18. 猿も木から落ちますか?

 ジャーキーを拾い、ビッグボアを狩ったその日の午後。

 太陽はまだまだ眠たそうに傾く頃合いではなく、さりとて影すら作らないほど上から目線でもない時間。俺の絶対音感ならぬ絶対腹時計によれば、まだ午後の3時といったところだろうか。


 欲しかった薬草を取り終わったのでもうそろそろジャーキーを連れて村に帰ろうとしたところで──


 俺はの存在に気が付いた。


 距離にして凡そ500メートル。

 山向からやって来る、殺気を全身に纏った「何か」。

 この辺りでは一度も感じたことのない気配だ。


 ジャーキーは相手との距離が離れ過ぎているせいでまだ何も感じていないらしく、のほほんと片方の後ろ足を上げて辺りの木々にマーキングしていた。

 無理もない話だ。「単なる野生の勘」と「訓練によって磨かれた危機察知能力」では性能が違いすぎるからね。

 こういう言い方をすると傲慢に聞こえるが、俺は別にジャーキーを責めるつもりはない。

 こんな遮蔽物だらけで色んな臭いが充満している空間で500メートルも離れた敵を見つけろ、と要求する方がどうかしているのだ。頭のおかしい基準に満たなかったからといってその者が未熟と認定するのは、些か不条理がすぎるだろう。

 ……まぁ、その「頭のおかしい基準」を当然のように要求してくるのが俺の師匠なわけだが、それは置いておくとして。



 俺が感知したそいつは、明らかに「敵」だった。


 そいつから放たれる気配は、9割以上が殺気。

 おまけに、その殺気は特定の誰かにではなく、周囲へと無差別に向けられている。

 こんな気配を発するのは、見るもの全てが敵だと思っている手負いの獣か、殺戮に快感を覚える精神病質者サイコパスのどちらかだ。

 絶対に友好的な相手ではないだろう。


 とは言え、ここは異世界だ。普段から息をするように殺気を振り撒く習性のある生き物がいても可怪しくはないのかもしれない。誰彼構わず「なに見てんだぶっころがすぞゴルァ!」と威嚇する札付きのヤンキーみたいなものだろう。


 正直、そんな迷惑な生物が実在しようがしまいが、俺の知ったこっちゃない。

 俺と無関係なところで息巻いている限りは、ね。


「う〜ん……やっぱ、真っ直ぐこっちに来てるよね〜」


 俺が感知したその「息巻いているやつ」は、迷うことなく我がピエラ村へと向かって歩みを進めている。

 このままだと半日で村の外縁にたどり着いてしまうだろう。


 そうなると、話が180度変わってくる。


 こんな悪質なチンピラみたいな奴が、ウチみたいな善良でか弱い人々が集まる村にやってくるなんて、迷惑が過ぎる。

 ここは早いところ追っ払うか、先程のビッグボアに引き続き本日2匹目の食肉になってもらわないとね。

 俺的には、後者を押したい。お肉大事。



 相手の正体を探るために、《B.E.F ディテクショ》や《生理活性物質分析ホルモン・アナリシス》などの探知魔法を複数発動する。


 相手が何であれ、初見のやつ相手に舐めて掛かることはできない。

 この世界に師匠並みの化け物がいないとは決して断言できないし、そんな相手が数奇にもちょうどたまたま図らずも何かの拍子で偶然俺の前に姿を現さないとも限らない。

 だから、所見の相手にはいつも以上に万全を期して挑まなくてはならないのだ。

 相手が敵意を持っている場合は特にね。


 魔法による探査のおかげで、俺は接敵するよりも遥か前に、相手の大凡の正体を掴むことに成功した。


 そいつは──


「……魔力があるチンパンジー、みたいな……?」

「ワウ?」

「いや、生体電磁波の波形とホルモン分泌パターンだけ見れば、チンパンジーそのものなんだよ。それを魔力が薄っすらと包んでいる感じなんだよね」

「ワウワウ?」

「多分、魔物なんだろうけど……でも、チンパンジーって……」

「ワウゥ……」


 あれ?

 なんかジャーキーと会話が成り立っている?

 いやまさか、そんなわけないよね。

 だって俺、ジャーキーが言ってること全然わかんないもん。

 もしかして、ジャーキーのほうが俺の言葉を分かってるとか?

