、基本的には実力さえあれば誰もが社会でのし上がることができるようになっている。

 間違いなく周辺諸国よりは先進的な社会制度を築いているといえるだろう。


 しかし、それは帝国全体の──大まかな話だ。

 士官学校という多くの利権が絡む閉鎖空間の中では、未だに旧思想が蔓延っている。


 元々、帝国軍の士官は貴族が多かった。

 理由は単純で、士官学校に通うにはそれなりのお金が必要だったからだ。

 豪商の子弟ならばまだ何とかなるが、一般の平民では入学試験料すら払えない。

 そのため、士官学校を貴族専用の学校と勘違いしている者も少なく、開化した今日の帝国においてもその賤民的思想は未だ根深く残っている。


 アルベルトは貧しい平民のでだが、己の努力と才覚だけで奨学金を勝ち取り、優秀な成績で士官学校を卒業している。謂わば叩き上げのエリートだ。

 そんな経緯を持つが故に、彼は高慢な貴族や彼の実績に嫉妬する者たちからの風当たりがとても強かった。

 曰く「高貴な士官学校を穢した薄汚い平民」「調子に乗った下賤な輩」。


 アルベルトにとって、イェルクのような貴族出身者からの偏見や差別は日常茶飯事だった。

 流石に特務武官になってからは以前のように面と向かって侮辱してくる者はいなくなったが、イェルクだけは相も変わらず酷薄な態度を取ってくる。

 いや、イェルクの憧れだった特務武官にアルベルトが一足先に就任したときから、イェルクの態度は一層悪化した。

 もしかしたら、アルベルトの階級が常にイェルクより高いことも、それを加速させる要因の一つかも知れない。

 特務武官としての階級が高いということは、軍上層部に「アルベルトの方が実力は上」と判断されているということ。

 それはイェルクにとって我慢ならないことだ。

 未だにアルベルトのことを階級ではなく「ローゼンベルガーさん」と呼んでいるのは、それが原因だったりする。


 ただ、アルベルトが苦い顔をしたのは、なにもイェルクの態度が原因ではない。


 最低でもランク6冒険者に匹敵する特務武官は、帝国軍内でも屈指の戦力だ。

 侵攻作戦のみならず、軍事施設の防衛においても特務武官は大いに役立つ。

 そのため、帝国では重要度が一定レベルを超える軍事施設には一人以上の特務武官を配置する、という決まりがある。


 その中でもここヤーゲン要塞は特別で、常時2名の特務武官の配置が義務付けられている。


 勿論、切り札とも言うべき特務武官を同じ要塞に2名も配置しているのには、質実剛健なアルマダ帝国らしい合理的な理由がある。

 ヤーゲン要塞は南部防衛の要だ。

 この軍事的要地を失えば帝国の南方全域を危険に晒してしまうため、陥落は決して許されない。

 そう考えた当時の皇帝は、「一騎当千の切り札を最低でも2枚はヤーゲン要塞に投入すべし」という奉勅命令を下した。

 この誰にも抗うことができない勅命は、後に明文化された規定となり、現帝国皇帝──今代は女帝だが──の統治下でも続いている。


 この勅命で想定される状況は、ヤーゲン要塞での大規模包囲戦だ。

 敵に包囲されたら、打てる手は応援を呼ぶか、包囲網を突破するかしかない。

 どちらにしろ最も効率がいいのは最強戦力である特務武官を出撃させることだが、一人しか居なければ、打って出た瞬間に要塞本体の守りが手薄になってしまう。それで要塞が攻略されてしまったら目も当てられないだろう。

 特務武官は確かに強大だが、一人だけではどうしてもやれることが少ないのだ。


 しかし、特務武官が二人いれば不安要素は激減する。

 敵を殲滅すべく一人が打って出ることになっても、もう一人の特務武官が要塞内に残れば、十分な防御戦力・予備戦力として働く。

 これなら特務武官の不在を突かれることもなくなる、というわけだ。


 実はこの勅命、「要塞の防衛戦力の確保」という意図の他にもう一つ、隠れた目的が存在する。

 それが「要塞の自己破壊の戦力」を確保することだ。


 ヤーゲン要塞はその立地上、一度奪われてしまえば、奪還は非常に困難なものとなる。

 頼れる堅牢な要塞が、占拠された瞬間に敵の守護神となってしまうのだ。

 そんな事態に陥らないためにも、ヤーゲン要塞の総司令を務める歴代の将校は、例外なく軍上層部より「敵に占拠されうる状況となった場合は、撤退と同時に要塞を内部から破壊せよ」と極秘に言い渡される。

