12. SA:王女の帰還(下)

 ――――― SIDE:アルデリーナ ―――――




「距離は如何ほどだ?」


 バーム殿の低い声が鼓膜を震わせ、思わずビクッと肩が跳ね上がる。


「と、徒歩ならば10日ほど、馬なら潰す気で走らせて3日ほど、です」

「ふむ。距離にしておよそ500キロと言ったところか。では、マッハ1で飛べば30分ほどで着くだろう」


 そう言うと、バーム殿は一度だけ大きく翼を羽ばたかせた。

 すると「バン!」という轟音が弾け、周囲の空気が輪を作って後方へと遠ざかる。

 それをきっかけに、眼下の雲がみるみる後ろへと流れていった。

 どうやらバーム殿が飛行速度を上げたらしい。


 バーム殿の言葉を反芻する。


 ストックフォード領から王都まではおよそ1500キロ。私達がヤエツギ殿と出会ったのは帰路の約3分の2の位置だから、王都まで500キロは大凡正しい。


 500キロというそれなりの距離を、たった30分で飛ぶ。

 そう呟いたバーム殿の言葉が嘘やハッタリではないことは、この激流の如く流れ行く景色を見れば一目瞭然だ。


 速い。速すぎる。

 私の心にはもはや畏敬の念しか湧かなかった。「まっはいち」というのは聞いたことがないが、きっと私達人間には想像も付かないような、ドラゴン固有の超魔法か何かなのだろう。


 上を見上げれば、何の遮りもない太陽が異様に大きく眼に映る。

 下を見下ろせば、大地の色が疎らに透ける雲が滔々と流れていく。

 雲の遥か上を飛んでいるのにも関わらずまったく寒さと息苦しさを感じないのは、どうやらバーム殿がなにかの魔法を掛けてくれたかららしい。我々が乗る彼の背中は竜騎兵達が語る槍尾翼手亜竜スピアテイルワイバーンの背上とは違い、まるで王城の客室のように快適だった。



 しばらく後。

 やっと雲の上を飛ぶという稀有な体験にも慣れ始めた頃、バーム殿が瞳だけをこちらに向けて訊ねてきた。


「あれが王都とやらか?」


 その言葉に釣られて前方に目を向けると、そこには三重の円形枠で囲まれた小さな町の姿があった。


 ──否。


 円形の中心には小さな砂山のような──ちんまりとした王城らしき建物ある。

 あれは、小さな町などではない。

 間違いなく王都だ。


 高く聳えているはずの城壁がただの枠に見えてしまったのも、王国で最も荘厳な建物であるはずの王城をただの砂山と錯覚してしまったのも、そして王国最大の都市であるはずの王都をただの小さな町と見紛ってしまったのも、全て高すぎる場所から見下ろしているからだろう。


「その通りじゃ! あそこが妾たちの目的地、王都じゃ!」


 私含め皆が早すぎる到着に目を見開いている中、姫様だけがはしゃいだ声でバーム殿の問いに肯定を返した。


 500キロという距離を、本当にものの30分で走破してしまった。

 速いなんてもんじゃない。まさに神速だ。

 もしかしたら、私達は音よりも早く飛んでいたかもしれない。

 これが、ドラゴンの成せる業か……!


「我が主の厳命がある故、我は地上には降りん。近づくのもこの辺りまでにしておこう。貴様たちを王都とやらの眼前まで飛ばす」


 よ、よかった。

 ドラゴンが王都のすぐそばに舞い降りるなど、間違いなく特級の大事だ。国を挙げて討伐に臨むことになるか、国を挙げて避難することになるだろう。

 ここで留まっていただけるというバーム殿の賢明なご判断と寛大なご配慮には心からの感謝を捧げたい……いや割と本気で、心の底から……。


 縦に割れた美しい瞳をこちらに向けたバーム殿に、姫様は深々と頭を下げた。


「バーム殿。皆を代表し、御身に心よりの感謝を申し上げる。許されるのであれば、どうかヤエツギ殿にも再度の感謝をお伝え願いたい」


 神にも等しい存在には、王家の威厳など意味を成さない。

 姫様の恭しい言動に、バーム殿が子を褒める親のように口元を緩めた。


「うむ。我が主に余すことなく伝えるとしよう」


 バーム殿の頷きと共に、突然全員の体が透明な球体に包まれた。


「さらばだ」


 次の瞬間、私たちは投げられるように王都の城壁へと飛んでいった。

 落下を彷彿とさせる速度で降下しているにも関わらず、バーム殿が作り出してくれた球体の中は風も揺れも浮遊感もなく、まるで母の温もりに包まれているかのように安穏だった。

