29. 心の在り処
「おはようございます」
目を開けると、黒いタイツに包まれた美脚が目の前にあった。
適度に肉感的な太ももが柔らかな生地を優しく膨らませ、色香に満ち溢れた脚線美を作る。60デニールの黒いベール越しに薄っすら見える透き通った肌が、なんとも艶めかしい。
実に美しい光景である。
うむ。良きかな。
そんなエロいマエストロめいた呟きを心の中だけに留めて、俺はその黒タイツの主──同居人のオルガに「おはよう」と朝の挨拶を述べる。
「前から思ってたんだけどさ、その黒タイツって、どうなってるの?」
「……朝一のセクハラ発言を、私はどう処理すれば良いでしょうか? 然るべき所に訴えるべきでしょうか、それともいっそこの場で誅するべきでしょうか?」
「いやいや、そういう意味じゃないから! 言い方が不味かった俺が悪かったから! だからその振り上げた包丁を下ろして!」
「このままあなたに向かって振り下ろせと?」
「違う! そっと静かに下ろしてそのまま横に置いてくださいお願いします!」
「静かに誅して、そのまま凶器を置いていけばよいのですね?」
「心の底から謝るから! だからお願い、俺を誅することから一旦離れて! その包丁を仕舞って!」
っていうか、そもそも包丁を持ったまま俺を起こしに来ないで欲しい。
朝食の調理中だったことは重々承知しているけど、だからって刃物を握り締めたまま寝ている人間の部屋に入るのは如何なものか。
「俺が言いたいのは、その黒タイツはなにで出来ているのかってことだよ」
俺の知るタイツはナイロン製だ。
石油製品の代名詞であるナイロンは、20世紀最高の発明の一つとまで言われている。
伸縮性と通気性に優れた、最先端の合成繊維だ。
そのナイロンの最もポピュラーな用途が、衣料への応用である。
20世紀40年代、アメリカで最初のナイロン製女性用ストッキングが発売された。「伝線しないストッキング」として売り出されたそれは、当時の女性に爆発的な人気を博したと記録に残っている。まさに材料工学──大元は錬金術だが──の賜物といえるだろう。
オルガが愛用しているこの黒いタイツも、外見や質感は地球のものにとても良く似ている。というか、クラスの女子が履いていたやつと殆ど一緒だ。
色は黒が基本だが、20・40・60・80・100デニールと、複数のデニール値まであるらしい。
そうなると、疑問が浮かんでくる。
中世の暮らしをしているこの世界に、どうしてそんな工業的にしか作り出せない化学繊維製品があるのだろうか?。
もしかして材料工学だけが跳びぬけて発達しているのだろうか?
その割にはタイツ以外の服の材質が粗末な気がするが。
「知らないのですか? これは『マルトワーム』という魔物の糸で作った『マルトワーム綿』という衣料で出来ています。伸縮性と通気性に優れている、とても優秀な生地です。比較的安価なので、多くの女性が愛用しています」
「へー、そんなのがあるんだ」
「あまり丈夫ではありませんので、女性用タイツやパーティーグローブくらいにしか使われていませんが。男性であるあなたが知らないのも無理のないことです」
なるほど。
これ、工業製のナイロンじゃなくて、性質が似ているだけの魔物の糸──地球で言う
本物のナイロンだったらファイバーやプラスチックに加工したり、釣竿や防刃アーマーを作ったりすることができるのだが、絹では難しいだろう。
地球での養蚕業は紀元前3000年まで遡る。中世に相当するこの世界で似たような産業が発達していても、なんら不思議な話ではないだろう。
村の女性たちがこの世界には存在しないはずのタイツを当たり前のように履いていたのでずっと不思議に思っていたが、これで謎が解けた。
「にしても、魔物の糸か……。蚕じゃないんだな」
「はい。蚕から作られるシルクはマルトワーム綿よりも高価です。確かにシルクの方が丈夫で肌触りも滑らかなのですが、残念ながら農民には手が出せません」
「ほう、蚕やシルクはちゃんと別にあるんだな」
「?」
オルガが不思議そうに首を傾げる。
「いや、俺が住んでいたところは蚕しかなくてな。マルトワームっていう魔物がいなかったんだよ」
「それは……随分と不思議なところですね」
「まーな」
異世界だからね、とは流石に口に出さなかった。
「もうすぐ朝食が出来ます。そろそろ起きてください」
「あいよ」
モソモソと起き上がり、ベッドに腰掛ける。