 要は「敵に渡すくらいなら壊した方がマシ」ということだ。


 この極秘命令は配属された特務武官にも言い渡されており、二人は必ずどちらかが常に要塞内に留まることが義務付けられている。

 要塞の総司令も、彼らを同時に要塞外へ出すことを固く禁じられている。


 つまり、アルベルトとイェルクの二人は、一人が要塞外に出るともう一人が強制的に要塞内で待機しなければならないのだ。

 アルベルトが要塞外に出ている今、イェルクは規則によって要塞内に留まっていなければならないはずだ。

 勝手に出て来るなど、明らかに命令違反だ。

 それも最重罪の勅命違反である。


 だが、アルベルトはそれを責めることができない。


 イェルクの言うとおり、相方であるイェルクに何も告げずに独断専行し、挙句の果てに敗北しそうになり、結果的に今こうしてイェルクに助けられているのは、誰あろうアルベルトだ。

 意地悪な言い方をすれば、今の状況は全てアルベルトの責任であり、イェルクはその後始末をしに来ている立場だ。

 戦犯はアルベルトの方であり、アルベルトは助けに来たイェルクの要望を全て飲む義務がある。

 つまり、この場をイェルクに任せ、彼の代わりに要塞に帰還してお留守番をしなければならないのだ。

 イェルクが皮肉顔を浮かべたのも、アルベルトの手柄を堂々と奪えることを確信したからだろう。


「では、ローゼンベルガーさん。ご老体に相応しく安全で退屈な場所へご帰還願えませんか?」


 慇懃無礼にも程がある物言いに、アルベルトは苦い顔を深める。


 今のアルベルトにそんなパワーゲームに神経を割く余裕などない。

 彼は心の底から確信しているのだ──イェルクだけでは目の前にいるゴブリンに太刀打ちできないと。


「……奴はただのゴブリンではないぞ、フリンツァー特務大尉。ここは、二人で協力して戦うべきだ」


 アルベルトの言葉に、イェルクは一瞬だけ目を見開く。

 そして、凄惨なまでの侮蔑を込めた顔を向けた。


「おやおやぁ!

 殿ともあろうお方が、たった一匹のゴブリンに恐れをなすのですかぁ!?

 それは誉ある帝国軍人としていかがなものですかなぁ!!」

「……フリンツァー特務大尉、いや、イェルク殿。

 今は貴殿と諍いを起こすつもりはない。

 は先ほど、戦技を使って見せたのだ。恐ろしく強い特殊な魔物だ。恐らくは変異体だろう。

 貴殿一人では危険すぎる」

「はんっ! 変異体ですって? ご冗談を!

 確かにほんのちょっとだけ普通のゴブリンより立派な形をしていますが、所詮はゴブリン風情でしょう」

「いや、イェルク殿、あれはただのゴブリンなどでは──」

「ご心配なく! ローゼンベルガーさんのような鍛え方(笑)はしておりませんので」

「イェルク殿! 私は心から貴殿の心配を──!」


 イェルクは耳障りな音を聞いているかのように顔を顰め、片手を挙げてアルベルトの言葉を途中で制止した。


「軽々しく私を名前で呼ばないで頂けますか、ローゼンベルガーさん?

 それに、たとえあれが変異体だったとしても、だからなんだというのです?

 所詮はゴブリンの延長線上にいる下等生物でしょう?