 城壁に近づくに連れ、上方に見えるバーム殿の黒い威容が遠ざかる。

 僅か数秒で城壁の麓までたどり着き、地に足が付く。それと同時に身を包んでいた球体がスッと消えた。

 着地したのは城門から離れた場所で、周りに人はいない。いきなり空から人が降ってきたら騒ぎになるから、わざと人気のない場所に降ろしてくれたのだろう。バーム殿のご配慮には感謝しかない。


 かつてない体験に皆が顔を見合わせる中、王都の城壁を前にした姫様は小さく安堵の吐息を吐いた。


「着いたのじゃ……」






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 






「あれは、まるで御伽噺のような経験じゃったのぉ……」


 二日前の出来事を回想して夢見心地に目を瞑る姫様に、青ざめたメリルがブンブンと首を横に振る。


「いやいや姫様? ああいうのは『とてつもなく恐ろしい経験』と言うのですよ? ドラゴンに乗るなんて、私は二度と嫌ですよ!」


 私は両方の意見に賛成だ。

 ドラゴンに乗るという経験は確かに恐ろしかったが、それと同等に、言い知れぬ胸の高鳴りも覚えた。メリルは前者をより強く感じ、姫様は後者に強く傾倒したようだ。


「私としましては、バーム殿のような黒竜ブラックドラゴン──ご自身が仰っるには『ばはむーと』という品種でしたか──そのような存在を召喚できるヤエツギ殿こそが、最も御伽噺的かと」

「うむ、そうじゃな」

「あ〜、確かに」


 私の素直な意見に姫様が深く頷き、メリルが苦笑う。


 ヤエツギ殿とバーム殿の会話は、まるで友人同士のように和やかで、お互いが相手を対等の存在と認識している雰囲気があった。

 ドラゴンを召喚し、そのドラゴンと対等に語り合い、あまつさえ使役してしまうなど、一人の人間に成せることではない。もはや偉業の域を軽く通り越した、神の所業と言って差し支えない。

 ヤエツギ殿がバーム殿を指差しながら「こいつが皆さんの足になります」と言った時は、思わず一瞬だけ意識を手放してしまったものだ。


「本当に、不思議な御仁じゃったのぉ……」


 ヤエツギ殿のことを想起していらっしゃるのか、姫様は楽しそうに目を細めた。

 ここは姫様の私室で、防音措置は完璧に施されている。故に、他の場所では決して持ち出すことが出来ないヤエツギ殿の話題も、この部屋でならば心置きなく口にすることが出来る。


「おまけに伝説の霊薬──『エイナスの雫』まで調合できるんですよ? もう、頭がおかしくなりそうですよ! アリシアなんて、王都に帰ってきてから一度も研究室から出てきませんし!」


 メリルの悲痛な訴えが響く。


「一度研究室に突入してみましたけど、アリシアったら、怪しく光る眼でずっと『見たから作れるはず……きっと私にだって作れるはず……きっと人間にだって……』って呟きながらひたすらポーションを調合していたんですよ? 本当に怖かったんですから!」


 ……それはもはや末期症状ではないか?