 いやいやまさかそんな……。


 まぁ、それはいいとして。


「コイツ、魔力は纏ってるけど、魔法は使ってないみたいだな」


 地球むこう交差変異生物まものは、防御魔法や強化魔法のようなものを無意識に身に纏うことが多かった。

 俺も師匠に連れられて何度か退治したことがあるが、そういうやつは中々に厄介だ。

 突然変異した肉体は驚異的な性能を有するし、反射速も人間の比ではない。そこに魔法による防御と強化が加われば、一人前の魔法使いでも苦戦は免れない。


 だからこっちの魔物もそうなのかと毎度注意して見ているが、未だに防御魔法や強化魔法を自分で張れる魔物と出会ったことがない。

 このチンパンジーみたいなのも、探知魔法で探ってみたところ、ただ薄っすらと体に魔力を纏わせているだけで、魔法は使っていなかった。


 ……あんまり強そうには見えないな……。


 いいや、決めつけはよそう。


 師匠によれば、俺は相手の実力を見抜く能力が殆どないらしい。

 一応、俺も体格とか、魔力量とか、体捌きとか、そういうのを理性的に分析して相手の強さを大雑把に推し量ることはできるつもりだけど……相手が師匠クラスの化け物のときにしか働かないのが実情だ。

 なんというか、武の達人とかがやっているみたいに、体と心で感じ取る──所謂「気配」だけで相手の強さを察する──ということが、俺にはできないのだ。

 だから、漫画などによく出てくる「むっ、お主のその気配……只者ではないな!」「ふっ、見抜かれたようだな。そういうお前も、なかなか強そうな気配してるじゃねぇか!」という展開が、俺には全く期待できない。

 ほんと、戦闘力が測れるカウンターが欲しいよ……。


 まぁ、見ただけで相手の実力を推し量れなくても、それはそれで仕方がない。

 その辺は、俺も既に諦めている。

 俺は、俺にできる判断方法を取るだけだ。

 つまり──


 見て分からないのなら、一度戦ってみればいいじゃない!


 とりあえず殴り合ってみて、勝てそうなら「俺より弱い」、負けそうなら「俺より強い」。

 ものすっごい脳筋な発想だけど、方法としては一番簡単で、一番確実だ。


 え?

 それは危険じゃないかって?


 うん、危険だよ。

 めちゃくちゃ危険だよ。

 手の内も実力の底も知らない相手といきなりぶっつけ本番で命のやり取りをするなんて、誰にとっても危険に決まってるよ。

 正直、戦略的に見れば馬鹿げているとすら言えるね。


 だけど、俺は師匠との修行で、そういった危険には慣れきっている。


 師匠との修行は、いつも命懸けだった。

 俺にとっての「模擬戦」はいつだって「模擬の戦い」じゃなくて「ガチの死闘」だったし、「座学」はいつだって「座って学ぶ」じゃなくて「体に叩き込まれる」だった。

 見たこともない魔法で奇襲されることなど当たり前。こちらの攻撃がカウンターで10倍増しになって返ってくるのは日常茶飯事。気絶しているところに防御不可能な必殺攻撃を叩き込まれることも珍しくない。

 それはもう、本気で殺しにきているような攻撃の連続である。

 そのくせ、同じ魔法は二度と使ってこないし、同じ攻撃パターンも二度とお目にかかれない。あんたどんだけの数の魔法を修めてんのと驚嘆したことは一度や二度ではないし、実際に「あんたは技のデパートか!」とツッコんだ回数も数え切れない。

 俺にとって、師匠との修行は、常に見知らぬ格上を複数同時に相手にしているようなものだった。


 だから俺は、あまり「未知の相手に一当たりしてみる」ということに大きな忌避感を抱いていない。


 いや、勿論、相手の実力を一から十まで把握してから戦う方が好きだよ。

 っていうか、間違いなくそっちの方がベストだよ。対策も立てやすいし、先読みもできるし、なにより安全だからね。

 孫子の「知彼知己彼を知り己を知れば,百戦不殆百戦殆うからず」っていう名言が現代まで残っているのも、それが実際に有効だからだしね。


 けれど、現実ではそれができないときの方が圧倒的に多い。

 敵の手札が全部分かっている状況などそうそうあるものではないし、敵からしても自身の手札を全部相手に知られている状態でバカ正直に戦う筈がないので、必ず何らかの対抗策を講じてくる。

 万全の対策を立てた状態で危険性なく挑める相手など、ゲームでもなければなかなかお目にかかれないのである。


 え?

