32. NP:とある領主の憂鬱

 ――――― ★ ―――――




 ストックフォード伯爵領の領主であるエスト・ヴァルキス・フォン=ストックフォードは、愛用のパイプを手に手に取った。

 革袋から煙草を取り出し、慣れた手つきでほぐしながらパイプのボウルに敷き詰める。

 小さな火を生み出す魔法が付与された道具──火付け機ファイヤースターターと呼ばれる魔法道具マジックアイテムで敷き詰めた煙草に火をつけ、空気を送るように数口ほど小さくパイプを吸う。

 やがて空気が送られて煙草が膨らんできたら、今度は火を消すように一度硬く押し固め、再度火をつける。

 そうしてちょうど良い具合に火が燻り始めたところで、ゆっくりと紫煙を燻らせる。


 早朝からの一服。

 これが彼の密かな楽しみの一つだ。

 妻には体に悪いと文句を言われるが、止めるつもりはない。


 鼻に抜ける煙草の豊かな香りと一人きりの執務室に流れる静かな時間をゆっくりと楽しむ。

 人族でまだ35歳になったばかりだが、彼はこういった他人からは「年寄りくさい」と言われる行為が好きだった。


 そんな憩いの時間も、扉をノックする音と共に終わりを迎える。


「入れ」


 聞き慣れた調子のノックに許可を出すと、一人の青年が部屋に入ってくる。

 痩せぎすで陰気な雰囲気の、人族の青年だ。

 丸く不恰好な眼鏡を掛けており、その下の両目は陰湿な光を放っている。


「おはようございます。本日の執務書類をお持ちいたしました」


 これまた陰気な声で言うと、青年は恭しい仕草で抱えた紙の束を伯爵の執務机に置いた。


「ご苦労、デルギン。ちゃんと眠っているか?」

「お恥ずかしながら、最近は不眠気味です」


 デルギンと呼ばれた陰気臭い青年が、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。

 その苦笑いもまた不気味なほど陰気臭いものだった。


「お前に倒れてもらっては困る。気分が悪いようなら治癒魔法を使える者を呼ぶぞ?」

「ご厚情痛み入ります、伯爵。しかしご心配には及びません。伯爵にお仕えするためにも、体を壊すようなことはいたしませんので」


 そう言って、デルギンは胸板を張ってみせた。

 が、その細腕と同じ厚さしかない薄い胸板は、いくら張ってもみても頼り甲斐は感じられなかった。


「はは、そうか」


 そんなデルギンの精一杯の強がりに、伯爵は愉快そうに笑った。


 この陰険な目付きの青年は、エストの秘書第一補佐官で、一番の腹心だ。

 やり手の詐欺師だったデルギンは、8年前にヘマをして警吏に捕まった。

 本来ならそのまま犯罪奴隷として刑期を終えるまで過酷な労働に従事することになるはずだったのだが、エストに政治的才能を見出され、奴隷落ちすることなく伯爵秘書に据えられた。

 それからというもの、恩義を感じたデルギンはこれまでの違法家業からキッパリと足を洗い、全身全霊でエストの補佐を勤めることとなった。今では伯爵に絶対の忠誠を捧げる二心なき臣となっている。

 傍から見れば何かを企んでいる悪い従者とそれに操られている若き領主、という構図にしか見えないが、実のところは有能で忠実な秘書官と若くして領地を継いだ有能な領主という組み合わせなのだ。






 ◆






 本日分の書類に一通り目を通し、サインや判を押した後。

 エストは一枚の書類に眉を顰めた。

 内容は、ストックフォード領の東にある村や町から上がってきた、魔物の目撃と被害に関する報告だ。


「ゴブリン、オーク、ダイアウルフの目撃例が更に増加、新たに『キラーマンティス』の目撃例あり、か」


 思案するように呟いたその言葉に、デルギンはクマの濃い目を細めた。


「そのようです。幸い、冒険者ギルドに出した調査依頼がつい先日、引き受けられたそうです」

「ようやくか。それで、引き受けたのは?」

「『アレイダスの剣』です」

「なるほど、彼らならきっと何かを掴んできてくれるだろう」

「はい。懸念されていた魔物の大移動の原因も、ランク6冒険者である彼らならば見つけ出せるかと」


 2ヶ月ほど前から、このストックフォード領では魔物の目撃例と被害が増加している。


 寒い冬から暖かい春に季節が変わるこの時期、獣と魔物の活動が活発になる。

 所謂「活動期」というもので、これに関しては純然たる自然現象なため、多少の被害増加は仕方ない。

 ここストックフォード伯爵領で強い魔物が多く出没するのは、領西にある危険領域「ピーターパーラー大樹海」だけであるため、活動期が領民へ与える被害はそれほど大きくはない。