 半狂乱でヤエツギ殿に詰め寄った時も相当危うかったが、アリシアはどうやらついに壊れてしまったらしい。

 あと、何気にヤエツギ殿のことを人間扱いしていないし。いやまぁ、気持ちは分からなくはないが……。


 ヤエツギ殿が調合してくれた、あの淡く光るポーション。

 実際にこの口で飲んだ私だからこそ、その効能のとんでもなさがハッキリと分かる。

 現存する最高級回復ポーション「紫鴉ムラサキカラス」を遥かに凌駕する即効性と回復力。

 とても「ポーションの材料」とは言えないような粗末でありふれた原料で調合できる、謎すぎる製法。

 そして、わずか数秒で製造できてしまう、驚異的な生産性。

 どれも常識の範疇に収まっていない……いや、非常識をもってしても語れはしないだろう。


 紫鴉ムラサキカラスの市場価格が小指の半分ほどの小瓶一本で地方都市の税収のおよそ二割である事を考えれば、ヤエツギ殿が供してくれたあの大瓶いっぱいに入ったポーションがどれだけの価値を持つか分かるというもの。

 比喩なしに連城の価値がある代物だ。


 ……我ながら、よくそんな品を飲む勇気が湧いたな……。


 いや、勿論、後悔などしていない。どんな高価な逸品であろうと、姫様の安全には代えられないのだから。

 ただ、そんな売れば小国くらいなら丸ごと買えそうな代物を軽々と作り、それを躊躇もせずにポンと我々に渡すヤエツギ殿の懐の深さにひたすら感服するばかりだ。


 出会った当初は緊急事態の真っ只中で驚きの連続だったからまともに思考が回らなかったが、今になって考えてみればなんと恐ろしいことか。

 ポーションに関しては一般常識しか持たない私でさえここまでの衝撃を受けているのだ。ポーションマスターであるアリシアが正気を保てなくなってしまうのも無理ないことだと言える。


「それに、ヤエツギ殿はあの暗殺者たちをまるで蟻を踏み潰すが如く軽々と倒しておったのう。妾には何が何やら殆ど見えなんだが、戦闘能力も相当なものなのじゃろ?」


 確認を取るように問うた姫様に、私は淀みない肯定を返す。


「それは間違いありません。彼は突出した剣技のみならず、類稀な魔法の才も有しております。そして魔法を発動する際に一切呪文を詠唱していないことから、無詠唱者でもあると推測できます」

「……やはりヤエツギ殿は無詠唱者じゃったか」

「はい、姫様。尤も、かの御仁の場合は『無詠唱者だから強い』わけではなく『純粋に強いから強い』のですが。彼の戦い方には隙きがありませんでした。汗顔の至りですが、たとえ私が万全の状態で挑んでも、彼が相手では戦いにすらならないでしょう。それこそ鎧袖一触です」

「それ程なのじゃな、ヤエツギ殿は……」


 何かを考えるように目を細めた姫様に、少しうんざりした様子で肩を竦めるメリル。


「それに加えて、見たこともない治癒魔法と召喚術まで使えるんですよ? もう意味が分かりませんよぉ!」


 瀟洒で隙きのない、一撃必殺の剣技。

 無詠唱で発動する、強力極まりない謎魔法の数々。

 《大回復ハイキュア》並みの即効性と回復効果を持つ謎の治癒術。

 伝説級の霊薬を兵糧と血液のみで調合してしまう、謎極まりない調合法。

 そしてドラゴンすら召喚し使役してしまう、恐るべき召喚術。


 ……確かにメリルの言う通り、言葉にして羅列すると頭がおかしくなりそうだな。


 近接戦闘術、魔法戦闘術、回復魔法、ポーション調合術、そして召喚術。どれか一つでも修めていれば生涯食うに困らなくなるこれらの技能を、ヤエツギ殿は全て優秀以上に……いや、国を揺るがしかねないレベルで会得しているのだ。

 まさに比倫を絶する人物だろう。


 極め付けに、彼の気軽な態度だ。

 その驕りのない自然な態度は、これらの偉業が全て本人にとっては一挙手の労で成せることに過ぎない、ということを如実に物語っている。


 本当に、なんと恐ろしい御仁なのか……。


 彼は自分のことを「魔法使い魔法をやっと使える者」と言っていたが、それは間違いなく自虐的な謙遜だろう。

 攻撃魔法を使えるようになった者は一般的に「魔法師」と呼ばれるようになるが、更に魔法を極めると「魔導師」と呼ばれるようになる。その境地に達した者は、偉人として歴史にその名が残ることになる。

