02. SA:逃走

 ――――― SIDE:アルデリーナ ―――――




 最悪だ。

 なにが最悪かと問われれば、「現状の全てが」と答える他ない。


 馬を駆ける私の懐で震える幼い少女に目を落とす。


 彼女──姫様は、我々がお仕えする無二の主だ。


 我々は姫様直属の「白百合近衛合騎士団ホワイト・リリィ」。女性のみで構成された、王国有数の実力を誇る近衛騎士団だ。

 全員が精鋭であり、戦闘経験も豊富。襲いかかる者達を例外無く返り討ちにし、「か弱い女の集まり」「小娘等のおままごと」と見くびっていた輩を実績で以て見返してきた。

 我々の名は、我が王国に限らず諸外国でも有名だと聞いている。


 しかしそんな我々でも、限界はやはり存在する。


 姫様をお守りしながらの逃走が、既に三日三晩続いている。

 休憩なしの戦闘続きで、部下たちは疲弊しきっている。


 諸事情により、姫様が護衛に連れてきた騎士団のメンバーは僅か20名。全員が精鋭中の精鋭だが、如何せん数が少ない。

 今回は、それが裏目に出てしまった。


 我々を追いかけてくるのは、暗殺集団「黒糸ブラックスレッド」。

 構成員の多さと厭らしさと執拗さで知られる暗殺専門の組織だ。


 相手が、あまりにも悪すぎた。


 奴らは毎度、大人数で襲撃を仕掛けてくる。

 いったいどれだけの手勢を持っているのか、一陣を全滅させてもすぐに次陣がやって来る。おまけに、前回と同数かそれ以上の数を揃えてくるから、余計にたちが悪い。もはや暗殺者と戦っているのか、一軍の中隊と戦っているのか、分からなくなってくるほどだ。


 これが他の暗殺組織のように「強力な個人」が強襲してくるのであれば、いくらでもやり様はあっただろう。個々でそれなりの実力がある我々であれば1対1でも戦えるし、姫様を逃がすことだけを考えるのであれば、数名で順番に相手をして遅滞戦闘を徹底すればよいのだから。

 しかし、数の暴力による飽和攻撃を波状で仕掛けられては、数で圧倒的に劣る今の我々では為す術がない。数に劣り、持久戦に弱い今の我々は、黒糸ブラックスレッドとは致命的に相性が悪いのだ。


 この数日で、既に5名もの団員を失った。


 平時ならいざ知らず、休憩なしの連続戦闘で体力も魔力も底を突き、もはや気力のみで動いている今の我々では、黒糸ブラックスレッド相手に姫様を守り通すのは難しいと言わざるを得ない。


「あともう少しですよ、姫様」


 もう馬にしがみ付く力しか残っていない副官のメリルが出来るだけ元気な声を絞り出し、私の馬に同乗している姫様にそう笑い掛けた。


 王都へ戻るまでは、最低でもあと三日を要する。決して「もう少し」などという優しい距離ではない。

 確かに王都にさえ踏み込めば黒糸ブラックスレッドも諦めざるを得なくなるが、限界ギリギリまで追い詰められている我々の現状を見れば、メリルの言葉が気休めにもならない嘘だと誰にでも分かってしまう。

 ただそれでも、まだ10歳になられたばかりの幼い姫様には、このような励まし優しい嘘が必要だった。

 一番良くないのは、絶望することだ。


「ね、リーナ団長?」


 いつものように「アルデリーナ」という私の名を「リーナ」と略して呼ぶメリル。

 無理やり作った笑顔で同意を求めてくる彼女に頷き返し、私は出来るだけ柔らかい表情を顔に貼り付け、懐に視線を落とした。


「メリルの言うとおりです、姫様。王都まであと少し、今暫しのご辛抱を」


 疲労でかすれそうになる声を無理矢理明るく繕ってそう言うと、振り落とされないようマントで私の胴に縛り付けていた姫様が懐から顔を覗かせた。

 姫様の御顔は疲れ、怯え、憔悴していたが、気丈に振る舞おうと懸命に踏ん張っていた。


 なんと健気なのだろうか。


 姫様の馬車は、黒糸ブラックスレッドの襲撃によって二日前に大破した。それ以来、姫様はずっと私の馬背に同乗している。

 長時間の乗馬は大の男でも音を上げるほどに体力を削る、見た目以上に過酷な行為だ。適度な力で馬体を両腿で挟み、正しい座り姿勢を維持し続けなければ、すぐに内ももと尻の皮が擦り切れ、上下の揺れで腰をやられてしまう。