 その危険領域にしても、時期になると「アレイダスの剣」のような一流冒険者が出向いて処理してくれるので、被害らしい被害は殆ど出ない。

 領の只中に広い危険領域が存在する領地などは、この時期になると強い魔物が領域から溢れ出て領内が大いに荒れるらしい。それと比べれば、ストックフォード伯爵領はまだ全然マシな方と言えるだろう。


 そんなわけで、今年の活動期も例年どおり補助金の増額給付で乗り切れるだろうと思われていた。

 ──が、今年ばかりは、そうは行かなかった。


 奇妙なことに、今年は領内では見かけないはずの魔物が多く出現するようになったのだ。


 冒険者ギルドのギルドマスターに相談したところ、このような魔物の異常発生は、主に他の地域に生息していた魔物が何らかの理由でこの近辺まで流入して来ることによって引き起こされるとのこと。

 現象そのものを見れば動物の「渡り」に近いが、移動する魔物の種類は不定で、おまけに決まった時期ではなく突発的に発生するため、渡りとは決定的に違うそうだ。

 学名は「魔物の大移動グレート・マイグレーション」。

 発生頻度は非常に低いが、地域に与える影響は甚大な現象である。


 それを聞いたエストは、即座に魔物が入り込んできていると思われる場所──ストックフォード領の東に位置するグリューン山脈及び隣接する山間地域──の調査を冒険者ギルドに依頼した。

 しかし、間が悪いことに、当時は高ランク冒険者が尽くピーターパーラー大樹海の対処に出向いていて、この依頼を受ける人間がずっと現れなかった。

 そうしてもたついているうちに魔物の大移動は進行し、現在、領内に魔物が溢れかえることになってしまった。


 幸い、人的被害はまだそれほど酷いものではない。

 魔物たちは東から西へと逃げるように移動しているらしく、道中の畑が荒らされることはあっても、村が全滅するなどの甚大な被害はまだ報告されていない。

 そのため、依頼が放置されてもまだ許容できた。


 だが、これからは分からない。

 大移動の原因が分からない以上、この事態がいつ収束するのか見当すらつかない。

 それに、今まで逃げることに夢中で人間を積極的に襲ってこなかった魔物たちが、急に人を襲い出さないとも限らない。


「それにしても、キラーマンティスまで現れたか……」


 キラーマンティスは、人の背丈ほどもある巨大な蟷螂のような魔物だ。

 鉄の鎧すら切り裂く鎌を有し、鋼の剣すら弾くほど硬い外皮に覆われている。

 冒険者ギルドによって定められた討伐レベルは「5」。魔物との戦闘に慣れている冒険者にとっても、間違いなく危険な相手である。


「流れ込んで来る魔物がどんどん強くなっているな」

「幸い、冒険者たちの働きにより、現状、被害は最小限に抑えられております」


 ストックフォード領を活動の場とする冒険者たちは、今回の魔物の異常発生に対して精力的に動いている。

 より多くの魔物を倒せばそれだけ依頼を果たせるし、それに合わせて魔物による被害も減る。何より、倒した魔物の素材を売れば更なる収入となる。彼らが動かない理由がない。

 例年より多くの数と種類の魔物が現れているのにまだなんとかなっているのは、間違いなく彼ら冒険者の働きのお陰だ。


 だが、「今のところなんとかなっている」ということは、「これ以上魔物が増えればキャパシティーをオーバーしてしまう」ということでもある。


「もっと冒険者を呼び寄せられればよいのですが……」


 他領から冒険者を募ろうにも、ランクの高い冒険者は何処でも不足している。

 ランクの低い冒険者ならかなりの数が集まるだろうが、彼らではキラーマンティスなどの魔物に太刀打ちできない。

 確かに数は必要だが、同時にそれなりの質も必要なのだ。


「人手が足りない場合は騎士団を動かす……と言いたいところだが、騎士団にはアーデルフト子爵サットンのクソ野郎を牽制させているから、動かすことができん」


 実に忌々しい、とエストは心に湧く怨嗟を吐き捨てる。


 ストックフォード伯爵領の北に隣接するアーデルフト子爵領。

 その領主であるサットンは、第二王子派に属している。

 彼は以前よりストックフォード領の豊富な穀物資源に目を付けており、第二王子派によるストックフォード領の併呑に尽力している。

 これまで度々ストックフォード伯爵領に様々なちょっかいをかけていたサットンだが、その尽くをエストの智謀によって躱さされてきた歴史がある。

 両者は謂わば因縁の相手なのだ。


 そんな犬猿の仲である両者だが、最近になって、サットンがこれまでにない手を打ってくるようになった。

 なんと、アーデルフト領をからストックフォード領に入る貿易路の全てを閉鎖する、という非常識な強行手段に出たのだ。

 名目は「ストックフォード伯爵領から流れてきた盗賊団による略奪を防ぐため」というもの。

 言いがかりにも程があるが、それを理由にアーデルフト騎士団を堂々とストックフォード領との領境に配置する、などという暴挙にまで出てきたのだから、エストにとっては忌々しいことこの上ない。