 漫画などでよくある「防御に徹して相手の手の内を引き出す」みたいな戦法を取ればいいじゃないかって?

 いやいや、あれは同格か格下にしか通用しない戦法だよ。

 格上が相手じゃあ、初撃で崩されて終わりだ。

 これ、実体験ね。


 だからというわけでもないが、常に師匠圧倒的格上を相手にしてきた俺は、たとえ初見の強者が相手でも、なんとか生き残る手段をたくさん持ち合わせている。

 っていうか、持っていなければ──必死に習得しなければ、修行の途中で死んでいた。

 師匠との修行では手足が吹き飛んだり、体の大半が消し飛んだりするのはよくあることだったからね。

 寧ろ「手足は失うもの」くらいに考えていなければやってられなかったよ。

 今では脳さえ残っていればいいやと思っているし、実際、脳さえ残っていれば死なない自信がある。


 え?

 タンクローリーの爆発で死んだやつが何を偉そうに、って?

 そ、それは、言わない約束ってことで、ひとつ……。




 ……話が逸れた。




 何はともあれ、相手がどんな化け物でも、油断せずいつものように冷静に対処すればいい。

 最悪、逃げに徹すればなんとかなる。

 自己治療と逃走は得意中の得意だからね……師匠のおかげで。


 見れば、チンパンジーみたいな奴は、未だ真っ直ぐにこちらへと向かってきている。


「行くぞ、ジャーキー」

「ワウ?」

「威力偵察だ」

「ワウッ!」


 元気な返事を返すジャーキーと一緒に、俺は静かに且つ早足で森を駆け出した。






 ◆






 十数秒後。


 俺とジャーキーは相手の姿が見える位置まで近づいていた。

 本当は狙撃魔法で遠距離から奇襲を仕掛けるのが定石なのだが、俺は素直に姿を晒すことにした。

 そもそも、俺の目的はこいつの殲滅ではない。……いや、それも目的の一つではあるけど、あくまで「ついで」でしかない。


 俺の最大の目的。

 それは、魔物との戦闘経験を積み、魔物に関する情報を集めること。



 この世界には俺にとって未知の生物群である「魔物」がいたる所に生息している。

 その中に師匠並みの──本物の怪物がいないとも限らない。

 対魔物の戦闘経験を積むことは今後、己の身と生活環境を守るために必要不可欠なのだ。


 というか、まだこの世界での生活が始まったばかりの俺には、一度戦ってみる以外に魔物の情報を収集する術がない。

 だから奇襲なんてしない。

 正々堂々と勝負する。

 ジャーキーを手懐けたときに考えていた「魔物は殺気や実力差を正しく認識できるか実験」も兼ねているから、一石二鳥だ。


 俺は隠していた気配を全開にして、そいつの前に堂々と姿を見せた。

 隣でジャーキーが一瞬だけビクッとしたのは見なかったことにした。


「ウボ? ウゴォ! ウゴホホホォォォ!」


 俺の姿を視認した魔物が、野太い威嚇の咆哮を上げる。


 そいつは……なんと言うか、やっぱりチンパンジーだった。

 ただ、大きさがおかしい。

 いや、それは《B.E.F ディテクショ》で既に分かってはいたけど、この目で確かめるとそれがより鮮明に、そして奇異に映るのだ。

 それほどまでに、こいつはデカい。

 シルエットは完全にチンパンジーだが、身長は優に3メートルを超える。

 足は短小ながら、両の腕はそれに反比例して長く、そして太い。

 尻尾はニホンザルのようにとても短く、代わりにサーベルタイガーのような太くて長い牙が上顎から覗いている。

 体毛はジャーキーのように真っ白。しかし、滑らかで毛艶がいいジャーキーと違い、こいつのはゴワゴワとした質感である。


 ふむ。

 股間を覆っている白い体毛の形がどことなくブリーフを履いているように見えるから、こいつのことは分かり易く「ブリーフ君(仮)」と名付けよう。

 正式名称を知らないし、名前がないと不便だからね。


 俺が勝手に付けた名前が気に入らなかったのか、ブリーフ君(仮)は牙をむき出しながら「ウゴオオォ!」と吠えた。

 そして次の瞬間、大木の枝にぶら下がっていた状態から、弾かれたように俺へと飛び掛かってきた。

 爆発で吹き飛ばされてきたような速度と意外性。何の予備動作もなくこの速度で飛び掛かるなど、普通の生物には不可能だ。こんな非常識な動作、魔法使いでもなければ目にすることは生涯ないだろう。