 今は姫様をマントで私の体に固定することで彼女が力いっぱいしがみ付かずとも馬から落ちないようにしているが、それも焼け石に水でしかない。

 訓練で乗馬に慣れきっている我々とは違い、今回が初の騎乗となる姫様の疲労は想像を絶するだろう。


 だというのに、姫様は一度も不満や弱音を漏らしたことがなかった。

 そればかりか、度々護衛である我々の身を気遣い、労いの言葉をお掛けくださる。

 これほど辛抱強く心が広い御方を、私は姫様以外に知らない。

 本当に、御立派になられた。


 だからこそ、私は怒りに焼かれる。

 我らが敬愛する姫様にこのような仕打ちを強いり、あまつさえ弑しようとする暗殺集団に、そして何よりそれを依頼した外道共に、言いようのない怒りとドス黒い殺意を覚える。


 これは、私だけの感情ではない。

 左右を見回せば、騎士団の皆からも微かな怒気が漏れ出ている。

 我々白百合近衛騎士団ホワイト・リリィは、姫様に全身全霊でお仕えする、姫様だけの騎士団だ。姫様を害そうとする者に良い感情など持つはずがない。

 姫様に余計な不安を与えないよう平静を装っているが、皆内心では私同様怒り狂っているのだ。その証拠に、隠しきれなかった分の怒気が、彼女たちの表情と仕草の端々から微かに漏れ出てしまっている。


 私の懐から御顔を出した姫様が、信頼に満ちた声を張り上げた。


「……うむ、そうか、分かった! 頼むぞ、皆の者!」


 私達の虚言には、姫様もお気付きになられているだろう。

 それでも姫様は我々の士気を保つために明るく、そして力強く応えてくださった。


 姫様の御言葉を聞いた皆の士気がグッと上がったのを感じる。

 流石は姫様だ。

 白百合近衛騎士団ホワイト・リリィの団長として、一人の臣下として、貴族の末席に身を置く者として、そして一人の人間として、これほど御立派な主君にお仕え出来る事を何よりも光栄に思う。


「この命に代えましても、姫様をお守りいたします」


 本心からそう言えることが、何よりも嬉しかった。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






 平野に伸びる真っ直ぐな街道を進む。


 太陽はすでに一番高いところまで昇っている。

 春の初めだというのに、まったく暖かさを感じない。それどころか、寧ろ寒気に震えを覚える。果たしてこれは単純に天候のせいか、それとも消耗しきった肉体が悲鳴を上げているせいか、はたまた自分達の置かれている状況が芳しくないせいか。


 馬は、潰す一歩手前のペースで走らせ続けている。この三日間ずっとだ。

 いくら訓練された軍馬とはいえ、ここまで無理をさせてしまっては、引退させることも考慮に入れる必要が出てくる。

 厳しい訓練と数多の戦場を共に駆け抜けてきた愛馬を酷使するのは、やはり心に痛い。


 規律正しく上下する馬背に身を委ねながらそんなことを考えていると、


「ぐっ!」


 何の前触れもなく、隊列の右翼で悲鳴が上がった。

 悲鳴を上げたのは、団員のエリザベス。馬上からゆっくりと崩れ落ちるその背中には、一本の短剣が鎧の隙間を縫うように突き刺さっていた。


「て、てきしゅ……う……!」


 最後の力を振り絞るようにそう警告し、彼女はそのまま落馬して地面を転がった。

 まるでそれが合図であるかのように、共に馬を駆けていた団員たちが次々と悲鳴を上げて落馬していく。


「敵襲だっ! 全体散開! 後方にいる者は敵の進路を塞ぎつつ抗戦せよ!」


 皆に指示を出しながら、手綱を取る左腕で姫様を固く抱きしめ、右手で剣を抜く。


 黒糸ブラックスレッドによる13度目の奇襲だ。


 こんな開けた平原で奇襲を掛けられるとは!

 待ち伏せられていたか!