 大量の人員を高速で運搬する手段が無いこの世界において、他領との領境スレスレに兵団を据えるなど、宣戦にも等しい行為だ。

 その影響と意味は、日米合同海上軍事演習の比ではない。


 そもそもの話、盗賊団がストックフォード領から来ているなど、事実無根も甚だしい。

 もし本当に盗賊被害が出ているのであれば、領境閉鎖よりも領内へ侵入した賊の討伐を優先すべきだろう。


 つまるところ、全ては単なる言いがかり──純粋なる嫌がらせなのだ。

 悪質ここに極まれりである。


 とはいえ、それを無視することは、今のエストにはできなかった。

 なぜなら、今のエストはもはや中立派ではないからだ。


 つい2ヶ月ほど前、エストはシャティア第二王女と同盟を結んだ。

 言わずもがな、それは中立派だったエストが正式に第二王女派に属した、ということを意味する。


 中立派は少し特殊な派閥で、その名のとおり、どの派閥からも干渉を受けない代わりにどの派閥とも敵対しない、というスタンスを取っている。

 そんな中立派から第二王女派へ鞍替えしたというのは、他の三つの派閥──第一王子派、第二王子派、第一王女派──を敵に回すことに等しい。


 貴族の世界に「喧嘩両成敗」などという理屈は通用しない。

 どんなに巫山戯た内容でも、大義名分さえあれば大抵のことは許される。

 仮令サットンが「盗賊撲滅」というありもしない名分の下にこの領へと進軍を開始したとしても、それを責める外部勢力はいないだろう。いたとしても、声高には批判できず、誰からも相手にされないのがオチだ。

 もしそうなってしまったら、エストはサットンの侵攻を単独で対処しなくてはならない。


 もちろん、盟主である第二王女や数少ない同派閥の面々は全力で助力してくれるだろうが、間違いなく雀の涙だろう。

 なにせ第二王女派は勢力と発言力が殆どない弱小派閥だ。武力による睨み合いや純粋な殴り合いでは、絶対に第二王子派には敵わない。

 何より、サットンに「これはアーデルフト領とストックフォード領の問題であって、派閥は一切関係ない」などと言われてしまえば、彼女たちは手を出そうと思っても出せなくなる。


 中立派だったときはまだよかったが、第二王女派に加わった今、エストが「北の領境に他領の兵が集まっている」という状況を無視することは絶対にできない。

 だからこそ、エストは「自領に盗賊団はいないため、事の真偽を確かめる必要がある」という名目で、北の領地境界線に騎士団を派遣せざるを得なかったのだ。


「まったく、嫌な脚の引っぱり方をしてくれる……」


 サットンを牽制するためとはいえ、貴重な戦力である騎士団が動かせないというのはかなり痛い。


「確かに迷惑極まりないですが、今回の領境封鎖の件、あの考えの浅いアーデルフト子爵の策ではありますまい」

「……やはり、サイルス内務大臣の入れ知恵か」

「ほぼ確定と言ってよいかと」


 第二王子派のまとめ役であるサイルス内務大臣は狡猾な男だ。

 今回の領境への派兵は、見事にエストの動きを封じて見せた。こちらからすれば、まさに一番嫌な一手だ。

 そんな巧妙な策を、あの欲の皮だけが突っ張った無能なサットンが考え出せるわけがない。


「厄介なことをしてくれる」

「はい、実に嫌らしい一手です。相手は我々の騎士団を釘付けにするだけでこちらに被害を出せるのですから」


 情報網が広いサイルス内務大臣は、市井の噂話から各貴族のスキャンダルまで、ありとあらゆる情報を収集している。もちろん此度の魔物の大移動に関する一報も、最速で彼の元に届いているはずだ。

 だから彼はエストが騎士団を使って魔物を討伐できないよう、こうして戦力を引き付ける策を講じたのだ。後は魔物がストックフォード領を勝手に荒らしてくれるので、第二王子派は手を汚す必要すらない。


 エストにとって幸いなのは、サイルス内務大臣が政治的パワーバランスと派閥力学の制約によってサットンにしか派兵を要請できない、ということ。

 サットンがエストにちょっかいを出していたのは周知の事実。だから、サットンにのみ兵を出させれば、今回のことを「いつものちょっかいの延長線」と他の派閥に対して言い訳ができる。事実がどうであろうと、「そう言い張れる」というだけで大義名分が立つのだ。

 だが、もしストックフォード領と接している他の領にも兵を動かすよう要請すれば、それはもはや「因縁ある領地同士のいざこざ」ではなく「第二王子派によるストックフォード領の大規模包囲戦」──立派な派閥抗争だ。間違いなく第一王子派と第一王女派からここぞとばかりに横槍を入れられるだろう。