 見れば、ブリーフ君(仮)は魔力を腕部に集中させ、腕力を強化している。

 流石は魔物、魔法使いや武術家が訓練を積んでやっとできる芸当を簡単に──おそらく無意識に──やってのけている。


 高速で迫ってくるブリーフ君(仮)は、そのまま空中で右の拳を勢いよく突き出してきた。

 なんの芸もない、ただの殴り付け。

 しかし、その拳には時速100キロで走る軽トラのような風圧が乗っていた。

 直撃は、間違いなく死を意味するだろう。



 隣りにいるジャーキーの様子が気になって、俺は一瞬だけ目を向けて確認してみた。

 ジャーキーは野生の本能をフルに活用し、優雅とすらいえる体捌きで既にブリーフ君(仮)の射線上から飛び退いていた。同時に、飼い主である俺に向かって「ワウッ!」と短く警告することも忘れない。

 ……意外とやるな、ジャーキー。

 忠誠心もばっちりだし、いっそ「ハチ」に改名しようかな?



 呑気に忠犬(忠狼?)ジャーキーの安全を確認していると、ブリーフ君(仮)の右ストレートが眼前まで迫っていた。

 ジャーキーが俺を心配するように「ワウッ!」と吠える。


 心配するな、ジャーキー。

 の攻撃なら、簡単に躱せるから。

 当たっととしても、どうということはない。


 爪先に少しだけ力を入れて、軽いバックステップを踏む。

 魔法も魔力も使わない、体術だけの回避。

 ブリーフ君(仮)の右ストレートを躱すには、これで十分だった。


 ターゲットを見失った巨大な拳が、轟音を上げて地面にめり込む。

 その衝撃で、土砂が派手に飛び散る。

 後には、小さなクレーターが残った。


 さながらバトル系少年漫画に出てきそうな、迫力満点の光景である。

 一般人が目撃すれば、間違いなく腰を抜かしてしまうだろう。

 だが、俺に驚きはない。


 我々魔法使いにしてみれば、パンチが地面に突き刺さるなど日常茶飯事だ。

 拳で地面を破壊するなど、魔力を身体に纏わせることを学んだばかりの新米魔法使いでも簡単に真似できる。それこそ、初めて足に魔力を纏わせることに成功した俺(当時7歳)が簡単にアスファルトを踏み抜いて膝までズッポリと埋まってしまえる程だ。

 パンチで地面を叩き割るなど、驚きには値しない。

 これなら、まだ地球むこうの拳闘師が放つ正拳突きの方が怖い。彼らのパンチは、20ミリもある軍用装甲板を板チョコのように軽々と砕くからね。それも、拳に魔力──彼らは「気功」とか「オーラ」と呼んでいるが、その実態は魔力──を纏わせない素の状態で。

 だから、ブリーフ君(仮)のこの右ストレートは、まだ全然可愛い方である。


「ウホッ⁉ ウホホオォォアアァァァ‼」


 今まで己の攻撃が外れたことが一度もなかったのか、驚きを隠せないブリーフ君(仮)は自分の拳と俺を交互に見比べて、すぐに激昂した。

 イライラしたような咆哮を上げながら、再びこちらに飛びかかってくる。


 どうやら、ブリーフ君(仮)は弱い方から殺そうとしているらしく、狙いはやはりジャーキーではなく俺。

 まぁ、体高1.2メートル・体長1.5メートルを超える巨大な狼よりも、身長175センチで痩せ型の人間の方が弱く見えるのは当然か。

 だけど、相手が悪かったな。

 俺の場合、普通の人間と鍛え方がちょっと違うんだよ。


 っていうか、何の迷いもなく突っ込んでくるよな、こいつ。

 さっきからちょいちょい殺気を飛ばしてんだけど、全く反応してない。


 対するジャーキーは、素の気配に戻った俺を畏怖を込めた目で盗み見ながらも、ちゃんとブリーフ君(仮)相手に戦闘態勢を取っている。俺が戦っているから手出しする気はないみたいだが、いつでも行動可能のようだ。

 少し離れた場所にいるし、あれなら巻き添えにならなくて済むだろう。



「さて、未知の魔物の性能テストと行こうか。付き合ってもらうぞ、ブリーフ君(仮)」



 ポケットから血抜きに使っていたナイフを取り出す。

 刃渡りは10センチしかないし、鉄製なので強度も低いが、それでも立派な「武器」である。

 そのナイフに、俺は分子構造を一時的に改変する3次元魔法──《分子構モレキュラストラクチャ造操作ー・マニピュレーション》を付与。分子間力を強めて、ナイフ全体の強度を大幅に引き上げる。

