11. SA:王女の帰還(上)

 ――――― SIDE:アルデリーナ ―――――




 白亜の宮殿内を、私はメリルを引き連れて歩む。

 暫く二人分の鉄靴音だけが石造りの回廊に鈍く響き、やがて大きな扉の前で止む。


白百合近衛騎士団ホワイト・リリィ団長のアルデリーナと、副団長のメリルだ。姫様の召喚にお応えするべく参上した。お取次ぎを」

「畏まりました、アルデリーナ団長。少々お待ちください」


 扉の前で控えていた警備当番の団員二人に参上を告げると、一人が扉をノックし、中へと入っていった。

 姫様直属の白百合近衛騎士団ホワイト・リリィの団長と言えど、姫様の私室に無断で入室することは許されない。たとえ呼ばれたとしても、入室する際には必ず扉の前に控える警護当番の団員に名乗り、用向きを明かさなければならない。顔パスは通用しない。

 面倒に見えるが、これは安全上必要不可欠な措置なのだ。


 暫くもしないうちに扉は再度開かれ、先ほど入って行った団員が出て来る。


「どうぞお入りください。姫様がお待ちです」


 再び警護に戻る彼女の横を通り、扉を潜る。


「待っておったぞ、リーナ、メリル」

「お待たせいたしました、姫様」


 姫様の招きを受け、姫様の向かいのソファに着く。

 豪奢ではなく、かと言って質素でもない、綺麗で可愛らしい姫様の私室。天蓋付きのベッドにウォークインクローゼット、大きなソファとソファテーブル、化粧台と観葉植物くらいしか無いこの部屋には今、姫様と私とメリルの3人しか居ない。


「それで、どうなったのじゃ?」


 姫様が聞いているのは、先程姫様の名代として私とメリルが出席した宮廷会議のことだ。


「申し訳ございません、姫様。首謀者であるサイルス内務大臣を糾弾する予定でしたが、ガンダス男爵を身代わりに使われてしまいました。これ以上の追及は難しいかと」

「……そうか」


 姫様は無念そうに俯いた。



 サイルス内務大臣。

 封地貴族時の名をサイルス・アルガレク・フォン=デルトリート。

 法衣貴族へと転身した現在はサイルス・アルガレク・ド=ローブネス。


 デルトリート侯爵領の前領主で、現法衣侯爵。

 内務大臣という国の最重要役職の一つに弱冠25歳で上り詰めた、政治の鬼才だ。

 妨害、恐喝、闇討ち、何でもござれ。己がのし上がるためであれば手段を選ばず、しかし尻尾を掴ませない。競争相手は上手く蹴落とし、味方は上手く転がす。まさに出世欲が服を着て歩いているような人間である。


 政治の手腕もさることながら、その胆力と思い切りの良さも一級品。


 王国法で領地を持たない貴族──「法衣貴族ローブネス」にしか務めることが許されていない内務大臣職にいち早く就くために、当時僅か3歳だった長男に無理やり家督を譲ることで誰もが羨む封地貴族の身分を自ら進んで捨て去り、自発的に封地貴族よりも一段下の扱いになる法衣貴族へと転身した経歴を持つ。

 この金貨の山を捨てて銅貨を一枚得るような行為は当初こそ多くの者に笑われたが、15年の歳月が過ぎた今、もはや彼を笑える者はこの世に一人として居ない。

 今の彼は当初の目論見通り内務大臣にまで上り詰め、その智謀と胆力を十二分に発揮して国内に一大派閥を築くに至っている。

 まさに政治の化身が如き男だ。


 そして──この男こそ、今回の黒糸ブラックスレッドによる姫様の暗殺未遂事件の首謀者である。


 つい先ほど行われた宮廷会議にて、私とメリルはサイルス内務大臣の責任を追及するように抗議したのだが、狡猾なサイルス内務大臣は口八丁で此度の「王族暗殺未遂」を「暗殺未遂」へと挿げ替え、最終的には同じ派閥に属するガンダス男爵に責任の全てをなすりつけ、まんまと処罰を逃れたのだった。


「宰相のメルストもグルじゃった、ということは?」

「いいえ、姫様。その可能性はないかと。メルスト宰相が姫様のお命を狙うメリットは今のところありませんし、何より彼は一番の脅威であるサイルス内務大臣の失脚を我々以上に願っております。サイルス内務大臣が罪を逃れた際、ここぞとばかりに彼を責めていたメルスト宰相が一瞬だけ心底悔しそうに歯噛みしたのを目撃しました。あの腹芸が得意なメルスト宰相が、一瞬とはいえ感情を露わにしたのです。サイルス内務大臣とグルということは先ず無いでしょう」