 だから、サイルス内務大臣もサットンにしか派兵させられなかったのだ。

 開戦の可能性は低いとはいえ、敵の軍勢は少ないことに越したことはない。

 エストにとってはまさに不幸中の幸いといえるだろう。


 だが、所詮は「良かった探し」でしかない。

 根本にある問題は、まだ何も解決していないのだ。


「唯一の打開策は、やはり魔物どもを何とかすることだな」


 ここで領内を荒らす魔物を一掃できれば、サイルス内務大臣の策は意味を喪失する。内応にも等しい魔物が消えれば、いくら騎士団を引き付けても意味がないからだ。

 領内で異常発生した魔物を駆逐する、或いは魔物の大移動の原因を排除する──それが今のところエストが取れる唯一有効な手段である。


「『アレイダスの剣』に期待するしか──」


 と、言葉の半分でエストは口を止めた。

 目にしているのは、何気なく見上げた地図。

 壁に掛けられている、自領の大まかな全体像を示した簡易で巨大な地図だ。

 その地図と手の中に握る報告書を交互に見比べ、エストはふと引っかかりを覚えた。


 その引っ掛かりに突き動かされ、思わず書類を漁り始める。


 自分が何に引っかかりを覚えているのかは判然としない。

 だが、その粉薬を水無しで飲み込んで喉に張り付いた時に感じるような異物感は、確かにある。

 この引っ掛かりが解消されないままでは、気持ち悪くて仕方がない。


 エストは書類の束を一枚一枚手に取り、大雑把に目を通し直す。

 名称や数値などを再度読み取り、脳内で噛みしめる。

 まるで「何を探しているのか」という問いへの回答を探すように、情報を整理していく。


 そうして情報の海で遊泳しているうちに、漠然とした引っかかりが実体を伴い始めた。

 更に情報を読み解いていくと、具現化し始めた引っかかりは徐々に違和感へと変貌し、やがて明確に一つの結論を形作る。


 ──ああ、そうだ、「あの書類」を捜さなくては。


 エストは白い書類用紙とくすんだ肌色の羊皮紙と革装丁の帳簿が入り乱れた書類の山を崩し、を探し始める。

 側にいるデルギンはエストが何に気が付いたのか分からず、邪魔にならないようにただ黙って見守っていた。


 探すこと数分。

 エストの口から小さく「ない」という呟きが漏れた。


「何がでしょうか、伯爵?」

「目撃報告書と被害報告書だ──例の山の麓にある村々からの」


 エストが口にした「例の山」とは勿論、ストックフォード領の東にあるグリューン山脈のこと。

 そこは魔物が領内に入ってくる玄関口である、と冒険者ギルドでは考えている。


「その報告書が、見つからないのだ」


 それを聞き、デルギンは眉を顰めながら一緒に探し始めた。

 が、エスト同様、見つけることができなかった。


「報告書はこれで全てです。万全の管理体制を取っておりますので、紛失や盗難はありえません」


 デルギンはデキる男だ。つまらないミスはしない。彼が「ありえない」と言うのならば、失くしたり盗まれたりは絶対にない。


 そこから導き出される結論は、ただ一つ。

 そんな報告書は最初から存在しない、ということ。


「…………」


 エストは目を細め、パイプを吸う。

 火はとうに消えているので、煙は出ない。

 それでも、この癖のような行為は思考の助けになる。


 グリューン山脈一帯は大移動してきた魔物の最初の通路で、謂わば玄関マットだ。

 その一帯にある村や町は魔物によって最初に踏み躙られるので、被害は最も酷く、報告書の内容も最も凄惨なはずだ。

 そのはずなのに──報告書はない。


 思わずエストは眉を顰めた。


 報告書がない?

 それはおかしいだろう。

 村や町が全滅したとしても、定期的に通る行商人や冒険者、特に密かに村の人口を調査する徴税官から最低でも「全滅した」という報告が届くはずだ。

 なのに、それがない。


「妙だな……」


 被害報告がない……というか、そもそも報告そのものが何も上って来ていない。

 それが意味するところは何か?

 揃わないパズルを前に、エストは眉間のシワを深める。


「……デルギン。私が目撃例や被害の出た場所を読み上げるから、お前は地図にそれを書き記せ」

「はっ」


 頭を下げると、デルギンは鍵の掛かった大きな引き出しから丸めた大きな紙を取り出し、エストの執務机の上に広げる。

 それは、ストックフォード領の詳細な地図。

 エストの執務室の壁に掛けられている飾り絵のような地図とは完全に別物である。


 詳細事項が記されている地図は、国家安全保障に関わる情報として王家から機密指定されているため、各領地の領主は自領の詳細な地理情報を秘匿することが義務付けられている。