 比較的脆くて柔らかい鉄製のナイフも、これで一時的に高強度チタン合金並みの強度を持つようになるので、使い勝手が良くなる。

 その代わり、魔力は纏わせない。

 ここで魔力まで纏わせてしまったら、殺傷力が高くなり過ぎて性能テストにならなくなってしまう。

 だから、ナイフの強度は上げても、魔力までは纏わせない。


「先ずは物理耐久性能のテストだ。行くぞ、ブリーフ君(仮)」


 ナイフを逆手に持ち、ブリーフ君(仮)に肉薄する。


 獲物が自分から飛び込んでくるのを見たブリーフ君(仮)は、その醜い口元を歪めて嗤う。

 そして次の瞬間、その太い右腕が霞んだ。

 容赦のない高速右フックだ。


 でも、師匠のビンタより100倍は遅い。


 迫りくる拳をサイドステップで回避。

 鉄球クレーン車の鉄球を思わせる巨大な拳が、ゴウッと風を伴って俺の側を通過する。


 回避と同時に、ブリーフ君(仮)の懐に潜り込む。

 そして、その無防備な腹部にナイフを突き立てる。


「──っ⁉ ウゴアアァァ!」


 己の腹にズップリと沈んだナイフを見て、苦痛の悲鳴を上げるブリーフ君(仮)。

 俺を懐から追い払おうと必死に腕を振り回す。


 相手の反応を観察するために、ナイフを引き抜いて一度距離を取る。


 ブリーフ君(仮)は信じられないという顔で傷口を庇っていて、追撃はしてこない。


 ふむ。

 結構硬いな。

 新聞紙の束を刺したような感触だ。


 いや、この言い方は正確ではないな。


「新聞紙の束を刺したような」というのは、あくまでもを使ってで刺しただ。

 恐らく、実際の硬度は鉄板とほぼ同等だろう。

 普通の刃物で切りつけても傷すらつかないはずだし、逆に刃毀れを起こすかもしれない。


 流石、全身に魔力を纏っているだけある。

 生き物の毛皮が持つべき本来の強度を遥かに超えている。

 それもそのはず。

 魔力でコーティングされたものは、人であれ物であれ、強度が大幅に上がる。

 その原理は簡単で、魔力によってその人や物の情報構造体根幹をなすものが強化されるので、根本から壊れ難くなるのだ。


 ただ、それは「強度」の話であって、「材質」には影響しない。

 どれだけ魔力でコーティングしようと、その人や物そのものがカッチカチに固くなるというわけではない。あくまで「破壊する力」に対して強くなるだけで、本質は変わらないのだ。

 だから魔力を纏ったブリーフ君(仮)の毛皮は、攻撃に対しては鉄板並みの破壊抵抗を有するが、直に触れば普通のゴリラの毛皮と同じ質感でしかない。



 ブリーフ君(仮)のフサフサな白毛に、赤いシミが小さく広がった。

 ナイフの刃渡りとブリーフ君(仮)の体格を鑑みれば、俺が与えた一刺しは外皮と筋肉を少し傷つけただけで、内臓に達していないのは明白。

 ただ、それでもブリーフ君(仮)は警戒も顕に、浅いはずの傷口を庇いながら俺を睨みつけている。


 もしかして、これまで傷を付けられたことがないのかな?

 だから怪我に弱い、とか?


 正直に言えば、ブリーフ君(仮)は魔力を纏ってもまだまだ柔らかい部類に入る。

 魔法で強度を強化したとはいえ、なんの攻撃特性も付与していない「ただ硬いだけのナイフ」が簡単に突き刺さるのだから、魔法使い的には大したことない硬さと言わざるを得ない。

