第12話金城梨穂子は副社長に雇われそうになる

「相談なのですが、実は私の母が腰を悪くしていて英輝の世話を三井さんにしてもらっていたのです。――まあ、実際は家から追い出して好き勝手していたみたいですが。ハウスキーパーを雇っているので家事の必要は無いのですが、さすがに小学校の息子を一人にするのが不安だったんです。学校から帰ってくる十五時から私と連絡の取れる十九時まで、見てくれる人がいると助かるのです。三井さんにはもう頼めません。これまでの分の報酬も出すので金城さん、お願いできませんか?」


「総務の仕事は十七時上がりです。ですから無理です」


 報酬、と聞いてドケチの梨穂子の心が揺れそうになる。でも、梨穂子はこの関係を東条に穢されたくないと思った。この話を受けたらきっと少年と友達に戻ることは無いと思った。不思議と梨穂子はこの小さな友達を手放したくなかった。


「総務には話を通します。来週には母が来てくれそうなので今週だけ十五時上がりで英輝を見てもらえませんか? こちらの日給は一万出します。失礼ですがあまりお金に余裕のない生活をされているようだ」


 部屋を見渡して東条が提案する。まあ、眉を寄せられていないだけいい。


「これまで通りなら構いませんよ。友達ですから。少年がエントランスの応接セットで管理人さんの前で宿題をしながら私を待って、十七時に上がって帰ってきた私が合流する。晩御飯を食べさせて十九時解散。お給金は要りません」


「はっ。九歳の子供と『友達』だなんて、本気で言っているんですか?」


「少年が私とコタロウの事を『友達』だと貴方に訴えることはさぞかし勇気が要ることだったと思います。私は三十のおばさんですが、彼の勇気に応えたいと思います」


「……。バカバカしい。こんな子供と」


東条が心底呆れたような声をだした。まあ、小学生とまともに友達になろうなんていう三十歳などいない。


「お父さん。僕、いい子にする。マンションでお姉さんをちゃんと待つし、寄り道もしません」


 そこで、私と東条の間に英輝が割り込んできた。話声で目が覚めたのだろう。少し前から聞いていたようだった。


 ジッと東条は英輝を見据えた。それから、ふーっつと大げさにため息とついた。


「英輝、何かあったらすぐにスマホで連絡するんだぞ」


「わかりました。お父さん! ありがとう」


「貴方のお友達がこう言っています。この一週間だけ、お願いできますか?」


「はい」


 これにて落着か、と梨穂子は思ったが、東条は梨穂子と連絡先交換を求めた。まあ、息子が心配なのだから当然と言ったら当然だ。副社長とSNSで繋がったことを他の社員に知られたら大事になりそうな気もするけれども。


 コタロウを抱きしめながら英輝が喜ぶ顔を見て、仕方ないかと腹をくくった。


 ***


 なんにせよ、英輝が虐待されていなかった事に梨穂子はホッとしていた。家族間の問題は極めてデリケートな問題だと痛いほど知っていた。英輝の祖母も来週には復帰するらしいので残りの一週間も定時きっかりで帰るようにした。


 来週の月曜に祖母が来るからと、週末の土日も梨穂子は英輝と遊ぶ約束をした。金曜日の晩御飯は肉が入っていないのを誤魔化したカレーとお手製のナンが夕食のリクエストだった。一緒に小麦粉をこねて粉が膨らむのを見守り、二人で成形したナンをフライパンで焼くと英輝がはしゃいだ。

 結局、東条からは給金は受け取らなかったが食費として一万円貰った。梨穂子はそれを一週間分だと勘違いしていたがどうやら一日分だったらしく。、英輝が毎日封筒をもってきて梨穂子に渡した。


 土曜日の朝、英輝が遊びに来る前にと洗濯を終えた梨穂子は、コタロウの様子がおかしい事に気づいた。


「コタロウ?」


 食いしん坊のコタロウが餌を食べない。お腹の調子が悪いのかと近づくと明らかに梨穂子から距離を取った。あんなに梨穂子のストーカーのようだったのに、どうしたのだと梨穂子は不安になった。


「コタロウ、どこか悪いのかな……病院、連れて行った方が……」


 手を伸ばしてもテーブルの下に逃げ込むコタロウを見て梨穂子は泣きそうになった。せっかくコタロウと家族になったと思っていたのに、拒否されると辛い。


 大好きなゴムボールをコタロウに向けて見ても、当別な日のささ身ジャーキーを出してきてもテーブルの下から梨穂子を窺うばかりでコタロウは無反応だった。


「コタロウ……」


 梨穂子の目から大粒の涙がポロポロと零れた。心配で、心配で、胸が苦しい。するとそれを見たコタロウがテーブルの下からそろそろと出てきて梨穂子の側に寄ってきた。先程から避けられていた梨穂子は自分からは動かない事を決めてジッとコタロウの様子を窺った。


 コタロウが梨穂子の前に座った。


『犬の健康には問題はない。問題なのはどうやら、朝目覚めたらこの犬になっていた私だ』


 その声がどこから聞こえてきたのか梨穂子は信じたくはなかった。



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