 ヤエツギ殿が自称していた「魔法使い」という呼び方は、大抵が魔法が下手な魔法師への蔑称か、謙虚な魔法師がときどき名乗る謙称だ。

 私からしてみれば、ヤエツギ殿は何処をどう見ても「魔法使い魔法をやっと使える者」などではなく「魔導師魔導を極めし者」。それも、冒頭に「大」が付くような、魔導師の中の魔導師だ。

 それなりに魔法に詳しい私ですら、彼がどんな魔法を使ったのかさえ掴めずにいるのだから、その謎ぶりが分かるというもの。


 今更だが、彼は一体何者なのだろうか?


 ここまで出鱈目な人物は、歴史はおろか御伽噺の中にすら存在しない。まるで伝説の英雄たちと御伽噺の主人公たちを集めて粘土のようにこね合わせたような御仁だ。

 今となっては、彼の氏素性を何も掴んでいないことが悔やまれる。

 が、それを探ることは絶対に出来ない。


「彼が味方に付いてくれたら心強いのですが……」

「確かに、それは心強すぎる好事じゃが……難しいじゃろうなぁ」


 私が漏らした願望を、姫様は苦笑いで否定した。


 ヤエツギ殿は、自らの望みは静かに暮らすことだとハッキリと告げていた。

 そんな御仁が、誰もが手に余る王族の王位継承争いに喜んで手を貸すとは到底思えない。

 もし彼に協力を強要……とまでは行かなくとも、打診ないし匂わせたりして、その結果、彼を面倒な事態に巻き込むようなことにでもなれば、果たしてどうなるか……。

 間違いなく、彼は降りかかる火の粉を払うべく行動に移るだろう。

 この場合、払われる「火の粉」は我々だ。


 自分という存在を口外するな。約束を破れば王都を消す。

 ヤエツギ殿のこの言葉を「ただの警告」と短絡的に捉える人間は、この部屋には居ない。


 個人が一都市を消すことは、決して不可能などではない。

 黒蓮近衛騎士団ブラック・ロータスの副隊長である大魔導師フランゼル殿や最高ランク冒険者たちであれば、その気になれば出来ることだ。


 だが、実際は誰もそんなことをやろうとは思わない。

 それどころか、脅しに使おうとすら思わない。


 当たり前だだろう。

 都市を一つ消すということは、その国を──その国に住む全ての人間を完全に敵に回すということだ。そんなことをして何の差し障りもなく一生を過ごせる人間は居ない。故に、たとえ技術的には可能だったとしても、それを実行に移そうとする者は居ない。

 都市を消すやるはずの無いことを脅しに使う意味など無いだろう。だから、誰も口にしないのだ。


 それなのに、ヤエツギ殿はそれをサラッと口にした。

 つまり、彼は国に喧嘩を売ってもなんともない──勝てると考えている、ということ。

 もし我々が約束を違えば、彼は間違いなくその言を実行するだろう。


 いや、それすらもまだ手心を加えられる方かもしれない。

 もしバーム殿をけしかけられでもしたら、王都はおろか、この国全体が焦土と化すだろう。

 ドラゴンが暴れれば国が滅ぶ、というのは決して比喩や諺などではない。歴史を紐解けば、実際にそうして滅びた国は枚挙に暇がないのだ。

 伝説の赤竜レッドドラゴンよりも巨大で強大なバーム殿が暴れれば、間違いなく世界規模の大災害が起こる。それは確定事項だ。


 私とて竜騎兵たちが騎乗する槍尾翼手亜竜スピアテイルワイバーンなどのワイバーンとは幾度か間近で接した経験があるし、その強さも正しく理解しているつもりだ。

 だから断言できる。

 バーム殿は次元が違う。


 竜騎士たちが騎乗しているのは、所詮「翼手亜竜ワイバーン」である。本物のドラゴンと比べれば、そのまま猫と鷲獅子グリフォンだ。

 それに、バーム殿は、何かこう……上手く言葉に出来ないが……私の知るドラゴンとは「根本的な何か」が違うような気がするのだ。

 何というか、こう……力の質というか、存在感というか、そういうあやふやだが決して気の所為などではない「何か」が決定的に我々と異なっている感じだ。まるでこの世の生物ではないような、そんな気配である。