 師匠なら、何の防御魔法も使わずに、ただ魔力を薄っすらと体に纏っただけで、刃物や銃弾どころか下級の攻撃魔法すらも効かなくなる。

 かく言う俺だって、魔力を纏えば魔法なしでも銃弾ぐらいは弾けるからね。

 だから、硬いだけのナイフが簡単に刺さるブリーフ君(仮)は、ぜんぜん柔らかい方。

 魔力を纏ったからって無敵になれるわけじゃないのだ。


 などと考えつつ、俺はこちらを睨むブリーフ君(仮)を眺めながら、次の魔法の準備を進める。


「さて、次は魔法耐久性能のテストだ。立て続けで悪いな」


 構築する魔法は《魔力弾マジックブレット》。

 圧縮した魔力を弾丸のように打ち出すシンプルな魔法で、銃火器の大元となった魔法だ。

 魔力によって形成された弾丸は情報構造体に直接ダメージを与えるため、普通の鉛玉より破壊力が高く、物理的手段での防御が難しい。

 その代わり、防御魔法などの魔法的手段による防御が容易であるため、魔法耐久性能のテストにはもってこいである。


 というわけで、素早く構成式を構築する。


 右手人差し指の先端を擬似銃口に設定。

 弾丸形成のために込める魔力はごく少量。

 薬莢も銃身も必要ないため、形成するのは弾頭だけ。

 形状は9mmのフルメタルジャケット。


 魔法で弾頭を打ち出す方法だが、実は2種類ほど存在している。

 一つは本物の銃火器のように疑似爆発を引き起こして弾頭を弾き飛ばす「爆発推進法」、もう一つは弾頭に直接「速度」を付与する「ベクトル付与推進法」である。

 爆発推進法は3次元魔法しか使用しないため、魔法の等級難易度が低く、構築と発動が割と簡単だ。その代わり、その原理から爆発発砲音が発生するので、隠密行動には向かない。

 一方、ベクトル付与推進法は5次元魔法を使用するため、爆発推進法より魔法の等級難易度が高く、構築と発動にある程度の実力が要求される。その代わり、投射物に直接方向と速度が付与されるので、発砲音というものがそもそも存在しない。弾速も、亜音速(秒速340メートル以下)に設定すれば衝撃波を生まないので、完全静音射撃が実現できる。


 誰もいない山で発砲音を起こすと村人たちに聞こえかねないので、今回はベクトル付与推進法をチョイス。

 弾速も、秒速250メートルに設定する。

 静かな山奥での発砲音って結構遠くまで響くからね。


 今回形成した《魔力弾マジックブレット》は、かなり弱めに設定している。

 普通の人間ならば胴体を貫通できるスペックではあるものの、魔法使いが相手では《空気盾エアーシールド》を一枚壊せるかどうかという程度だ。

 まぁ、性能テストだからね。即死させたら意味がないし、これくらいで丁度いいだろう。

 狙うは箇所も、即死しづらい腹部にしておこう。


 構成式に魔力を供給して、魔法を起動。

 指先から発射された弾丸の軌跡を目で追いながら、ブリーフ君(仮)の反応を観察する。


 亜音速で射出された魔力の弾丸に、ブリーフ君(仮)は全く反応できていない。

 だから、


「グゥゴアァァァァ!」


 苦痛に満ちた雄叫びが轟く。

 魔力の弾丸は、ブリーフ君(仮)の腹部にヒット。「ブチャッ!」という生々しい音と共に、何の抵抗もなく刺された場所の横にめり込み、そのまま貫通していった。

 吹き出した鮮血が、白い体毛に覆われたブリーフ君(仮)の腹部と腰をジワリと赤く染めた。


 ……ふむ。

 魔法耐久性能は──正直、高くないな。


 俺にナイフで刺されたのがよほど堪えたのか、ブリーフ君(仮)は刺された直後から渾身の魔力を体全体に纏って防御に徹していた。攻撃のために腕の筋肉に込めていた魔力すら全て防御に回していたほどだ。

 なのに、それでも俺の弱めに設定した《魔力弾マジックブレット》を防ぐことはできなかった。


 地球向こうの魔法使いであれば無防備な状態でこれを食らっても皮膚を抜かれる前に止められるから、てっきりブリーフ君(仮)も腹筋あたりで止まると予想していたのだが……どうやらブリーフ君(仮)はその厳つい見た目にそぐわず、スペックは大したことがないらしい。