 勿論のこと、そんな機密情報を壁にかけて公開することはできないので、領主が執務室の壁に掛けるのは、だいたいがシルエットしかない真っ白に近い簡易地図となっている。


 デルギンは広げられた詳細地図を覗き込む。

 デカデカと描かれた、四辺がギザギザな菱形の領地。これがストックフォード伯爵領だ。

 その中央には都市のマークが描かれており、大きく「フェルファスト」と記されている。

 それを中心に、四方へくねくねと伸びた道路や河川、尖った山々や広がる平原、盆地などが描かれ、数多くの村や町が記載されている。

 この領地に関するほぼ完璧な俯瞰図がそこにはあった。


 地図を準備している間、エストは書類ケースに収納していた過去の被害報告書を全て持ち出していた。

 そして、エストは一枚の報告書を手に取り、


「日付は省く。ではまず──エンデ村、目撃2、被害1」


 エストの要約を、デルギンは地図の対応する箇所──エンデ村のところに素早く記入した。


「次に、ミスラ村、目撃3、被害1」


 そうして、二人は暫く作業に没頭する。

 室内に流れるのはエストの短い読み上げとデルギンのペンの走る音のみ。

 ただ、そこに漂う空気には緊張感すらあった。



 やがて、10分が過ぎる。


「──ボンデ村、目撃10、被害8。……以上だ」


 エストは最後の報告書を読み上げ終わると、徐に立ち上がった。


「完成しました、伯爵」


 デルギンは地図を持ち上げ、壁に貼り付けた。

 みっちりと文字が記入された地図を、二人で見上げる。


「こ、これは……!」


 エストが驚嘆を漏らし、デルギンも同じように瞠目する。

 絵図に纏めたことで未完成だったパズルは組み立てられ、本来あるべき姿を直感的に表した。


 二人は書き込みを追うように、地図の左から右──西から東へと視線を移していく。


 魔物による被害は領地の右半分、つまり東方地域に集中している。

 そして、東に行くにつれ、魔物の目撃や被害を意味する書き込みが増加していく。

 当たり前だ。魔物たちは東から入り、西へと逃げるように移動しているのだから。


 書き込みは、東に行けば行くほど増えていき、




 被害が最も多く出ているはずの最東端グリューン山脈一帯で──完全に消失していた。




 唖然とするデルギンと、眉を顰めながら顎髭を擦るエスト。


 暫くの沈黙の後。

 得た情報を吟味したエストが、徐に口を開いた。


「私が思うに──」


 徐に地図の一番右側を指差した。


「──このピエラ村付近に、魔物を寄せ付けない『何か』がいる可能性が高い」


 デルギンの記入は、グリューン山脈周辺地域にびっしりと書き込まれているが、麓に位置するピエラ村の周辺でだけ綺麗さっぱり途切れている。

 まるで、そこだけ丸くくり貫かれたかようだ。


「ピエラ村の二つ隣のホンデ村では、これまでに合計28件の目撃例と14件の被害報告が上がっている。なのに、ピエラ村の隣のアンプ村は過去に1件の目撃例しか出ていない。そして当のピエラ村に至っては、目撃報告も、被害報告も、何の訴えも上がってきていない」

「……もしや、全滅しているのでは?」

「たとえ皆殺しの憂き目に遭っていたとしても、徴税官や行商人といった第三者から『全滅した』という報告が上がってくるはずだ」

「……徴税官やその他の役人の職務怠慢、行商人や冒険者など通りかかった者による故意の隠蔽、盗賊による占拠など、そういった理由で報告が上がって来ていないという可能性はないでしょうか?」


 デルギンの役目の一つが、エストに否定的意見を呈することだ。

 目的は、無理矢理にでも難癖をつけることで思考の穴や遺漏を潰すこと。

 エスト本人からの要望だが、デルギン自身もその観点に賛同しているので、疑問は遠慮なくぶつけている。


「……ありえないことではないが、可能性は限りなく低いだろう」

「なぜでしょうか?」

「今のような状況は、お前が言ったことすべてが同時に起きなければ作り上げられない。たとえ何者かがそうなるよう意図的に仕向けていたとしても、わざわざピエラ村などという僻村を狙い撃ちにする理由がない」

「あるいは、その一帯が魔物の巣窟と化していて情報がまったく集まらなかった、という可能性も……」


 エストは首を横に振る。


「それはないだろう。もしそうなっていれば、商人ギルドか冒険者ギルドから『魔物が多すぎて近寄れない』という報告が上がってくるはずだ。

 第一、ピエラ村の隣のアンプ村へは、護衛を引き連れた徴税官のトーマスが13日前に訪れたばかりだ。彼からも『道中は魔物が多かったが、』という報告しか受けていない」


 徴税官の仕事は、なにも納税時期に各村を廻って税を徴収するだけではない。

 彼らの最も大事な業務は、各村を密かに抜き打ち調査すること。

 税額通りに納税できるか密かに収穫状況を確認したり、人口の増減を密かに調査して納税額を再計算したり、脱税や違法栽培に繋がる隠し田がないか密かに調査したりと、その業務内容は多岐にわたる。