 伝説のドラゴンスレイヤーだろうと、人は所詮人だ。

 人ごときでは、絶対にあの黒きドラゴンバーム殿には敵わない。

 バーム殿が暴れるなら、我々はただひたすらに慈悲を乞うしか成す術はないだろう。

 そんなバーム殿すら従えるヤエツギ殿を、万が一怒らせでもしたら……。


 ……いや、これ以上は考えるまい。


 迂遠ではあるが、ヤエツギ殿からは既に絶縁状に等しい言葉を貰っている。

 これ以上彼に関わっても、我々に益が回ってくるとは思えない。


 私個人としては、ヤエツギ殿の願いが「静かに暮らしたい」であることが何よりの救いであると感じる。

 もしこれが「世界征服」とかだったらと思うと……。

 ……いや、これも、これ以上は考えるまい。


 同じことに思い至ったのか、姫様がしみじみと首を横に振った。


「いや、ヤエツギ殿を引き入れるのは絶対に無理じゃ。そんな考えは綺麗さっぱり捨てた方がよい。うむ、それがよい」


 確かに小さな縁はあった。

 だが、それに頼るわけにはいかない。


 彼はわざわざ仮面を被り、声を変えていたのだ。身元を知られたくなかったのは明らかだろう。だからこそ、私も彼の名前を問おうとはしなかった。正直に言って、姫様が彼に名を訪ねたときはかなり肝を冷やしたものだ。

 彼がちゃんと名前を教えてくれたことには更に驚かされたが、偽名である可能性は高いだろう。便宜上「ヤエツギ殿」と呼んでいるが、それを本名だと考えている人間は我々の中にはいない。


 幸いにも、かの御仁は悪い人間ではなかった。

 色々と危険な発言をする人物ではあるが、発言内容を理由もなく実行するような良識の無い人間ではない。


 いや、寧ろ、彼は優しい人間であると私は確信している。

 彼の実力ならば、我々のことなど見なかったことにして、一人で黙ってその場を去ることも出来ただろう。或いは黒糸ブラックスレッド諸共、我々を物理的に黙らせる事も出来たはずだ。彼にとっては、そちらの方が面倒事は少なかったはずだ。