 私一人でどうとでもなりますよ。

 ゴブリンにすら警戒を捨てきれない殿の武人としての心(笑)は感服ものですが……ここは私に任せて貰いましょうか。

 我がフリンツァー伯爵家の名にかけて、その変異体とやらを討伐して見せようじゃありませんか!」


 何を言ってもイェルクの心には届かない。

 それを悟ったアルベルトは、悲痛とすら言える声で呟いた。


「……分かった。貴殿に任せよう。

 しかし、十分に注意しろ。相手は変異体、多様な戦技を使ってくるぞ。

 まだまだどんな能力を持っているか分からない。危険だと感じたらすぐに逃げ──」

「はんっ!」


 ただ鼻で笑うだけで、イェルクはもう老婆心で善意の警告を発するアルベルトを完全に意識から排除していた。


 もはや聞く耳を持たないイェルクに、アルベルトはやる瀬ない思いを溜息として吐き出した。

 どれだけ性格に難があろうと、どれだけ皆から嫌われていようと、その行動がどれだけ身勝手であろうと、イェルクは同じ帝国軍で特務武官を努めている同僚なのだ。

 失うにはあまりにも惜しい。


 最後に一度だけゴブリンに目をやったアルベルトは、失意で敷き詰められた心を抱え、トボトボとヤーゲン要塞へと引き返していったのだった。






 ◆






 アルベルトが要塞の東門を潜ったことを確認したイェルクは、得意げに愛用の細剣レイピアを構え、ずっと何もせずに待っていたゴブリンへと向けた。


「それでは、一撃で片付けて差し上げましょう」

「今度、相手、お前?」


 そう言って首を傾げるゴブリンに、イェルクは目を見開き、やがて不快げに顔を歪めた。


「……下賎なゴブリンの分際で、人間様の言葉を喋るとは……我慢なりませんねぇ……」


 イェルクはレイピアを水平に構え、


「〈超音速突きスーパーソニック・スラスト〉!」


 弾けるように突き出した。


 刺突系の戦技の中では最もオーソドックスで最も発動が早い技だ。

 剣先は狙い違わず不愉快なゴブリンの額を貫き、その脳漿を当たり一面にばら撒く。



 ──はずだった。



 己の眉間めがけて突き出されたレイピアに、ゴブリンは慌てずに手首だけを捻り、大剣を高速で横に振るった。

 たったそれだけで、イェルクの攻撃が軽快な音と共に弾かれた。

 細剣レイピアが折れなかったのは、ただ単にそれがシリラ合金で出来ていたからだろう。


 攻撃を弾かれてよろめくイェルク。


「…………」


 愛剣を握る手に走る不快な痺れに、驚きと怒りが徐々に湧き上がる。

 驚きは、ゴブリンごときが自分の攻撃を弾いたことに対して。

 怒りは、ゴブリンごときが自分の攻撃を弾いたことに対して。


「ギャッギャッギャッ!」


 ゴブリン特有の甲高い笑い声が響く。


「お前、弱い、さっきのやつ、強い」


 さっきのやつとは勿論、アルベルトのこと。


「ゆ、許さぁぁぁんんんn!」 


 イェルクは、激怒で顔を真っ赤に染める。

 は──アルベルトと比較して劣っていると告げることだけは、絶対に許せなかった。


「ゴ、ゴブリンの分際でぇぇぇ! この私をぉぉぉ! フリンツァー伯爵家次男たるこの私を侮辱するとはぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 プルプルと怒りで震える手を握り締め、イェルクは鬱憤をぶつけるような一撃を放つ。