 業務の性質上、彼らの行動は隠密性を要求される。

 彼らが村人たちの前に姿を表すのは、夏の始まりに一度だけ行われる「人口調査」という名のパフォーマンス的行事と、冬初めの徴税時の2回のみ。

 それ以外は常に隠れて行動しているため、彼らの業務実態を知る者はとても少なく、平民にとっては「偉そうに家族の人数を確認して、税を取りに来るだけの役人」という存在だ。

 彼らの働きのおかげで、人口の虚偽報告による税の誤魔化しや隠し田による脱税は殆ど起こらない。


 もちろん、彼らも四六時中スパイのように農村に張り付いているわけではない。

 立場上、徴税官は腐敗が許されない存在だ。徴税官の役に就けるのは、領主が真に信頼を置ける少人数に限られる。現に、この広大なストックフォード伯爵領ですら、徴税官はたった3人しかいない。

 そのため、一つの村に許される調査期間は、多くても2日。調査回数も、あのパフォーマンス行事である「人口調査」を除いて、年に2度が限界だ。

 主要業務以外の調査・報告が疎かになることは、ままあることである。


 だが……、とエストは考えながら、東方区域を担当するトーマスという徴税官が提出した報告書の束を手に取って読み返す。


 あのトーマスという徴税官は、生真面目で有名な役人だ。

 隠密調査の時に見たものはなんでも報告書に上げてくるような人間で、村人同士の喧嘩や修羅場事情などというつまらないことですら報告書に書き記すほど。業務に忠実といえば聞こえは良いが、要は融通が効かない堅物である。尤も、そんな厳格な性格だからこそ徴税官として起用したのだが。

 そんな神経質とすらいえる男が、なにかを報告し忘れたということは考えられない。


「報告書を見る限り、ピエラ村周辺の情勢に変動はほぼ見られない。強いていえば、ピエラ村に薬草師見習いの少年と3人の流民が住み着いたこと、それとアンプ村の村長の三男が冒険者になるために村を出たことくらいだ」


 トーマスの性格を知っているデルギンは、エストの言葉の粗を探すかのように意見を絞り出す。


「……では、そのピエラ村に新しく入居した4人がなにか関係している、ということは?」

「それはありえない」


 間髪入れずに否定するエスト。


「これが入居者に関する報告書だ。性格から普段の行動まで、かなり細かく記されている。一ヶ月前の報告書とはいえ、一日や二日でこれほど調査できるとは、さすがはトーマス、『査税の鬼』と呼ばれるだけはある」


 まぁそれは置いておくとして、とエストは本題に移る。


「報告によると、入居者である若い4人は、男女例外なく武力皆無。普段の行動にも不審な点はないそうだ。

 薬草師見習いの少年は細身で、たまに罠に掛かったウサギを持ち帰ることはあるが、戦闘力という意味ではそこらの村人にも劣るらしい。

 その少年と同じ家に押し込まれている少女と幼子二人も、戦闘力どころか労働力としてすらあまり期待できないそうだ。見るからによそ者を一箇所にまとめたような扱いで、あのトーマスが税金の再計算を少し躊躇ったというくらいだからな」