 しかし、彼はそれをしなかった。


 それどころか、我々を黒糸ブラックスレッドの魔の手から救ったばかりか、怪我の手当てまでしてくれて、果には王都へ送り届けてくれさえした。


 勿論、バーム殿によるエスコートには「秘密保持契約を破ればドラゴンこいつが暴れるぞ」という示威の意味合いもあったのだろう。

 だが、そもそもの話、我々を亡き者にしてしまえば、約束を守らせる為に交渉するなどという手間すら省けた筈だ。それをしなかったところに、彼の優しさを垣間見た気がした。


 結局、彼は己の利益を二番手に置き、我々を助け、それどころかこちらにとって利が大きい交渉を持ちかけてくれたのだ。

 そんなヤエツギ殿の優しさに付け込むのは、間違いなく最悪の選択だろう。


 ヤエツギ殿が優しいのは、自発的な厚意を向けてくる時だけだと私は考えている。

 暗殺者が相手とはいえ、生きた人間をああも無感動に殺せるところを見れば、彼が決して優しいだけの人間でないのはすぐに分かる。

 礼節を以て接する者には礼節を以て返すが、己に害をなす者──この場合、彼の平穏を脅かす者も含まれるだろう──は躊躇なく叩き潰す。そんな性格だと思う。


 敵対しなければ温厚そのものだが、如何せんどこまでが「敵対」かという線引が定かではない。下手をすれば我々が線の外側に引かれてしまうこともあり得るのだ。

 付け上がる事だけは、決してしてはいけない。


 宮仕えの身としては、彼が他の国に取り込まれる姿も、どこかの権力者に肩入れする姿も想像できないことが唯一の救いだろう。

 逆に、彼が自分を取り込もうと付け回してくる権力者を人知れず抹殺する姿なら、容易に想像できてしまうが……。


 今のところヤエツギ殿を王国に害をなす危険人物として認定する必要はないが、不用意に突いてよい人物でもないだろう。


 まるで眠れるドラゴンのよう。

 それは、彼と対面した我々全員が共有している意見である。


 私とメリルは姫様の「ヤエツギ殿のことは忘れよ」という命令に同意し、話題を次へと移した。






 ◆






 再び始まったのは、政治の話。


「今回サイルス内務大臣が姫様のお命を狙ったのは、恐らくストックフォード伯エスト卿との繋がりを絶ち、ストックフォード伯爵領を再び南部で孤立させるためでしょう」

「うむ、その可能性は高いじゃろう。そうすることで最大の利益を上げられるのは、誰よりもエルニス兄上たち第二王子派じゃからな」


 姫様の紫色の瞳に暗い影が差した。



 今回の暗殺未遂事件は、全てストックフォード伯爵領という領地に起因する。


 エルニス第二王子は第二王子派の旗頭であり、裏社会に住む者たちのみならず、王国南部に領地を持つ貴族の殆どから支持を集めている。


 そう。南部の貴族の「殆ど」であって、「全部」ではない。


 その「全部」を「殆ど」に留めさせている原因こそ、ストックフォード伯爵領であり、領主のエスト卿だ。


 王国の南東端に位置するストックフォード伯爵領は、自領だけで食糧を自給できるほど豊かな領地である。土地面積が広く、土壌は肥沃で水源も多く、自然の豊かさでは王国でも五指を争うほど。そこに公明なエスト卿が敷く善政が加わることで、かの領は周囲を第二王子派に囲まれながらも何とか自活を果たしてきた。


 しかし、それも「とある事情」から終わりを迎えようとしている。

 そして、その「とある事情エスト卿の泣き所」を第二王子派が見逃すはずがなかった。


 ストックフォード伯爵領を傘下に収めることで初めて王国の南部全域を掌握出来る第二王子派にとって、唯一屈服しないストックフォード領とその領主たるエスト卿はまさしく眼中の釘。かの地の窮地このチャンスを利用しない手はないと言える。


 こうして、エスト卿とストックフォード伯爵領の苦難の日々が始まった。


 嫌がらせに次ぐ嫌がらせ。

 妨害に次ぐ妨害。

 圧力に次ぐ圧力。

 第二王子派からは制裁まがいの干渉を受け、所属していた中立派からは「援助は困難」という実質見捨てる宣言を告げられた。第一王女派とは根本から理念が合わず、第一王子派に救援を求めようものなら骨の髄までしゃぶられてしまう。

 エスト卿とストックフォード伯爵領は、地理的にも情勢的にも四方を狼に囲まれ、文字通り孤立無援の窮地に立たされていた。


 そこに、我らが姫様が救援の手を差し伸べたのである。


 救援と言っても、弱小派閥である我々では急場しのぎ程度のことしか出来ないし、勿論ストックフォード領の「事情」そのものをどうにかすることは出来ない。

 しかしそれでも、エスト卿はそれに飛びついた。飛びつくしかなかった。


 この時点では、エスト卿もまだ姫様と同盟を締結するつもりはなかったらしい。ただ純粋に自領の苦境をなんとかしようと、藁にもすがる思いで姫様の手を取ったに過ぎず、寧ろ姫様に対しては警戒に近い感情すら抱いていたという。

 それも致し方ないことだろう。もともと、エスト卿は派閥争いを疎む性分の人物。中立派に属していたのも、中立派が此度の王位継承争いから最も離れた場所にいたから、という理由だった。弱小であろうと既に一つの派閥として存在する我々に対して警戒を示すのは、極自然な反応と言える。