ベッドとは言っているが、木製の寝台に藁を敷き詰め、その上にシーツを敷いただけの超簡易な寝床だ。この世界ではこれが当たり前らしい。
寝心地は、まぁ、慣れればそれなりだ。師匠とサハラ砂漠で修行していた時に寝た冷たい砂のベッドよりは大分マシだと思う。
「そう言えば、今朝はやけに静かだな。ミュートとミューナはまだ寝てるのか?」
「ええ。二人とも、まだ起きていません」
「珍しいな。いつもは超早起きで朝っぱらから騒々しくしているのに」
我が家は村の東外れに位置していて、お隣さんとは50メートル以上も離れている。
そのため、幾ら騒いでも近所迷惑にはならない。
だからというわけでもないが、ミュートとミューナの双子は毎朝目覚めるや否や家の中をバタバタと騒がしさ抜群に駆け回る。
もちろん遊んでいるわけではなく、水汲みや朝食の準備のお手伝いと、きちんと仕事をしているわけだが、その過程はとても騒々しい。
ミュートとミューナは共に8歳ではあるが、その精神年齢はまだまだ幼い。
オルガによると、エルフ族のような長命種族は精神的成長が少し遅いらしく、16歳ほどになるまでは人族の幼子と変わらないほど無邪気に振舞うのだそう。元気有り余る姿で騒がしく走り回る二人は、エルフ的には極自然な状態というわけだ。
我が家で一番目覚めが遅い俺としてはもうちょっと静かにして欲しいところだが、二人とも楽しそうにしているので文句はない。
しかし、今日はそんな朝の名物がお休みである。
少しだけ物足りないと感じてしまうのと同時に、少しだけ心配してしまう。
「……そうですね。昨日の夜は……二人ともあまり眠れなかったみたいですから」
オルガにしては歯切れの悪い言い方だった。
「まだ立ち直れていない、か……」
「知っていたのですか」
「まぁな」
オルガとミュート・ミューナの双子は、故郷である村を盗賊団に滅ぼされ、必死の思いでここまで逃げてきた、謂わば流民である。
いつも明るく楽しそうに振る舞っているから忘れがちだが、彼らは家族と故郷を失ったばかりなのだ。
そんな惨い経験をしたばかりのミュートとミューナは、未だに悪夢にうなされて真夜中に飛び起きることがある。
そして、その度にオルガの部屋を訪ねては、彼女の布団に潜り込んで泣いている。
オルガも、そうなった二人を寝付くまでずっと優しくあやし続けている。
オルガはそのことを俺が知らないと思っていたようだが、俺は勿論気がついていた。
家に来た当初、部屋はたくさん余っているにも拘らず、ミュートとミューナは一緒の部屋で良いと言い、別々の部屋で寝ることを拒んだ。
随分仲が良いんだなぁ、なんて思っていたのだが、その日の夜中に二人がすすり泣いているのを聞いて、そういうことではないと理解した。
二人はまだ、家族や故郷を失ったショックから立ち直れていないのだ。
家族を失う感覚は、俺も痛いほどよく分かる。
あれは文字通り心を抉られる経験だ。
抉られた心にはポッカリと穴が開き、そこから何もかもが流れ出ていく。残るのは、萎んでカラカラになった、嘗ては心だった残骸だけだ。
傷は深く、流れる血と涙は多い。
荒事に慣れている俺でも、こればっかりは慣れることができない。
俺のときは、師匠の友人である弥生さんとマリアさんが暫く面倒を見てくれた。
最初の何日かは記憶がなくなるくらい悲しみ、怒り、嘆き、罵り、泣いた。
弥生さんとマリアさんは、そんな俺に何も言わなかった。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、何も口にしなかった。
ただ優しく抱きしめ、優しく頭を撫でてくれた。
本物の母親のように、無言の愛で慰めてくれたのだ。
そんな二人の愛に、どれだけ救われたことか。
残念ながら、俺は弥生さんやマリアさんじゃない。
彼女たちのような包容力はないし、ミュートとミューナに掛けるべき言葉も持っていない。
だから、ミュートとミューナに、俺は何もしなかった。
二人が笑っていられる間は、下手に記憶を掘り起こして傷口を広げないよう、ただいつもどおり振る舞い、見守ろうと決めた。
俺が二人にできるのは、今の生活を維持し続けることだろうと考えたから。
でも、二人が夜中に飛び起きる度に思う。
もっと何かしてやれたのではないだろうか、と。
「あなたのお陰で、私たちは救われました。ですから、あなたがあの二人に罪悪感を抱く必要はありません」