 暗殺は夜暗に乗じて行うのが一般的だが、黒糸ブラックスレッドという暗殺集団にそんな常識は通用しないらしい。

 この三日間、奴らの襲撃は昼夜を問わず、場所を選ばなかった。

 しかも、何度退けても諦めない。

 評判通り……いや、それ以上に執拗で厄介な連中だ。


「敵襲です、姫様! 御体を低く!」


 私の警告を受け、懐で小さく縮こまった姫様が振り落とされまいと必死にしがみ付いてくる。

 恐怖と疲労で震える姫様のお姿は、心を抉るほどに痛々しい。


「リーナ団長あぶない!」


 メリルの叫びが耳朶を打つ。


 襲来する気配に反射的に振り返ると、後ろからは魔力を帯びた投げナイフが三本、回転しながら飛んできていた。

 咄嗟に剣を振り、全て叩き落す。

 すかさず、斜めから氷の矢が二本飛んで来る。

 振り切った剣を無理やり引き戻し、氷の矢を叩き割る。

 疲労で腕は重く、一振り一振りが鈍い。

 もう三日は戦闘しながらの逃走が続いているのだ。様相としては、もはや少人数による撤退戦である。これ以上の戦闘は、流石に厳しい。


 己の不甲斐なさに歯噛みしていると、今度は人頭大の火球が右横から飛んできた。


「くっ! "盾となれ"──《魔力の盾マジックシールド》!」


 呪文を詠唱する。

 詠唱はギリギリ間に合い、淡く光る透明の薄膜が眼前に形成され、飛来する火の玉を食い止めた。

 途端に強烈な眩暈と吐き気に襲われる。魔力切れの症状だ。

 どうやら、最後の魔力を使い果たしたらしい。

 もう魔法による障壁は張れない。


 その時、


 ヒヒーン!!


 私と姫様を乗せて高速で駆けていた馬が突然悲痛な嘶きを上げ、身を捩りながら前のめりに地面に突っ伏した。

 疾走の勢いのまま、私と姫様は宙に放り出される。


 咄嗟に姫様を包むように抱き、受身を取るべく体を捩る。

 普段なら目を瞑っていても難なく着地できる状況だが、極度の疲労と魔力切れの症状が相俟った今の私では如何ともし難い。体勢すら維持できずに、姫様を抱えたまま地面に打ち付けられる。

 地面を数度転げて、やっと止まった。


 解けたマントを払い除け、腕の中で固く抱きしめた姫様のご容態を確認をする。

 疾走中の落馬は往々にして重症を招く。首の骨を折って即死することも珍しくない。

 幸いなことに、姫様は少しだけ目を回されているだけで、外傷は一切ない。私自身も、右肩と左膝に打ち身らしき鈍痛を感じるだけで、大事には至っていない。多少行動は鈍くなるが、まだなんとか無理は利く。


 愛馬の方を見てみると、前足に氷の矢が刺さっていた。

 再び立ち上がろうと必死にもがいているが、あれではもう走れないだろう。


 哀れな愛馬への未練を断ち切って団員たちの方に目を向ける。

 彼女達は全員馬から降り、少し離れた所で全身黒尽くめの格好をした者たちと白兵戦を繰り広げていた。


 あの黒尽くめ達こそ、ここ数日我らをしつこく付け狙っている暗殺者集団──黒糸ブラックスレッドだ。


 相手の数は26。対するこちらは15。

 この数日で黒糸ブラックスレッドの実行部隊に少なくない損害を与えたが、奴らの数は私達が想定した以上に多かった。

 止めどなく補充される兵員は、実力こそ我々に劣るものの、数と連携はかなりの水準だった。


 戦況は明らかにこちらが劣勢。ほぼ一方的に押されてしまっている。

 今の我々では、やはりこの数の相手には足止めが精一杯か。



 噛み締めた奥歯がギリッと音を立てる。


 私の前には、二つの選択肢がある。

 部下たちに加勢するか、それともこのまま部下たちを囮にして姫様の逃げ切りを図るか。


 一瞬だけ迷い、私は後者を選んだ。


 今の私が部下たちに加勢したところで、大した戦力にはならないだろう。それどころか、姫様の護衛がいなくなり、逆に姫様を危険に晒してしまう。

 ならば、道は一つしかない。


 強く噛み締め過ぎた歯茎からジワリと血が滲み出てくる。


 我々は白百合近衛騎士団ホワイト・リリィ。最後の一人になろうとも、その命を以て姫様をお守りすると誓いを立てた身だ。

 であれば、ここは姫様の安全を最優先することこそ正しく、それ以外の選択肢を取ることは如何なる理由があろうと許されるべきではない。

 だから私は、苦楽を共にしてきた騎士団の部下なかまたちを見捨てる決断を下す。

 きっと彼女達もそれを望んでいる──そう自分に言い聞かせながら。


「……皆、すまない」


 私の漏らした懺悔が聞こえたのか、懐にいる姫様は私の胸元に顔を埋め、胴に回した腕に力を込めた。


「……行きます、姫様」


 胸元から小さな頷きが返ってくる。


 ドクドクと血を流す己の心に蓋をし、視線を前方に移す。

 今は感傷に浸るべき時ではない。


 見れば、少し離れた前方に雑木林が広がっている。

 上手くいけば、そこで暫く身を隠せるかもしれない。最悪、少しだけでも体力と魔力を回復する時間が稼げれば、まだなんとかなる。

 姫様が助かる道があるのならば、たとえ道幅が1ミリしかなくとも、そこを進む。


 そう考えて足を踏み出そうとした、その瞬間──


 目の前に影を見た。


 何時からそこにいたのか、それは地面に仰向けに横たわった──人間の影だった。


 敵か!?