 そのことは姫様も理解しておられていた。

 故に、此度の訪問の主要目的を「派閥への勧誘」ではなく「互いを正しく知る機会」と定めたのだ。


 幸いなことに、エスト卿の中での我々の印象は「まだ比較的まともな派閥」だったそうで、姫様との会談を快諾。そんなエスト卿への敬意として、姫様は領内事情で領地を離れることが出来ないエスト卿のために、御自らストックフォード伯爵領へと足を運ぶご決断を下された。


 そうして、お二方の会談は恙無く実現されたのだった。


 ここに来て、我々に更なる幸運が舞い込んだ。

 いや、姫様が御手で好事を作り出した、と言う方が正確か。


 当初の勢力拡大我らの利自己防衛エスト卿の利を目的とした打算のみの対談は、なんとその場で同盟締結にまで昇華したのだ。


 姫様のお人柄とお考えに触れたエスト卿は姫様の価値観と理念に強い共感を覚え、二心なき協力体制を築くことを確約したのである。

 まさに双方にとって最良の結果と言えるだろう。


 こうして、我が第二王女派に新たな同盟者が加わったのだった。


 ただ、好事魔多し。

 この一行で、姫様はお命を狙われることにもなった。


「曲者たちが行動を開始したのは、確か、妾たちが同盟を締結し、ストックフォード領の領都を出たときからじゃったな」

「はい。しかも奴らは我々がエスト卿の下に避難できないよう、領外へと追い立てる陣形を取っていました」

「ほんと、あれは酷かったですよね!」


 プンスカと怒るメリルに、私と姫様が苦笑う。


 あれは「酷かった」などという軽い言葉では言い表せないほど過酷な数日だった。

 黒糸ブラックスレッドによる最初の襲撃で、護衛として同行してくれていたエスト卿の騎士団が全滅。総勢20名もの高潔で勇敢な騎士たちが我々を庇うために犠牲になった。

 それからは黒糸ブラックスレッドによる追撃が絶え間なく続き、それによって姫様の護衛として同行した我々白百合近衛騎士団ホワイト・リリーの精鋭20名は徐々にその数を減らし、遂には私達8人だけになってしまった。

 失った団員仲間は多く、損失はあまりにも大きい。


「唯一の同盟者である妾を暗殺してしまえば、エスト卿は再び孤立するからのう。あの狡猾なサイルスのことじゃ。暗殺がストックフォード領内で成功すれば、きっと妾の殺害を直接エスト卿になすりつけたじゃろうな」

「サイルス内務大臣ならば間違いなくそうするかと。たとえ証拠がなくとも、『領内で王族が暗殺された』という事実だけでエスト卿を吊るし上げる算段が立ちます。そうして王族暗殺という最重罪をエスト卿に着せることで、現ストックフォード伯爵家そのものを潰す事もできます」


 そうすればストックフォード領は完全に無抵抗になる。


「実際に罪を着せずとも、領民を関連付けるだけで十分エスト卿を黙らせることが出来ます。『領民も王族暗殺に加担した疑惑がある』と仄めかせば、エスト卿は従順にならざるを得なくなるでしょう」

「そうじゃな。エスト卿は保身よりも民を優先するお人じゃからな」


 民を思う善良な領主であればあるほど、民を盾にされたときに動けなくなる。


「それに、この策が厭らしいのは、暗殺は必ずしもストックフォード領内で成功させなくともよい、という点じゃな」

「ご明察です、姫様。たとえ暗殺がストックフォード領内で失敗しようとも、王都に戻るまでの道程の何処かで成功すれば、最低限の効果は発揮できます。『同盟を締結したばかりの相手を帰路で死なせた』という悪評が立てば、エスト卿にはもはや誰も手を貸さなくなりますので」

「そうなれば、周囲を第二王子派に囲まれ、領内事情で身動きが取れないエスト卿が自ら膝を折るのも、もはや時間の問題となるじゃろう。おまけとして、弱小とはいえ一応は競争相手である妾をも排除できるのじゃ。損のない計画じゃな、まったく……」