オルガは真っ直ぐに俺の顔を見ていた。
「罪悪感を抱いているように見えたのか?」
「はい」
「それは誤解だ」
「あなたがそう言うのなら、そういうことにしておきます。ただ、これだけは知っておいてください。私たちを見つけたのがあなたでなかったら、私たちは確実に死んでいました」
そう言って、オルガは淡い笑顔を浮かべた。
「あなたくらいです、私たちを受け入れてくれるのは」
「……そんなことはないと思うぞ。俺みたいに労働力が必要だったら、お前らを見捨てることはないだろ」
「それこそ、そんなことはありません」
オルガは朝日の差し込む窓に目を向け、視線を遠くへと暈す。
「農村は、何処も苦しいです。自分が食べていくだけで精一杯、家族全員が生きていければ御の字、そういうのが殆どです。見ず知らずの人間、それも力も体力も劣る、ただのお荷物でしかない女子供を抱え込みたいと思う人間など、何処にもいません」
「そんなこと──」
「あります。寧ろ、そっちの方が普通です」
俺に向き直ったオルガの顔はとても優しかったが、その言葉の内容はとても凄惨だった。
「私たちが生きていく方法なんて、殆どありません。
私とミューナは娼婦に、ミュートは闇鉱山の鉱夫か男娼に。それぐらいしかないんです。
もし私たちが出会ったのがあなたではなく他の人だったら、きっと私たちは捕らえられてどこかに売られていたでしょう。
最悪、いいように辱められ、そのまま殺されていたかもしれません。邪魔者は殺してしまう方が早いですから。
裕福なこの村の人間でも、同じようなことをしたでしょう」
否定できなかった。
現代の地球でさえ、そういうことが未だに数え切れないほど起きているのだ。
この世界ではきっと、それが当たり前なのだろう。
「……俺も、別にお前たちを慈善で助けたわけじゃないぞ」
俺が事実を教えてやると、オルガはふっと笑った。
「ええ。それは知っています」
「なら、俺にお礼なんて言う必要は──」
「あります。それでもあるんです」
オルガの顔が真剣味を取り戻す。
「たとえ思惑があったとしても、あなたは私たちを売り飛ばしはしませんでした。それどころか、これまでよりも良い生活を与えてくれました」
「それは、労働に対する正当な対価というか、住み込みのバイトの最低賃金っていうか、そういうやつだ」
「ええ。ですから、私たちはそのことに大いに感謝しているのです。一方的に施すのではなく、仮にでも『雇う』という形を取ってくれたことに。
そのお陰で、私たちは自分たちの価値を、自分たちの生きる意味と誇りを見出すことができました。
恵んでもらうことでしか生きていけない役立たずではなく、自分の労働で生きていける立派な『人間』なのだという心の平穏を手に入れたのです」
「……そんな深い考えなんてなかったよ。それに、俺はお前たちが約束を破ったら本当に殺すつもりだ」
「それも承知しています。貴族に仕えるメイドですら、屋敷で得た情報を外部に漏らせば殺されるのですから、当たり前と言えます」
そう言って、オルガは再び微笑んだ。
「あなたはきっと認めようとはしないでしょう。それでも、私たちはあなたに救われました。一番の証拠は、ミューナとミュートです」
「証拠?」
「はい。寝ている間はまだあの恐ろしい経験を夢に見てしまうようですが、昼間の二人はとてもよく笑います。あなたに出会っていなければ、二人があのように良い笑顔をあのように頻繁に浮かべることはなかったでしょう」
「俺は何もしていないぞ」
「そうですね。あなたが敢えてそうしているのは知っています。そのことであなたが罪悪感を抱いていることも」
「……だから罪悪感なんかねぇって」
「そうですか? 私には、あなたの顔に『もっと何かしてやれなかったか』と書いていたように見えましたが」
「……それ、目がイカれてるんじゃないか?」
「では、そういうことにしておきましょう」
全てを見透かすような透き通った紫の瞳に俺を映したオルガの笑顔は、とても美しく、そしてとても儚く見えた。
触れれば消えてしまいそうな、そんな笑顔だ。
だから、俺は問わずにはいられなかった。
「お前は?」
オルガは首を傾げるオルガに、俺は言った。
「お前は、もう大丈夫なのか?」
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