「なるほど。では、妾たちを疎ましく思っているのは今のところまだサイルス内務大臣たちだけ、というわけじゃな」

「恐らくは」


 安堵の吐息をもらし、姫様はソファーの背もたれに体を沈めた。


 姫様の父君であらせられる国王陛下は、もう長いこと病で床に伏せている。宮廷会議にも御前会議にも、長らく御姿をお見せになられていない。

 陛下の病は極秘事項として扱われているが、国内の諸侯にとってはもはや公然の秘密どころか周知の事実。

 もうずっと後宮から御出になられていないため、陛下のご容態などの具体的なことは誰も何も知らない。全てを知っているのは陛下が真に心を許しているほんの一握りの者たちだけで、王妃や側室すらもそこには含まれていない。

 そんな不確定な状態が長く続いたせいで、口さがない噂雀たちに「陛下が御隠れあそばすのも時間の問題」などと実しやかに囁かれる始末。

 そして難しいことに、国王陛下は未だ皇太子をお定めになられておられず、またその予兆もない。


 国主の実質上の不在と、後継者の未定。

 それが、諸侯の疑念と邪心を掻き立てた。


 なんと諸侯はそれぞれで王位継承者を擁立し、それぞれで派閥を形成し始めたのだ。


 現在の王国は、五つの派閥に分かれてしまっている。


 貴族たちの半分が加わり、王国軍の支持が厚い「第一王子擁護派」。

 それに継ぐ勢力を持ち、裏社会との繋がりが深い「第二王子擁護派」。

 王国の西部に隣接する諸国からの支持を大いに受ける「第一王女擁護派」。

 どの派閥にも所属しない貴族の集まりである「中立派」。

 そして我らが姫様を押し戴く「第二王女擁護派」。


 この計5つの順番はそのまま派閥勢力の序列を表しており、残念ながら我々は最弱の派閥である。


 今回、姫様に黒糸ブラックスレッドを差し向けた首謀者であるサイルス内務大臣は、第二王子擁護派(略して「第二王子派」)のまとめ役だ。


「妾を排除できればよし。出来なくとも、無能な金食い虫であるガンダス男爵を身代わりにすることで役立たずを堂々と処分できる。正に『利益を最大に、損失を最小に』じゃな。なんというか……本当に九頭蛇竜ヒュドラのように毒々しい男じゃ」

「エルニス第二王子殿下と話が合うわけですよ!」


 王族の陰口など不敬にも程があるが、誰もが思っていたことを口にしてくれたメリルを責める者は、この場にはいなかった。

 確かに、エルニス第二王子あの男は生粋のサディストだ。


「まったくのう……」


 再び溜息が姫様の小さなお口から漏れ出る。

 王族とはいえ、姫様はまだ齢10になられたばかりだ。自分の命を狙った男達の話をして気分がよくなるはずもない。それが半分とはいえ血の繋がった異腹の兄であるならば尚更だろう。


「今はメルスト宰相が第二王子派を牽制しておるからよいものの、それも何時まで保つのやら……」


 メルスト宰相は、第一王子擁護派(略して「第一王子派」)の中心人物である。

 王家との血筋を持つカルーセル公爵家の前当主で、前任者から奪ったに等しい形で宰相職に就いた老貴族である。その政治手腕は王国随一とも言われており、サイルス内務大臣が台頭した今でもその影響力は衰えていない。

 国王陛下が病床に伏せられている今、彼こそがこの国で最も権力を握っている者だと言っても過言ではないだろう。


 メルスト宰相が自派閥に次ぐ勢力を持つ第二王子派の中心人物であるサイルス内務大臣を酷く疎ましく思っていることは、皆の知るところ。不倶戴天の敵……とまでは行かないにしても、「強大で目障り極まりない政敵」とはハッキリ認識している。

 それはサイルス内務大臣側も同様で、公には明言しないものの、自分より力も立場も上であるメルスト宰相を文字通り目の上のたんこぶと認識していて、蛇蝎の如く嫌っている。

 両者の対立は、二人が国職に就位した時から始まっており、相当根深いものがあるらしい。


 ただ、役職的には上司であるメルスト宰相でも、内務大臣という国の重役を思うままに扱うことなど出来はしない。また、その逆──どれだけ政治的才能があるサイルス内務大臣でも、国王陛下を除けば実質国のトップである宰相をどうこうする事など出来はしない。