 残忍で狡猾な首謀者を思い、姫様は侮蔑を含めた嗤いを浮かべた。


「でもでも、領内にいる王族の身の安全を保障するのは領主の義務なんですよね? でしたら、お忍びではなく堂々と訪問を公開された方がよろしかったのでは?」


 メリルの問いに、姫様が首を横に振って否定した。


「確かにそうすれば暗殺の心配が減るかもしれんが、正式な訪問となると通過する全ての領地でいちいち歓迎を受けねばならなくなる。それは取りも直さず、サイルスの息がかかった領主らからの監視を受け入れ、奴らに妨害の時間をくれてやるようなものじゃ。訪問の目的を察知され、事前に裏工作をされてしまえば、全てが台無しじゃ。此度のストックフォード領行きは、極秘裏に行わなければ意味をなさなかったのじゃ」


 姫様の言う通り、此度の訪問は徹底して情報を隠したお陰で、同盟結成が確定するまでどの派閥にも知られず、また手出しもされずに済んだ。隠密行動で護衛の人数を少なく抑える事になった代わりに、何事もなく同盟締結まで漕ぎ着くことが出来たのだ。

 それに、確かに帰路では黒糸ブラックスレッドによる暗殺に遭ったが、それも第二王子派が土壇場になってようやく依頼したもの。謂わば飛び込み案件だ。

 もし第二王子派が事前に我々の行動を知っていたならば、きっと確実に殺せるようもっと綿密な計画を立て、もっと腕の立つ者を雇っていただろう。そうなっていたら、我々はヤエツギ殿に出会う前に全滅させられていたかも知れない。


 隠密でなければ同盟が結べず、しかし隠密ゆえに多くの護衛を連れて行けずに姫様の命を危険に晒すことになった。道中の領地を統べる領主らに助けを求めようにも、皆が皆、第二王子派の手先ゆえ成す術がない。

 本当に、どこまで行っても矛盾だらけの四面楚歌だな、私たちは。


「ねぇ、リーナ団長、第二王子派はまた姫様のお命を狙ってくると思いますか?」


 首を傾げるメリルに、私は首を横に振った。


「今のところは、なんとも言えないな。王都で王族を暗殺するのはあまりにもリスクが大きい。そんな仕事を引き受ける者も、殆どいないはずだ。そうするだけのメリットがなければ、依頼する側も受ける側も行動は起こさないだろう」

「相手がどう出るにせよ、今の妾たちには圧倒的に情報収集能力が足りん。エスト卿と情報の共有を約束したが、量も精度も不安が残る」


 姫様の憂いは、我々の喫緊の課題でもある。


 我々第二王女派は深刻な資源リソース不足にある。


 我々が支持を集められた貴族家は、たったの4家。今回同盟を結ぶことが出来たストックフォード伯爵家を入れても、まだ5家だけだ。有する人脈も、広げられる情報網も、他の派閥とは比べ物にならないぐらいに狭い。


 そんな現状からもたらされた問題の一つが、深刻な情報不足だ。


 情報判断材料がなければ判断は出来ない。

 今後の戦略を立てるにしても、現状について正しく把握できなければ、身の振り様などないだろう。


「本当に、無い無い尽くしじゃな、妾たちは」


 憂いを含んだ苦笑いを浮かべる姫様に、メリルは殊更明るく肩を竦める。


「あ~あ、何処かにいい情報源とか、頼れる強者とか、姫様のお名前が書かれた玉座とか、ポーンと落ちてないもんですかね〜」

「そんな小銭のような感覚で落ちておるもんじゃないじゃろ」

「そんな素敵なものが落ちていたら、私が真っ先に拾っているぞ」


 メリルのおふざけに場の空気が緩む。


 時勢に飲まれて成す術がない現状でさえなければ、姫様は笑顔を絶やさないお方だ。

 国を憂い、民を思うが故のことだとは承知していても、先ほどのような暗いお顔をされるのは、やはり見ていてとても辛い。


 姫様の笑顔は、我らでお守りしなければ。

 そのためならば、喜び勇んでこの身を粉にしようではないか。

 私は──私達は、姫様の騎士なのだから。

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