 まさか、先回りされた!?


 そう思ったのとほぼ同時に、背中に衝撃が走った。

 振り返ると、そこには黒ずくめの覆面男が一人、曲刀を振り下ろした姿勢で私を睨みつけていた。

 瞬間、熱を帯びた痛みが背中を駆け上る。

 それでようやく自分は鎧ごと背中を斬られたのだと理解した。


 何たる不覚……!

 疲労など、言い訳にすらならない。

 まさか、目の前に突如現れた人影に気を取られるなどという愚を犯してまうとは……!


 魔力が底を突いたせいで、私が着ている純ミスリル製の鎧は、硬質化の効果を失ってしまっている。そうなった純ミスリル製の鎧は、もはやただ軽いだけが取り柄の、銀よりも柔らかいガラクタに成り下がってしまう。明確な殺意が込められた暗殺者の凶刃を凌ぐことなど不可能だった。


「くっ!」


 苦し紛れに振るった私の剣を、覆面男はヒラリと後方に飛んで回避した。


 最後の体力すら使い果たしたせいか、それとも出血のせいか、体がどんどん重く冷たくなっていく。

 もう剣を構える力さえ残っていない。

 体の何処にも力が入らず、その場に座り込んだまま動けない。


 もはや、これまでか──




「おいおい、いきなり戦場かよ……。ったく、あのイケメン神様め、もっとちゃんとした所にスポーンさせろっつーの」




 覚悟を決めた私の耳に、そんなのんびりとした言葉が届いた。


 声の発生源を探すと、それは先ほどの人影だった。

 いや、人影ではない。人だ。

 その人物は徐に身を起こすと辺りを見回し、私と姫様を見るなり、


「うをっ。なんか小学校中学年ぐらいの女児と鎧を着た超絶美女が忍者みたいな黒い覆面男に襲われてるんだけど。

 ……って、状況がカオス過ぎて意味が分からん」


 という緊張感がまるで感じられない独り言を漏らした。

 ……セリフがどこか説明臭いと感じるのは私の気のせいだろうか。


 私はその人物に目を凝らした。


 それは、一人の少年だった。

 いや、「少年だろうと思う」と言ったほうが正解か。

 やっと見えた彼の顔には白い仮面が被られており、素顔を確認することが出来ない。声も、本人が意図的に変えているのか、違う声色が複数重なったような不思議なもので、聞いただけでは男女の区別すらつかない。年齢から性別まで、何もかも推測するしかなかったのだ。

 だからその体格と仕草と言葉遣いから、「恐らくは少年だろう」と推測した。

 顔全体を覆うシンプルな白い仮面は、目のところに二つの切れ目があるのみ。

 髪は黒色で、細く引き締まった体型。

 身長は、高くもなければ特別低くもない。

 服装は、純白のシャツに赤いネクタイ、その上に前襟がざっくりと「V」字状に開いている奇妙な濃紺色の上着を羽織り、下には皺一つない灰色のズボン。足には黒く輝く革靴を履き、左手には四角くて薄い鞄を抱えている。

 歳は、態度と雰囲気から見て、私と同じ17歳前後だろうか。

 顔はまったく見えないが、どことなく寝起きのような気だるげな感じが漂っている。まさかこんな場所で寝ていたのだろうか。


 ……怪しい。

 何もかもが怪しい。


 のんびりとした、場違い甚だしい態度。

 見たこともない、奇妙な服装と仮面。

 男女の区別すらつかない、不可解な声。

 場違い・奇妙・不可解と三拍子揃った、怪しすぎる人物だ。


 ……けれども、不思議と敵意はまったく感じられない。


 不審極まりないなりだが、あの殺気ダダ漏れの黒糸ブラックスレッドとは決定的に違う雰囲気を有している。

 恐らく、この仮面の少年は私達の敵ではない。少なくとも、今のところは。


 少しだけ安心すると共に、微かな希望が湧き上がってくる。

 私はなりふり構わずに渾身の力で叫んだ。


「そこの御仁! お願いだ! 私が時間を稼ぐから、を連れて逃げてくれ!」


 騎士団の皆は離れた場所で戦っていて、こちらに応援をよこす余裕などない。あるならとっくに来ている。

 残念ながら、今の私に覆面男暗殺者を倒す力は残されていない。良くて一度や二度、姫様の盾になるくらいだろう。勝利どころか、相打ちすら微妙だ。

 そして、我々の目の前に突如として現れたこの仮面の少年には、我々に対する敵意が無い。

 ならば、今この瞬間において、我々にとっての最善の策は何か?