 両者は互いが互いの枷であり、互いの権力の届く限界でもある。

 だからこそ、両者は相手が失態を犯すのを手ぐすね引いて待っているのだ。


 今回の姫様暗殺未遂は、第一王子派メルスト宰相にとってまさに第二王子派サイルス内務大臣を攻撃する絶好の機械だった。

 先の宮廷会議にて、メルスト宰相は嬉々として第二王子派の発言力を弱めに掛かり、あわよくばサイルス内務大臣を吊るそうと画策していた。尤も、最終的には失敗したわけだが。

 私達も同じことがしたかったのでメルスト宰相の便乗を許したが、勿論それは此度だけのこと。決して彼らに気を許したわけではない。


 第一王子派は会議の場でこそ色々と姫様を擁護する──ではない──を見せていたが、それも全て文字通りただの姿勢ポーズでしかない。

 彼らにとって、姫様の件は第二王子派の力を削ぐ契機に過ぎない。

 姫様の御身など、彼らは微塵も気にしていないのだ。

 それを勘違いして、軽々に彼らと協力したり同盟締結を求めたりすれば、間違いなく骨の髄までしゃぶられた後にゴミのように捨てられることになるだろう。


 第二王子派は共通の敵で間違いないが、だからと言って第一王子派が味方というわけでもない。

 我々に「敵の敵は味方」という言葉は当て嵌まらない。

 敵の敵は依然として敵なのだ。


 第一王子にとって、第二王女である姫様はどう取り繕っても競争相手。何時か必ず敵対する運命にある。


 これまで第一王子派が手を出してこなかったのは、単に我々第二王女擁護派(略して「第二王女派」)を脅威と思っていないからだ。

 考えてみれば当たり前だろう。

 片や百を超える貴族家に支持された、最大勢力を誇る第一王子派。

 片や5つの貴族家にしか支持されていない、最弱勢力である我々第二王女派。

 力の差は歴然。これで我々を眼中に入れる方がどうかしているだろう。


 侮られている、とは思わない。

 実際、第一王子派がその気になれば、我々のような零細派閥など瞬時に潰される。

 これは自己卑下などではなく、純粋な事実だ。


 いや、第一王子派だけではない。

 どの派閥も、我々を潰そうと思えばいとも容易く為せる。

 それだけ、我々第二王女派には力が無いのだ。



 幸い、今は第一王子派も、第二王子派も、そして第一王女派も、わざわざ権勢皆無である我々を潰すよりも、脅威度の高いお互いを牽制し合うことを選んでいる。中立派も、自分たちの利益さえ守れれば王家の跡目などどうでもいいと考えているため、わざわざ我々と関わるつもりもないらしい。

 それらのお陰で、我々はまだ現状を維持し続けられている。

 姫様を第一に思っている私としては、弱いから見逃されているというのはなかなかに複雑なものがあるが……文句を言うのは贅沢だろう。


 が、やはりこの平穏も「今のところは」という枕詞を付けなければならない。


「この国を救うために、妾たちはもっと力を付けなければならん。じゃが、力を付ければ付けるほど他の派閥に狙われ、道を阻まれる。まことに八方塞がりじゃな、妾たちは……」


 そう言って、姫様は弱々しい笑みを浮かべた。


 という姫様の崇高な目的を果たすには、姫様が王座に就かなければならない。

 それには先ず、この跡目争いに勝ち抜くだけの力が必要だ。


 今回、姫様が王都を離れて自ら国の最南東に位置するストックフォード領へと赴かれたのも、領主であるストックフォード伯エスト卿の支持を得るためだった。


 しかし、先程も言ったように、今まで幼い姫様が狙われてこなかったのは、偏に我々第二王女派に力がなく、誰の脅威にもなり得ず、また誰からも脅威とみなされていなかったから。今回のように支持を増やしたり力を付けようしたりすると、必然と誰かに阻まれてしまう。

 実際、今回のことを好ましく思わなかった第二王子派は、姫様に暗殺者を差し向けてきた。

 我々の生存戦略が、第二王子派の逆鱗に触れたのだ。

 暗殺行為に及んだ第二王子派のみならず、こちらをまったく眼中に置いていない第一王子派も、そして姫様とは比較的仲の良い第一王女を擁する第一王女派も、我々が力を付ける事を黙して見守ることはないだろう。どんな手段であれ、必ず何処かで介入してくるのは目に見えている。