「ふむ……確かに、この4人が今回の件に関係するのは不可能ですなぁ……」


 あの鬼と呼ばれるほど厳格で生真面目なトーマスが僅かとはいえ税を取ることを躊躇ったのだから、この4人がどれほど農民として役に立たないか分かるというもの。

 そんな4人が大量に流れ込ん来る魔物をどうこうすることは不可能だし、本人たちもそんな危険なことからは全力で逃げたいはず。

 関係など考えることすら愚かというもも。寧ろ、流民である彼らが今年の税をどうやって納入するのかを考える方が、まだ幾らかは建設的だろう。


「唯一戦力になりそうなのは、少年が飼っているという大きな白犬だが……村人との触れ合い方を見るに、魔物ではなく愛玩動物である可能性が高いそうだ」

「……犬一匹では押し寄せてくる魔物の大群を狩り尽くすなど出来ますまい」


 一考にすら値しない、という感じで首を振るエストとデルギン。

 もともと、デルギンが出した反対意見は殆どが無理やり絞り出したもの。

 可能性があ無いことに関してこれ以上検討しても意味はないだろう。


「……ではやはり、このピエラ村の付近に新しい『ぬし』が現れた、ということではないでしょうか?」

「それが一番可能性としては高いだろうな」


 強い魔物が現れてその一帯を統べるのはよくあること。

 そういった魔物は、その一帯の「ぬし」と呼ばれるようになる。

 周辺のバランスを上手く取ってくれる存在であればそのまま黙認し、逆に危険な存在であれば即時討伐部隊を派遣する、というのがぬしに対する一般的な対処法だ。


 もし、ピエラ村周辺にぬしのような強大な存在が現れたならば、その一帯が真空地帯になるのも頷ける。


「冒険者ギルドも、ここまで詳細な報告が集約されているわけではないから、このことに気が付かなかったのか」

「詳細な報告書の全てに目を通していた私でさえ、伯爵の閃きがなければ今回の件には欠片も気付きませんでした。秘書として、面目次第もございません」

「私も今の今まで気が付けなかったのだ。謝る必要はない」


 秘書デルギンの仕事は煩雑なまでに細かい書類を分かりやすい状態にまとめ、上司エストに渡すこと。目を通した情報の多さと詳細さでは、エストを遥かに上回る。

 そんな彼でさえ気付かないのならば、別の情報源を持たない限り、完全独立した外部組織である冒険者ギルドが先に気付くのはかなり難しいだろう。


 常識的に考えて、魔物は東から来ているのだから、東に行けば行くほど被害が多くなると考えるのが当然だ。

 それを、まるで橋脚にぶつかる流水のように、最東端にあるピエラ村周辺だけを丸く迂回して魔物たちが内地へと侵入してくるなど、誰が考えられようか。

 常識的であればあるほど気付けない落とし穴である。


「どうあれ、今は情報が少なすぎる。『アレイダスの剣』が何か掴んでくるまでは静観すしかないだろう。彼らの報告を待つとしよう」

「冒険者ギルドにはこのことを?」

「もちろん伝えておけ。それと、ギルドだけでなく『アレイダスの剣』にも良い含めておけ。『ぬしかも知れないその何かには手を出さないように』とな」


 エストの言葉にデルギンは一瞬だけ考え、すぐさまその意味を理解する。


「……そのぬしらしき者を壁にする、ということですか」

「そうだ。騎士団を北の領境から動かせない以上、更なる魔物の流入はなんとしても阻止せねばならん。

 情報不足で確かなことは言えんが、我々がまだ魔物に対処できているのは、そのぬしらしき何かが壁となって一定数の魔物を食い止めてくれているからかも知れんのだ」

「現状だけ見ても、そのぬしらしき者が消えれば、ピエラ村は一瞬で全滅するでしょうね」

「ああ。だからこそ、魔物たちをどうにかするまでは、手を出すわけにはいかないのだ」


 もしピエラ村の周辺に現れたその何かが無害、或いは害の少ないぬしであれば、そのままにしておくのが最も賢明だろう。

 事実として、ピエラ村周辺にはなんら被害が出ていないのだ。

 騎士団の代わりに領民を守ってくれる守り神的存在をわざわざ討伐する、などという愚行を犯す必要は何処にもないだろう。


 尤も魔物の大移動の原因がそのぬしでなければの話だがな。

 そう考つつも、エストはその可能性は低いだろうと感じていた。


 もしそのぬしかもしれない何者かが原因であれば、魔物たちは東から西へ移動するのではなく、ピエラ村を中心に、円環状に放散するように逃げるはずだ。

 そうなれば、他領──少なくとも北にあるアーデルフト子爵領でも被害が出ているだろう。

 そうなっていないという事実が、そのぬしの無実を証明しているといえる。


「畏まりました」


 エストに一礼して、デルギンは冒険者ギルドへの書状をしたため始める。


 対するエストは、消えてしまったパイプに火を着け直すと、ほのかにワインの香りがする煙を吐き出しながら目を瞑った。


(魔物の大移動、か……)


 ストックフォード領の東隣は、王国の仇敵である帝国だ。

 方角的にいって、今回ストックフォード領に雪崩れ込んで来ている魔物は、殆どが帝国から来たものだろう。


(一体、帝国では何が起きているのだ?)


 目を細めながら、窓の外へと目を向ける。


(「最強のゴブリン」がどうこうという噂は聞いているが……ブラフだろうな)


 市井の噂話は、エストの耳にも入ってきている。

 中には真実もあるが、大抵が取るに足りないデマやどうでもいい与太話だ。他国の間諜がわざと流した情報も少なくない。

 所謂「最強のゴブリン」の噂も、その類のものだろう。


(だとすると、その意図はどこにある?)


 帝国とは長年睨み合ってきた仲ではあるものの、近年は戦争らしい戦争をしていない。

 実に望ましいことであるはずだが、エストは溜息を吐かずにいられなかった。


(我が国の貴族は勢力争いしか頭にないのか! 阿呆どもめ!)


 年に一度の「挙国御前会議」に参列する王国全土の貴族たちの醜い面構えを思い出し、エストは吐き気を覚える。

 見栄と欲望と嗜虐の塊と化した人間の、なんと醜いことか。

 求めるのは虚栄と金と女ばかりだ。


(外敵が黙れば、今度は内紛を始める始末!)


 守るべき民生は蔑ろにするくせに、個人の利益には誰よりも敏感。身内同士で争い、領地同士で争い、派閥同士で争い、国を乱す。

 要するに、争うことをやめられないのだ、彼らは。


(今の王国に内輪揉めができるほどの余裕があると思っているのか!

 それ以前に、我が国に帝国と真っ向から勝負できるほどの力が残っていると、本当に思っているのか!)