 地球向こうの魔法使いなら難なく倒せるレベルだ。


 腹部を二箇所も負傷したブリーフ君(仮)は、左手で怪我を庇いながら、これ以上俺に攻撃されまいと右手を必死に振り回している。

 だいぶ自棄っぱちになっているな。


 生態も調査したいところだが、この様子では無理だろう。

 データ収集はこの辺で終了だな。

 別にブリーフ君(仮)に恨みがあるわけじゃないから、これ以上苦しませるのも忍びない。

 早いとこ終わらせよう。


 ナイフの刃に魔法を設置し、再びブリーフ君(仮)の懐に飛び込む。


 先ほどの攻撃で俺を危険な相手だと判断したのか、ブリーフ君(仮)は傷を庇うのすら止めて全力で両腕を振り回しながら距離を取る。

 しかし、その動きは俺の素の脚力で十分翻弄できるほどに遅い。


 振り回される拳を軽く躱しながら距離を詰める。

 眼前まで近づくと、一足で跳躍。ブリーフ君(仮)の頭上まで舞い上がると、3次元魔法である《空歩エアステップ》で空を蹴り、急速に降下。

 驚愕と恐怖に染まるブリーフ君(仮)の瞳と至近距離で対面した。


 ご協力どうも。

 安らかに眠ってくれ。


 逆手に持ったナイフをその大木のように太い首筋に優しく当て、先端に設置しておいた魔法を発動するのと同時に、ナイフを高速で振り抜いた。


 温めたバターを切る感触。

 ブリーフ君(仮)の首は何の抵抗もなく断ち切られ、ボトリと地面に落ちた。


 通常、首の直径より短いナイフの一振りで首を完全に切断することはできない。目いっぱい斬ったとしても、切断できるのはナイフの刃と同じ長さである10センチまでで、それ以外の部分はくっついたままである。

 だが、魔法の掛かったナイフを使えば、一振りで完全切断が可能になる。


 先ほどの腹部への一突きで、ナイフにはブリーフ君(仮)の血がベッタリと付いている。

 俺がやったのは、その血液を魔法で線状に超高速噴出させることだけ。

 使用した魔法の名前は《噴流切断ジェットカッティング》。

 工業用水圧カッターの大元となった5次元魔法だ。


 原理は至極簡単。

 液体を小さな穴から超高圧で押し出すことによって高圧液刃を形成し、物体を切断するというもの。工業加工などでは日常的に使われている技術である。

 この魔法を使えば、ナイフの短い切断範囲を大太刀並に伸ばせるだけでなく、分厚い鉄板をも両断する程に切断能力を向上させることができる。

 ナイフに付着した血液など微々たるものだが、瞬間的に噴出させれば十分に高圧液刃として作用する。あとは、高圧液刃が形成される一瞬を逃さず、超高速でナイフを振り切ればいい。

 超高速の斬撃と切断能力抜群の高圧液刃の前では、魔力で強化しただけの生物の首骨付き肉など、包丁でプリンを切るようなものだ



 首を失ったブリーフ君(仮)の白い巨体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。

 切断面からは鮮血が勢いよく噴出し、一面を赤く染めた。


 これにて討伐完了。

 なんともあっけないものである。


 それにしても、見た目に反してそんなに強くなかったなぁ……。

 これなら以前メキシコで処理したゴリラの交差変異生物の方が手強かった。

 アイツ、7次元以上の魔法じゃないと攻撃が通らないし、人間並みに狡賢いからこちらのフェイントを簡単に見破るし、連環の計まで使ってきやがった。

 あれと比べたら、このブリーフ君(仮)チンパンジーの魔物はまだ全然戦いやすい方だろう。



 とは言ってみたものの──



 これがこの世界における「動物に近い生き物」と考えると、そのとんでもなさが分かる。

 正直、心底ゾッとするよ。



 ……これ、魔法使い的には大したことない相手けど、一般人からしたら絶望ものの化け物だよね?


 考えて見てほしい。

 鉄板並みに硬くて、ジェットコースター並みの高速で縦横無尽に跳び回り、戦車砲並みの威力のパンチを繰り出してくる、3メートルを超える巨大な白チンパンジー。


 ……それ、どこのラ◯ページ?

 この世界の人、よくこんなのが闊歩している環境で暮らしていけるよね……。

 まぁ、魔法が一般化しているんだし、実際みんな普通に生活しているんだから、なんとかできているんだろうけど……地球じゃあ考えられないよね、こんな「動物」。



 なにはともあれ、魔物退治主要目的は果たせた。

 あとはこのデカい死体の処理だけだけど……。


 ……うん、これは持って帰れないよね。


 ブリーフ君(仮)は普通の人間の基準からすれば相当に強い。「九重九太郎」としてはそこまで警戒する必要のない相手だけど、「ナイン」が遭遇したら間違いなく殺される化け物だ。

 だから、こいつと遭遇したこと自体をなかったことに──ブリーフ君(仮)が存在した痕跡を完全に消さなくてはならない。

 面倒くさいけど、俺の平穏な暮らしのためには必要な手間だ。 

 方法としては、焼却処分が最も手っ取り早いだろう。


 けど──


 ……うーん。

 ……ちょっともったいないなぁ……。


 これも、お肉と言えばお肉なんだよね。

 外見は完全にでかいチンパンジーだけど、食べられないこともない……かも?