 力を付けなければ何も成せず、力を付けようとすれば潰される。

 まさに堂々巡りの八方塞がりだ。


「やっぱり、なにかとっても大きい力を持った人をドカーンと味方に付けないと、ですよねぇ……」


 うーんと悩みながらメリルが呟く。


 一口に「力」と言っても、それには「知力」や「財力」「権力」というように、様々な形がある。

 ただ、どのような「力」であれ、突き詰めれば一つの根底に行き着く。


 それは「武力」だ。


 学者たちが競う「知力」も、商人たちが求める「財力」も、貴族たちが欲しがる「権力」も、元をただせば全て「武力」がなくては成り立たないものだ。

 幾ら頭が良かろうと拳で語られれば為す術がなくなるし、幾らお金を持っていようと力ずくで奪われてしまえばそれまでだし、幾ら官職の位が高かろうと暴力で殺されてしまえばそこでお終いだ。

 もちろん、「知」無き「武」は蛮力でしかないし、「財」無き「武」は略奪の根源であるし、「権」無き「武」は大義を失うだろう。

 だが逆に、「武」無き「知」は空論でしかなく、「武」無き「財」はただの鴨ネギであり、「武」無き「権」はハリボテである。

 結局の所、どんな正義があろうと武力がなければただの雑音にしかならず、どんな理不尽であろうと武力があれば全て押し通せる。


 浅い考えしか持たない享楽的な第一王子がこれほど多くの貴族の支持を集められたのも、偏にメルスト宰相が真っ先に第一王子の「勇敢さ」と「王国軍への重視と優遇」をアピールし、王国軍という強大な暴力装置の大半を味方に付けたからだ。


 どんな口上を述べようと、結局世の中、腕力がものを言うのである。


 メリルの言う通り、我々第二王女派が潰されずにこの王位継承戦を勝ち抜くには、強大な武力を持つ組織や個人を一気呵成に味方に付けるしかない。

 第一王子派閥の結成当初にメルスト宰相が王国軍を味方につけたように、一瞬で誰も手出しが出来ないほど強くならなくてはいけないのだ。


「そんな事が出来れば苦労はないんじゃがな」


 メリルの言葉に釣られ、姫様は少しだけ眉を垂らして笑った。

 そして「強い力、のう……」と呟くと、姫様は思い出し笑いに肩を揺らした。


「まったく、ドラゴンの背に乗って空を旅したなど、誰に言っても信じてはくれまいなぁ」


 そう言って、姫様は宝物を見るような眼差しを遠くへ向けた。

 私とメリルも、思わず姫様に倣う。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 それは、僅か二日前のこと。


 ヤエツギと名乗る仮面の少年は、圧倒的な力で我々を黒糸ブラックスレッドの魔手から救ったばかりか、見たことも聞いたこともない魔法で我々の傷を癒し、目の前で伝説の霊薬を作り上げ、果てには世にも恐ろしい存在──ドラゴンを召喚して見せた。しかもあろう事か、そのドラゴンを召喚した目的が「馬車代わりに使う」と来ている。

 もはや何を言えばいいのか、人の子である私には見当もつかなかった。言葉を失うとはまさにこういうことなのかと身に染みて実感したものだ。



 ドラゴンといえば、伝説の存在だ。

 時には闇を焼き払う希望の光として、時には滅びを招く災いの権化として、その存在は世界中の伝記や御伽噺に登場する。

 様々な角度で語られるドラゴンだが、決して変わらない共通認識が一つだけ存在する。


 それは、ドラゴンが絶大な力の象徴であるということ。


 翼を羽ばたかせれば暴風をもかき消し、尾を振れば山岳をも更地へと変える。

 その吐息は大海を干上がらせ、その咆哮は大地を揺らし割る。

 人がどうすることも出来ない天地をいとも容易く破壊し得る、神に比肩する力を持つ存在。

 それがドラゴンだ。


 天災を恐れるように、人々はドラゴンに果てない畏怖を抱き、故に、ドラゴンを屠り或いは御し得る者に無上の誉れを冠する。

 ドラゴン討伐を成した者には「屠竜者ドラゴンスレイヤー」の称号が授けられ、ドラゴンに騎乗を果たした者には「騎竜者ドラゴンライダー」の称号が与えられる。


 歴史の中には、そういった偉人や英雄が幾名か実在している。


 彼ら彼女らの物語はいずれも吟遊詩人や伝記作家によって大陸中に広められ、人々によって後世へと語り継がれ、歴史にその名を、その偉業を、その栄光を、途絶えることなく流伝させ続けている。