「死ねぇ、ゴブリン!! 〈赤薔薇四散ディスパースドローゼズ〉!!」


 回転を伴った12の刺突が一斉に放たれる。


 これはイェルクが使える戦技の中で二番目に強力な技だ。

 一番強い戦技を使用しなかったのは、ゴブリンごときに切り札を使うということに抵抗があったから。

 彼のプライドがそれを許さなかった。



 肥大した自尊心は現実を見るはずの目を曇らせ、歪んだ嫉妬心は真実を認識するはずの理性を蝕む。

 この段階になっても、イェルクはその歪な価値観のせいで、まだ相手を「ちょっと強いだけの変わったゴブリン」としか認識していなかったのだ。



 それが、仇となった。



「お前、嫌い」


 冷たい呟きと共にゴブリンは大剣を左腰に引き寄せ、身を縮ませる。

 剣を鞘に収めた姿勢──居合いの構えだ。


 そして次の瞬間、地面に小さなクレーターを残し、ゴブリンはその場から姿を消した。


 遅れて、イェルクの〈赤薔薇四散ディスパースドローゼズ〉がようやくゴブリンのいた空間に届いた。

 もちろん、12の刺突は何もない空を突き刺しただけだった。


「なにっ!?」


 目の前にいたはずのゴブリンが突然姿を消し、己の攻撃が空振りした。

 イェルクにはそうとしか認識できなかった。


 驚きは、すぐさま違和感へと変わる。

 イェルクは違和感の正体を探し──


 しかし、彼が何かを考えられたのは、そこまでだった。


「お前の名前、俺、要らない」


 その声は、イェルクの背後から聞こえてきた。

 いつの間にかイェルクの背後に立ったゴブリンが、横一文字に薙ぎ払った大剣を肩に担ぎ直す。


 次の瞬間、イェルクの視界が独りでに動いた。

 なぜなら、イェルクの上半身がズルリとずれて、地面に滑り落ちたからだ。

 一拍遅れて、腰の辺りで上半分を失った下半身がドサリと地面に倒れた。


 なぜ自分が唐突に倒れたか分からないイェルクは体を起こし、やっと腰から下がなくなっていることに気付いた。

 ピンク色の内蔵が、地面にこぼれ落ちていた。


「あ……、あぁ、ああぁ──」


 イェルクの呆然した声が数度響き、


「あ゛あぁあああぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 耳を劈く凄惨な絶叫へと変わった。


 声は耐え難い痛みに震え、顔は死への恐怖に歪み、目は受け入れがたい現実に濁り、イェルクは信じられない苦痛を味わう。

 胴で切られた体は、ショック死しない限り短時間では死んでくれない。

 出血多量で命の灯火が消えるまで、その信じられない苦痛がひたすら続くのだ。


 悲鳴は徐々に掠れ、やがて静寂が訪れる。

 仰向けに転がったイェルクは、もうピクリとも動かなかった。


 その過程をずっと眺めていたゴブリンは、徐に遠くにある要塞に目を向ける。

 が、フッと鼻息を噴き出すと、大剣を背中の皮ベルトに固定し、要塞に背を向け悠然と歩き出した。

 まるで興が冷めたかのように。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 噂とは、往々にして脚色されるものである。


 イェルクを殺したゴブリンが要塞から完全に離れたのを確認して、総司令のワルド少将はようやくアルベルト特務中佐に要塞の破壊準備を解かせた。

 その代わり、イェルクという最高戦力の片割れを失ったヤーゲン要塞に、補充要員が到着するまで厳戒態勢を維持させ続けた。


 事の真相を知った帝国軍上層部は、速やかに緘口令を敷き、隠蔽を図った。

 通常、変異体に関する情報は人類の存続に直結するため、発見し次第、即座に冒険者ギルドを通して大陸全土に広められるものだが、今回は相手が理性的であること、何より他の変異体と違って人間社会に与える被害がほぼ皆無だったことから、帝国上層部は冒険者ギルドへの報告を取りやめ、事の静観を決定した。


 だが、人の口に戸は立てられない。

 ヤーゲン要塞内では「イェルク特務大尉、ゴブリンの変異体に敗れる」というニュースが風の勢いで広まり、食糧を搬送してきた輸送部隊を介して帝都「グロース=デルダ」へと持ち込まれた。

 幸い、帝国軍上層部がいち早く情報の拡散制御を行ったことで、「フリンツァー伯爵家次男がゴブリンに敗れた」と変質しつつあった噂は、すぐさま「最強のゴブリンが帝国軍の一個連隊を撃破した」というものへと挿げ変えられた。

 実際、戦死したイェルク特務大尉の戦力は一個連隊に相当するため、この噂はある意味で事実といえる。


 この情報操作の裏には、優秀な次男を失ったフリンツァー伯爵家の影響もあった。

 気位の高いフリンツァー伯爵は、何時しか噂が歪められて他の貴族たちから「フリンツァー伯爵家の人間はゴブリンにすら敗れる(笑)」と貶されることを恐れ、伯爵家のコネを総動員して軍部に噂の誘導と変質を願い出た。

 そして、愛する次男イェルクは表向き「病気により帝国軍を除隊、後に病死」という扱いにして、その死の真相を捏造した。

 人々の間で密かに「最強のゴブリン」と呼ばれ始めた存在に関しては、フリンツァー伯爵が匿名で多額の懸賞金を掛けている。その額は、フリンツァー伯爵家の威信にかけても討ち取る、という気概が伺える金額だった。


 もちろん、これらの事実を知る人間は少ない。

 寧ろ、こんな裏事情を好んで知りたがるのは、他家を蹴落としたい貴族か、命知らずな情報屋くらいだろう。


 しかし、運命のイタズラか、女神の皮肉か、どんどん釣り上がっていく懸賞金の額とは裏腹に、ヤーゲン要塞での目撃以降、「最強のゴブリン」の情報は数ヶ月に渡って途絶えることとなる。

 移動方向から王国に渡ったのではないかと喜ぶ者もいれば、敵対した経緯から帝国内に残ったのではないかと愁う者もおり、ワンチャン南方に向かったかもしれないと分析する者もいた。

 色々な角度から色々な説が唱えられたが、実際のところは全てが模糊にして定かではなかった。


 やがて「最強のゴブリン」の噂は徐々に鳴りを潜め、娯楽色の強い与太話として人々の記憶から薄れていくこととなった。



 ──約4ヵ月後、当のゴブリンが自ら「指欠けユビカケ」と自称し、再び帝国の南西部に現れるまでは。

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