 そんなの決まっている。

 ──少年に姫様を託し、私が殿を勤める。

 これだけだ。

 たとえ見ず知らずの相手に姫様を託すことになろうとも、この死地にお一人だけ残していくよよりはいくらでもマシだろう。


 我ながら身勝手な考えだと分かっている。

 姫様のご意思を確認もせず、無理矢理赤の他人へと押し付けているのだ。こんな状況でなければ、決して許される行為ではないだろう。いや、こんな状況でも許されるべきではないかも知れない。

 それに、少年に姫様を託すということは、彼を否応なくこの戦いに巻き込むということに他ならない。関係のない者をこちらの一方的な都合で危険に引きずり込むのだ。それは騎士として……いや、人として軽蔑されるべき行為だろう。


 こんなのは、決して私の本意ではない。本意であるはずなどない。

 だが、姫様をお守りするには、もうこれしか方法はないのだ。

 自分の情けなさに、奥歯を噛み砕きそうだ。



 ふと、視線の端で暗殺者の男が覆面の下でモゴモゴと何かを唱えているのが見えた。


 不味い、魔法の詠唱だ!


 そう確信した瞬間、男の前に火球が生まれた。

 赤々と燃え盛る人頭大の火の玉。

 攻撃魔法の《炎の玉ファイアボール》だ。

 掠っただけで皮膚が焼け爛れ、直撃すれば地獄の苦しみの中で息絶えることになる、高等ではないが凶悪な攻撃魔法だ。


 私は咄嗟に姫様を固く抱き締め、男に背中を向けた。


 もう剣を持ち上げる力も、防御魔法を発動する魔力も残っていない。

 今の私に出来ることは、この身を盾にすることぐらいだ。

 一撃だけでもいい、姫様への攻撃を防いでみせる。


 歯を食いしばり、残酷な炎が運ぶ死の瞬間を待った。



 ──が、何時まで経っても炎は襲って来ない。



 なぜだと思い、薄目で確認して──思わず臍を噛んだ。


 火球は、確かに飛んで来ていた。

 しかし、その向かう先は、私と姫様の方ではなく──少年の方だった。


 ああ、そうか……。

 そういうことか。


 私は忽然と現れた希望に縋るばかりで、当たり前のことに気づけなかったのだ。

 もう動けない私と非力な姫様など、いつでも止めを刺すことが出来る。

 私達の唯一の希望にして覆面男の唯一の障碍、それは目の前にいるこの少年だ。

 男は、先ず少年を殺して不確定要素を潰すつもりなのだ。


「──────ッ!」


 やっとそのことに気が付いた私は、何かを叫ぼうとしたが、上手く声にならなかった。


 何もかもが遅かった。

 人頭大の火球は、無防備な少年の顔面に直撃し、一瞬で全身へと延焼した。


「ぁぁ……!」


 炎に呑まれた少年を見て、私の腕の中で姫様が小さな悲鳴を上げた。

 思わず姫様の目を覆い、私も固く瞼を閉ざした。


 少年の悲鳴は聞こえてこない。

 あの炎を吸い込めば、瞬時に喉と肺を焼かれてしまう。声など出せるはずもない。


 罪悪感が胸を締め付け、良心が魂を呵責する。


 私は、自分達の都合で無関係の少年に焼死という惨い最期をもたらしてしまったのだ。

 私が声を掛けさえしなければ、あんな惨い死に方をせずに済んだかもしれないのに。

 こうなるかもしれないということは、最初から分かっていたはずなのに。



 少年の死に自責する私を嘲笑うように、暗殺者の男がゆっくりとこちらを向いた。

 覆面の隙間から覗くその目は、冷酷に笑っていた。

 曲刀を持つ男の腕が引き絞られる。私ごと姫様を貫くつもりなのだろう。


 ……嗚呼。

 どうやら、今度こそ終わりのようだ。




 申し訳ありません、姫様…………。

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