 また、英雄に限らず、ドラゴンの目撃情報や遭遇経験や生還実話なども、その時代時代で書物や冒険譚の原材料となって広まり、人々の注目の的となる。

 どんな形であれ、「ドラゴンと関わった」というただそれだけのことで、名が広がるのだ。

 庶民の間では「そんなことしたらドラゴンに焼かれて食われるぞ」と子供を戒め、貴族の間では「あなたのためならドラゴンの首を取ることも厭わない」と恋人に愛を囁く。

 それだけドラゴンという存在は特別なのだ。


 そんなドラゴンを、まさか馬の代わりにする日が来るなど、誰が考えられようか。



 現実逃避気味にそんな事を思いながら、私は足下にある黒い鱗を見つめる。

 ドラゴンの鱗だ。

 巨大なドラゴンの、黒い鱗だ。


 ……私、ドラゴンに乗っている?

 夢ではなく?


 自分で自分の頬を抓った。

 鋭い痛みが走る。

 夢の中で抓っても痛みを感じるが、あれは体が痛みを再現しているだけで、実際の痛みよりだいぶ鈍い。これは間違いなく現実の痛みだ。

 ということは、これは現実なのだろう。


 私は──私たちは今、ドラゴンに乗っている!


「王都とやらの方角を聞こう。どちらに行けばよいのだ?」


 腹に響く低い声。

 その声の主こそ、私たちが乗っている……いや、乗させて頂いている巨大な黒いドラゴン。

 バーム殿だ。


 以前、古い文献で「人語を解す竜は漏れなく上位竜である」という記述を読んだことがある。

 ドラゴン──古い呼び方では「竜」だが、今はもうあまり使われていない──は、歳を重ねるごとに巨体になり、知性を高め、より強大になると言われている。

 その理屈が本当であれば、これだけの巨体を有し、これだけの言葉を流暢に交わせるこの黒いドラゴンは、果たしてどれだけの存在なのか……。


「ひ、左の方へ、真っ直ぐ行った先にあり、ます」


 私が震える指を差し向けて絞り出すようにそう答えると、バーム殿は僅かにその巨体を傾け、方向を調整した。


 私達の眼下には白い雲が流れ、その切れ目からは緑色の大地が覗いている。

 ここは遥か雲の上、大空を悠々と飛ぶ黒いドラゴンの背の上だ。


 昔、「槍尾翼手亜竜スピアテイルワイバーン」に騎乗する「竜騎兵」たちから聞いた話だが、空を駆ける彼らが普段最も注意しているのは、敵襲ではなく呼吸と防寒だそうだ。

 彼らが言うには、空高く昇れば昇るほど息苦しくなり、肌寒くなるらしい。

 雲の高さまで近づくと息は荒くなり、寒さで手足はかじかみ、突風でまともに鞍に跨っていられなくなるという。

 雲の中まで入ると視界は真っ白に覆われ、湿気で槍尾翼手亜竜スピアテイルワイバーンの羽ばたきが鈍り、寒さと息苦しさによって声を出すことすらままならなくなるらしい。

 そして、その更に上──雲よりも高い場所まで来ると、手足の感覚がなくなり、僅か数分程で意識が遠退いて行くとか。

 あんなところはもはや人間の世界ではない、あんな場所で生きられるのは浮遊大陸に住む「アルビオン人」だけだ、と彼らはぼやいていた。

 基本的に、その高さまで飛べる魔物は、槍尾翼手亜竜スピアテイルワイバーンに限らずともあまり多くはない。我が国の優秀な竜騎兵でも、雲の上まで行けた者は歴代を見ても片手で数えるほどしかいないそうだ。そして、行けた者でも、数十秒ほどちらりと頭を覗かせるのが限界で、それ以上粘ろうとすれば生命の危険が出てくるという。