 この国は長いこと「病」を患っている。

 そして、その「病」のせいで国は疲弊しきっている。

 だというのに、貴族たちは誰もそれを分かろうとしない。


 いや、本当は分かっているのだ。

 分かっているからこそ、その命が尽きる前に、最後の一滴を貪ろうとしているのだ。

 病を治そうと努力するのではなく、残った養分を余すことなく奪い尽くそうとしているのだ。


 病を罹ってしまった祖国のことなど、誰も心からは考えていない。


 なぜなら、その病の名は「腐敗」。

 人間社会における最古にして最難の病の一つ。

 歴史の長いこの国が……いや、歴史が長いからこそ罹ってしまった、国家を根本から蝕み壊す最悪の病だ。


 それは、貴族たちが最も分かっているはずだろう──当事者なのだから。

 だが、当事者であるからこそ抜け出すことができない──並の意志では絶対に。

 だから、彼らは派閥争いなどというくだらないことに全精神を注ぎ込み、全力で互いの脚を引っ張り合う──「王国のため」などという心にもない常套句を唱えながら。


(そもそも、外敵が本当に黙ったままだと思っているのか、あのバカ共は)


 広大な土地と恵まれた立地と豊富な資源を有する大国の王が床に伏せ、国内は分裂寸前。

 こんな美味しそうな果実を狙わない者はない。

 周辺諸国がこの国のを知らないはずなどない。

 知っていて、わざと明確な介入をしていないだけだ。

 彼らは機が熟すのを──自分たちの国益が最大化するタイミングを見計らっているのだ。

 アルフリーゼ王国という極上のパイをどれだけ大きく切り分けその手中に収められるか、彼らは虎視眈々と狙っているのだ。


(どうせあのバカどもは「我が王国に恐れをなして何もできない」などと楽天的に、いや短絡的に考えているのだろう。

 宰相や内務大臣は流石に違うようだが、あ奴らは権力に拘り過ぎる。己の権力さえ死守できれば国や民など物の序で程度にしか考えていない。だからでも、権力闘争などというくだらないことを牽引し続けているのだろう。

 まったく、四方を猛獣に囲まれているというのに、右手と左手で喧嘩してどうするというのだ)


 そんな醜く非生産的な派閥争いが嫌だったからからこそ、エストはさしたる権力もない中立派に属すことを選んだのだ。


 大きく煙草を吸って深く吐き出すことで、湧き上がる憤りを押さえ込む。

 漂う紫煙は、ため息と共に宙で儚く消えていった。


 この国に、親愛なる祖国に、果たして明るい未来など訪れるのだろうか。

 この無視も回避もできない疑問に辿り着くたび、エストは憂鬱に苛まれる。

 現状から考えられる結果は、あまりにも暗いものばかりだ。


(……まだだ。まだ諦めるには早い)


 生ける屍と化してしまった祖国このくににおいて、唯一まだ生気の光を灯している存在がいる。

 自分は、その灯火に吸い寄せられるように縋り付いた。


 第二王女シャティア・イクセル・ペンドラス・シール・アルフリーゼ。


 政争を嫌って半ば厭世的に所属することになった中立派を飛び出し、再び政争の渦中に身を投じることを選んだのは、彼女に希望を見出したから。


(重責を年端もいかない子供に押し付けざるを得ないとは、我ながらなんと情けない……)


 幼い盟主の姿を思い出し、エストは歯噛みする。

 シャティア王女は、まだ10歳になったばかりのか弱い少女だ。

 彼女に一国の命運を背負わせなければならないというのは、大人として些かならず歯痒いものを感じる。

 仮令それが彼女自身が選んだ道だとしても、結局は彼女に「全てを背負ってもらう」形になってしまう。


 だが、そうせざるを得ないのもまた事実。

 この国を「生き返らせる」ことができるのは、彼女を置いて他にいない。

 自分はそう確信した。

 そう信じる道を選んだ。


(願わくば、あのハーティリー侯爵家の次女のような強く心優しい者が数多現れ、彼女を支えてやらんことを)


 アルデリーナ嬢の凛々しい姿を思い浮かべながら、エストは幼い盟主の少女への祈りを心の中で呟く。

 もし、アルデリーナ嬢のような人間がもう2〜3人いてくれれば、幼い盟主の少女もより安泰になるだろう。


 しかし、世の中そう上手くいくものではない。

 そのことを誰よりもよく知っているエストは、再び煙草を吸った。


 願っただけで問題が解決すれば世話はない。

 それなりに権力を持っている伯爵家当主の自分ですら、こんなに困っているのだ。


 何より、エストが抱えている問題は魔物の大移動だけではない。

 もう一つ、解決しなければならない大問題がこの領にはある。

 頭が痛いことに、そちらの方は領の存続を根本から揺るがしかねない問題でありながら、短期解決が望めない。


(本当に、ままならないものだな……)


 何をするにも、まずは目前の問題を解決しなければならない。


「……頼んだぞ、『アレイダスの剣』よ」


 そう呟いて吐き出した紫煙は、とても苦く感じた。

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