 そういえば、東南アジアやアフリカ大陸では猿食文化があるんだっけ。

 サル痘に罹る恐れがあるからあまり進められない食方だけど、魔法でしっかり滅菌すれば恐れるに足りない。


 師匠との過酷な修行でやむなく様々なゲテモノを食してきた俺だけど、実は猿系の動物はまだ食べた経験がないんだよね。

 海や砂漠などで修行したときは周辺に猿系の動物がいなかったし、猿系がいる山やジャングルではお手頃な鳥獣とか果物とか虫とかが豊富だったから、逆に猿系には手を出す必要がなかったんよ。

 だから、俺はまだ猿肉の味を知らない。


 ……全部は無理でも、自分用に一切れぐらいなら持って帰ってもいいんじゃないか?


 要は、村の皆に見つからなければいいのだ。


 ……いいのか?

 ……いいよな?

 ……いいだろ。


 少し離れた所で戦勝の遠吠えを上げていたジャーキーに目を向けると、ジャーキーは俺に向かってそれがいいですとばかりに「ワウ!」と吼えてくれた。

 出会ってまだ半日も経っていないのに、もう以心伝心ができる仲なっているな、俺たち。


 うん。

 やっぱりちょっとだけ持って帰ろう。


 ジャーキーも賛同してくれているし、ちょっとだけなら血抜きの必要もないし、ナップサックにコッソリ詰め込めば誰にもバレないだろう。


 そうと決まれば、早速剥ぎ取り開始である。


 腰の辺りの毛皮を剥ぎ、肉を一切れカット。チンパンジーでもこの部位はサーロインと言うのかな?

 大木からもぎ取った大きめの葉っぱで肉を包んで、ナップサックに入れる。

 死体を焼却するために構成式を組み立てようとしたところで、物欲しそうな視線を感じた。



 なんと ジャーキーが たべたそうに こちらをみている。

 たべさせますか?


 →はい

 いいえ



 ……あ、お前も食べたいのね。


 そう言えば、さっきはビッグボアの内臓を切ない眼で見ていたな。

 それを知らずに埋めちゃったから、埋め合わせを考えていたんだった。

 この死体も、どうせ後は灰になるまで燃やして埋めるだけだし、この際だ。


「食べてよし」


 許可を出すと、ジャーキーは「ワウッ!」と感謝を表すように一声吠え、ル◯ンダイブよろしくブリーフ君(死)に飛びついた。

 本来は躾として俺が食事を済ませた後に餌を与えるべきなのだが、この賢いワンコが今更上下関係を間違えるとは思えないので、今日のところはこれで良しとしよう。

 お利口さんでいてくれたご褒美だ。



 数分後。

 ジャーキーが食べてくれたおかげで、ブリーフ君(死)の残りは大分減った。

 ジャーキーが満腹になったばかりか、後処理も随分楽になった。いいこと尽くめである。

 それに、満腹のジャーキーが眠気で垂れる瞼を必死に持ち上げている様は、結構可愛くて面白い。


 下級魔法である《高温焼却H. T. I》でブリーフ君(死)の残りを荼毘に付す。

 ちょっとだけお残ししてしまいましたが、どうか成仏してください。


 最後に完全に灰になった残骸を土で覆って、後処理完了。

 とりあえず、本日のお仕事はこれにて終了である。


 魔物をペットにして、お肉を調達して、薬草を取って、村の危機を退けた。

 勤労だなぁ、俺。






 ◆






 後日談。

 村の皆に内緒で持ち帰ったブリーフ君(仮)のサーロインは、とても美味でした。

 シンプルに塩のみのステーキでいただいたのだが、臭みなどは一切なく、肉汁がたっぷりで、脂もサッパリしていて、とても素晴らしい味わいだった。

 外見に似合わず狩り易い相手なので、機会があればまたジャーキーと一緒にコッソリ狩って食べたいと思う。

 もちろん、村の皆には内緒だ。

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