 それだけ、空の上というのは人間にとって危険な環境なのだ。


 空を戦域とする竜騎兵たちは、そのことを誰よりもよく知っていた。

 そして、彼らから話を聞いたことがある私も、そのことはきちんと理解しているつもりだった。

 理解しているつもりだった、のだがな……。


 眼下を覗き見て、私はゴクリと出もしない唾を嚥下した。


 我々は雲の上を……それも遥か上を、悠々と飛んでいる。

 まるで竜騎兵たちの常識を嘲笑うかの如く、竜騎兵たちですら怖気づく高さよりも遥かに高い場所を、それはもう遊覧飛行が如く悠々と飛んでいるのだ。


 その事実に、思わず身体が震える。



 ドラゴンに乗る。

 そんな事が出来るのは、伝説の騎竜者ドラゴンライダーだけである。


 最も有名なのは、女英雄「炎竜乗りのサナラ」だろう。

 かの女英雄は、炎の化身たる「赤竜レッドドラゴンン」に跨り、仲間達と力を合わせ、世界を滅ぼさんと暗躍する「黒き魔神」を打ち破ったと言伝えられている。

 女の身でありながら上位竜である赤竜レッドドラゴンンと心を通わせて強大な悪を打倒したその偉業は、当時男尊女卑だった多くの国々の価値観を根本から変え、女性の社会進出を大きく推し進めたという。

 今から1500年も昔に活躍した古い英雄だが、「炎竜乗りのサナラ」は私の幼い頃よりの憧れであり、今でも変わらず尊敬している人物だ。


 勿論、ここまでの偉人は頻繁に歴史に登場するわけではない。

 現存する騎竜者ドラゴンライダーは、「北方連合」に所属するクライス殿のみ。

 世界的に見ても実に200年ぶりとなる「英雄」の誕生であり、「騎竜者ドラゴンライダー」としては実に450年ぶりとなるらしい。

 久しぶりの伝説の誕生に大陸中の民が湧いたのに対し、各国の為政者たちは強大な脅威の出現にとても苦い顔をしていたとか。

 私も近衛騎士団の団長という立場上、英雄が他国に誕生したことに口惜しい思いを抱いたものだが、武人としての尊敬はまた別の話である。


 聞くところによると、クライス殿が騎乗するのは若い「疾風竜ゲイルドラゴン」だそうだ。

 女英雄「炎竜乗りのサナラ」の赤竜レッドドラゴンンほど上位ではないものの、ドラゴンとしても生物としても十分に強大である。

 空を縦横無尽に駆けながら新緑色の竜と心を通わせる彼の姿は、北方連合を中心に多くの国で絵画と彫刻のモチーフにされている。


 私もそれなりに腕に覚えがあるが、あくまでも人の域を出ない──英雄には届かない人間だ。

 そんな私が自分より遥かに上位の存在であるドラゴンに乗るなど、恐れ多いにも程がある。

 ましてや、私達が乗っているこの黒いドラゴンバーム殿は全長30メートル。全長15メートルだった「炎竜のサナラ」の赤竜レッドドラゴンンを優に超える巨体の持ち主だ。


 ……伝説の女英雄の相棒たる赤竜レッドドラゴンよりも倍近い巨大強いとは、一体何の冗談だろうか?


 そんな存在の背に乗って平気でいろと言う方が無茶なのである。我ながら、震えるのも仕方がないだろう。

 乗る前は失礼にならないよう平静を装って挨拶をしていたが、やはり乗ってみるとその力強さと格の違いを実感してしまう。


 私は王国有数の実力を誇る女性騎士団──白百合近衛騎士団ホワイト・リリーの団長だ。個人の力量は国内でも上位に位置していると自負している。

 だが、所詮は人間だ。

 足元に御座すこの黒きドラゴンと比べたら、人間のなんと脆く弱いことか。間違いなく虫けら並だろう。いや、バーム殿からすれば、私ごときの力など、本当にその辺の虫と区別がつかないのかもしれない。大海の前には、コップ一杯の水も樽いっぱいの水も均しく無きに等しいように。


 きっと、私達が束になろうとも、バーム殿ならば鼻息一つでどうとでも出来てしまうだろう。


 それは騎士団の全員が共感しているようで、みんな私と同様に土下座するようにバーム殿の背中に両手と両膝を付き、青い顔で震えていた。

 特にメリルの怯え様といったら……彼女の名誉のためにも見なかったことにしよう。


 ただお一人、姫様だけは歓喜と興奮に頬を染め、バーム殿の鱗を撫でたり、背中に生えた竜角を突っついたりしていた。

 さ、流石は姫様、なんと豪胆な……。


 心の中で姫様の勇敢さに賞賛を送ったのと同時に、「どうか姫様の無邪気な行いにバーム殿が不快感を抱きませんようにっ!」とずっと祈っていたことは、姫様には内緒だ。

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